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オンラインカウンセリング「勇者の部屋」の産業カウンセラー勝水のブログです。セクシャルマイノリティ(ゲイ)・身体障害者(HIV陽性者)・精神障害者(双極性障害)の当事者としての目線と、理学療法士・社会福祉士・産業カウンセラーとしての目線で、今まで経験したことや普段考えていることなど、様々な情報発信をしております。

2023年12月30日土曜日

2023年(令和5年)大変お世話になりました。

 2023年も残すところわずかとなりました。

ボクにとっては激動の一年間でありまして(笑)。この一年を通してボクは自分の進むべき道、進みたい道を模索しながら、歩んできました。

その一年を少しだけ振り返りたいと思います。


一月
まだ、前職の医療機関で働いていました。前月の十二月に「コロナ後遺症」と言うことで一ヶ月休職しており、新年とともに復職でした。昨年は一年を通じて、メンタル不調が原因で休職と復職を繰り返しており、正直、この復職にも、全く自信がありませんでした。

仕事は量・質ともに減らしていただいたのですが、それはありがたくもあり寂しくもあり。どんどん、仕事に対するやる気は失せていくのがわかりました。

そんな中、産業カウンセラーの筆記試験が下旬にあり、そちらの勉強も並行して行っていました。


二月
メンタル絶不調(笑)その頃はもう、職場にボクの居場所はなくて、話しかけてくれる同僚も殆どおらず、職場でのボクの評価は底をついたと思いました。そう認識したときから、この職場にはもう居たくないしボクは必要とされていないと思った瞬間から、一気にメンタルダウンしました。それがきっかけで中旬から休職しました。


三月
休職中に、元の職場に戻ることはボクにとっても同僚たちにとっても職場としても、なんの利点もない、と考え休職中に退職届を出し、前職を退職しました。ただ、現在のオンラインカウンセリングを個人事業主としてやっていこう、と言う思いは、二月に産業カウンセラーの筆記試験合格の通知を受け取っていたので、この頃からその構想が、現実に近づいていきました。


四月
とにかくお金がない!退職金もすぐ入らない、休職中の休職手当もすぐ入らない、しかも新型コロナに感染したことやその後の後遺症での休職が、労災扱いになるとのことで、手続きに時間がかかり、本当にお金がなかった。

ちょうど、失業保険の手続きのために訪れたハローワークにPSWさんの相談窓口があったため、すぐにそちらに相談したところ、名古屋市の公的機関二箇所を紹介してもらいました。

ひとつは障害者の就労や生活全般をサポートしてくれるところ、もう一つは障害者に限らず生活全般に困っている方への生活をサポートしてくれるところ。後者のサポートセンターでは、フードバンクサービスを利用させて頂き、2~3週間分の食料を頂きました。また、名古屋市の制度を紹介して頂き、3ヶ月分の家賃補助を受ける手続きもしました。

障害者就労支援センターでは、障害年金の相談や、ボクがやりたいと思っているオンラインカウンセリングの仕事へのアドバイス、副職へのアドバイスなどして頂きました。


五月
失業保険も給付され、また、滞っていた休職手当や労災金がもらえるようになり、少しずつ生活が立ち直っていきました。副業探しも本格的に始め、また、起業に関しても少しずつ自分なりに勉強を始めました。

また、前職中に在職中にボクは、多額の借金を作ってしまいました。それは双極性障害の影響もあり、金銭感覚が麻痺してしまっていたこともあります。そのため弁護士さんを紹介していただいて、「個人再生」の手続きを始めました。

この頃、ぷれいす東京のオンラインPGMを知ることができ、そこに参加することでボクは少しずつ自分の居場所を、見つけられるようになり、精神的にも安定してきました。


六月
副業は何社か受けたのですが全て不採用。不採用の連絡が来るたびに「自分の人格まで否定されているような感覚」に陥ることもあり、少し波もありました。また、ネットで起業するということで、愛知県が個人で起業する人向けへの相談事業を行っている場所へ行き、アドバイスを受けようとお話を聞いたのですが、ボクが過去に起こした不祥事がまだ尾を引きずっていることが分かり、酷く落ち込んでしまいました。


七月
ネット上に残っていたボクの「デジタルタトゥー」に対して対処し、改めてオンラインカウンセリングの事業について具体性を持って活動を始めました。本当は、副業が決まるまで待とうと思っていたのですが、副業が決まるのがいつになるのか、見通しが立たなかったため、先に自分の事業を開始しました。この「勇者の部屋」をプレ・オープンしたのもこの頃です。そして、ロゴの作成を依頼したり、プロフィール用写真撮影の段取りをしたり、というのがこの頃です。

そしてサイトも僕自身の手作りで全て始めました。


八月
オンラインカウンセリングをプレ・オープンし、五名の方と関わらせていただくことが出来ました。これはボクにとって、とてもとても大きな収穫であり、自信へと繋がりました。また、引き続き副職探しもしていたのですが、全く上手く行きませんでした。でも、自分がやりたいと心から思っていることが、何とかやって行けそうかも、と思ううちに、心も安定し、何事も前向きに取り組めるようになったのもこの頃です。


九月
満を持して「勇者の部屋」グランドオープンしました。ボクは心理職としての横のつながりを持っていませんでしたし、ビジネスとして成り立たせるための集客という概念が、ほとんどなく、もう勢いで始めてしまったところもあります(笑)しかし不思議と「何とかなる」と思っていました。その一つが、自分自信が過去にNGOの立ち上げや運営に携わった過去があり、なんとなくその経験が活かされそうだと思っていたからです。

並行して、JaNP+からのスピーカー派遣の依頼もあり、そちらのお仕事もさせてもらい、静岡まで講演のために足を運びました。数年ぶりのスピーカー活動であり珍しく緊張もしておりましたが「今回も引き受けて本当に良かった」と思える経験をさせて頂きました。


