セクシャルマイノリティ(ゲイ)・身体障害者(HIV陽性者)・精神障害者(双極性障害)の当事者としての目線と、理学療法士・社会福祉士・産業カウンセラーとしての目線で、今まで経験したことや普段考えていることなど、様々な情報発信をしております。
自己紹介
- Kengo Katsumizu
- オンラインカウンセリング「勇者の部屋」の産業カウンセラー勝水のブログです。セクシャルマイノリティ(ゲイ)・身体障害者(HIV陽性者)・精神障害者(双極症)の当事者としての目線と、理学療法士・社会福祉士・産業カウンセラーとしての目線で、今まで経験したことや普段考えていることなど、様々な情報発信をしております。
2023年8月31日木曜日
皆さんにご相談です!!今一番の悩み(ビジネスの話し)追記あり
2023年8月29日火曜日
セクシャリティに関する葛藤(私の場合)
父は3姉弟で、第一子は女児・第二子と第三子は男児で、父は次男かつ末っ子だ。その父が、本家の跡取りとなった。
2023年8月24日木曜日
私の中核をなすもの⑥ドラマ
2023年8月23日水曜日
これでいいの??薬物関連報道とその法律(依存症関連記事のため閲覧注意)
最近、テレビを賑わせている、某大学運動部の薬物関連事件に関する報道。
少し、思うところがあって、筆を執った。
以下、私は法律家ではないため、全てが正しい情報だとは限らないことを前置きしておく。
薬物関連事案の初犯に対する判決というのは、前科がなくよほど悪質でなければ、両親または被告の近しい“法的に”信頼の置ける人が証言台に立ち情状酌量の陳述が行われる。その後「懲役1年6ヶ月、執行猶予3年」に近いニュアンスの判決が言い渡されるが「執行猶予」が付くわけだから、判決とともに釈放される。
実は、実名報道されるとともにその様な判決が言い渡される事にいくつかの問題点がある。
一つ目は、社会的制裁を受けることだ。
彼らは実名報道され、もちろん大学は「逮捕を受けて、より重い」『除籍』や『部全体の無期限活動停止』となる可能性もある。
また、実名報道された余波はないだろうか?いや、ある。
現在は、ネット社会だ。
各報道機関のネット記事として報道され、1~2年は各報道機関のサーバーに残っているだろう。もしくはそれ以上の長い期間。また、それをネタに『正義』と言う仮面を被ったネトウヨなどの餌食になり、元ネタとなる各報道機関のネット記事を、様々なインターネット関連事業者が運営している「掲示板」や「ブログ」に転記し、各報道機関のサーバーよりも、より長い期間、誰もが簡単に閲覧できる状態で保存されてしまう。
これが二つ目の問題『デジタルタトゥー』だ。
三つ目はアフターフォローの無さだ。
釈放後、彼らが身を寄せる場所は3つ。1つは、年齢を考慮すると身元引受人であるご家両親の元で過ごす事が考えられる。しかし果たして、彼らの家族を「護ってあげるべき存在」「ケアの必要な人達」と見る人はいるだろうか?彼らとその家族は、『世間の目』を避けるようにまた、『何かに遠慮するよう』な生活を強いられるであろう。そして「依存症対策総合支援事業」や「ギャンブル等依存症対策基本法」などが制定されているが、その様な支援に、誰が責任を持って繋げてくれるのだろうか?
他に、彼らに薬物依存に対する正しい理解ががなければ、体外的なメンツを保つためにも、『私達は息子にゼッタイに“薬物”を繰り返させません!!』的な態度を示すために、依存症専門病院への入院や民間のリハビリ施設に入所させるのではないだろう。そうなれば、ある意味「薬物依存症患者」として扱われ、少なくとも病院や施設の職員などが擁護してくれる。それらの施設で、どれくらいの時間を過ごすのか分からないが施設なら1~2年だろうか?病院ならもっと早くて数ヶ月だろう。
私は、その様な状況になる可能性が高いことを考えると、非常に胸が痛いのである。
特にデジタルタトゥーについては、本人が必死で社会復帰に取り組んでいたり、家族もそれを温かく見守っていたり、彼らを助けてあげようとしている一方で、そのような記事が、本人の意図しないところに残っていることを知った時に、彼らの心が折れる。それが怖いのである。
もしかしたら、自死を選ぶかもしれない。
もしかしたら、再び、薬物を手にするかも知れない。
もしかしたら、誰かを恨んでしまうかも知れない。
もしかしたら、精神が壊れてしまうかも知れない。
彼らはまだ若い。「若いからやり直しが効く」などという、気楽なものではない。若いからこそその先は長く、その長い人生を『罪』を背負ったまま生きていくのである。どれほどの苦しみがあるだろうか、どれほどの葛藤があるのだろうか。
想像するだけでも、言葉を失う。
『デジタルタトゥー』を残すことが原因で、その社会復帰の道を閉ざされてしまったりしては、あってはならない。
そう、絶対にあってはならない。
各報道機関は、なぜこの『実名報道』にこだわるのかが疑問でならない。
社会的制裁?
知る権利?
正義感?
また、それらの報道で得られた情報を、誰もが簡単に閲覧できる状態で掲示板やブログに転記する人は、なぜその必要性があると考えているのか、私にはその理由が分からない。
もし薬物依存症を、「犯罪ではなく」キチンと「病気」と捉えるのであれば、そもそも報道する必要がなくなるのではないか。
厚生労働省は薬物依存症を「病気」と認めているにもかかわらず、法律としては犯罪として処罰されると言う矛盾があり、それを余計に混乱させていると考える。
この矛盾を法律上で解消することが、デジタルタトゥーを減らすことに繋がり、結果的に薬物依存症患者の未来の選択肢が増える事になると、私は考える。
2023年8月22日火曜日
慢性感染症に注意?!微小炎症とフレイル・サルコペニア
近年、様々な体調不良の原因になっていると言われているのが『微小炎症』と言う状態である。
『炎症』と言う言葉は医学用語だが、医療従事者でなくとも何となく、耳にしたり多少理解がある方もいるのではないのだろうか。
炎症とは…
生体に対する刺激や侵襲によって生じる局所的な反応の一種で、微生物感染などの生物学的ストレス、温度変化や物理的な細胞・組織破壊などによる物理的ストレス、酸やアルカリなどの化学的ストレスがある。基本的には、細胞や組織を修復するために、一番最初に起こる生体反応で、赤く腫れ上がり発熱や疼痛が出現する。
炎症を分類する際、様々な観点から分類する方法があるが、炎症状態がどれくらいの期間、持続しているかで『急性炎症』と『慢性炎症』に分類される。そのおおよその境目が4週間と言われているが、はっきりとした定義は、現在のところないのが現状である。
急性炎症の例として一番分かりやすいのは、風邪、であろうか。
風邪という病気は、ウィルスが鼻や喉などから体内に侵入し、それらを撃退・体外へ排出するために、炎症反応が起こり、体温が上がったりくしゃみや咳、鼻水などがでる。一般的な風邪であれば、体内の免疫機能が働き、自覚症状としては1~3日で治まり、完治までに2~3週間かかると言われている。
今回、取り上げる『微小炎症』は慢性炎症に分類されると考えられる。
微小炎症とは…
体内の組織に、ほんのわずかな炎症反応が起こっている状態で、通常、体内の自然な防御反応として起こっている。
HIV感染症や肝炎などのウィルス性の感染症で、かつ、そのウィルスを完全に体外から排泄できないような疾患の場合、常に「ウィルス VS 細胞」の戦いが常に行われている状態である。それが微小炎症になっていると言われている。
その他にも、喫煙やアレルギー疾患、糖尿病や高血圧なども微小炎症を引き起こしている可能性が高い。
喫煙は有害物質が口~肺を通るたびに化学的ストレスが、アレルギー疾患もアレルゲンを摂取したり接触するすることで化学的ストレスが、糖尿病や高血圧は主に血管に物理的な負荷がかかり物理ストレスが、それぞれ原因となって微小炎症を引き起こしていると考えられている。
私がHIV陽性者であるため、ここからはHIV感染症に関する文献などから引用するものであるが、おそらく、微小炎症を起こしている疾患をお持ちの方は、少し注意してご覧いただきたい。
HIV陽性者は、加齢によって発症すると言われている糖尿病・高血圧症・慢性腎障害・ガン・骨粗しょう症などの疾患を、非HIV陽性者と比較すると、10~15年ほど早く発症しやすい、と言うデータがある。
言い換えると、HIV陽性者陽性者は、非HIV陽性者と比較すると「10~15年早く老化する」とも言えるのである。
一方、フレイルやサルコペニアとはどのような状態の事を指すのか。
近年、予防医学の分野で使われる様になっている用語である。
フレイルとは…
加齢とともに心身の運動機能や認知機能が低下し、複数の慢性疾患の影響もあり、生活機能が障害され、心身の脆弱性が出現した状態である。しかし、適切な介入や支援で生活機能が維持向上が可能な状態。
サルコペニアとは…
加齢による筋肉量の減少および筋力の低下のこと。それに伴い、立つ・歩くなどの日常生活の動作に影響が生じる。
つまり、HIV感染症のような微小炎症を伴う病気に罹ってしまうと、細胞レベルで老化がすすむ。老化が進むということはサルコペニアになり、フレイルの状態になりやすい、というのである。
ここで疑問になるのが『細胞レベルでの老化』というのが、どの様な現象でどような状態を指すのだろうか?
つきつめていくと、『細胞の老化』とは「細胞分裂の回数制限」が引き起こすものと考えられており、先日、このblog「神から与えられた猶予?!ヒトの本当の寿命」にも記載したが、染色体の先端にあると言われる「テロメア」と関与してきそうだ。
前述したように、HIV感染症や肝炎などのように、常に「ウィルス VS 細胞」の戦いが行われているということは、少ないながらもウィルスに負けてしまう細胞があるということで、その死んでしまい機能しなくなった細胞の分を補うため、他の細胞が分裂をしてその機能の代りを担う。つまりそれらのウィルスに感染していないヒトの細胞よりも、多くの細胞分裂をしなければならず、結果的に「老化が進む」状況になるのである。
ただ、(自分自身を安心させるためにお伝えするのではないけれど)HIV陽性者に対する治療法であるART療法が本格的に日本で導入されるようになったのは1996年であるから、やっと30年弱である。まだまだ、未知の世界だ。
それに、「老化」と呼ばれる現象だって、その実、詳細は分かっていない。
「テロメア」に関しても、詳細はまだ研究中の段階である。
そうやって考えてみると、普段、当たり前の様に使っている言葉や現象というものの、科学的根拠のなさというのは、なんとも言えない(笑)
話を戻そう。
HIV感染症だけでなく、前述した微小炎症を引き起こす病気というのは、小さな小さなところで、身体(細胞)を傷つけそれを修復しようと(細胞分裂)しているわけで、それが積もり積もって、身体に負担をかけているのだろうということは、容易に想像ができる。
結論。持病は一つでも少ないほうが良い。
2023年8月20日日曜日
私の中核をなすもの⑤マンガ
以前のblog 「自分自身が持つ価値観へ与える影響(お金の話し)」で少し話がでたけど、僕の子供の頃のお小遣い事情を考慮してもらうと分かる通り、週刊誌なんてものは買えなかった😖
中学に入ると、他の小学区からやってきて新しく友人となった人は、大体、毎週、少年漫画雑誌を買っている子がほとんど。
少年ジャンプ
少年マガジン
コロコロコミック
ヤングジャンプ
ヤングマガジン
中には、マイナーな「月刊Newtype」と言う雑誌を買っている友人もいた!!
