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オンラインカウンセリング「勇者の部屋」の産業カウンセラー勝水のブログです。セクシャルマイノリティ(ゲイ)・身体障害者(HIV陽性者)・精神障害者(双極症)の当事者としての目線と、理学療法士・社会福祉士・産業カウンセラーとしての目線で、今まで経験したことや普段考えていることなど、様々な情報発信をしております。

2023年10月2日月曜日

死を考える③父の命日に思う。その3

 「死を考える③父の命日に思う。その2」からの続きです。




僕は、当時の仕事を介護辞職し、実家に戻りました。僕は失業保険がもらえるので、最悪1年弱(身体障害者手帳を持っているので)はなんとかなるし、住むところもある。食事もなんとかなると思って。逆に母は当時、色々な理由でその時の仕事を辞めるわけにはいかなかったので、母を支えながら父の介護をする事にしました。

もちろん、施設入所の申し込みもして。
介護老人保健施設(老健)と特別養護老人ホーム(特養)の両方を申し込んだのですが、ケアマネさん曰く「いつになるか分からない」とのことでした。



一緒に暮らして初めて分かったのですが、父はほとんど寝られていない様子でした。
父は1階、僕と母は2階の部屋に寝室があり、僕の部屋は廊下を上がってすぐのため、1階の廊下や玄関の物音がよく聞こえる場所にありました。

父は夜中になると、おそらく1~2時間に1回くらい、寝室とトイレを何度となく往復している足音が聞こえました。それも、寝室の扉を乱暴に開け締めする音、ドンドンと言う足音、そしてブツブツと言う独語(独り言)。

母の寝室は、2階の一番奥にあるため、どうやらその夜中の様子は知らなかったようですが、僕が話しをすると「そうなの…」と少し困ったようなそして寂しそうな顔をしました。


また、ある日のこと。母がお風呂の介助をしていたのですが、浴室から父の怒鳴る声が。そして母の悲しそうな声。どうしてその様な状況になったのかは、全く分かりませんでしたが、とにかく僕は飛んでいって「とーさん、なんでおかーさんを困らせとるの!!」と怒鳴ってしまいました。父は辻褄の合わない理解不能な言葉を並べていましたが、とにかく居間に連れていき「そんな言い方したらおかーさん困ってまうやん。なんでそんな言い方するの?!」それに対して父は、聞き分けの悪い子供のような言い訳をするんです。母に対して不満があるわけではないよだけれども、なんせ強く怒鳴る。僕もどんどんヒートアップしてしまい「とーさん、まー誰も面倒みてくれんくなるよ!」母も「もー知らん!私、出ていくから!!」と。

すると急に父はシュンとなり…「ごめん…」と一言。

こんな日が週に少なくとも1回、多いと一日おきくらいにあったんです。

ある夜、こんな事もありました。
その日は、夕ご飯を食べた後くらいからなんだか様子がおかしくて「健吾、ここってオレの家だよな?」と何度も聞くんです。「そうだよ。ここはおとーさんが生まれ育った家だよ」と説明するのですが、1時間おきくらいに同じ様な質問をされました。僕も根気よく同じ様に説明し、そろそろ寝る時間だからということで、皆で就寝したのですが…
あれは夜中の1時頃だったと思います。
父が何度も部屋を出たり入ったりする音が聞こえてきました。「あゝ、またいつものことか…」と思っていたのですが、いつもと様子が違います。「困った困った…どうやって帰ろう」「ここはどこだ。家に帰りたい」そんな事を何度も何度も言いながら、廊下を往復しているようなのです。
僕は「このまま放置してても落ち着かないだろう」と思い、慌てて外に出る準備をして「おとーさん、家に帰ろうか。僕が車で来とるから。ね」と言って父を外へ誘い出し、僕の車に乗せました。父は「あー良かった良かった。これで家に帰れる。あーよかった」と言いながら僕の運転する車に乗って、30分ほどドライブをして自宅に帰り、父を寝室へ送り届け、何とかその日は朝を迎えることができました。

翌朝、父のいないところで母にその報告をし、「ごめんね。そんな事させちゃって」と謝る母に、「これくらいはなんてことないよ。大丈夫」とは言うものの、これじゃ皆が共倒れになる、そう思っていました。

僕自身、精神疾患を持っているので、僕自身がいつまでもこの状態が維持できるとは思っていなかったし、施設入所する前にダメになる、と思いました。


そんなある日、母がこう提案してきました。「お隣のタカシ(偽名)さんに聞いたんだけど精神科に入院させるっていう方法もあるみたいよ」と。このタカシさん、市役所の高齢福祉課にお勤めされていて、僕らの様子を見かねて提案して下さいました。