十月
グランドオープン後、有料サービスを開始し初めてのクライエントからの申込がありました。嬉しかったです。本当に。反面「心理カウンセリングをして対価を頂く」と言う事が初めての経験であったため、とても緊張もしましたし、何より、どなたのセッションでも自分への気付きが得られ、心豊かに成長していける、そんな感覚になっていました。

また、JaNP+のスピーカー派遣の依頼も受け、初めて厚生労働省という国の機関でお話をさせて頂くという、貴重な体験をさせて頂きました。いつも以上に緊張した覚えがありますが、とにかく本当によい経験になりました(後日、ご報告致します)。



十一月
プライベートでは、障害年金の申請を始めました。昨年九月に初回の申請をしたのですが、今回は、再申請するということで1年間待ち、社労士の先生のご指導のもと、精神科の主治医と連絡を取り合い、必要なサービスを利用しながら書類を作成していきました。

一方で、オンラインカウンセリングには、コンスタントにご利用して頂ける方がいてくださり、想定以上の経験をさせて頂きました。時には心悩ませることもあり、自分の力不足や不甲斐なさを感じることもありましたが、もっと経験を積んでもっと高みを目指したい!とも思える月でした。

また『RED RIBBON LIVE NAGOYA 2023』でHIV陽性者の当事者として登壇させて頂き、非常に短い時間でしたが、ボクの思いを伝えることが出来たと同時に、名古屋市の市の職員の方々と面識を持つことができた、貴重な機会となりました。




十二月
「パラちゃんねるカフェ」にてコラムライターとして出発しました。この一年、HIV陽性者であることを開示し活動を続ける中で、「偏見や差別は終わっていない」と肌身で感じる機会がたくさんあり、このコラムライターと言う仕事を通じて、HIV感染症だけでなく精神障害やセクシャルマイノリティと言う『マイノリティ要素』に対する偏見差別の解消に、ボクなりになにかできれば、ととても感じた1ヶ月でした。

それは『エイズ文化フォーラム in 名古屋 2023』に参加させて頂いた事も大きく影響しています。




もちろん引き続き、オンラインカウンセリングも行わせて頂き、クライエント様の問題が解決し終結を迎えても『勝水さんに定期的に話を聞いて欲しい』とご希望される方も何名かいらっしゃる事が、とてもありがたいし嬉しい思いでいます。

一方で『メンタル不調を抱えるゲイ・バイセクシャル男性のためのオンラインPGM』『メンタル不調を抱える対人援助職者・感情労働者のためのオンラインPGM』を企画し、始動し始めたところです。これは来年への課題として引き続き注力したいと思っています。



何事もそうですが『0から1にする力』というのは、非常に大変です。しかし幸か不幸かボクは『0から0.3くらいにする』ことから徐々に出力を上げて今は『0から0.6くらい』にやっとなってきたところかな~と思っていて、ある意味、無理のない範囲でやってこれました。来年は『0を1』にできるよう、残りの0.4をできるだけ早く埋めていきたいな~と、個人的には思っています。

ものすごく駆け足で2023年を振り返りましたが、ボクは要所要所で言葉にしてきました、「今のボクは皆さんの支援の元、成り立っています」と。本当に関わってくださった全ての方に感謝しかありません。どの方お一人欠けても今ボクは、ここに存在していなかったと思います。たくさんの『縁』で繋がりその繋がりが『線』になり活動を広げていくことで『面』へと発展し、もう少しで『立体』へと形作られる、一歩手前まで来ています。

今後、ボク自身が精進し、また皆様からのご支援を賜ることで『立体』が『多面体』になれたらとても素晴らしい何かが生まれると思っております。



今年一年、本当にありがとうございました。

ありがとう以上の感謝の言葉を皆様に贈りたいと思います。

2023年12月26日火曜日

緊急提言!市販薬をオーバードーズする若者の報道に思う(自死に関する記述あり!閲覧注意!)

最近、テレビのニュースやワイドショー、週刊誌を賑やかしている『市販薬をオーバードーズ(以下、OD)する若者』に関する報道を見聞きし、どうしても看過できないと思い筆を執りました。



つい数日前での報道では、小学生も救急車で搬送されたとか…

この問題の本質はどこにあるだろうか?ボクなりに様々な視点から考察してみた。


①一般的な依存症と一線を引く必要がある。

様々な見解があり、意見の分かれるところかもしれないけど、一般的に『(物質による)依存症』と言うと、違法薬物・アルコール・タバコ・処方薬などが挙げられます。様々な〝依存物質〟を体内に入れ、その薬理効果を体験することになります。

その効果は、精神的依存や身体的依存として表現されますが、例えば普段では得られない快感を味わったり、気分がスッキリしたり、逆に感覚を麻痺させたり、思考を鈍麻させたりする体験をすると思います。

また、その薬理効果が切れた時の反動を、精神的や身体的に味わうとも言われ、それから逃れるために再び摂取する、それを繰り返していくうちにその物質を摂取しなければ生活が成り立たなくなるほどに依存してしまう、と言うものです。

これは依存症者全員に当てはまるかどうかは分かりませんが『死を選ぶためにその手段をとる』と言うよりも『死ぬほどつらいけど死にたいわけじゃない。だけど現実の苦しみを少しでも和らげたい』そんな思いで、依存物質を体内に入れるのではないのかな~と思っているんです。

でも、この市販薬をODする人たちは、『自ら死を選ぼうとしている』ように思えて仕方がないんです。


②市販薬は誰でも手軽に手に入る

『自ら死を選ぶ方法』というのは、日常的に転がっています。

刃物一つあれば良い。
ロープ一つあれば良い。
高いところへ登れば良い。

非常に簡単にその方法を手に入れることが出来ますが、人はできるだけ苦痛を味わいたくない、と言うわがままな生き物です。そのため『より苦しくない方法』を選びがちなのでは、と個人的には思っています。