※月刊Newtypeとは…
連載されていた有名な作品は「新世紀エヴァンゲリオン」「ファイブスター物語」「ロードス島戦記」などがあり、かなりマニアックなマンガが多いことで有名。
僕は、そういう週刊漫画誌を買っている友人に借りて、回し読みをするんだけど、もう1箇所、マンガが自由に読める場所があった。
それは…
床屋さん!!!✂️
僕の行きつけの床屋さん、その店主の息子さんが僕の3つくらい年上で、その息子さんが読み終わった週刊漫画誌とか、読み古した単行本とかが置いてあって、床屋さんに行く楽しみの一つだった😅
そこで読んでハマったのが「聖闘士星矢」で、単行本もプラモデルも買うほど熱烈にハマり、もちろんTVアニメも一話も漏らさず見た。
実は高校を卒業するまで、単行本を買うほどまでハマったマンガはなくて😅
医療短大に入ってから、同じ研究室の女子から紹介されたマンガ「王様はロバ〜はったり帝国の逆襲〜」にハマり全巻買ったかな。
僕ぐらいの年代の人にとって、「ギャグ漫画」といえば「Dr.スランプ」「パタリロ!」「ハイスクール!奇面組」なんかが周りでは流行っていたけど、僕の中ではイマイチ…っていうか、とりあえず話題についていくためだけに見ていた感じだったかな。
あと、このマンガ知っている人、少ないと思うんだけど「変」ってのがあるんだよね。実はTVドラマ化もされてるんだけど…もし知ってる人がいたら、ぜひコメント残してほしい(笑)
ごめんなさい。
マンガに関しては、これくらい。
僕は、何でもそうなんだけど、一度ハマると、浮気しせずとことんそれを深掘りするタイプで、マンガにしろ音楽にしろ、映画やドラマにしろ。
ま、そんな感じ💦
2023年8月18日金曜日
忘れられない患者さん①腰椎圧迫骨折のおばあさん
私が理学療法士として働いていた頃、何人の人に出会ったのか、もう数えることすら出来ないくらい多くの方の人生の一部に関わってきた。
その中でもどうしても忘れられない患者様が何人かいらっしゃって、そのエピソードを紹介したいと思う。
遡ること27年前。
私の最初の就職先である、整形外科と内科の有床診療所(入院設備19床あるクリニック)で、一番、最初に担当した入院患者様(Aさん)。
Aさんは80代の女性で腰椎圧迫骨折と言う怪我で入院されていた。
腰椎圧迫骨折というのは、腰椎という背骨のうち骨盤に一番近い5個のことで、Aさんはその腰椎の一つが潰れるように骨折した状態だった。
この、腰椎圧迫骨折というのは、臨床現場では比較的ポピュラーな疾患で、骨粗鬆症がすすんだ女性が尻もちを突くことがキッカケとなって骨が折れてしまう。人によっては、転んだりうというキッカケがなくとも、自然に潰れてしまう方もいらっしゃるが。
入職してすぐ、先輩理学療法士(以下、PT)から引き継ぐ形で担当となった。が、「とりあえず痛み見ながらこんな感じでベッドサイドから始めて」みたく、かなりざっくりとした申し送りを受け(笑)、痛みで起き上がれないAさんのベッドサイドリハから始まった。
その頃、腰椎圧迫骨折の治療としては、受傷直後に体幹ギプスと言って、腰骨の辺りから胸辺りまで、まずは固定をする事から始める。ギプスも徐々に緩んでくるため、2週間後に巻き直しをするのだが、その際に古いギプスをカットして、硬性コルセット(皆さんが想像するようなコルセットではなく支柱が付いた硬いコルセット)の型取りをしてから、もう一度ギプスを巻いて、さらに2週間後にギプスから硬性コルセットへと替えていく。
当時は、体幹ギプスを巻いている間は、寝起きや排泄がかなり不便であるため入院になることが多く、硬性コルセットになると、コルセットを着脱することで日常生活に自由度が高くなるため、ある程度痛みが抑えられ日常動作が可能となれば退院、というのが一般的だった。
Aさんは、僕が担当した時にはすでに硬性コルセットに変更になっていたが、痛みのために寝起きに介助が必要。もちろん立ったり座ったりも手すりを持ちながら私が両手で介助してやっと立ち上がれる状態。歩くなんてもってのほか。の状態で、引き継いだ。
もちろん今なら、Aさんの一番の問題である痛みに対する理学療法のプログラムを立てて、痛みを軽減させながら筋力の低下を防ぐ運動や立ったり座ったりと言った、日常生活に欠かせない基本的な動作の練習から始め、どうしても日常生活に困難があれば、介護保険を利用して電動ベッドの導入やデイサービスの利用、シルバーカーのレンタル、自宅の廊下やお手洗い・お風呂場などに手すりをつけるなどの住宅改修などを提案し、自宅退院に向けた流れを考えるのだが…27年前にはまだ、介護保険制度はなかった。
Aさんは息子さん夫婦とお子さんで同居している3世代家族だった。確か、その時の息子さんのお話では、身の回りのこと(ベッドから起きてトイレや食堂まで自力で移動する)ができるようになって欲しい、とのご希望があった。ただ、もともとベッドは使っていたとのことだったが、手すりなどはなく、Aさん自身の身体能力の回復へのハードルは、かなり高かった。
その時、私自身が立てたプログラムというのは、もう、ここに書くことすら恥ずかしくて書けないくらい、稚拙なものだった。
Aさん、本当にごめんなさい…
当時、そのクリニックでは、朝一番に院長(整形外科)の回診があり、セラピストが当番制で同行しながら、入院されている方々の現状をお伝えし、院長と情報を共有していたのだが、ある時、回診後に私のところへやってきて「かっちゃん(わたしのあだ名)、Aさんそろそろ退院できんかな?息子さんがそろそろ退院させたがってるんだよ」と。
実は、その時のAさんの状況と言うのは、なんとかシルバーカーで数m歩ける程度、しかも痛みをかなりこらえながらの状態で、ご自宅の状況を考えるととても退院していただくのは難しいと、私の中では考えていた。
さらに院長は「あとどれくらい(何日くらい)で退院できそう?」と尋ねてきたのだ。
焦った。
非常に焦った。
新人の私に、この状況であと何日で退院ができるかという「予後予測」をしろ、と言っているのだ!!酷だった。本当に。悩んだ。迷った。「分かりません」とは言えなかった。
そして私は苦し紛れにこう言ったのだ。
「あと2週間、時間を下さい」
2週間という時間に、なんの根拠もない。
もしあの時、今の私の知識と技術があるか、もしくは神様が奇跡を起こしてくれていたら、本当に2週間で、理想の状態で退院を迎えられたのかも知れない。
2週間後、しびれを切らした息子様から、なんとかシルバーカーで歩けるようになっているAさんを連れて自宅で介護します、と言う連絡が入り、退院となった。
今でも思い出すのは、クリニックを出て、痛いながらもなんとかシルバーカーを押して息子様の車まで歩くAさんの後ろ姿と、横でAさんの介助をしながら歩く息子様の姿を。
その後のAさんの様子を知る由もなく、私はAさんやご家族の方への申し訳無さと、自分への不甲斐なさで心が張り裂けそうだった。
そうあの時、院長が「あとどれくらいで?」と尋ねてきた時に、「今の僕では分からないので他のスタッフと相談してお答えします」と言って先輩PTに相談したり、もしくは担当を変わってもらったり、自分の実力のなさを素直に認めて、救けを乞う事をしていたら、もっと違った結果になっていたのかも知れない。
私のちっちゃなちっちゃなプライドが、邪魔をしたのだ。
本当に後悔した。
けれど、院長始め他のリハスタッフも皆、私の事を責めたり説教をする人は一人もいなかった。
ただ、この経験が私に火を付けた。
実は、私は医療短大在学中の成績は、下の中くらいでお世辞にも優等生ではなかった。1度留年しかかっており、科目担当教授のお情けで進級できたくらいだったし、国家試験も自己採点では合格できるか出来ないかくらいの点数であった。
「夢は歌って踊れるPTです!」と、ほざいていたくらいだから、今思えば舐めきっていたものだ。
私はAさんと言う始めての担当患者様を目の前にして、ほぼほぼ無力だった自分に気付き、そしてただ、打ちひしがれるだけではなく「このままではいけない!」と言う焦燥感と不安とやる気が一気に吹き出した感覚であった。
産業カウンセラーの資格を取って半年。
実際に、カウンセリングを行うようになって約1ヶ月。
今まさに私は、同じ様な状況になろうとしている。
しかし、同じ轍は踏まないと決めた。
最初から、全力だ。
2023年8月17日木曜日
対人援助職者要注意!共依存と言う罠
「共依存」というのは、心理的な病気の事を指し、アルコール依存症や薬物依存症を悪化させたりすることで、注目された。
共依存とは…
共依存(きょういそん、きょういぞん、英語: Co-dependency)、共嗜癖(きょうしへき、Co-addiction)とは、自分と特定の相手がその関係性に過剰に依存しており、その人間関係に囚われている関係への嗜癖状態(アディクション)を指す。すなわち「人を世話・介護することへの愛情=依存」「愛情という名の支配=自己満足」である。共依存者は、相手から依存されることに無意識のうちに自己の存在価値を見出し、そして相手をコントロールし自分の望む行動を取らせることで、自身の心の平穏を保とうとする。(Wikipedia参照)
共依存関係にある両者は、「ケアする」「ケアされる」と言う関係性に見えるため、一見すると「無償の愛情」や「献身的な介護」の様に“否定されるようなネガティブな関係”には見えない事が多い。
実はここに落とし穴がある。
依存症者がパートナー(共依存者)に依存し、またパートナーが依存症者へのケアに依存するために、その人間関係(環境)が持続する。依存症者が何らかの問題を起こし、周囲の人間に迷惑をかけるが依存症者のパートナーはその問題の尻拭いをすることで“自分自身の存在意義(価値)”を見出してしまう。そのため、無意識のうちにパートナーは依存症者の回復を拒む(イネーブリング、と言う)ようになり、依存症者自身も「依存したい」ためその様なパートナーの振る舞いを拒むことなく受け入れてしまう。結果、依存症者は自立する機会を失うが、パートナーは依存症者が自立してしまうと、自分自身の存在意義を失ってしまうと言う『自己中心性※』を秘めている。
※自己中心性とは…
自分自身の視点や立場からしか物事を捉えることができず、他人の立場や気持ちを理解することができない性格的な特徴の事。
