恐らく、自分自身がゲイである事を本当の意味で受け入れる事ができたのは、40代になってからだと自己分析する。
高校を卒業して実家を離れてから、いわゆる「ゲイコミュニティ」を知り、色々な人と出会うことで、自分と同じ様な境遇の人たちがいる事に安堵し、「自分は存在していいんだ」と思えるようになってはいた。
しかし、私の実家は本家だ。
そして私は長男。
この2つが私の心を、ずっと締め付けていた。
山もある。
田もある。
畑もある。
宅地もある。
家もある。
墓もある。
これを「守るのは私の役割」なんだと、いつも心の何処かで思っていた。それは本当に「呪い」のようだ。これらを守ると言う事は、「後世に受け継がなければならない事」と考えており、そのためには「結婚」をし「子を授かる」必要があると思っていた。
特に父が認知症になり介護が必要になってきた(私が40歳手前くらい)頃が、一番苦しかった記憶がある。
父はサラリーマンで土日祝日が休みであった。
しかし、その殆どの日を、山や田にでかけていった。
山は植林で、スギやヒノキが植えられており、下刈り(木の生えていない場所に生える雑草を刈る)や枝打ち(節の少ない材木とするため、また日差しの通りを良くするために余分な枝を切り落とす)作業をしていた。そして時折、間伐と言って、木と木の間隔を広げるために小さな木や弱い木を伐採して、山より下ろし、それを薪用に切って割る、と言うこともしていた(ちなみに私の実家はお風呂は薪で焚いていた)。
田は、春、田植え前に耕運機で土を起こし、大きな石などを拾い捨て、田に水を張りトラクターで地を均し、時期が来たら田植え機で稲を植え、夏、収穫までの期間は、田の水の量を調整したり除草剤を撒いたり虫が付いていないか確認したりしながらその時期を待ち、そして秋に稲刈り。昔は「コンバイン」などはなく、稲刈り機で刈った稲は「稲架掛け」を行い、1ヶ月ほど乾燥させてから脱穀。袋詰される。
畑は主に母が季節の野菜などを作っていたが、父が土を起こし畝を作り、そこに母が種を巻き、草取りをし収穫をしていた。
私自身も、何かしら父のそれらの仕事を手伝うこともあったが、高校生くらいになってからは部活動や勉学が優先となり、あまり関わらなくなった。
そして私が実家に寄り付かなくなった20代~30代の頃、私の知らないところで、いつしか田は人に貸すようになり、山は放置されるようになった。畑は母が世話をしていた。
その後父は鬱病、認知症になり、その間、それらの名義は父のままであったが、実質管理していたのは母だ。
その頃が一番、私も辛かった。苦しかった。
「このまま放置して良い“訳がない”」
そして、こうも思った。
「何代も続くこの“血”を、私の代で途絶えさせてしまった良いのか?」
「本家の長男としての役割を放棄しているのではないか?」
しかし、父の介護を手伝いながら、一歩ずつ一歩ずつ、死に向かっていく父を見ながら、ふと気付いたことがあった。
私の家庭は、少し特殊な事情があり、実は父は次男だ。
父は3姉弟で、第一子は女児・第二子と第三子は男児で、父は次男かつ末っ子だ。その父が、本家の跡取りとなった。
父は3姉弟で、第一子は女児・第二子と第三子は男児で、父は次男かつ末っ子だ。その父が、本家の跡取りとなった。
父は立派な跡取りだったと思う。
次男であるにも関わらず、私から見た祖父母(父の両親)と同居し、祖父から受け継いだ山・田・畑を一生懸命に世話をしていた(そうは言っても…親というものは子というものは」参照)
そう。父は次男なのだ。
ご長男さんには、僕の従兄弟にあたる男児がおり、正確にいえば、その血筋が本流であり、私は支流である。私が子孫を残す必要は全く無い。
もちろん、山や田や畑の問題は解決はしていない。
しかし、私もまだ、20年くらいは生きているつもりだ(笑)。それに、それよりも早く他界したとしても、親族はいくらでもいる。私が死んだ時は死んだ時だ。まだ、生き残っている親族が何とかしてくれるだろう。
まあ、他力本願に走った考えをすることになるのだが(笑)その様に考えるようになったら、なんとも気分が軽くなった。
びっくりするくらいに。
父が他界して1周忌を迎える前に、私は、実家の土地など全ての登記を書き換え、私名義になった(いわゆる相続)。ありがたいことに、あまりにも田舎の土地であるため地価が安く、相続税は全くかからず(笑)相続することができた。
その頃になってやっと「私が本家の長男である」と言う呪縛から開放され、私自身がゲイであるというセクシャリティを許せるようになった。
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