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オンラインカウンセリング「勇者の部屋」の産業カウンセラー勝水のブログです。セクシャルマイノリティ(ゲイ)・身体障害者(HIV陽性者)・精神障害者(双極症)の当事者としての目線と、理学療法士・社会福祉士・産業カウンセラーとしての目線で、今まで経験したことや普段考えていることなど、様々な情報発信をしております。

2023年10月3日火曜日

死を考える③父の命日に思う。最終回

今日10月3日は父の命日です。
そして、死を考える③父の命日に思う。その3からの続きです。




僕としては、父を在宅で介護しなくても良くなったことは、自分自身の重荷を下ろすことができ、正直、心の底からホッとしていました。母も、同じ様に言うのですが、時々、迷いがあるようで。

「ねえ、本当にお父さん、病院に預けてよかったのかな?」「もしかしたらもっと家で看てあげることが出来たんじゃないかな」と、こぼすようになりました。それは恐らく、病院に入院し、本当に人が変わったように穏やかになり、そして以前のような父に戻ったと思っていたからだと思います。

しかし僕は、少し厳し目に言っていました。

「お父さんが今、あれだけ穏やかになったのは病院に入院したからだよ。もしかしたら先生がお薬を変えてくれたり何かしらの対応をしてくれたからだとは思うけど、認知症って環境によっても症状の出方が変わるから。おとーさん、家にいたときにあれだけ暴れたり酷いこと言っていたのって、もしかしたら家にいることとかに何か不満や不安を抱えていたのかもしれない。だから、もし今、退院させて家に戻ってきたとしても、病院にいるように穏やかに過ごすことが出来ないかもしれないんだよ」そう言って、母を納得?説得?させていました。

今思えば、医療従事者として満点の答えだったと思います。
しかし、息子としてはある意味「冷酷」な言い方だったかも知れません。

僕の言ったことは「穏やかに安心して過ごせるはずの自宅にいるほうが父には負担」「自宅で介護されることに不満」だと言っているようなものです。その時、母は何も言いませんでしたが。多分、僕が「医療従事者だから」きっと僕の言う事が正しいんだ、と自分自身に言い聞かせていたのかも知れません。正直、今でも母にはその当時の気持を聞いたことがありませんし、今後も僕からは聞くことはないと思います。

しかし1年後、思いもよらぬ惨事が起こりました。
そう、新型コロナウイルスの感染爆発です。

父の入院している病院でも、感染症対策のため、病棟への面会はできなくなりました。もともと母は、週に2度、父の着替えの洗濯ものを取りに行っており、その度に父と面会をして帰ってきていました。もちろん僕も月に1回、帰省する時には必ず面会をしていたのですが、それもできなくなりました。下の写真はその面会ができなくなる直前くらいのものです。


3ヶ月位でしたでしょうか。全く面会が出来なかったのは。
そして、短時間であれば面会もできるようになった頃、主治医からお話しがあるとの連絡があり、母と一緒に主治医とお話しをする機会がありました。

面会ができなくなった頃から、父は誤嚥性肺炎を繰り返したようです。
そして、経口摂取(口から食べ物を食べること)が危険だと判断し、持続点滴(24時間ずっと点滴をすること)に切り替え、お楽しみ程度のおやつだけ許可している、と言うお話しでした。

いよいよ来たか。そう僕は思いました。
一応、僕は主治医に確認しました。「先生は胃ろうについてはどうお考えですか?」と。「おすすめはしません」と。僕も同感でした。仕事柄、胃ろうを行っている患者様をみてきましたが、今の父には胃ろうの適応になるとは到底、思えませんでした。「はい。分かりました」と僕は言うしかありませんでした。



母は、ただただ黙っていました。
その時の母の気持ちを聞いたことがないのですが、その後「ね~、ST(言語聴覚士)さんが訓練すれば良くなることはないの?」と聞かれた事があります。僕は「良くなる見込みがあれば(訓練を)すると思う」と言う答えしか言えませんでした。事実、脳血管障害などの摂食障害にはSTの訓練による効果は高いと思っていたけど、認知症による摂食障害に、STによる介入というのは、機能回復と言うよりこれ以上の誤嚥を防ぐと言う意味合いが大きいと思っていたし、この先、父の認知機能の低下が予測される中でどれだけの効果が望めるか、いち理学療法士として、希望的観測で判断はできない、と思っていました。