この「共依存」という概念は、元々はアルコール依存症者とそのパートナー(またはその家族)に見られるとして、看護の臨床現場から提唱されていたが、薬物依存症の家族、ギャンブル依存症の家族、ドメスティック・バイオレンス(DV)のある家族、機能不全家族などにも見られる現象であると言われている。
「ある人間関係に囚われ、経済的、精神的、身体的に逃れられない状態にある者」というのが一般的な定義である。
共依存者には以下の様な特徴が見られる。
・相手の気持ちを優先させる(強迫的世話焼き)
・相手の行動をコントロールしようとする
・自分の気持を押し殺す(自分の意見が言えない)
・強迫観念※にとらわれやすい
・自己肯定感が低い
・現実を直視できない
・何かに依存せずにはいられない
・コミュニケーション能力に乏しい
・他人との境界があいまいである
・怒りの感情が正常に働かない
・セックスが楽しめない
…などなど…
※強迫観念とは
頭から離れない考えやイメージの内容が「不合理」だとわかっていても、頭から追い払うことができなくなること。いわゆる「潔癖症」などの様な症状の事。
実はこの様な共依存という関係性、対人援助職者が陥りやすい関係性でもある。
もともと対人援助職者というのは「人の役に立ちたい」「誰かの力になりたい」と言う気持ちが強い人が選びやすい職種であるため、援助者が気を付けていないと共依存関係になりやすい職種とも言える。
被援助者(患者様や利用者様)が「〇〇して」「✕✕やって欲しい」と言うような要求をされた時は、援助者も理性的に「この人の能力は〇〇だから✕✕までは介助しよう」と考え「〇〇はご自身でやっていただけますか」などと対応が可能で、ここでは共依存関係は生まれない。
しかし、被援助者からこの様に言われたらどうだろう。
「あなたがやってくれるからとても助かっているわ」「あなたじゃなきゃやっぱりだめね」「あなたがお休みすると心細いの」などと言われると…悪い気はしないのが人間である。そのような言われ方をすると「仕方ない。やってあげよう」と一見“自然に”そのような行動を起こしてしまう。
それが毎回毎回、毎日毎日、続くとどうだろうか。
次第に「この人は私がいないとダメな人だ」「私はあの人に必要とされている」と思うようになり、その被援助者のことがいつも気になったり、本来その人ができることまで介助してしまったりと、被援助者の抱える問題に巻き込まれていく。
共依存である被援助者は、援助者を「気持ちよく」させて、言葉巧みに「人を操ろう」としてくる。その罠に巻き込まれないようにしなければならない。
もし共依存関係になり巻き込まれたら…
基本的に、本人たちは共依存関係に陥っていることに気づいていない場合が多い。他者が指摘する、もしくは物理的に距離を離す(担当を替えるなど)の対策が必要。援助者への対応は比較的容易だが、むしろ被援助者へのフォローが難しいと思われる。「見捨てられた」「無理やり担当を替えられた」などのクレームに繋がり、信頼関係(ラ・ポール)を一度崩してしまわなければならないからだ。
これは、私の経験則からであるが、この様な関係性に陥った場合、被援助者には根気よく丁寧に説明し、被援助者に「自分自身でできることはやらなければならない」と言う気持ちになるようにしていかなければならない。また、「援助者を自分の言動でコントロールしその人を拘束していた」と言う事実を認めさせなければならない。
これは、労を要し時には時間のかかる事で、共依存関係にある者以外の第三者が積極的に関わらないと、良い方向へ向かわない。
振り返れば、私自身、共依存関係に陥っていたと思われる患者様がいらっしゃった。
今だから冷静に判断できるのであるが、「あなただから言うのだけれど」とか「他の人には内緒で…」と言い、涙を流されながら訴えかけられると、やはり心揺らぐのである。しかし、私はその方に過介助で過干渉的になり、その方が回復しないのは私自身の努力不足、技術不足であると自責の念にかられ、結果的に私自身がメンタルダウンを起こすと言う結果を招いたこともある。
私が産業カウンセラーの養成講座を受けていく中で、私のウィークポイントとして指摘されたのは「その人の感情に流される」と言われたことがある。また、臨床心理士さんとのカウンセリングの中で「鈍感力を身につけて下さい」と言われたことも。
対人援助職であるからこそ、共感力とともに客観性というものを、同時に持ち合わせていなければならない、と今更ながらに強く思う。
どうか、皆さんも注意していただきたい。
2023年8月16日水曜日
人生の先輩から…恩師からの教え
私にも「恩師」と呼んでいる方がおられる。
あ、あくまでも私自身が、一方的に思っているだけなので片思いだが。
その方は、医療短大時代の研究室の助教授K先生だ(今で言う准教授)。その先生、見た目もヒトクセあって、頭頂部は禿げて髪がないが側頭部~後頭部にはきちんと髪があり、後頭部の髪は少し伸ばし、必ず輪ゴムで小さく束ねていた。
口元には口ひげとあごひげを蓄えており、いつもループタイをし仁丹を口にしていた。きっと今で言う「フリスク」感覚で仁丹を口にしていた。
タバコは吸わず、お酒はよく飲む。でも楽しい酒で、説教をしたり叱ったりすることのない、笑顔の似合う先生だ。
その方は、理学療法士・作業療法士法が制定された頃に理学療法士になられた方で、元々は工学部出身の理系だ。
私はその先生の影響を、大きく大きく受けている。
理学療法士としての生き方
研究に取り組む時の姿勢
教育に対する思い
「理学療法士はその人の人生を変える仕事だ」
「当たり前だと教科書に書いてることをまずは疑え」
「後輩を育成するのは年長者の義務」
卒業研究で、K先生の研究室に同期の女子と2人で入って、研究をすすめていく中で、考えにつまずいたり方法に悩んだ時、いつもキチンと時間を取って向き合ってくれた。そして、絶対に「答えは言わない」人だった。でも、先生に相談した後は、いつも一筋の光が見え、また前向きに研究に取り組んでいた。
あゝ、もしかしたら僕がカウンセラーを目指したルーツは、ここにもあったのかもしれない。答えを与えてくれる人よりも、気付きを与えてくれる人というのは、本当の意味で人として成長を与えてくれる人なのだと、今更ながらに気付いた。
先生を囲んで飲み会をすると、必ず奢ってくれた。私達は「先生、今日は僕たちが払います!!」と言っても、頑なにそれを拒否して「そんな事は気にしなくて良いから、将来、自分の後輩や部下に奢ってあげなさい」と言われてきた。だから私は、後輩と呑みに行くときは、必ず自分が奢った。
あゝ、こうやって循環していくんだ。人間関係って。
そう思った。
いかん、泣けてきた。
私が医療短大を卒業して、10年弱が経った頃、私はとある短大に講師として勤務することになり、その恩師と同じ職場になった。私はとても嬉しかった。
「また、K先生に色々と指導してもらえる」
「いっぱい吸収しよう」
「いっぱいディスカッションしよう」
学生時代は、「助教授」と「学生」という立場だったが、同じ職場の「先輩」と「後輩」(かなり年の離れたwww)になったが、私自身も臨床もそれなりに経験し、研究活動もしてきたので、知識も増えたことでK先生とは対等に話ができるようになった。それが、とてもとても、とても楽しかった。
臨床に戻った元職場で、私は、実習生に関する取りまとめを行ったり、他の指導者の指導方法などの相談にものってきた。私は、実習生を受け入れることは「義務」であり、それは私が理学療法士として働ける「恩返し」でもあると思い、積極的に指導にあたった(まあ結果的に、メンタルダウンしてしまった一要因でもあるのだが)。
私が理学療法士として働けるのは、養成校のカリキュラムに必ず「臨床実習」があり、そして実習生として私達を受け入れてくれた医療機関があり、さらにそこには先輩理学療法士の指導者がいてこそなのである。
ここからは、医療機関の闇の部分を書く。
医療機関が実習生を受け入れる基準というのは、おそらくそれぞれの医療機関で決まっていると思う。しかし、その基準というのが曖昧、というか指導者の気分次第だったりするのが事実である。実習生を受け入れるとその養成校からは、謝金が医療機関に入る。しかしこの謝金には相場がなく、養成校によって格差がある。
国公立系は、謝金がかなり安いが指導者となることで「実績」になる。“博”が付く。
私立の専門学校などは、謝金が高いが「学力が低く手のかかる実習生がくる」事が多い(もちろん例外もある)。
また、その指導者の卒業校であったりすると、お世話になった先生から実習の依頼がくることもよくあり、断りづらかったりもする。
それらの“要因”を考慮し、どの養成校から何名の実習生を受け入れるか、と言う「ふるい」にかけられるわけだ。
時には「(この学校の学生は)手のかかるから、実習生の指導はしたくない(受け入れない)」と言う答えが聞こえることがある。
ある意味、当たり前の考え方だし、面倒なことは誰だってやりたくないし、自分自身の仕事が増えたり、患者様に迷惑がかかってはいけない。しかし、自分自身の指導力のなさを棚に上げて実習生に「手がかかる」と言い、それを放棄してしまうのは、いかがなものかと思う。
そんな事を考えてしまうのも、恩師の影響だな(笑)
短大で講師として学生を教える時になった時「当たり前だと教科書に書いてることをまずは疑え」を実感することになる。
皆さんは、「温度とは何か」と説明できるだろうか。「1mって何を基準にその長さが決まっているのか」「光とは何か」「音とは何か」「エネルギーを正しく説明できるか」「熱とは」などなど、普段、当たり前の様に使っている言葉や物事を説明するというのは、簡単なようで非常に難しい。それは『あまりにも当たり前過ぎて〝それがそれであること〟に誰も疑問を持たない』からである。
おそらく私の「知的好奇心」はK先生の教えがあったからこそだと思っている。
今は訳があって、K先生とは疎遠になってしまい、連絡先も知らない。
会ってお話したいことは、たくさんある。お礼もお詫びもまとめて全部したい。
今、私の最大の心残りだ。
2023年8月15日火曜日
神から与えられた猶予?!ヒトの本当の寿命
今の世の中、医療の発達によって、どんどん寿命が伸びている。
詳細はblog「カウンセリングなんて…と思っている人へ①」を参照されたし。
もし、この世に「医療」と言うものがなければ、ヒトは何歳くらいまで生きられるのだろうか?
