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オンラインカウンセリング「勇者の部屋」の産業カウンセラー勝水のブログです。セクシャルマイノリティ(ゲイ)・身体障害者(HIV陽性者)・精神障害者(双極症)の当事者としての目線と、理学療法士・社会福祉士・産業カウンセラーとしての目線で、今まで経験したことや普段考えていることなど、様々な情報発信をしております。

2023年8月18日金曜日

忘れられない患者さん①腰椎圧迫骨折のおばあさん

 私が理学療法士として働いていた頃、何人の人に出会ったのか、もう数えることすら出来ないくらい多くの方の人生の一部に関わってきた。

その中でもどうしても忘れられない患者様が何人かいらっしゃって、そのエピソードを紹介したいと思う。


遡ること27年前。
私の最初の就職先である、整形外科と内科の有床診療所(入院設備19床あるクリニック)で、一番、最初に担当した入院患者様(Aさん)。

Aさんは80代の女性で腰椎圧迫骨折と言う怪我で入院されていた。

腰椎圧迫骨折というのは、腰椎という背骨のうち骨盤に一番近い5個のことで、Aさんはその腰椎の一つが潰れるように骨折した状態だった。
この、腰椎圧迫骨折というのは、臨床現場では比較的ポピュラーな疾患で、骨粗鬆症がすすんだ女性が尻もちを突くことがキッカケとなって骨が折れてしまう。人によっては、転んだりうというキッカケがなくとも、自然に潰れてしまう方もいらっしゃるが。

入職してすぐ、先輩理学療法士(以下、PT)から引き継ぐ形で担当となった。が、「とりあえず痛み見ながらこんな感じでベッドサイドから始めて」みたく、かなりざっくりとした申し送りを受け(笑)、痛みで起き上がれないAさんのベッドサイドリハから始まった。


その頃、腰椎圧迫骨折の治療としては、受傷直後に体幹ギプスと言って、腰骨の辺りから胸辺りまで、まずは固定をする事から始める。ギプスも徐々に緩んでくるため、2週間後に巻き直しをするのだが、その際に古いギプスをカットして、硬性コルセット(皆さんが想像するようなコルセットではなく支柱が付いた硬いコルセット)の型取りをしてから、もう一度ギプスを巻いて、さらに2週間後にギプスから硬性コルセットへと替えていく。

当時は、体幹ギプスを巻いている間は、寝起きや排泄がかなり不便であるため入院になることが多く、硬性コルセットになると、コルセットを着脱することで日常生活に自由度が高くなるため、ある程度痛みが抑えられ日常動作が可能となれば退院、というのが一般的だった。


Aさんは、僕が担当した時にはすでに硬性コルセットに変更になっていたが、痛みのために寝起きに介助が必要。もちろん立ったり座ったりも手すりを持ちながら私が両手で介助してやっと立ち上がれる状態。歩くなんてもってのほか。の状態で、引き継いだ。

もちろん今なら、Aさんの一番の問題である痛みに対する理学療法のプログラムを立てて、痛みを軽減させながら筋力の低下を防ぐ運動や立ったり座ったりと言った、日常生活に欠かせない基本的な動作の練習から始め、どうしても日常生活に困難があれば、介護保険を利用して電動ベッドの導入やデイサービスの利用、シルバーカーのレンタル、自宅の廊下やお手洗い・お風呂場などに手すりをつけるなどの住宅改修などを提案し、自宅退院に向けた流れを考えるのだが…27年前にはまだ、介護保険制度はなかった。

Aさんは息子さん夫婦とお子さんで同居している3世代家族だった。確か、その時の息子さんのお話では、身の回りのこと(ベッドから起きてトイレや食堂まで自力で移動する)ができるようになって欲しい、とのご希望があった。ただ、もともとベッドは使っていたとのことだったが、手すりなどはなく、Aさん自身の身体能力の回復へのハードルは、かなり高かった。

その時、私自身が立てたプログラムというのは、もう、ここに書くことすら恥ずかしくて書けないくらい、稚拙なものだった。

Aさん、本当にごめんなさい…

当時、そのクリニックでは、朝一番に院長(整形外科)の回診があり、セラピストが当番制で同行しながら、入院されている方々の現状をお伝えし、院長と情報を共有していたのだが、ある時、回診後に私のところへやってきて「かっちゃん(わたしのあだ名)、Aさんそろそろ退院できんかな?息子さんがそろそろ退院させたがってるんだよ」と。

実は、その時のAさんの状況と言うのは、なんとかシルバーカーで数m歩ける程度、しかも痛みをかなりこらえながらの状態で、ご自宅の状況を考えるととても退院していただくのは難しいと、私の中では考えていた。

さらに院長は「あとどれくらい(何日くらい)で退院できそう?」と尋ねてきたのだ。

焦った。
非常に焦った。

新人の私に、この状況であと何日で退院ができるかという「予後予測」をしろ、と言っているのだ!!酷だった。本当に。悩んだ。迷った。「分かりません」とは言えなかった。
そして私は苦し紛れにこう言ったのだ。

「あと2週間、時間を下さい」

2週間という時間に、なんの根拠もない。


もしあの時、今の私の知識と技術があるか、もしくは神様が奇跡を起こしてくれていたら、本当に2週間で、理想の状態で退院を迎えられたのかも知れない。


2週間後、しびれを切らした息子様から、なんとかシルバーカーで歩けるようになっているAさんを連れて自宅で介護します、と言う連絡が入り、退院となった。

今でも思い出すのは、クリニックを出て、痛いながらもなんとかシルバーカーを押して息子様の車まで歩くAさんの後ろ姿と、横でAさんの介助をしながら歩く息子様の姿を。

その後のAさんの様子を知る由もなく、私はAさんやご家族の方への申し訳無さと、自分への不甲斐なさで心が張り裂けそうだった。


そうあの時、院長が「あとどれくらいで?」と尋ねてきた時に、「今の僕では分からないので他のスタッフと相談してお答えします」と言って先輩PTに相談したり、もしくは担当を変わってもらったり、自分の実力のなさを素直に認めて、救けを乞う事をしていたら、もっと違った結果になっていたのかも知れない。


私のちっちゃなちっちゃなプライドが、邪魔をしたのだ。


本当に後悔した。


けれど、院長始め他のリハスタッフも皆、私の事を責めたり説教をする人は一人もいなかった。

ただ、この経験が私に火を付けた。

実は、私は医療短大在学中の成績は、下の中くらいでお世辞にも優等生ではなかった。1度留年しかかっており、科目担当教授のお情けで進級できたくらいだったし、国家試験も自己採点では合格できるか出来ないかくらいの点数であった。

「夢は歌って踊れるPTです!」と、ほざいていたくらいだから、今思えば舐めきっていたものだ。

私はAさんと言う始めての担当患者様を目の前にして、ほぼほぼ無力だった自分に気付き、そしてただ、打ちひしがれるだけではなく「このままではいけない!」と言う焦燥感と不安とやる気が一気に吹き出した感覚であった。


産業カウンセラーの資格を取って半年。
実際に、カウンセリングを行うようになって約1ヶ月。

今まさに私は、同じ様な状況になろうとしている。
しかし、同じ轍は踏まないと決めた。


最初から、全力だ。

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