先日、名古屋大学で開催された「こころの絆創膏セミナー 2023」で基調講演されたピエール・ヴィダイエ先生のお話の中で、「日本では練炭自殺の報道があってから一気に自死者が増えた」と言う、歴史的なお話を聞きました。

ボク自身は体験したことがないので分からないのですが、練炭自殺と言うのはあまり苦しまない方法だと聞きます。また、今はなくなりましたが、睡眠薬を多量に摂取する服毒自殺も、〝眠るように〟と聞いたことがあります。

何が言いたいかと言うと、今の日本ではODに必要な市販薬というのはかなり簡単に手に入り、それほど高価なものではありません。もちろんどれくらいの量を摂取するかにもよりますが。そして、アルコールと違って購入時に年齢制限も関係ない。違法薬物と違って街のいたるところで売っている。そう言う市販薬を使い『一時的にも楽になれる』なら、と思うとその手段を試してみたくなるのは、ある意味、仕方のないことなのかもしれません。


③だからこそODの裏側に隠されたバックグラウンドに目を向けるべき

以下はNHKの公式サイトから引っ張ってきた情報です。

■ODする年齢と性差
平均年齢は25.8歳で、男女別では女性が79.5%と8割近くを占め、男性が20.5%でした。
■職業
職業別では、学生が33.6%と最も多く、次いでフルタイムで働く人が26.2%、アルバイト・パートが16.4%などとなっていて、7割あまりが家族と同居していました。

これはボクの印象なのですが、〝リストカット〟する人や〝食べ吐き〟する人と同じ様な傾向にあると思います。


④報道上の注意。ウェルテル効果を考えて!

ウェルテル効果とは…
マスメディアの報道に影響されて自殺が増える事象を指します。この言葉は、1774年にドイツの文豪ゲーテが発表した代表作「若きウェルテルの悩み」に由来しています。同書の出版後、主人公をまねて同様の方法で自殺する若者が相次いだことに由来し、報道に影響されて自殺者が増える現象を指します。





フロイトは『デストルドー』と言う概念を提唱しています。

これは、精神分析学用語で、死へ向かおうとする欲動のことです。フロイトが1920年代に導入した概念で、死の神であるタナトスの神話に由来する、と言われています。

死というのは、人にとって、ある種の魅惑的な側面を持っていると思います。簡単に言えば「死ねば楽になれる」とか「死ねば何も考えずに済む」など、誰でもその様な感覚というか思想を大なり小なり持っていると思います。

その引き金を引くのは、実はほんの些細なことであったりする人もいますし、そうでない人もいます。けれど「自ら死を選ぶ選択」と言うのは、誰しもが知っている方法で、人によってはその選択肢を選ぶことは『非常に簡単だ』と思っている人もいます。

そこで注意していただきたいのが『ウェルテル効果に配慮した報道の仕方』です。
例えば、『どんなモノを』『どれくらいの量』『どこで手に入れ』『どの様な場所で』など、具体的な自死の方法を明確にして報道しない、と言うことと、自死を称賛するような、また美徳化するような価値観を付け加えることを、絶対にしてほしくないのです。


『自ら死を選ぶ選択』というのは悲劇しか産みません。
「死にたい」と思えるほど苦しい気持ちを抑える必要はありませんし、むしろそれは適切な支援者と共有すべきことですが、必ず誰かが手を差し伸べてくれると信じてほしいのです。



あなたの身代わりにはなれませんが、あなたに寄り添うことはできます。





2023年12月22日金曜日

そろそろ本当の話しましょう(精神疾患)その③

 「そろそろ本当の話しましょう(精神疾患)その②」からの続きです。




ボクは大学院博士課程に進学しました。そしてあまり納得していない(笑)研究内容で実験も開始しました。

博士課程での実験では、細胞培養を行う実験だったのですが、もちろんそんな実験、したこともないし、しているところを間近で見たこともないし。大学院のキャンパスは、もともとボクが在学していた医療短大のキャンパスにあって、しかも校舎も同じ建物。けれど、設備や部屋の割り振りも変わっていたし、医療短大時代には細胞培養なんてやる、教授陣もおらへんかったからね~。

とにかく、初めてづくしの大学院生活。不安『しか』ありませんでした(笑)。


職場は職場で、短大として稼働し始めました。

前回のblogでは「3年生の学年担当をしていた」と言うところをお話しましたが、今度はそのまま「1年生の学年担当」になりました(笑)。それは色々な大人な事情があるのですが、前回もお伝えした通り、1年生は短大生なのですが2・3年生は専門学生なんです。で、ボクは『短大の専任教員』で『専門学校の非常勤講師』と言う扱いになってるんですわ。その開学の時。なので、必然的に1年生担当に。

1年生って本当に大変(笑)

入学式があって、その後のオリエンテーション。履修登録の仕方や学内での生活、様々な施設や設備の使い方から、図書館の案内、試験や追試、休校案内や補講案内。とにかく、学校生活のありとあらゆる説明を、学年担当が行うという…もちろん、事務の人も担当する部分もあるのですが、基本、学年担当の仕事。

「学生のしおり」的なものや「履修のしおり」的なものはありますが、「は~い。これ全部読んでおいて、コレに記入して〇〇日までに提出ね~」ではいかんのんですわ。1から10まで説明して、質問があれば答え。

そして健康診断や、外部講師への挨拶(一年生は一般教養や基礎科目が多いので必然的に外部講師の講義が多いんです)。


そうそう、この仕事に就いて初めて職場から『名刺を支給』されましてん。ちょっと嬉しかったな~。臨床現場で働いている時って、あまり名刺交換する場はなかったんですけど、時々、外部講師に呼ばれたり学術集会(学会)に参加するとそういう場があって、手製の(自宅でパソコンで作るヤツ)名刺を配ってた。