医療のない原始時代、その頃のヒトの平均寿命は30歳前後と考えられている。その要因は、乳児~幼児の間に、感染症や栄養不良による死亡率が非常に高かったから、と。ただ、中には80歳~100歳まで生きていたと言う記録もあるようだが、一般的に、多くは30歳前後と考えられている。
どんな生き物も、自分の子孫を残そうと必死だ。
もっと突き詰めていくと「自分の持っている遺伝子を残す」ことに必死だ。これが「利己的遺伝子説」である。どんな生き物も、同じ生き物であってもそれらには個体差があり、個体差があるということは、それぞれ持つ遺伝子も違う、と言うことである。
そのために繁殖を促進させ、その子孫である遺伝子のコピーをたくさん作り、また繁殖し…それを繰り返し、生き残っていく遺伝子だけが“優秀な遺伝子”として、後世まで生き残ろうとしている。
実は、生命の進化とは、遺伝子の突然変異の連続だという説もある。
遺伝子は、分裂しコピーを作る際に様々な影響を受けて、変化してしまうことがある。それが突然変異だ。しかし、その突然変異を起こすことで、その時々のその環境に最も適した「生命の営みの仕方」を獲得し、生き残っていく。
そうやって生命というのは、変化し続けてきた。
細胞というのは、核と呼ばれるものの中に、DNAの塊である染色体と呼ばれる機構をもつ。遺伝子とは、この染色体およびそれを構成しているDNAであるが、生物の細胞は日々、分裂と消滅を繰り返し、新しいものへ生まれ変わっているのであるが、実はその分裂には「最大、何回まで分裂できるか」と言う回数制限がある。それを決めているのが、染色体の先端にある「テロメア」と言う部分で、染色体が分裂するたびにこの「テロメア」が短くなり、テロメアが消失するとその染色体は分裂ができなくなり、その細胞は死んでしまう(一部の細胞の中にはテロメアが短くならなかったり、再び長くなるものもある)。
さて、話を元に戻そう。
もし医療がなければヒトの寿命は30歳だ。
仮に現在のヒトの平均寿命を80歳と考えると、その差50歳分は、ある意味“人為的に”伸びた寿命だとも言える。
検査
薬
手術
栄養
リハビリ などなど
それらが、「命」を「時間的に長くする」事を可能にしてきた。
ここに面白いデータがある。
ヒトだけでなく、マウスも寿命が伸びているのだそうだ(Google Bard調べ)。1980年代頃にはマウスの寿命は2年と言われていたが、現在は3年まで伸びている。その理由は「遺伝子操作や食事療法などの技術により、マウスの老化を抑制できる可能性が示唆されているため」だそうで、言い換えればこれはヒトにも当てはまるわけだ。
さて、本来なら30年で終るはずの人生を50年も上乗せできるようになっているわけである。
もっと言ってしまえば、残りの「50年」は神様から与えられた、猶予期間、または“おまけ”とも捉えることができる。
この様に、生命の寿命というものを科学的に捉えようとすればするほど、私は哲学的に考えてしまう。そして、今の日本の現状を考えると「簡単に死なせてもらえない世の中」である。良くも悪くも、である。
誤解を恐れずに言うのであれば、だからこそ「生きる」という事を、もっと真剣に考え、そして語っても良いのではないかと思う。なにも「善行をしろ」「一日一日を大切に」と言っているのではない。おそらくこの答えに正解はなく、そして、個々人が見つけるものであり、それが自分自身で納得のいくものであれば、それがその人にとっての正解なのであろう。
(余談だが「一日一日を大切に生きる」なんてことは、誰にも出来ないはずである。一日くらい「大切じゃない日」だってある。それは人間だから。人だから。それを目標にしていては人は生きていられない。)
皆さんは、どう考える?
2023年8月14日月曜日
踊る!!郡上おどりを考察する!!
皆さんは、踊ったことがあるだろうか?
踊る、と言っても、昭和な言葉で表現するなら『ディスコ』平成な言葉で表現するなら『クラブ』。令和な言い方では何というのか知りませんが…とにかく、音楽が爆音で流れその中で思い思いに踊る。そんな経験はあるだろうか?
私は、何度もある。
20代~30代始めの頃までだろうか。友人と一緒に、と言うのもあるし一人でというのもあるし。ディスコやクラブ(以下、クラブとする)で踊ることには、やや中毒性があり、クラブで踊り明かした後には、なんとも言えない爽快な疲労感を覚えたものだ。
そうそう。身体は汗でベタベタ、顔もギトギト、耳は爆音で変な感覚になるので、普通であれば「不快」と感じるであろう身体反応があったとしても「爽快」なのだ。
(あ、もしかしたらこれは「運動する」と言うことも類似することか)
なぜ、クラブで踊ると爽快感を得られるのだろうか?私見を交えなが論じてみたいと思う。
クラブで踊っているといわゆる「トランス状態」を味わう。トランス状態と言うと“ヤバい状態”と思われるかもしれないが…
トランス (英: trance) あるいはトランス状態とは、通常とは異なった意識状態、つまり変性意識状態の一種であり、その代表的なものである。入神状態と呼ばれることも、脱魂状態や恍惚状態と呼ばれることもあり、リハビリテーション、教育、スポーツなどの幅広い領域へと応用されている。(Wikipediaより)
トランス状態の時には通常の感覚は失われ、脳ではα波〜θ波が優勢になることが知られている。α波やθ波というのは、「覚醒しているけれども精神活動が活発でないとき」に現れているとされており、よく「リラックスしている時に出現する脳波」として皆さんも、一度は耳にしたことがあるのではないだろうか。
踊る時、あれ程に身体を動かしているのに「リラックスしている」というのは、なんだかチグハグな感じがするのだが…
私は、学生時代に始めてクラブへ踊りに行き、その「トランス状態」を味わったのだが、実はその時、一種の懐かしさを覚えた。
それは何故か。
私の地元である、岐阜県郡上市で行われる「郡上おどり」。みなさんも一度は耳にしたことがあると思うが、その「郡上おどり」を踊っている間も、「トランス状態」になるのだ。
「盆踊りは、現在でも、全国各地で盛んに行われており、夏の風物詩となっています。盆踊りは、単に踊りを楽しむだけでなく、ご先祖様を供養する意味も込められています。また、盆踊りは、地域の人々が集まって交流する場にもなっています。」(Google Bard調べ)
他にも仏教を広めるためなどの意味合いも合ったようだが、江戸時代には娯楽としての盆踊りが定着している。
私が考察するに、「郡上おどり」や「阿波おどり」などの単調な踊り方をする盆踊りというのはトランス状態になりやすいと思われる。
盆踊りを踊っていて「今トランス状態だ」と認識するには2つの感覚を意識するといよい
①あまり考えなくても「勝手に身体が動く」ような感覚
②時間の経過がわからなくなる
郡上おどりを例にとると、曲は全部で10曲ある。
かわさき
春駒
三百
ヤッチク
古調かわさき
げんげんばらばら
猫の子
さわぎ
甚句
まつさか
それぞれに振り付けは違うのだが、それぞれの曲の振り付けは、一つのパターンが短く、それを延々と、曲が終わるまで繰り替えす。
「〇〇音頭」と名付けられた盆踊りの振り付けというのは、非常に難しく、コロコロと振りが変わってしまうので、練習と慣れが必要だが、郡上おどりは、人が踊っているのを少し見ていればすぐに覚えられ、誰でも踊りの輪に入れる。だから、観光客に人気なのだ。
振り付けが簡単であるがゆえに、踊りながら「次のフリはこうで、その次はこうで…」とか「きれいに踊るには…」「見栄えがよくするには…」などの余計な雑念がなくなる。そのうちに『考えなくても勝手に身体が動く』ようになる。するとどんどん「トランス状態」になっていく。
(ちなにみ私がすきな曲は『猫の子』である)
先程、述べたように、盆踊りには様々な意味合いが込められているが、実は、メンタルヘルスにもとても良い。
エビデンスはないが。
まだ、一度も体験したことがない方は、ぜひ、踊りの輪に加わることをおすすめする。
見ているだけでは楽しめない。
踊らなければ。
2023年8月12日土曜日
私の中核をなすもの(④音楽)
僕は音楽が好きだーーーーーーーーーーーー😄
僕の音楽遍歴は、以前のblog「自分自身が持つ価値観へ与える影響(お金の話し)」でも書いたけど、結構、音楽は本当に好きだ💕
音楽って楽しい!って思い始めたのは、確か、小学生低学年の頃かな~
日曜日の朝、あの長寿番組『題名のない音楽会』を見るのが習慣だった😅(渋い小学生…)
実家にはTVが一台しかなかったんやけど、日曜日の朝のあの時間、誰もTV見ないんだよね。だから、僕がTVを独り占めして『題名のない音楽会』を見てた。
Wikipediaによると、なんと1964年から放送されているそうだ😲
しかも「番組の本編中にコマーシャルは一切入らない。これは協賛社・出光興産創業者の出光佐三が「芸術には中断はない」と考えていることからである。このためCMが流れるのは番組冒頭とエンディングのみである。」とのこと。
いや、確かに思い起こすと、本編中にCMあたりはなかった。すげーなー!出光興産🤔
僕の音楽好きは両親譲りだ。
父は、独学でトランペットを一人で吹いていたらしい。
地元の父をよく知る人から聞いた話だと「よく親(僕から見た祖父母)の手伝いをサボって、河原の土手で一人で🎺吹いとった」らしい😄
父はジャズトランペットが好きで、車の中でよくそのカセットを聞かされたな~
(ちなみに僕は、ジャズはあんまし好きやない💦)
そうそう、それで僕が小学生中学年くらいの頃かな、突然、家に30本くらいある「クラッシック全集」みたいなカセットテープが届いた!!びっくりしたなぁ。どういう経緯で買ったのか、全然知らないんやけど、僕、嬉しくて、とりあえず全部聞いたさ♫
僕が好きだったのは、フルオーケストラで演奏されるやつ全て(作曲家で聞き分けていない😁)とマーチ。特にマーチは大好きで、ソレばっかり聞いてたから、カセットテープが伸びちゃって、聞いているとブツブツ音が途切れる😅
小学生6年の時に放送部に入ったん。なんでかっていうと、給食の時間、放送部が曜日交代でそれぞれジャンルの違う音楽を全校放送して良いことになっていて、僕は「クラッシック」の曜日を担当したくて。それで音楽室準備室にある棚の中からレコードを1枚借りてきて、毎週金曜日、僕は放送室で給食を食べながら、好きなクラッシックを聞くという、なんとも優雅な時間を過ごしてた😙
僕の音楽好きは、姉(2歳年上)からも影響を受けていて、中学生になった時、姉が友人から借りてきた「TM NETWOR」のアルバムを一緒に聞いて、本当に雷⚡に打たれたような衝撃を受けた!!いや、ほんとマジでこれ。
そしてしばらくして、あの「ザ・ベストテン」の「今週のスポットライト」で初TV出演した時の映像は、今でも忘れられない。ボーカル・ギター・キーボードの3人でどうやってバンド演奏するのか不思議に思ってたけど、そのセットにはコンピューターが鎮座し、いくつもシンセサイザーが並び、ピアノが勝手に演奏を始める…もう、衝撃としか言いようがない。
マジ、かっけー!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
いわゆる「DTM」のハシリですよ。
僕の音楽のルーツではあるんだけど、ある意味「デジタルガジェット好き」のルーツでもあるかな~💻📱
(その他のアーティストについてはblog「自分自身が持つ価値観へ与える影響(お金の話し)」を参照してね)
もう二組。僕が音楽を語る上で衝撃を受けた人を紹介します。
「エンヤ(Enya)」だ。
彼女の、透き通った声、そして幾重にも多重録音されたハーモニー。アイルランド出身の彼女が、母国の音楽の伝統を受け継ぎ、そして新しい音楽へと昇華させた傑作だ。「オリノコ・フロウ」(Orinoco Flow)と言えば、知らない人はいないと思うし、タイトルを知らなくても曲を聞けば「ああ!あの曲ね!」って、誰もが知っている曲。
あれは本当に衝撃だったな~
そして、我らが「Perfume」
彼女たちがブレイクした曲「ポリリズム」を聞いた時は、ぜんっぜん、なんっとも思わなかったwwwTVでパフォーマンスしてるのをみても、何も響かなかった。
それから、全然、意識にも登らなかったんだけど、たまたま見たYou Tubeで「エレクトロ・ワールド」と言う曲のパフォーマンスを見て、鳥肌がたった🐔
なんじゃこりゃ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~👀
ノリノリの楽曲、そして3人のシンクロしたダンス。感動すら覚えた!!
