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オンラインカウンセリング「勇者の部屋」の産業カウンセラー勝水のブログです。セクシャルマイノリティ(ゲイ)・身体障害者(HIV陽性者)・精神障害者(双極症)の当事者としての目線と、理学療法士・社会福祉士・産業カウンセラーとしての目線で、今まで経験したことや普段考えていることなど、様々な情報発信をしております。

2023年10月1日日曜日

死を考える③父の命日に思う。その2

 「死を考える③父の命日に思う。その1」からの続きです。



父は60歳の半ば頃からうつ病を発症していました。その頃の父の日常というのは、ほぼ自室にこもりきり。部屋から出てくるのは食事・排泄・トイレと、日課のトレーニング。

父は精神科の主治医から運動をすると良いと言うアドバイスを聞き、市のスポーツセンターに、ほぼ毎日のように通っていました。大体、行く時間も決まっていて、夕方の4時頃だったと思います。マシントレーニングとエアロバイクをしておおよそ1時間強、スポーツセンターで過ごし帰宅。そして夕食。そんな流れの中で過ごしていたと記憶しています。

ただ、このルーティンの毎日で、良くも悪くもうつ症状に変化がありませんでした。


うつ病を長く患っていると、顔をみるだけで「あ、この人はうつ病だろうな」と気付くことがあります。


よくあるのが上の図に示した6つのパターンですが、僕がよく見かけるのが「無表情」「ぼんやり」「元気がない」です。

父はもともと話し好きではなかったと思うのですが、もちろん楽しければ笑う事もありました。しかし、うつ病になってからはそれもなくなり、上の図の「元気がない」に該当していました。


そんな父ではあったのですが、認知症と診断された70歳の春頃から様相が変わりだしました。

相変わらずスポーツセンターに行くのですが、スポーツセンターのロッカーの使い方が分からなくなる、と言う症状から始まりました。どうやらスポーツセンターの職員さんに何度も使い方を教わるのですが、一向に覚えられなかったそうです。

次は車の運転ができなくなる。スポーツセンターまで行ったは良いけれど、帰ってこれない。なぜかエンジンがかからない、と。その時は姉の旦那さんが様子を見に行ってくださり、どうやらシフトレバーの位置とキーを回すタイミングが分からなくなったようでした。

そんなことがあったため、スポーツセンターへは母が送り迎えすることになったのですが、運動を終え、母を呼ぶために携帯電話を使うのですが、それが使えなくなる。またスポーツセンターの職員さんに携帯電話の使い方を教えてもらう、などしていたようです。

実はそのスポーツセンターの職員さんの中に姉の同級生の方がいらして、その方から姉にも心配の連絡が入るようになったそうです。

その頃になってそろそろ本格的に「ヤバい」と言う事になり、母からヘルプの電話が入るようになりました。

僕はその頃、離れて暮らしていました。そして上記にあるような出来事は、後から母や姉から聞くことになるのですが、色んな人に迷惑をかけ始めたから何とかしなかれば、と言う事になり、僕は実家のある市の市役所にある「地域包括支援センター」へメールをしました。


僕は、「本人も家族もギリギリになる前に手を打たなければ」と思っていたので、できるだけ早く介護認定を受けてもらい、介護サービスに繋げたほうが良い、と考えていました。メールを出してすぐに地域包括支援センターの主任ケアマネジャーさんから直接お電話いただいたので、父の状況や現在の家族の状況などお伝えし、母に了承をもらった上で「介護認定調査」を受ける算段をすぐにとりました。認定調査当日はもちろん僕も同席し。

父には「介護認定調査」と言うキーワードは使わず「今後のお父さんのために、お父さんの身体の状態を確認しに来る」と言うような説明をした記憶があります。


認定調査の結果、父の要介護度は「要介護1」でした。介護度は、主に認知機能と身体機能の低下がどの程度ありどの程度介助が必要か、また介護力(ご家族などの介護への協力の度合い)などを総合的に見て判断されるのですが、父は足腰は丈夫でしたので主に認知機能の低下に対する評価と介護力である母の状態が反映されていたと思います。母は当時、働いていたのでそれらも考慮されていたのではと思います。

「要介護1」でしたので、実際に介護サービスが受けられることになったのですが、その前にケアマネジャーを探さなければなりません。僕は、インターネットを使って、居宅介護支援事業所を探し、内科クリニックが母体の認知症のグループホームに附属する居宅介護支援事業所を見つけ、もし今後、在宅介護が困難になった時にそちらのグループホームを利用することも出来ないかと見越し、連絡を取りました。

結論から言えば、そちらのケアマネジャーのうちのお一人が父の担当となったのですが、グループホームも入居者がいっぱいで、必ずしも利用できるようになるとは言えない、とのお返事でした。しかし、父は「元気な認知症」なので、身体機能が保たれている間は、それを活かした介護をしてもらいたい、と思っていましたので、とりあえず担当ケアマネジャーさんにその意志だけはお伝えしておきました。