それでですね、1年生は通年、忙しいんです。ピークは学期初めと終わりですが。

ただ、それに加えて3年生は臨床実習に出ています。何をするかと言うと、各教員に実習先への電話での挨拶と実習生の学習フォロー、実習地訪問もしなくちゃいけないんです。実習生を直接、指導していただいている臨床の理学療法士の先生とコンタクトを取って、ある程度の信頼関係を築いておかないと、学生に問題があった時に協業してフォローしなければなりません。それを考えるととても大切なやり取りなのですが、いかんせん気を使う(笑)。こちら(学校サイド)としては、実習生を『受け入れてもらっている』と言う立場。先方は『実習生を受け入れて指導してあげている』立場。こういう構図が成り立っている以上、どうしてもボクらは低頭でいくしかありません。

なかなか、対等な立場にならないな~というのは、ボクが臨床に戻ってからも感じていましたし、ボクは問題のある学生が実習にきて指導することになった時には、積極的に学校の先生と連絡を取り合っていましたが…


話を戻します。

そんなふうにドタバタと、専門学校の教員として入職し4年が過ぎた頃でしょうか。仕事そのものもそうでしたし、大学院での実験も思うようにデータが取れず、そのため在学中に論文を仕上げ学位を取れる見込みがなかったため留年を決意し、プライベートでも当時お付き合いしていた人と遠距離恋愛になったことで不仲になり、どんどん糸が絡み合うようにボクの心を蝕み始めました。


そんなボクがメンタルダウンを経験する一番のきっかけになった出来事があります。

それは短期大学の一期生が3年生に進級し臨床実習へ行っている時の事でした。
ある学生が行っていた実習先でのことです。その学生の実習先である医療機関は「実習指導者が厳しい」ことで有名な実習先でした。ただ、以前にその医療機関で実習を行った学生に話を聞くと、それは『厳しい』のではなく『理不尽』であるとの事でした。

実習先で学生が何に対して理不尽さを感じることが多いかと言うと
・指導者がその日の気分で指導内容にムラがある。
・直接指導してくれる指導者の意見と、他の職員とで意見が食い違い、学生が板挟み。
・実習に関係ない業務の手伝いをさせる。
・就業後、何時間も拘束して指導なのか説教なのか分からない時間を過ごさせる。
そんなところでしょうか。

ボクは実習地訪問をする際、必ず初めに実習指導者と2者で面談をして、実習の進み具合や学生の良いところ悪いところなどをまずお聞きし、その後、実習生と2者で面談をし事実確認や、勉強の進め方や実習態度へのアドバイスなどをし、最後に指導者も交え3者で面談をし申し合わせた上で終わり、とする流れで行っていました。


その実習先に訪問する際、ある程度覚悟はしていました。また、その医療機関で実習をしている学生は、学力としてはそこそこあり、態度面なども良好でそれほど心配していなかったのですが、一応〝鬼門〟的な実習地だったので、それなりに〝構えて〟は行きました。

最初の、指導者との面談。
案の定、とてもとても〝重箱の隅をつつくような〟細かい、しかもそれを実習生に求めるのか?と思ってしまうようなレベルの高いモノを要求しているのが分かりました。一通り、お話をお伺いして、学生本人と話をさせてもらうと、やはり色々と苦慮しているようでした。

少し涙目になって、学生自身、努力している気持ちも伝わりましたし、提出物などを見ても問題ないように思いました。また、学生からは「先生によって言うことが違うから誰の言う事を聞いたら良いのかわからない。A先生の言う通りにしたらB先生には叱られるし、B先生の言う事を聞いたらA先生には怒られるし…」

正直、ボクはこの学生をどう支援すれば良いのか、指導者にどう伝えれば良いのか分かりませんでした。

いや、分かっていたんです。

学生に対しては「ボクから先生方にキチンと説明してお願いする」と伝え、実習指導者に「学生に求めるレベルが高すぎる」「指導者によって指導内容が違うから学生が困惑している」そういう事を伝えるべきだったのです。

ボクは、それが出来ませんでした。


じゃあ、ボクはどうしたか。
学生には「頑張って先生に付いて行こう!」と。
指導者には「今までどおりお願いします」と。

ボクはこの事実を、誰にも相談しませんでした。
ハッキリ言って、自分で取った行動に対して、ボクはとてもとても大きな後悔をしていました。そしてボクがどんな行動を取るべきだったのか、そう言う相談をしなかった事に対しても、です。


幸か不幸か、その学生は何とかその医療機関での実習を乗り切ってくれたのですが、ボクはその学生に対して、本当に申し訳ないと言う気持ちと、毅然とした態度が取れなかった自分に対して、腹が立つやら情けないやら、とにかく自分を責め続けました。



そんな時でしょうか。

ある朝、目覚めた時に、何故かボクは泣いていました。後から後から涙が出てきて止まりませんでした。

そしてなぜかこう思ったのです。


「もう、終わりだ」

「消えてなくなりたい」

「ボクは価値のない人間だ」

「怖い…生きていくのが怖い」


出勤しなければならない時間になっても、何一つ準備できずベッドの中でうずくまって、泣きながら、頭の中はグルグルと同じ様な事ばかり考えていました。

その一方で「あ、コレが鬱の始まりなんだ」と、どこか冷静にボクを見ている自分もいました。


少し、時間を空けてとにかく上司に、抑うつ状態だと思うのでしばらく休みますと、泣きながら手短に電話し、ひとまず、報告だけしました。



ここからボクの長い長い、精神疾患・精神障害とのモノガタリが始まりました。


2023年12月20日水曜日

そろそろ本当の話しましょう(精神疾患)その②

 「そろそろ本当の話しましょう(精神疾患)その①」からの続きです。



ボクが専門学校に入職して2年目。
学年担当していたクラスが3年生に進級すると同時に、ボクも学年担当3年生になりました。

それでね、3年生はもう、臨床実習と国家試験対策だけの学年だったの。だから、3年生に進級する時は、いわゆる「進級試験」っていのがあるん。これがまた、大変で(笑)