僕は、もう、これしかない、と思いました。そして母に、「そうしよう。お父さんには可愛そうだけど…」と言う僕の言葉に、母も納得してくれました。

当時、父は、市民病院の精神科を受診していたのですが、市民病院では精神科での入院はなく、同じ市内にある、とある精神科単科の医療法人の病院があり、そちらへ紹介状を持っていく事になりました。

当初、母は父の入院に積極的ではありませんでした。母は事あるごとに「おとーさんが私の事をちゃんと認識してくれる間は施設とかには入れたくない。可哀想」と言っていたのです。しかし、もうこれは看過できない状況だと僕は判断し、強く入院を推し進めました。


しかし、ふと、ショートステイを利用しようとしたときの事が頭をよぎりました。
また、暴れるんじゃないか…

やはり、病院へ行く最中、父は落ち着きなさげでした。普段なら僕が運転をして母と父は後部座席なのですが、その日は念のため母が運転し、僕が父と二人、後部座席に乗っていました。「何処へ行くの?」「何しに行くの?」何度となく父の問いかけがありました。その度に僕は「おとーさんの身体の状態を詳しく検査しに行くんだよ」「ちゃんとしたお医者さんに診てもらうんんだよ」と言いながら。


初診であったため、2時間位、待っていたと思います。
父も、いつもと違う雰囲気に、なんとなく緊張していたのでしょう。いつもより言葉少なげでした。

そしてやっと診察。とりあえず、親子三人で診察室へ入りました。
その医師は(後から知ったのですがその方、その病院の院長先生)、すでに紹介状を読んでいただいたようで、色々、察して下さっていました。「認知症」と言う言葉を使わず、巧みに僕らから生活状況を聞き出しました。

そこで、院長先生は僕を指差し「こちらはどの様な関係の方ですか?」と父に尋ねました。父は「ん~なんていうか、ご近所さん…かな~親戚の人」と。

このときばかりは、僕もショックを隠せませんでした。自分の息子に向かって「ご近所さん」「親戚の人」そんな認識でいたなんて…しかも短い時間とはいえ、つい最近まで一緒に暮らしてきたのに。

泣きそうになるのを必死にこらえて、診察を見守りました。そして父は看護師さんに連れられ別室へ。院長先生から「入院…ですね。もう大変でしょう?」と。母と僕は我慢しきれずその場で泣いてしまいました。「はい…ありがとうございます。スミマセン。よろしくお願いします」

そして、父はその日のうちにその精神科の病院に入院することが決まりました。


入院のため、色々な検査をその日のうちに行い、母は事務的な手続きに僕は父に付き添い院内を回って、いよいよ入院病棟へ案内されました。

病棟に上がると、男性の看護師さんが出迎えてくださり、父と並んで病棟内の案内を始めました。そこで僕はピンときて、父が看護師さんと先を行くのを見送りながら、そっとそのそばを離れ、病棟を出ました。

病棟の看護師さんには申し訳ないと思いましたが、とにかく父を刺激せずあとは任せよう、と僕は判断し、何も言わず病院を出ました。

後から聞いた話ですが、それから2週間ほどは、かなり荒れていたようです。詳しくは聞きませんでしたが。しかし、1ヶ月もする頃になると、驚くほど穏やかになっていました。面会に行くと、病院への不満も言わず「家に帰りたい」とも言わず「ありがとね。ありがとね」と言っていつも笑顔でいてくれました。

下の写真は入院して2~3ヶ月の頃の写真です。



僕はしばらくして、実家を離れました。
父の介護をすると決め介護離職するタイミングで、自分自身のセクシャリティやHIVのことなど母には話をしてありました。今後、僕自身の健康状態もどうなるか分からなかったし、このまま実家に残るにしても、全てを隠してはおけない、と思ったからです。

父が入院し、介護の必要性がなくなった時、母に「おかーさん、僕、ここ(実家)に残ったほうがいい?」と尋ねました。しかし母は、「病気のこともあるし、田舎にいるより都会に出たほうがあなたは生きやすいでしょう?」と言われ、その言葉に甘える形で、僕は実家から車で1時間半程度の中核都市へ就職し一人暮らしを始めました。

それからは月に一度、父の見舞いと母の一人暮らしの手伝いを兼ねて帰省していました。



しかし、母の苦悩は解消されていなかったのです。

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