下の写真は、久しぶりに面会できたときのものです。


それから、母から「本当に、病院に入院させてよかったのか…」と何度も電話が入るようになりました。僕はその都度、何度も「あのまま自宅で介護していたら皆、潰れていたよ」「おかーさんもつらいって、言ってたじゃん」そんな言葉を繰り返していたのですが、ある時、あまりにも同じ話をする母に対して「何度言ったら分かるの!!」とつい喧嘩腰に電話を切ってしまいました。
正直、僕も我慢の限界でした。母は父の介護のことに関しての相談というのは、周囲のひとに漏らすことなく、ほとんど僕にだけ相談をしていたのです(後から知ったのですが)。僕も、自分自身に後ろめたさがあるため、母にそのような相談を何度もされることが苦痛でつらくて、思わず強い口調で拒絶してしまいました。そこで姉に連絡をとり、僕一人では母を支えきれないこと、姉からも連絡をとって母の話を聞いてあげて欲しい事を伝えました。

しばらく母からの連絡はありませんでした。
そして僕はいつもの様に、月に一度の帰省は続けていました。


経口摂取出来ていた頃は、病棟内を自由に歩き回っていた父でしたが、やはり点滴と栄養補助食品だけでは、元気になりようがありません。どんどん痩せていきとうとう、ベッドに寝たきりとなりました。

しかし父は、僕がお見舞いに行くたびに「やっとかめやな!元気にしとるか?」と口癖の様に言うのです。それが僕には辛かった。父自身、口から食べることもできなくなり衰弱していく一方の状況のなか、息子である僕の心配をしている…もしかしたら父は「お腹へったな」「何か食べさせてくれ」と思っていたかも知れない。しかし、そんな事は一言も言いませんでした。

いつもは、月に一回の帰省の時のお見舞いがルーティンでしたが、その日は何故か、母には内緒でお見舞いに行こう、と思いました。僕は手元に古いアルバムを持っており、その中には昔の家族写真や父のご兄弟の写った写真もあり、それを見せてあげたい、何故かそう思い車を走らせました。

父の入院する病院に着き、病棟の看護師さんから「コロナがあるので15分程度で」と念押しされ、父のベッドのそばで行くといつものように「おお!やっとかめやな。元気でやっとるか?」と。僕は元気だという事を告げ、「今日はおとーさんに見せたいものがあって持ってきた」と言って数枚の写真を見せました。すると父は「おお!これ兄貴やな!へー」と。父のお兄さんを写真の中に見つけてとても嬉しそうに見ていました。しかし15分というのはあっという間です。僕は二人の写真をスマホで撮ると(上の写真)また来ることを告げ、病院を後にしました。

それが父と交わした最後の会話になりました。

その2週間後の日曜日の午前中。
僕は友人とランチをする約束をしていたので、いそいそと準備をし車に乗り込んだところで母から電話。

「おとーさん、危ないみたい。私も今から病院に行くけど…」
「!!うん。分かった。おねーちゃんには電話した?」
「ううん。今から」
「じゃあおねーちゃんに電話してくれる?僕、準備が出来たら向かうわ。」
「うん。ありがとう。お願いね」

とりあえず、そのまま友人宅に向かい、カクカクシカジカ。ごめん!と言って自宅に引き返し、とりあえず数日分の着替えと常備薬を持って、父の入院している病院に向かいました。

道中、どんな事を考えていたのか全く覚えていません。

夕方前に病院に着き、病室に案内されると、一足先に着いていた母が父の横たわるベッドの横に佇んでいた。父は目を閉じていて、枕元にはモニターが。

僕はもちろん、そのモニターが何を示しているのかを理解していたし、父は目を閉じてはいたが「生きて」いました。
程なくして姉も義兄とともに駆けつけました。

いわゆる「危篤」の状態でした。

まだ、いつどうなるかは分からないけれども、ここ数日でその日がやってくるのは見て取れました。面会時間いっぱいいっぱい(夕方の17時)まで皆で父の周りを取り囲んでいましたが、様態はかわらなかったためそのまま僕とは母は実家へ、姉は嫁ぎ先へ帰りました。