進級試験は筆記試験と実技試験があるんやけど、筆記試験は試験をまた作らなあかんし採点せなあかん。実技試験は教員が模擬患者をして、学生が初期対応と評価項目の抽出と簡単な検査測定をしてもらうんやけど、まーー手がかかる(笑)。


ちなみにですね、『〇〇実習』と名の付く学内実習には、必ずレポート課題がありましてん。もちろんそのレポートを40人分、全て読んで評価をつけなあかんのんですわ。ボクは『〇〇実習』と名の付くレポート課題のある講義を2つ持っていたので、そこそこの仕事量でした。

定期試験に関しても、筆記試験の採点というのは「5択問題」「2択問題」ならなんも大変なことはないんでが「〇〇について述べよ」的ないわゆる『記述問題』という試験問題の採点は、本当に大変。〝最低限、この事は書いてくれてないと〟みたいな基準は自分の中にあるんだけど、ソレ以外は他の学生の出来具合とバランスを見ながら、みたいな「相対評価」にしないと、どーにもこーにも。


話を戻します(笑)

進級試験と並行して臨床実習地の割り振り。

学生一人ひとりの居住地と実習地をニラメッコしながら、パズルを当てはめていくようにあーでもないこーでもないと、頭を悩ます。だって、40人おるんよ!しかも臨床実習、3期あるからそれぞれ3箇所ずつ。通学(通勤)方法とか時間とか色々考慮しながら、だから。


そしてそしてもう一つ、学校として大きな動きがあって。

それは専門学校から短期大学(医療短大)へ移行すると言う決定がなされたんよね。

どういうことかと言うと、その時ボクが学年担当していた学生たちが卒業すると同時に、本来なら専門学生の1年生が入学してくるのですが、短期大学として開校すると、その子達は短期大学の1年生(1期生)として入学してくることになるんです。

ですので、色々とシステム的なものとか物理的な設備だとかはもちろん、ボクら教員の実績だとかそんなものも必要だったり、てんやわんや。

もちろん、事務的な事とかは上司や事務の方々が手を尽くされていたけれど、委員会を設置したり学内の工事が入ったり。

「過渡期ってこういうんだなあ~」なんて思ってたけど、正直、少し学生も可愛そうだなって思った。それは特に、専門学生の最後の入学生たち。専門学生の最後の入学生が2年生に進級した時の1年生というのは、短期大学の1年生なんだよ。つまり専門学生の2年性は留年が出来ない。それはもう、その専門学校は『無いことになっている』から。

あーややこし~

専門学校と短期大学が並行して存在している期間が2年あるってこと。

それはそれは、色んな意味で労力を要することだったんだよ。詳しくは書かんけど(笑)


そしてボクの博士課程への進学。

大学院の学生をした経験のある方なら分かると思うんだけど、基本、大学院って研究するところなんよね。講義を受けたり実習をしたりっていうのは、一部あるけれど、研究しそれを論文にまとめる。ボクの進学した大学院博士課程では、英語の医学雑誌に論文を投稿してそれがアクセプト(採用)されないと、学内の論文審査にも回してくれない、とても厳しい大学院だったから(笑)もう、自信なんでこれっぽっちもなかった。

ほんと。これっぽっちも。

じゃあ、なんで博士課程に進学したかっって?それは、短期大学の教員をするなら、もっと言うなら、これから先『医学系の専門課程の教員をしていくのであれば必須条件』だったんですよ。

そしてもう一つ、自信がなかったポイント。

論文にする研究内容に、あまり納得がいっていなかった(笑)。もっと言うと、ボクがやりたいと思っていた実験研究ではない方向性で研究することになった。

指導してくださる教官は、修士課程でお世話になった教官と同じ指導教官だったんだけど、ボクの提案した実験研究のアイディアでは、英語医学雑誌にアクセプトされないだろう、と言う見解だったんだよね。

いや、そこでボクがゴリ押しすればよかったんだよ。今思えば。
でも、それができないのがボクの欠点で…


そんなこんなで、ボクはどんどん色んなものを抱え込んで、かつ、何となく色んなことが腑に落ちないまま過ごすことが多くなっていたのが、この頃からかな~と思っております。

これは言い訳ではなくて、こーゆーのって『誰かが』とか『誰の』とか特定の人とか出来事だけが悪者になるのではなくて、色々な事が重なって、事態は良くない方向へ向かっていくんだと思う。



それにボクは双極性障害。

うつ病と違って、高ストレス負荷状態は発症のきっかけにはなると思うけど、根本的な原因ではないと言われているからさ。

この頃はまだ、ボクは大丈夫だった(笑)メンタルは、ね。

次回、『そろそろ本当の話しましょう(精神疾患)その③』では、いよいよメンタルダウンの経験についてお伝えできればと思っています。





2023年12月19日火曜日

そろそろ本当の話しましょう(精神疾患)その①

 先日、ボクのblog「理学療法士であったと言うトラウマ(ボクの場合)」で少しお伝えしましたが、ボクが理学療法士として働く中で、メンタルダウンを繰り返し、それが原因で一種の〝トラウマ〟になってしまったことはお伝えしました。

HIV感染症については、「そろそろ本当の話をしましょう(HIV)」として全6シリーズで、感染初期から療養生活の始まりについてお伝えしましたので、同じように、ボクのマイノリティ要素の一つである「精神障害者」の部分を開示したいと思います。