楽曲はもともとTM NETWORKが好きで、ピコピコ鳴る音楽(笑)は好きだったし、ユーロビートとかテクノとか“踊れる曲”が好きだったから、もうドハマリ。
そこからですよ。ライブDVDを借りてみたりアルバムやシングルを買い漁り、最終的にはファンクラブに入りました。
彼女たちの魅力を語りだすと、長くなるのですが、やっぱりライブ。何と言ってもライブ。
楽曲・ダンス・舞台演出その三位一体となった空間は芸術の域ですよ。マジで。
そして、ライゾマティクスによるテクノロジーを駆使した“見せ方”は、本当に見ている人の想像を優に超える。
…
このあたりにしておきます😅
この記事を読んでいただいたお分かりの通り、僕の音楽好きのジャンルは比較的幅広いと思う。クラッシック・吹奏楽からPOP・テクノまで。
これはつくづく思うけど、音楽って生活を豊かにしてくれる。
2023年8月10日木曜日
あなたは大丈夫?仕事がデキる!≠管理職に向いている?
私が理学療法士となった約30年近く前、リハビリセラピストがその部署の上長であり管理職になっている人というのは、かなり稀であった。大体どこも、事務方や他のコメディカルスタッフと一緒の部署で、リハビリセラピストが昇進したとしても、せめて“主任”どまりであったろう。
しかし今の世、リハビリセラピストの人数は増え、それを抱える施設も増えたことにより、正真正銘のリハビリセラピストによる「管理職」が誕生し、それほど時間が経っていないと思う。管理職であるから、業務の大半は管理業務で、「直接、患者様の担当をしない」というのが当たり前。
私は、管理職になったことがないが、元職場にはリハセラピストの科長と主任がおり、本当の管理業務を行っていた。
ただ、困ったことに、リハビリセラピストは「管理業務」については、学校では習わない。まあ、当たり前といえば当たり前で、恐らく、それぞれの所属機関で教育を受けたり、ご自身で自己投資してその素養を身につけられてこられた方が多いのではないだろうか。
これはどこの業界でもそうだ思うのだが、仕事がデキる≠管理職が向いている、のではない。
私は理学療法士という仕事が好きだ。それは患者様に対して理学療法と言う医学的リハビリテーションサービスを提供する、と言う意味で仕事が好きだ。では、「リハビリテーション科の管理職は?」と聞かれれば、断じてNO!である。
元職場の上長(科長)の仕事ぶりをみていると、私には絶対に務まらない、と思った。まあ、精神疾患を持っているという時点で、除外されるであろうが(笑)。
また、患者様から慕われ、理学療法士として素晴らしい技術を持った者が、デキる管理職者になるか、と問われれば、断じてNO!である。私がそうであるように(笑)。
ではどんな人が管理職に向いているのか。
私が考えるに「部下を正しく評価しその部下を“動かす”能力の高い人」である。そして「突発的なトラブルに対する対応力が高くストレス耐性が高い」事もはずせない要素ではないだろうか。
「部下を正しく評価しその部下を動かす能力の高い人」
これはいわゆる「マネージメント力」とでも言えるだろう。管理職と言うのは自ら率先して動く人は向いていないだろう。大体、そう言う管理職は潰れてしまう。全てを“自分の仕事”にしてしまい、自分だけで抱え込むことで、結局、抱えた全てを中途半端のままで投げ出してしまいかねない。むしろ「この仕事は◯◯さん」「この仕事は■■君」と言う様に、その人の能力に見合った人材に振り分け自分の手から離す事が必要である。『適材適所』と言う考え方だ。ただし、丸投げではなくタイムスケジュールと共に途中経過の確認や、いつでも相談にのる姿勢等が必要であろう。実は、私が思うに、この「途中経過の確認やいつでも相談にのる姿勢」と言うものに欠けている管理職が多いような印象を受ける。もちろん「人を正しく評価する」能力も大変難しいことかもしれない。しかし、仕事を振り分けたまではいいが、結局その『部下から確認されるまで放置』している管理職もいるのではないだろうか。
確かに、管理職は忙しい。いくつかの案件を抱え、それら全ての手綱を引きながらタイミングを見計らっていると思う。しかし、管理職側から「あれはどうなってる?」とか「あの事で何か悩んでいることはない?」と率先して声掛けや目配りがデキる管理職は、本当の意味で管理職に向いていると、私は思う。人によっては「部下から声をかけてくるまで待つ」とか「部下から確認してこないのはやる気がない」などの評価を下す者もいるだろう。もしかしたらケース・バイ・ケースなのかもしれないが、部下だって忙しい。「忙しい」を理由に“必要なコミュニケーション”を取らないのは、管理職の怠慢だと考える。
「突発的なトラブルに対する対応力が高くストレス耐性が高い」
もう、これは読んで字のごとく。「責任者は誰だ?!責任者連れてこい!!」と言うクレームから始まり、部下の起こしたインシデントやアクシデントに責任を持って冷静に対処する。そしてそれらの原因をキチンと分析し今後へ活かすと共に、部下へのフォローアップや他部署への謝罪など、必要に応じた対応力が求められる。この様な対応力というのは、一朝一夕に身につくものでもないと思う(一部の人ではそれを若いうちに体得した人もいるか)。ただ、この様なストレスフルな要求をされ続けていると、いくらなんでもその管理職が潰れてしまう。だからこそ、管理職になる人には、自分なりのセルフメンタルケアの方法を習得している事が必須だ。
ここまで書いていて、つくづく思う。私には管理職は無理だ、と(笑)。
欧米では、一部の富裕層や企業の経営者の間では「ライフコーチ」と言うサービスが浸透している。日本でも近年になって、ライフコーチを受ける人が増えてきているようだ。
ライフコーチとは「クライアントの人生における目標や課題を達成するために、サポートする専門家のこと。コーチングセッションでは、クライアントの強みや価値観を理解し、目標達成に向けて具体的な計画を立て、実行をサポートする」ことであり、ライフコーチは、クライアントの人生をより良くするための伴走者であり、サポート役のことである。
カウンセリングに近い事を行うが、カウンセリングよりもより長く、よりその人の世界観を理解し、長期にわたりサポートしてく。やはり、先回のblog「心理的安全性と言う環境評価」の中でも触れたが、変化が早く、正解が分からない今の世の中、管理者や経営者というのは、常に様々なストレスに晒(さら)されていると思う。そうなってくると、自分自身を見失いメンタルダウンしかねない。私の様に個人事業主やフリーランスと言う働き方をしている人も、当てはまるかもしれない。その様な人には「ライフコーチ」は必要な存在なのかもしれない。
ライフコーチとは上記に示したような役割を担っている専門家であるが、昔はそんな職業はなかった(当たり前の話だが)。ではそのような役割は誰が担っていたのだろうか。実はその役割を担っていたのが『管理職』なのではないかと思う。戦後~高度成長期、終身雇用が当たり前であった時代、社内の人間関係は現在よりも密であり、そして仕事外での付き合いも多かった。仕事以外のプライベートの事も、管理職が部下の事をことを心配し思いやり、そして助言を与え導いてくれる。そんな関係性が出来ていたのだと思う。いわゆる「義理人情」が当たり前の世の中だ。
今が良いとか昔が良いとか、そのような話ではなく、時代が変わるとともに人間関係のあり方とか築き方なども変わるのは仕方のないことである。
私がもうすぐ50歳になると言う年齢も関係しているかもしれないし、長く対人援助職をしているからかもしれないが、私は自他ともに認める「義理人情派」である(笑)。恩義のあることに関しては恩で返したい。そして一期一会を大事にし、一度、深いつながりを持ったのであれば、その人に思いを馳(は)せるのは“当然のこと”と思っている。
最近は何でも「ガチャ」をつける。「親ガチャ」を始め「容姿ガチャ」「能力ガチャ」「性格ガチャ」「学歴ガチャ」「家柄ガチャ」「財力ガチャ」「健康ガチャ」「恋人ガチャ」「結婚相手ガチャ」(Google Bard調べ)。
そして「上司ガチャ」も使われているようだ。
良いか悪いかは別として。
2023年8月9日水曜日
実はすごい!「エモい」の効果
最近、よく耳にする「エモい」と言う言葉。実は「エモい」と感じると、脳に良い効果を与える、と言う研究結果が出てきているようだ。
私達世代は「キモい」「ハズい」などの言葉を日常的に使う(使ってきた)世代で、それぞれ「気持ち悪い」「恥ずかしい」のスラングだけれども、もう『若者言葉』ではなくなってきている。
「エモい」は「エモーショナル(Emotional)」が由来で日本のスラングで若者言葉だ。もっと起源を遡ると、音楽ジャンルの一つである「Emo(イーモウ)」だと言う説もある。どちらにしろ、意味合い的には『感情が揺さぶられた時や、気持ちをストレートに表現できない時、哀愁を帯びた様、趣がある、グッと来る』などに用いられるとのこと(Wikipedia参照)。私が日本語で表すとしたら『情緒的、叙情的』とでも言えると感じている。
どんな時にエモいと感じるか。一番、分かりやすく身近なのは「懐かしい」と感じる時である。
懐かしい曲を聞く
懐かしい味に出会う
懐かしい景色をみる
懐かしい人と会う
皆さんは、そういう「懐かしい」を感じた時、またはその後、どんな気分になるだろうか。何となく「気分が晴れやかになる」「前向きになる」「スッキリする」そんな気分を味わうことが多いのではないだろうか?
