「タイパ」と言う言葉をご存知だろうか?
実は私、1年くらい前から言葉自体は知っていたのだが、その意味を知ったのはつい最近のことである。
「コスパ」と言う言葉は、もう一般的になってきて、意味もご存じの方も多いと思う。「コスト・パフォーマンス」の略語で、日本語で「費用対効果」の意味である。商品やサービスを購入する際に検討される重要な要素の一つである。「コスパが良い」というのは、同じ価格帯の商品やサービスより機能が充実していたり、質の良いサービスが受けられることを言う。
では「タイパ」とは何か。
「タイムパフォーマンス」の略語である。意味的には「コスパ」と同じような意味合いで使われることが多いが、時間に対する効果や満足度を示す言葉だ。「タイパが良い」というのは、同じ時間の使い方であっても、より有意義であったり効率的であったりした際に「タイパが良い」と言う。
その一例が動画配信サービスなどのを「1.2倍速」や「1.5倍速」で鑑賞する、と言う行動である。同じ動画を見る際、通常再生よりも早く見終わることで、その時間を他の時間に充てることができる。実際に、大手動画配信サービスでは、標準で視聴者が再生スピードを選択できるようになっており、それを言い換えればそれらの機能を利用する視聴者が大勢いる、ということだ。
どうやら、そのような価値観や行動は、2010年代後半頃より見られていたと言うが、顕在化してきたのは「今年の新流行語大賞 2022」大賞をとった前後であろう。
実は以前から気になっていた、若者が一般的に行っている行動がある。
それは、「音楽の聞き方」である。
最近は、音楽を聴くのもサブスクが一般的になってきて、安い値段で様々なアーティストの音楽にふれる機会が増えている。しかし「サビの部分まで早送りしそれが終われば次の曲へ飛ばす」と言う聞き方をする若者が増えている、と耳にしたことがある。
音楽が好きな私にとってみたら、もう、驚きでしかない。
音楽(一般的な歌唱曲)というのは、おおよそ以下のような構成になっていることが多い。
イントロ → Aメロ → Bメロ → サビ → 間奏(イントロ) → Aメロ → Bメロ → ブリッジ → サビ → エンディング
もちろん、これだけではなく様々なバリエーションがあるが、おおよそ、このような構成になっていることが多く、ある意味「最後のサビをいかに盛り上げるために聞かせるか」と言う意図もあると思われる。
私が10代~30代の頃、よく聞いていたアーティストの音楽というのは、このような構成であり、時々、いきなりサビから入る曲などもあったが、それは非常に稀で、アーティストの意図がそこには隠されていたと思う。
しかし、最近では「いきなりサビ曲」というのは当たり前になってきたようだ。
優里「ベテルギウス」
ヨルシカ「夜に駆ける」
米津玄師「Lemon」
LiSA「紅蓮華」
Ado「うっせぇわ」
Official髭男dism「Pretender」
King Gnu「白日」
星野源「恋」
嵐「Happiness」
乃木坂46「インフルエンサー」
どの曲も、ヒット曲でみなさんも一度は耳にしたことがあると思う。
実はこれらの曲は、カラオケでも人気のある曲であり「すぐに盛り上がる」という特徴を持つ。
それが良い悪いの話ではない。今は、そういう時代だ、と言うことだが、私には少し、寂しい気がする。
「すぐに盛り上がる」=「ノリが良い」と言い換えることもできるが、先程述べたように、最後のサビを盛り上げるための助走部分や、徐々に気分が高揚してくる感覚というものが、失われていくことが、なんとなく「心の余裕のなさ」というものと比例しているように思えて仕方がない。
「いきなりサビ」がくることで「すぐに盛り上がれる」ということはある意味「タイパが良い」と言うことになる(?極論すぎる?)。
そのような現象が起こっている背景には「無駄な時間を過ごしたくない」「無駄だと思う瞬間を作りたくない」と言う感覚がある、と言われている。つまり「より短い時間で」「より満足度の高い」「時間の過ごし方」を求めているとも言い換えられるが、一方で、「失敗したくないZ世代」と言う捉え方から、「タイパの良いものを求める」行動にはしる、とも言われている。
ここで少し、Z世代について説明したい。
1995年~2012年の間に生まれた世代のことで、インターネットやスマートフォンが普及した時代に育っているため「デジタルネイティブ」とも呼ばれている。社会的な意識が高く、環境問題や社会正義などに関心が高く、グローバルな視野を持っている、とも言われている。そして自分の個性を大切にし、他人と違うことに抵抗がない。などと言われている。
「タイパが良い」=「無駄がない」と言う考え方ではあるが、私は少し寂しさを覚える。
コロナ禍、大学を始めとする学校での講義や授業がオンライン化・オンデマンド化が進み、「動画で講義を受ける」事がごくごく当たり前となった。教える側としては、カメラの向こう側・パソコンの向こう側の様子が分からないため、その“空気感”をつかむために苦労したであろう。一方、受ける学生たちはというと、最初に述べたように「1.2倍速」「1.5倍速」で講義動画の視聴をしていた者も大勢いたと聞く。
何が寂しいかと言うと、教える側の俗に言う「話の脱線」が聞けなくなったことである。
私が高校生時代や大学生時代、教科書通りにしかも教科書に書かれたようにしか進めない講義や授業は、大変、つまらなく感じだものだ。「話の脱線」の中には、それこそ教科書に書かれていない事、例えばその先生の人生観や職業倫理、体験談また勉強方法や覚え方などの、実は「ムダでない知識」が詰まっていて、大変興味深く聞いていた。
Z世代というのは、このような「話の脱線」=「無駄な時間」と捉えているものが多いと聞く。
きっと私は昭和生まれの古い人間だ。
時代の流れ、と言ってしまえばそこまでだが、全てにおいて「タイパ」を求める事が必ずしも良いこととは思えない。
日本の文化の中に「行間を読む」「間を大切にする」と言う感覚がある。そこで養われるものは、実は人間関係を構築していく上で非常に大切な能力なのだと思う時がある。
その「間」を感じた時に、何を考えるのか。一度、皆さんも考えてみていただきたい。
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