HIV陽性告知を受けてから、時々ではあったのですが、入眠困難(寝付きが悪い)事があったので、HIV診療の主治医に相談したところ、睡眠導入剤を処方していただき、週に2~3回程度、そのお薬を使っていました。

2005年春、ボクは念願であった『理学療法士養成校(専門学校)の教員』になることができました。

実はその専門学校には、ボクも以前から面識のあった2学年上の医療短大時代の先輩が勤務していたこともあり、また、ボクの医療短大時代の恩師が非常勤講師として勤務していた関係もあって、すぐにその専門学校で教鞭をとることを決め、採用されました。

入職するおおよそ半年前なので2004年の秋頃の話です。

早速、担当科目を割り振られ、8科目担当することになりました。そのうち講義が3科目、学内実習が3科目あり(残り2つは卒業研究指導や臨床実習指導)、もちろんその全ての科目が4月から一斉にスタートするわけではないので、少しずつ準備すればよいのですが、基本的に4月に学生に配布される『履修要項』には、講義の進め方やいつどんな内容の講義をするのか、また実習に関しても同様な記載が必要でしたので、ある程度の準備は4月までに間に合うように準備する必要がありました。


担当科目が決まり、教科書の選定も行った上でボクは、大忙しで講義資料の作成に取り掛かりました。もちろん当時はまだ、臨床で働いていましたし、大学院にも通学し自分の実験研究も行っていて、ま~~~~~~~~~~~目まぐるしい(笑)。

平日は、仕事と大学院・研究で、週末は講義資料の作成に時間を費やしていました。

本当に自分の時間はなかったのですが、とても充実していました。

大学院の講義は大変、興味深いものばかりでしたし、実験もその成果が出ると喜ばしい。講義資料作成も、どうやったら学生さんたちに分かりやすく、かつ楽しく勉強してもらえるだろうか、どんな工夫や仕掛けをすれば、食いついてくれるか、もちろん講義内容も大事ですが、ボクはどちらかと言うと前者の事にとてもエネルギーを費やしていました。

その丁度1年前にはボクはHIV陽性告知を受けていましたが、それがある意味原動力となり、念願の理学療法士養成校の教員になれる!そう思えば、全てが楽しく思えていました。


2005年、春。

本当に、本当に心機一転。転居もし気持ちも新たに専門学校の教員としてスタートしたボク。〝対、患者様〟から〝対、学生〟になったわけです。

ボクが入職した専門学校は、理学療法学科と作業療法学科の2学科だけの、全3学年の専門学校で、各学科とも1学年40名定員でした。

ボクが学生だった医療短大と言うのは、一学年20名だったので、正直、少したじろいだことを覚えています。そして何と、入職してすぐ『2年生の学年担当』を仰せつかりまして(笑)。自分の講義や大学院の講義・実験だけでもまーまーの仕事量だったのに加えて『学年担当』!!

これは後から分かったことなのですが、2年生が一番、学年担当としての仕事は少なく精神的負担も少ない学年でした。と言うのも、学内の講義や実習のみで、学外とのやり取りや特別な行事ごともコレと言ってなかったのですが…

教員の仕事は、講義だけしていれば良い、と言う時代ではなく、学生の生活指導や学習指導も教員が行っていたため、ボクは2年生全員の生活状況や学習状況を把握しなければならず、しかもその2年生が1年生だった頃の様子などは全くわからない状況で、アタフタアタフタ(笑)。

上司からは「学期初めと終わりに一人ずつ面談して欲しい」との指示があったので、学生の時間割や自分の講義の合間を縫って、一人ひとりと面談をしました。今風で言うと〝1 on 1〟ですよ。しかも40名強と。

ボク自身が医療短大の学生時代、そのようなことは一度もなかったので、かなり驚きでした。





それでもボクは、学生一人ひとりとちゃんと向き合いたいと思っていましたので、「学生の困った」にはそれなりに対応していた、と思います(笑)。まあ、初年度ですし、力配分も分からず、全てに全力を注いでいたのは事実でした。

けれど、楽しかった。

誰かに何かを教える、っていう事はそれだけ自分も勉強しなきゃいけないことだし、臨床で働いていたときとは違って、自分が知りたいと思ったことに対して、時間を惜しみなく使える。それがとても楽しかった(笑)

そろそろ本当の話しをしましょう(HIV)その⑤」でお伝えした通り、教員になって1年目に、大阪での長期講習会に参加しHIV治療に関しては、いよいよ投薬が始まって、副作用に悩まされたり帯状発疹になったりと、体調的にはあまり良くなかった。けれど、臨床で働いているときよりも、比較的時間に融通がきいたので、何とかやってこれました。


2年生が3年生に進級すると同時に、ボクは博士課程への進学が決まり、これがまた、さらに大変な時期を迎えるわけです。



それについては「そろそろ本当の話しましょう(精神疾患)その②」でお伝えします。







2023年12月18日月曜日

自分は自分②自分らしさ、その人らしさって、どこからやってくるの?