生きている時間が長くなると、もちろん忘れていく過去もあるが、何かのきっかけでその当時の事を思い出し、「懐かしむ機会」が増える。大変かわいそうな話だが、年齢が若ければ若いほど「懐かしむ事柄」が少なく、その機会が少ないだろう。だから「懐かしむ事」は年長者の特権だ。
どうもこの「懐かしむ」事で得られる気分というのは、脳内で『ドーパミン』と言う物質が分泌され活性化されている可能性が高い、と言う研究結果が出てきている。
ドーパミンと言う物質名は、どこかで一度は聞いたことがあると思う。
よく「報酬系」と言う言葉を聞くことがあると思うが、人間が“快”の感覚を味わうと分泌される神経伝達物質の一つで、アルコールを始めとする依存物質を体内に摂取するとドーパミンが“過剰に”活性化されると言われている。
この様に記載すると「ドーパミンは怖い物質」と思われてしまうかもしれないが、ドーパミンそのものは、元々体内で作れる物質で、体内に元々存在するということは、人間として生きていくために必要な物質である。
ドーパミンが活性化されると、幸福感を感じたりやる気を起こしたり、運動機能との関係も密接に関わっているとされており、とても大切な物質の一つである。
そして近年、明らかになりつつあるのは、このドーパミンの活性化が認知症の発症にも関与していること。端的に言うと「エモい」を感じると「認知症の発症を遅らせられる可能性が高い」と言われている。
この話題を目にした時、思い出したことがある。
随分前から、リハビリの世界では「回想療法(回想法)」と言う治療方法が認知症の予防や進行を遅らせる効果があると言われてきている。これは、昔の懐かしい写真や音楽、昔使っていた馴染み深い家庭用品などを見たり、触れたりしながら、昔の経験や思い出を語り合う一種の心理療法で、1960年代にアメリカの精神科医、ロバート・バトラー氏が提唱した。
私の記憶をたどると、「愛知県北名古屋市に回想法センター設立した」と言うニュースを見た。(https://www.city.kitanagoya.lg.jp/fukushi/3000075.php)
私は、帰省するたびに母親に昔話を聞くようにしている。それは、「回想療法」の効果を知っているため意図的に聞くこともあれば、話の流れでそうなることもあるのだが、母がいつも「こんな昔話聞いても面白くないでしょ?」とやや自虐的に言うのだが、私は母にいつまでも元気でいて欲しいと思い、昔話を聞く。
事実、私自身の知らない父の話や、祖父母の話し、母の生い立ちやその頃の生活環境の話を聞くのは大変、興味深く、大変面白い。
年を取れば誰しも物覚えは悪くなり、目は見えづらくなるから文字を読むことを避けるようになり、身体一つ動かすのにも億劫になり、「できなくなること」が増えることで、下手をするとそれだけでも憂鬱な気分にさせたり落ちこませたりするものだ。
しかし、それは誰しもが通る道。行く道である。
いつかは「死」を迎えるのだが、その瞬間まで、ご自身がご自分の人生を後悔せず「こんな人生だったけど良い人生だった」と思えるよう、私達が出来うることをしていきたいと思っている。
それが「昔話をする」と言う「エモい」体験を通して、最後の最後までよい気分でいられるのであれば、喜んで昔話を聞こうではないか。
そして最近、精神的に辛いとかなんだか憂鬱だとか、やる気が出ない、前向きな気持ちになれない、そんな事を感じているのであれば、昔の友人に連絡を取って昔話をしてみてはどうか。
または、昔、住んでいた街を訪れたり、アルバムを開いて昔の写真を見たり、よく聞いていた音楽をもう一度聞き直してみたりしてみてはいかがだろうか。
2023年8月8日火曜日
職場環境の見直しを!!心理的安全性と言う環境評価
近年、働く環境を評価する上で重要視され始めてきているのが「心理的安全性」と言う考え方である。
心理的安全性とは…
ハーバード大学の、アン・マリー・エドモンドソンと言う方がその概念を提唱した。「チームメンバーが、自分の意見やアイディアを自由に言い、リスクを恐れずに行動できる環境」と定義されている。実は1960年代ごろより議論されている古い言葉ではあるが、1999年にアン教授が改めて提唱するようになった。
「心理的安全性が高い」というのは、チームメンバーが自分の失敗や間違いを恐れずに発言することができる状態である。そのため、チーム全体のアイディアやノウハウが共有され、新しい発想や解決策が生まれやすくなり、またメンバーは失敗を恐れずに挑戦できるため、チーム全体の成長やイノベーション(技術革新)が促進される。
この言葉が話題になったのは、2012年に“かの”Google社が、チームの効果性を四半期ごとの売上ノルマ(定量指標)とその要因(定性評価)を組み合わせて調査した結果、『チームの売上に貢献する要素で最も重要なのは心理的安全性であった』と発表したことである。
「心理的安全性が高い・低い」というものは定性的な評価になるので、なかなかご自身の職場や部署がどうであるか、とは言いにくい部分があるかもしれない。また、ある人にとっては心理的安全性が高いと感じていても、ある人にとっては低いというように、評価が分かれる可能性もある。
また、企業や団体で言うと「部署としては心理的安全性が高いけど会社全体では心理的安全性が低い」と言うような、ねじれ現象が起こる可能性がある。部署内では、活発な意見交換や新しいアイディアなどが生まれているが、幹部間ではコミュニケーションがとれておらずせっかく良い提案があっても、そこでは心理的安全性が担保されていないため、結局、企業や団体の成長やイノベーションには結びつかない、などの事例もあるだろう。
部署内のチーム単位
部署単位
組織(企業・会社)単位
それぞれの単位ごとに心理的安全性が高くなければ、効果的ではないと言わざるを得ない。
ではなぜ近年になって「心理的安全性」が注目され始めているかと言うと、その背景には『変化の激しい時代』であり『確実な正確が分からない』と言う現代特有の特徴があるからである、と言う意見がある。
つまり激しく変化し続ける時代に合わせた商品やサービスというのは、同様に変化し続けなければならず、それに呼応するように企業や団体も変化し続けなければならなくなったから、と言うことだ。
面白い例えがある。
「100年間、同じ製法で作られ続けてきたお饅頭屋さんにはその製法を継続して守り続ければ良いのであって、そこには“心理的安全性”は必要なく、職人がその技術を伝え続けばそれで良い」
同じものを同じ様に作り続ける事を継続していくことに心理的安全性は必要なく、ただ、脈々と受け継いでいけば良い。逆に言うと、変化し続けるものに対応するためには、それに見合うアイディアや革新的な技術が必要であり、それを生み出すには個々人の思考や考えだけではなくチームで取り組み、かつそのチームの構成員が各々に意見を持ち寄り、より洗練されたアイディアへと昇華させる必要がある。そのためには「心理的安全性」が必要となる。
しかし、これは医療の現場では、今も昔も、あまり変わらないのではないかと思う。
「医学」の歴史は古く、有名なのは紀元前5世紀頃にギリシアで生まれたヒポクラテスである。彼は“医学の父”とも呼ばれるほどで、医学はかれこれ2500年以上も続いていることになるが、今も昔も、医療に関する技術や理論は日進月歩である。そして、治療技術や診断技術は、いつの時代も研究・議論され、そしてその時代その時代で最先端の知見というものを見出してきている。
その最たるものが『学会』であり『学術集会』『学術大会』である。
私も、お恥ずかしながら医療従事者の末端で、学術集会にはオーディエンスとして参加もしたことあるし、発表者として参加したこともある。そこでは、見知らぬ者同士が、それぞれの知見から意見を出し議論し合う。まさしく「心理的安全性が担保された場」での議論である。
しかしおかしなもので、臨床現場に戻ると途端にその、心理的安全性があやしくなる。
以前、このblog記事「医療の現場で働く事の楽しさと闇」で書いたように、どの医療機関でも「派閥」のようなものがあるのは事実である。そこでは大なり小なり「忖度」があり、本当の意味での「心理的安全性が高い」環境であるとは言い難い。
結局のところ、医療の現場であろうが一般企業であろうが、条件は変わらないのかもしれない。
少し、話題を変えよう。
心理的安全性を構成する要因は4つあると言われており、それは「話しやすさ」「助け合い」「挑戦」「新奇歓迎」である。
前者3つは容易に想像できる単語だが、「新奇歓迎」とはなんぞや?と言うと、
「新奇歓迎とは新しいアイデアや考え方を受け入れ、歓迎する文化や風土」とのこと。
結局のところ、変わり続ける努力と変わり続けることを恐れない態度、そしてそれを良しとする社風や文化、それらが心理的安全性に大きく寄与しているように思えてくる。
どの業界において、でも。
人間は、年齢を重ねるごとに頭が固くなる。私も、そうならないように気を付けているつもりだが、結局のところ、自分自身の経験してきた「成功体験」や「良くない自己肯定感」が邪魔をして、新しいものを受け入れる余地を与えなくなる。
「心理的安全性」というものは、「働く環境の評価基準」のひとつであるが、そこで働く人々の「柔軟性」と「寛容さ」と「向上心」で成り立っているのではないか、と私は考える。
皆さんは、どの様に捉える?