父の認知症の診断が出てから、ケアマネジャーが決まるまで、おおよそ1年位だったと思います。

この父の一件があったことで、母に連絡を取ったり足繁く実家に帰省したりとしていたのですが、正直僕は「早く“誰かが”何とかして欲しい」と思っていました。当時僕は、30代半ば。その頃すでに僕はHIV陽性者であり障害者だったのですが、セクシャリティも含め家族や血縁者には誰にも伝えておらず、「家族と関わること」「実家に帰省すること」それらがとても後ろめたく、どうしても早くこの問題が僕の手から離れて行ってくれることを望んでいました。

薄情なものです。

その「手を離れる」ための手段として「介護認定を受けケアマネがある程度、家族介護に介入してくれる」事を望んでいたのです。

表向きは父や母のため。
でも本心は僕自身が早く楽になりたかったから。


あとは、父の状態と母の様子・希望などを相談しながらケアプランを立ててくれ、ひとまずは「僕の手を離れた」と思いました。

ホッとしました。
これが本音です。


結局父は、2回/週のデイサービスの利用から介護サービスを始めることになりました。

母の仕事は、仕出し弁当などを作り、その他にもお惣菜などを作る仕事をしていたのですが、早朝に出勤しお昼過ぎ頃帰ってくるお仕事でした。母は、起床後、自分の食事をし父の朝食を食卓のテーブルに用意しておいて出勤。デイサービスのある日は、そのお迎えがくる時間に合わせて仕事を中抜けし、父を見送ってから再度出勤。夕方、父がデイサービスから帰ってくる頃は自宅で出迎える、と言うようなサイクルでした。

もちろん、デイサービスのない日は、日中、父を自宅に残して出勤していたのですが、その間、父は何をしていたのか…

母もあまり把握していなかったようですが、テレビを見ているか頻繁に散歩にでかけていたようです。それは、同じ地区に住む人達がよく父が散歩している姿を見ていたようで、もちろん顔見知りだと挨拶もしていたようです。しかし、とんでもないところまで行くことはなく、ありがたいことに毎日、自宅には帰ってきていました。


上の写真は実家周辺の風景なのですが、幸か不幸か道は一本道で、迷いようがなかったかもしれません。それでも必ず家に帰ってきてくれたということは本当に良かったことだと、今では思っています。


僕としては、比較的早めに父の認知症を見抜けていて、投薬もそして介護保険利用も、先手先手を打ってきたつもりです。それを僕は自分を正当化させる言い訳にしてきました。しかし、結局は、認知症は進行していく病気。徐々に父の様相も変わってきました。


相変わらず、足腰は強く転んだりふらついたりすることはなかったのですが、日常生活のあらゆる事に手がかかるようになってきました。

最初はトイレの失敗。
尿意や便意(おしっこやうんちをしたい、と思うこと)はあるようですが、トイレに行って便器に向かって用を足す、という動作が間に合わなくなることが目立ち、リハビリパンツ+パットをすることから始まりました。


その次はお風呂。
ただ、お風呂に関しては、そのトイレの失敗が始まった頃から、母が「キチンと洗えているか心配」とのことで、自宅のお風呂で母が介助しながら入ることになりました。

この段階で「要介護2」となり、デイサービス利用も4回/週に増やしました。基本的に、デイサービスに行った日は、入浴をさせてもらえていたので、その他の日に関しては、母が「可愛そうだから」と、お風呂の介助をしていました。


この頃の僕は、正直、帰省するとこういう現状を目の当たりにし、責任感を感じるとともに現実逃避をしたくなるため、帰省するのは盆正月くらいだったので、帰省のたびに母から話を聞き、励ましながら、しかし逃げるように実家を後にしていました。


そうこうしているうちに、認知症の周辺症状というものが顕著に出だしました。



父の場合は、多動と暴言です。

たまたま、僕が帰省している時に遭遇したのですが、父の中の何かのスイッチが入ると、元気だった頃とはまるで想像が出来ないような言葉や言い方で、母に怒鳴り散らす現場に居合わせたことがあります。僕は、一瞬、フリーズしてしまいました。

感情に任せて僕も強い口調で父を責めるのか
穏やかな口調で父をたしなめるのか

僕は後者をとりました。とりあえずその場は落ち着かせることが出来たのですが、これが毎日続いたら、母がまいってしまう…


そこで僕は、母に「ショートステイ」の利用を勧めました。どうやらケアマネさんからも言われていたそうなのですが、なかなか踏み切れず、僕の強いすすめもあってやっと利用の手続きをしてのですが…

施設にはケアマネさんも同行してくださり、母が運転する車に施設に向かっていたのですが、もうすでに父は普段と違う風景、そして行動に何かしらの異変を察知していたようであまり落ち着きがなかったようです。とりあえず施設に入り、職員さんに付き添われながら案内を始めたところで、そっと母とケアマネさん二人は、施設を出て帰宅することになったのですが…

その帰宅する車中、施設から電話が入り、父が暴れて手がつけられないと連絡が入り…仕方なく、母は連れ帰ってきたそうです。


その話を聞いた時に、僕は「あゝ、これはもう限界だな」と感じました。そして在宅介護を諦め、施設への入所を真剣に検討しだしました。もうその頃には父の介護度は「要介護3」でした。

そして、父が何らかの形で在宅介護から施設介護へ切り替わるまで、僕自身も実家に戻る決意をしました。



そこから僕は実家に戻り、父と母と生活を共にすることとなりました。

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