2015年9月に国連で、SDGs(Sustainable Development Goals:持続可能な開発目標)が国際社会共通の目標として採択されてからでしょうか。世間はどこもかしこも「多様性」「ダイバシティ」で溢れかえっていますね(笑)。

そこで今回は、「多様性」や「ダイバシティ」の根幹と言ってもいい「自分らしさ」「その人らしさ」言い換えれば「個性」について考えていきたいと思います。



個性とは…
個人または個体・個物に備わった、そのもの特有の性質。個人性。パーソナリティー。
[類語]
パーソナリティー・特質・特性・性格・性質・性向・性情・気質・質・質たち・性しょう・性分しょうぶん・気性きしょう・気立て・人柄・心柄(こころがら)・心根(こころね)・心性(しんせい)・品性・資性・資質・人格・キャラクター


類語の中に「パーソナリティー」とありますが、「パーソナリティー」と言う言葉は、心理学的に少し、意味合いを持った言葉です。そこから少し深掘りしてみましょう。



ボクが「産業カウンセラー養成講座」で学んだ際に使わていたテキストの中に、『パーソナリティ』についてこのような記述があります。

オルポートは、パーソナリティを「個人の環境への個別性のある適応を決定する心理ー身体的な諸々のシステムからなる、個人の中の力動的組織」と定義している〟

〝パーソナリティとは、人間を構成するさまざまな心理・身体的な要素そのものではなく、それらを統括する上位のシステムである〟


ナンノコッチャ?!ですよね(笑)
つまり…『人間の行動や判断のもとになる考え方や傾向のこと』なのです。

じゃあこのパーソナリティというものは、どのような要素で成り立っているか、と言うと、①基本的傾向性 ②特有的適応 ③自己概念 ④客観的生育史 ⑤外的影響因 この5つから成り立っていると言われています。それを一つづつ、噛み砕いてみましょう。




①基本的傾向性
ビッグファイブ理論では、人の性格は「外向性」「誠実性」「調和性」「開放性」「神経質的傾向」の5つの因子から成り立つとされています。


②特有的適応
習慣、態度、スキル、役割、対人関係などを指します。これらは個人個人が持つ能力の一つで、絶えず変化する社会環境に個人を適応させたり調和させたりするのに役立つものです。

③自己概念
自己概念とは「自分をどんなふうに自分という存在を捉えているか」と言うことで、自分の内面にある性格や能力、身体的特徴、行動や個人の特徴などに関することで、比較的永続した自分の考えも含まれます。幼児期から青年期の間に最も成長するともいわれています。また、自分自身を他者と比較することによって、自身の意見や能力を評価し、自己を定義づけていくものです。

④客観的生育史
生育歴とは、その人が生まれてから今日までの歴史です。つまり、どんな環境で生まれ育ち、どんなエピソードを経て、今に至るのか、というひとりひとりのストーリーです。

⑤外的影響因
上記以外の要因、例えば薬物による影響や脳や精神疾患などによる影響のことを指します。



『①基本的傾向性』ではその人の性格を5つの観点から分類しようとする方法を取っていますが、②~⑥に関しては千差万別・多種多様・十人十色であり、誰一人として同じモノを持った人はいないですよね。

もともと『個性』というものは『生まれ持った遺伝的要素』と『成長する過程で獲得していくもの』があると言われていて、どちらがどの程度大きく影響しているか、と言うのは色々と言われているのですが、『遺伝的要素が30~50%』と心理学的には言われています。

そして上の③や④でも言っているように、幼児期から青年期にかけてどのような環境で育ったのかとか、どのような経験をしてきたのか、両親からどのようなしつけを受けてきたのかなどが大きく関わっていると言われていますが、何歳になっても如何ようにも変化しうるものです。


人はとかく『何かに分類する』とか『何かに共通性を見出す』とか、そういう事をしたがります(笑)それは性格であったりパーソナリティであったりするわけですが、なぜ、その様な事をしようとするのでしょうか。

諸説ありますが、「あの人はこーゆー人」「あの人はあーゆー人」と分類することで、例えばその人の行動予測がたてられますよね?そうすることで『安心感』を得ようとします。

一方で自己診断する場合も同じです。「自分はどんな人間なんだろう」「自分の持っている“特性”ってなんだろう」と考えた時に、案外、自分では分かりづらいものです。そういった疑問や不安を解消し、また、それを行うことで「自分を他人に説明する時に役立つ」と考えているからです。


はっきり言ってしまえば、人は一人として同じ人はいません。しかし「こーゆー“傾向”」「あーゆー“傾向”」と言う分類は可能だと思います。しかし、人にはその“傾向”だけでは説明できないモノを持っています。



ボクはそれを『個性』と呼ぶのだと思います。

分類できない人とは違うものが『自分らしさ』ではないでしょうか?



2023年12月14日木曜日

そろそろ本当の話しをしましょう(HIV)番外編:臨床心理士さんが発表した学会抄録を検証する!

 以前、『そろそろ本当の話しをしましょう(HIV)』として全6回にわたり、ボクがHIVに感染したと思われる行為から陽性告知、診療、心理カウンセリング、自助会の参加、NGOの立ち上げなどのお話をさせていただきました。

その中で『そろそろ本当の話しをしましょう(HIV)その④』で話題にしました、臨床心理士のKさんが日本エイズ学会で、ボクのケースを症例報告したい、と言うお話をお伝えしましたが、ふと思い立って「Google Scalar」で検索したんです。そしたら、その抄録を見つけてしまって(笑)




前述のblogを書いたときには、この学会の抄録をキチンと検索せず、ボクのうろ覚えでタイトルなどを書いたのですが、ちゃんとしたタイトルが分かりました。

一応、公にされているものなのですが、当時のボクのプライバシーを考慮し、個人が特定できない状態で記載されているので、あえて詳しくは書きませんが…

ただ、blog内でも書きましたが、Kさんとの出会いがあったからボクは心理職をやりたい、と思うきっかけになった経緯もあるので、少しだけ、かいつまんでお伝えしたいと思います。


と言うのも、心理カウンセリングの勉強をした今だからこそ分かる、Kさんがなぜ、ボクのケースを学会で発表したいと申し出たのか、その理由がわかったからです。


事例の冒頭で…
〝保健所の陽性告知を経て初診となった。その間、自らHIV感染症の情報収集を行った経緯があり、感染事実を冷静に受け止めていると言う主治医の報告があった。〟


もう、その通り(笑)読んでて笑った。
blog内でも書いたけど、ボク自身が医療従事者だしネットで色々調べたってあったでしょ?まあ、主治医にしてみれば「感染事実を冷静に受け止めている」と言う印象だったんだろうね~。そしてボクも「冷静に受け止めている“風”」を装っていたし。


〝職場の同僚への告知とその反応、心の揺れ、未治療状態であることへの患者としての不全感、新たに出会った人への告知と受容拒否、漫然とした不安や孤独感が吐露された。〟


そうそう。そうなの。『心の揺れ』『患者としての不全感』『受容拒否』『漫然とした不安や孤独感』難しい言葉で羅列されているように思うけど、今、ボクがこの文章を読むと「そうそう!そんな感じ!」って思う。当時のボクの、気持ちや心を、的確かつ端的に言い表されとる。やっぱすごいわ~Kさん!!