2023年8月7日月曜日
マイノリティ+マイノリティ+マイノリティ…
私が半世紀生きてきて、そしてHIV陽性者となって約20年が経ち、医療や福祉、対人支援に関わるうちに、特に最近強く、思うことがある。
セクシャルマイノリティといえば、私がまだ若かった頃というのは「ゲイ」「レズビアン」「バイセクシャル」と言う、ほぼほぼこの3つの括り(くくり)で語られてきた気がする。
発達障害や知的障害という言葉は「知恵遅れ」「精神遅滞」と言う言葉(現在は差別用語である)で括られていたと思う。
何が言いたいかと言うと、医療の診断技術がすすむことで疾患や障害は細分化され、個人の特性もそれを表現しやすくなったことで、同じような特性を持った者同士が一つの集団を形成することで、さらにそれらも細分化されるようになった。
それが良いか悪いかは別として、結果的に、自己を表現する際に「この面はマイノリティ」「この面はマジョリティ」というように、自分を多角的に捉え(とらえ)そしてそれの組み合わせに広がりを見せるようになった、という現象が起きている。
私は「ゲイ」であり「HIV陽性者」であり「精神障害者」である。
タイトルに書いた通り、マイノリティ+マイノリティ+マイノリティ(トリプルマイノリティ)である。
自己を表現する時、1つのマイノリティ要素を持つ者同志の集団を見つける場合と、3つのマイノリティ要素を持つ者同志の集団を見つける場合とでは、いわずもがな、後者の方がはるかに困難である。
しかも「私は●●というマイノリティです!!」と開示することと「私は●●と〇〇と■■というマイノリティです!!」と開示することとでは、精神心理的な負担は、圧倒的に後者の方が大きい。
ただ、ここまできてしまうと「マイノリティとマジョリティに分けて考える必要があるのか?」と思ってしまうかもしれないが、当事者としては、やはり「マイノリティ」としての自覚があるからこそ感じてしまう周囲との隔たりや、そうさせてしまう社会環境に問題がある限り、そうせざるを得ないのである。
「マイノリティ」がそこに当たり前に存在して、そして「マジョリティ」がそれを理解する世の中になるまで(“受け入れる”と言うところまで求めてしまうのには多大なる時間がかかるだろうから)、必要なことなのである。
「あゝ、そーゆー人もいるよね」と言ってもらえるような世の中になるまで。
今回は、問題提起だけさせて終わりとする。
2023年8月4日金曜日
Z世代を理解する!!「タイパ」と言う価値観
「タイパ」と言う言葉をご存知だろうか?
実は私、1年くらい前から言葉自体は知っていたのだが、その意味を知ったのはつい最近のことである。
「コスパ」と言う言葉は、もう一般的になってきて、意味もご存じの方も多いと思う。「コスト・パフォーマンス」の略語で、日本語で「費用対効果」の意味である。商品やサービスを購入する際に検討される重要な要素の一つである。「コスパが良い」というのは、同じ価格帯の商品やサービスより機能が充実していたり、質の良いサービスが受けられることを言う。
では「タイパ」とは何か。
「タイムパフォーマンス」の略語である。意味的には「コスパ」と同じような意味合いで使われることが多いが、時間に対する効果や満足度を示す言葉だ。「タイパが良い」というのは、同じ時間の使い方であっても、より有意義であったり効率的であったりした際に「タイパが良い」と言う。
その一例が動画配信サービスなどのを「1.2倍速」や「1.5倍速」で鑑賞する、と言う行動である。同じ動画を見る際、通常再生よりも早く見終わることで、その時間を他の時間に充てることができる。実際に、大手動画配信サービスでは、標準で視聴者が再生スピードを選択できるようになっており、それを言い換えればそれらの機能を利用する視聴者が大勢いる、ということだ。
どうやら、そのような価値観や行動は、2010年代後半頃より見られていたと言うが、顕在化してきたのは「今年の新流行語大賞 2022」大賞をとった前後であろう。
実は以前から気になっていた、若者が一般的に行っている行動がある。
それは、「音楽の聞き方」である。
最近は、音楽を聴くのもサブスクが一般的になってきて、安い値段で様々なアーティストの音楽にふれる機会が増えている。しかし「サビの部分まで早送りしそれが終われば次の曲へ飛ばす」と言う聞き方をする若者が増えている、と耳にしたことがある。
音楽が好きな私にとってみたら、もう、驚きでしかない。
音楽(一般的な歌唱曲)というのは、おおよそ以下のような構成になっていることが多い。
イントロ → Aメロ → Bメロ → サビ → 間奏(イントロ) → Aメロ → Bメロ → ブリッジ → サビ → エンディング
もちろん、これだけではなく様々なバリエーションがあるが、おおよそ、このような構成になっていることが多く、ある意味「最後のサビをいかに盛り上げるために聞かせるか」と言う意図もあると思われる。
私が10代~30代の頃、よく聞いていたアーティストの音楽というのは、このような構成であり、時々、いきなりサビから入る曲などもあったが、それは非常に稀で、アーティストの意図がそこには隠されていたと思う。
しかし、最近では「いきなりサビ曲」というのは当たり前になってきたようだ。
優里「ベテルギウス」
ヨルシカ「夜に駆ける」
米津玄師「Lemon」
LiSA「紅蓮華」
Ado「うっせぇわ」
Official髭男dism「Pretender」
King Gnu「白日」
星野源「恋」
嵐「Happiness」
乃木坂46「インフルエンサー」
どの曲も、ヒット曲でみなさんも一度は耳にしたことがあると思う。
実はこれらの曲は、カラオケでも人気のある曲であり「すぐに盛り上がる」という特徴を持つ。
それが良い悪いの話ではない。今は、そういう時代だ、と言うことだが、私には少し、寂しい気がする。
「すぐに盛り上がる」=「ノリが良い」と言い換えることもできるが、先程述べたように、最後のサビを盛り上げるための助走部分や、徐々に気分が高揚してくる感覚というものが、失われていくことが、なんとなく「心の余裕のなさ」というものと比例しているように思えて仕方がない。
「いきなりサビ」がくることで「すぐに盛り上がれる」ということはある意味「タイパが良い」と言うことになる(?極論すぎる?)。
そのような現象が起こっている背景には「無駄な時間を過ごしたくない」「無駄だと思う瞬間を作りたくない」と言う感覚がある、と言われている。つまり「より短い時間で」「より満足度の高い」「時間の過ごし方」を求めているとも言い換えられるが、一方で、「失敗したくないZ世代」と言う捉え方から、「タイパの良いものを求める」行動にはしる、とも言われている。
ここで少し、Z世代について説明したい。
1995年~2012年の間に生まれた世代のことで、インターネットやスマートフォンが普及した時代に育っているため「デジタルネイティブ」とも呼ばれている。社会的な意識が高く、環境問題や社会正義などに関心が高く、グローバルな視野を持っている、とも言われている。そして自分の個性を大切にし、他人と違うことに抵抗がない。などと言われている。
「タイパが良い」=「無駄がない」と言う考え方ではあるが、私は少し寂しさを覚える。
コロナ禍、大学を始めとする学校での講義や授業がオンライン化・オンデマンド化が進み、「動画で講義を受ける」事がごくごく当たり前となった。教える側としては、カメラの向こう側・パソコンの向こう側の様子が分からないため、その“空気感”をつかむために苦労したであろう。一方、受ける学生たちはというと、最初に述べたように「1.2倍速」「1.5倍速」で講義動画の視聴をしていた者も大勢いたと聞く。
何が寂しいかと言うと、教える側の俗に言う「話の脱線」が聞けなくなったことである。
私が高校生時代や大学生時代、教科書通りにしかも教科書に書かれたようにしか進めない講義や授業は、大変、つまらなく感じだものだ。「話の脱線」の中には、それこそ教科書に書かれていない事、例えばその先生の人生観や職業倫理、体験談また勉強方法や覚え方などの、実は「ムダでない知識」が詰まっていて、大変興味深く聞いていた。
Z世代というのは、このような「話の脱線」=「無駄な時間」と捉えているものが多いと聞く。
きっと私は昭和生まれの古い人間だ。
時代の流れ、と言ってしまえばそこまでだが、全てにおいて「タイパ」を求める事が必ずしも良いこととは思えない。
日本の文化の中に「行間を読む」「間を大切にする」と言う感覚がある。そこで養われるものは、実は人間関係を構築していく上で非常に大切な能力なのだと思う時がある。
その「間」を感じた時に、何を考えるのか。一度、皆さんも考えてみていただきたい。
2023年8月3日木曜日
自分自身が持つ価値観へ与える影響(お金の話し)
ご自身が今、あらゆることに対する「価値観」というのは、どこからやってきたのか?