途中、父の兄弟に連絡するかどうか母に相談され、伯父(父の兄)には連絡することにし電話を入れました。伯母(父の姉)は遠方に住んでおり高齢でかつ身体が不自由であったため、今は連絡しないことにしました。

程なくして伯父から電話があり、明日、見舞いに行く、と。高速バスで行くから途中まで迎えに来てほしいとの事で、僕が車で出迎えることにしました。

翌日、父の状態は変わらず。本当に眠ってるようでした。
午後になり、伯父夫婦が来てくれたので迎えに行きました。伯父は父の名前を呼び、とても悲しそうな目をしていました。
その日も、夕方までいたのですが、様態が変わらなかったため、皆、それぞれの家へ引き返しました。伯父夫婦は僕の実家に泊まっていかれました。

翌日、僕は伯父に、
「おじさん、せっかく来てもらって何なんだけど、おとーさんもう長くないと思う。もしかしたらとんぼ返りになるかもしれんけど…」
「うんうん。分かっとるよ。そのつもりで来とるから」
「ありがとうございます…その時はよろしくお願いします」

その日、伯父夫婦はまた、高速バスで帰っていきました。
僕は伯父夫婦を送るついでに自宅に一度戻り、喪服などの準備と着替えを取りに行きました。父が危篤となってから初めて自宅に帰り、一晩泊まったのですが、枕元にスマホを置き、いつでも電話に出られる状態にしていたのですが、ほとんど眠れず夜明けを迎えました。その夜は、スマホが鳴ることはありませんでした。

実家に戻り、二日ほどしたある日の朝、実家の宅電がなりました。
母が出たのですが「おとーさん、血圧が下がっとるって」と。
胸の鼓動が止まりませんでした。姉に連絡し僕は母を車に乗せ病院に向かいました。

病院に到着した頃、父は持ち直し枕元のモニターも安定した数値を示していました。
その日はその後、何もなく一日が終わりました。

翌日、正直、少し僕は疲れが出てきました。いつその時がくるのかわからないという、連日の緊張感。夜も寝ているんだか起きているんだかはっきりしないような曖昧な感覚。ずっとアドレナリンが出ている感覚。

流石にその日は少し休みたく、昼食を母と姉と3人で摂った後、僕は一人車の中でうたた寝していました。すこし休んでスッキリし、病室に戻りました。

しかし、モニターの示す値は明らかに違っていました。
この時ばかりは自分が医療従事者であることを恨みました。

徐々に心拍は弱まっていき
徐々にサチュレーションは低下し
呼吸は浅く
心電図の間隔がひろがっていく

それが何を示しているのか、いち早く僕は察知してしまい、一人涙ぐんでいました。
それに気付いた母や姉は、「おとーさん!!」と泣き叫びながら父の身体に触れていました。

そして数分後。

父は、僕ら家族に見守られながら、静かに、本当に静かに、そして眠るように召されていきました。


10月3日 15:15 享年78歳



親の死に目に会えるというのは、今の時代、とても稀なことだと思います。

父は、危篤になってから6日間、静かに静かに僕らを待っていてくれたんだと思います。そして最後の最後まで、僕らに悔いが残ってはいけないと、家族が揃うのを待って、そして旅立ったのだと思います。


父が他界してこんなにも時間が経っているのに、まだ、僕の中では答えが出ません。

あれで良かったのか。
これが正解だったのか。

父が認知症と診断されて亡くなるまで、丸六年でした。それを誰かに話しをすると「長生きしたね」と言ってくださいます。

しかしそれが良いことなのかそれもと誤りなのか、僕には分かりません。




もし今、父に聞けるものなら「どうして欲しかった?」と聞きたい。
でもそれは永遠にできません。

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