私は、子供の頃から、特に母親からお金の使い方に関して、口酸っぱく言われ続けている(現在も)事がある。
「計画的に使いなさい」「貯金しなさい」「無駄遣いしてはいけません」
私は小学生の間のお小遣いは、1週間に¥100だった。毎週土曜日がお小遣いをもらえる日になっていて、実はその日の午後は、母と姉と従姉妹の4人で習字教室へ通う日だった。習字教室が終るとその¥100を持って、近くの駄菓子屋さんへ駆け込んだものだ。
ちなみに、普段のおやつは毎日、母が用意してくれていて(時には手作りのこともあった)、文具や衣服などは必要時に応じて買ってくれる、と言うシステムになっていた。もちろん姉も、だ。
中学生になると¥1000/月となった。普段のおやつや文具、衣服などは同じようなシステムだったが、中学生にもなるともっと欲しい物が増えた。
好きなアーティストのCD
プラモデル
漫画本
その頃僕は「TM NETWORK」を筆頭に「森高千里」「斉藤由貴」「遊佐三森」「大貫妙子」「中島みゆき」「PSY・S」「渡辺美里」が好きでせめてアルバムだけでも欲しかった。でも、シングルCD¥800、アルバム¥3000くらいの時代。単純計算、アルバム一つ買うのにも3ヶ月はかかる。
プラモデルと漫画本に関しては「聖闘士星矢」が大好きで、不定期ではあったけどプラモデルも発売されてたしもちろん漫画本も発売されていた。プラモデルは確か¥1000くらい、漫画本も¥700くらいだったか。
とにかく僕としては、我慢して我慢して我慢して我慢して、その中のどれかを買うわけだ。
ちなみに高校生になった時は¥3000/月であった。音楽ももちろん大好きだったし、相変わらず「聖闘士星矢」も連載が続き、アニメも放映されて興味が薄れることはなかった。確かに、中学生の頃よりはお小遣いが増えたため買えるものも増えたが、それでも僕は我慢して我慢して我慢して我慢して、その中のどれかを買う。
高校生ともなると友達付き合いも増え、買い食いをしたり寄り道したりすることもある。でも、CDアルバム1枚買ってしまうと、その月はもう、買い食いもできない。
ある時、母親にお小遣いの「賃上げ交渉」をしたことがある。
「CDアルバム1枚買ったらもうその月は何も買えないから、せめて¥5000にして!」と。しかし母は「おねーちゃんもおんなじ値段だったんだからあなたも我慢しなさい」と一蹴され、ケンモホロロ、惨敗だった。
短大に入学し、一人暮らしを始めてからは、アルバイトを始めた。生活費は仕送りだったが、遊ぶお金は自分で稼いでいた。しかし当時、やっと週休二日が普及し始めた頃で、医療短大でのカリキュラムはきつかった。週2日は1~5限目まで、週3日は1~6限目まである状況で、6限目まである時は講義が終ると18時だったから、あまりアルバイトにも時間を割けなかった。
僕は、自宅アパートと短大の中間にあるミスドでバイトをしていた。夜間~深夜の大体4時間がベースで、月に稼げてたのはせいぜい、3~4万円だったと思う。
サークル(バンド)も始めて、音楽機材を買ったり、もちろん友達と遊びに出かけたり呑みに行ったりしていた(ただしバーに呑みに行くときは閉店まで1杯で過ごすという嫌な客だった)。
余談だが、行きつけのマスターが僕がリハビリの学校に通っていると知ってから、営業中に肩揉みをすると1杯ごちそうしてくれた。
短大を卒業して、夜間の福祉大学に入学しそれと同時に就職はしたが日中、理学療法士として働いた収入は、生活費を賄うことが精一杯でボーナスは大学の学費に消えた。
この間は、親に借金することもなく何とかやってこれた。
しかし、この後がいけなかった。
夜間の大学を卒業し、無事に社会福祉士の資格を取り、それまで勤めていた整形外科のクリニックを退職、そして地方都市の市民病院に就職してから「お金に余裕があるってこういうことか!」となんとも言えない開放感を味わった。
新車の車を買った。
飛行機に乗っていく旅行も行った。
ほぼ毎週末はデートだった。
好きな服のブランドも見つけた。
香水も買った。
相変わらず音楽は好きだった。
パソコンも買った。
一応、定期預金も始めた。
民間の健康保険にも入った。
でも、これは通過地点で、以前、僕のblogでも書いた通り僕は「理学療法士+α」の仕事がしたくて、その市民病院で働いている最中に、社会人入試で大学院に進学した。それで定期預金も解約した。また、僕のボーナスは学費に消えた(笑)。
ちょうど、その頃僕はHIVに感染した(27歳)。
だから民間の健康保険も更新手続きはしなかった(当時、HIV感染症患者は適応外だった)。
それがきっかけで(それだけではないけど)転職をし、理学療法士を養成する短期大学で講師として働くことになった(29歳)。もちろん、大学院生を続けながら。博士課程まで進学したけど、実験結果が思うように出ず、在学を2年伸ばしたけど結局、学位は取れなかった。もちろんその伸ばした2年間は、学費を払い続けた。そして僕は短大講師を辞めた(35歳)。
だから、金銭的に本当に余裕があった期間というのは、市民病院で働いていて大学院に進学するまでのほんの数年間である。そして、自分で言うのも変だが、なんだか金銭感覚が人とは違うというか、狂っていたと思う。
母の教えである「計画的に使いなさい」「貯金しなさい」「無駄遣いしてはいけません」と言う「価値観」は十分、理解していたつもりだし必要なことだと思っていた。しかし、実際の行動には伴っていないことが多かった。
夜間の大学に進学するときも大学院に進学するときも「ボーナスをつぎ込めば普段の生活はできる」ということだけで判断し「将来に備える」と言う事はほぼ、念頭になかった。
また、現在に関して言えば双極性障害の影響も多かれ少なかれあると感じている。私は鬱期に入ると過眠・過食の症状に悩まされる。基本的には鬱なので動けないけど食欲は底なし。もちろん料理する気力もなく、ましてや買い物に出かけるなんてもってのほかである。結局は割高なデリバリに頼る。
躁期には「もしもの時に蓄えておく」と言う考えはなくなり、お金はあればあるだけ使うと言う感覚で浪費していた。
しかし母の教えは僕の奥底に根付いているわりには行動は伴っておらず、しかしいつの間にか「お金にだらしないことはとても恥ずかしいこと」と言う認識に変換されていた。そして「お金にだらしない私はダメな人間だ」へと変換されることになる。
人間の価値観というのは、幼少期から成人期にかけ以下のような要因によって形成されると言われている
①家庭環境
②教育
③社会環境
④個人の経験
⑤宗教
…など…
もちろん価値観そのものは、生涯に渡って変化していくものである。
しかし、子どもの頃うけた親からの教育や躾というのは、その人の価値観の奥深く、まるで「棘のある蔦」の様に強くしつこく絡まっていることが多い。その呪縛から開放されるには、その人が成人期に入った時に、どれくらいのインパクトを持ってどの様に何を経験するか(これには社会環境の影響も含む)によって大きく変わってくると考える。
私はこの歳になっても母から聞かされる話がある。
「おとーさんはね、おかーさんと結婚する時、1円も貯金がなかったのよ」
「おねーちゃんは結婚する時〇〇円貯金したの」
「おねーちゃんは子どもたちの学費のために、一人〇〇円ずつ貯金をためたの」
何歳になっても親は親。
でも“子”のほうは、いつの間にか“子”でなくなる。
“子”は親を客観的に評価する“成人”になっていることが多い。
しかし、親の呪縛を振り払うには、並大抵の努力では困難であることも事実である。
2023年8月2日水曜日
私を中核をなすもの(③友人・30代~現在)
本当に必要だから…「泣く」と言う反応「笑う」と言う反応
人は、様々な場面で「泣く」。そして「笑う」。
先回までblogに書いていた「カウンセリングなんて…と思っている方へ」のシリーズの中でも述べてきたが、カタルシス効果を得るために「泣く」こともある。
実は「泣く」ことで『コルチゾール』というストレスホルモンの分泌が抑制され、その代わりに『エンドルフィン』『オキシトシン』と呼ばれる、別名「幸せホルモン」が分泌される。
この「幸せホルモン」であるが、性的接触や抱擁やキスなどのスキンシップをした時、また笑っている時に多く分泌される。言い換えれば“快”の感覚を味わっている時に分泌されるホルモンである。
ここで「ん?」と疑問に思われるかもしれない。
「泣く」ときと「笑う」ときで、同じ「幸せホルモン」が分泌される??
まるで真逆の状況であるかのような時に、同じホルモンが分泌されるというのは、いささか納得がいかない部分かもしれない。
人はどんな場面で「泣く」のだろうか?ご自身の体験を思い返してみていただきたい。
①悲しい時
②怒りを感じた時
③喜びを感じた時
④恐怖を感じた時
⑤過度の緊張状態にある時
⑥助けを求めたい時
…などなど…
③以外の時というのは、できれば避けたい心理状態であり、それが極限まで達すると生命の維持行動(危険から身を守る・逃げる、摂食・排泄行動をするなど)を行えなくなってしまう危険性がある。そのため、そのような心理状態から脱するため、また回復するために「泣く」と言う反応が起こり「幸せホルモン」が分泌されることで、生命の維持行動が行えるような心理状態に導くために働く。
「幸せホルモン」である『オキシトシン』が分泌されるとどのような効果があるかというと…
①愛情や信頼を促進する
②ストレスを軽減する
③痛みを緩和する
④免疫力を高める
⑤記憶力を向上させる
⑥学習能力を向上させる
⑦睡眠の質を向上させる
などがあると言われている。
ここからは私の持論であるが、「泣く」「笑う」両者でも「オキシトシン」は分泌されるが、どのような状況・精神心理状態で「オキシトシン」が分泌されるのかによって、より得られる効果は違うと思われる。
例えば「泣く」時に「オキシトシン」が分泌されると①②③④の効果が、「笑う」時に「オキシトシン」が分泌されると①④⑤⑥⑦の効果が得られるのではないだろうか。
(これはあくまでも持論であってエビデンスはない。経験から想像するに、である。)
ここで一つ心に留めていただきたいことがある。
先にどんな時に「泣く」のかを述べ、次に「泣く」時に分泌される「オキシトシン」の効果について述べた。つまり、「泣く」であろう場面で“泣かない(泣けない)”ということは、本来「泣く」時に得られる「オキシトシン」の効果が、得られなくなってしまうということである。
何を伝えたいか、というと、
『泣きたいと思った時には泣いたほうが良い』
と言うことである。
「泣くことは心の弱い証」「泣くことは恥ずかしいこと」「男は泣いてはいけない」そんな根拠のない言葉に振り回されてはいけない。「泣く」ことは正常な身体の反応で(一部、正常でない場合もあるが)「泣く」こと事態を非難するのはお門違いである。
以前「男が泣いて良いのは産まれた時と親が死んだ時だけ」と言うパワーワードを耳にしたことがあるが、日本人には特に男性が「泣く」ことへの否定的な印象が強いのではないだろうか。
私事ではあるが、50歳を目前にして、異常に涙もろくなった。
「年をとると涙もろくなる」とよく言われるが「じゃあ何故、年をとると涙もろくなる」のか?調べてみたところによると…
①涙腺の機能が低下する
②ストレスや疲労が溜まる
③ホルモンバランスの変化
④一部、薬剤の副作用
と言う理由があるそうだ。
私自身、双極性障害であるため、精神に作用するお薬を服薬しているので、④の影響も大きのかな?と。更に「涙もろくなる副作用をもつお薬」について調べてみると…
①抗うつ薬
②抗アレルギー薬
③高血圧薬
④降圧薬
⑤糖尿病薬
⑥抗凝固薬
⑦抗炎症薬
⑧抗がん剤
⑨ホルモン剤
⑩ステロイド剤
出るわ出るわ!!その多さにびっくりするのであるが、副作用というのは、そのお薬を服薬していて誰しもがかならず出るというものでもないので、これだけの数が挙がるのだと思われる。
しかし…
私は、①④を服薬しており、さらに年齢を加味するとホルモンバランスも崩れているのかもしれない(笑)。
それで精神心理が安定するのであれば、まあ、良しとしよう。
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