〝そこには、他者受容による自己受容を求める姿があった。〟


今振り返ってみて思うのは、確かに「HIV陽性者のボクを受け入れて!」と周りの人に求めていたんだと思う。という事は、周りの人が受け入れてくれないと、ボクという存在意義がなくなってしまうような感覚と、「周りが受け入れてくれるから自分も受け入れよう」みたいな感覚だったんかな~と思う。


〝そして、自身に存在するHIVへの偏見差別が明らかになり、この偏見差別が様々な心理的葛藤を生じさせていることが判明した〟


ボクが心理的に回復するきっかけなんだと思う。ボクがHIV感染症に対する偏見差別があったからこそ、自分自身がHIV陽性者であるということを受け入れられなかった。だから、どんなに周りの人が「HIV陽性者の勝水さん」を受け入れてくれてたとしても、ボク自身が「HIV陽性者であるボク」を受け入れられなかったから、苦しかったんだろうな…


〝患者会にも参加する中で他の感染者の価値観を学び、一方、非感染者との繋がりをも広げる姿勢を維持し、内在化する偏見差別を乗り越える営みを続けていった〟


ボクってスバラシイ(笑)「HIV陽性者であるボク」を受け入れられないからと言って、自分の殻に閉じこもらず、患者会に参加したり仕事でもプライベートでも、色んな人との関わりを断つことなく、生活を続けていったんだよな。


〝CO(カウンセラー)との緩やかな繋がりが語りの場を保証する事となり、語ることが内在化する偏見差別への気付きを導いたと考えられる〟


ここに『心理カウンセリングの真義』があるような気がするんだよね。ボクのblog『心理カウンセリングを受ける人に知っていてほしいこと②答えはクライエントが持っている』でもお伝えした通り、結局、答えはボク自身が持っていて、“心理カウンセリング”と言う安全な場所で語ることで、気付きがあった…もうコレしかないと思うんですよ。本当に。


〝語ることで自己確認・自己変容が可能となり、さらに患者会等と通じて多様な価値観に触れることで自己の価値観に対する内省的検証の機会を得ることとなった〟


たかが『語り』されど『語り』。
そして多様な価値観との触れ合いで、自分の中にある『自分の物差しが正しいのかどうか』『そもそも物差しなんて必要なのかどうか』そういう自問自答の機会が増え、それがボクという人間の、成長の一助になったのだと思う。本当に。




今回は文章だけでごめんない。

ボクが受けた心理カウンセリングの概要を、心理職となったボクが振り返るというのは、非常に珍しいケースだと思うし、ボクもこういう機会が出来たことに、すごくすごくすご~~~く、嬉しい。

そして、この様に記録に残してくれた臨床心理士のKさんに、お礼が言いたい。

本当に本当にありがとうございます。


2023年12月13日水曜日

理学療法士であったと言うトラウマ(ボクの場合)

 ボクは長く、理学療法士として医療機関に勤務していました。しかしメンタルダウンを機に、医療機関に勤め理学療法士として働くことに対し、徐々に自信を失っていきました。

前職を退職してから約1年近くがたった今、先日、HIV診療のために感染症内科のクリニックを受診した際、ボクは急に、言葉には出来ない「恐怖心」を覚えました。



自分自身の診察が終わり、採血なども終わっってお会計を待つ間、他に来院された患者さんとともに、待合の長椅子に座っていた時のことです。

眼の前に座られていた患者さんのもとに看護師さんがやってきて、看護師さんがしゃがんで患者さんとやり取りしているのを見ていた時に、不意に自分自身がその看護師さんと一体化するような感覚に襲われました。

詳しく書くと、「ああ、昔はボクもああやって患者さんとやり取りしていたな~」と思い出した途端に、前職で勤めていた医療機関での思い出が、走馬灯の様に思い出されたのです。そして、前職で勤めていた医療機関だけでなく、今まで勤めてきたクリニックや病院、教育機関などで経験してきたこと、携わってきた患者さん、学生さん、様々なことが本当に一瞬の間に、頭の中を駆け巡りました。

そしてなぜか「怖い」と思い、思わず目をそむけてしまいました。


ボクが初めてメンタルダウンを経験したのは32歳の頃だったと思います。当時は教育機関である、理学療法士の養成校の教員をしていました。その教育機関を退職してから、主に医療機関に勤務していたのですが、精神疾患が原因で休職や復職を繰り返しており、その都度、強い罪悪感・自責の念・申し訳無さというものを強く強く感じながら、過ごしてきました。

対人援助職であり、患者様にリハビリーション医療を提供し、初めて対価を得られる仕事であると同時に、チームで動くため同僚以外の職種など多くの人と関わらなければならない仕事です。

ボクが仕事のできない状態になることによって、多くの人に迷惑をかけてしまい、それが重なれば重なるほど、信用を失い、どんどん自己肯定感が低くなっていきました。



自己肯定感が低くなると自尊感情がなくなります。

自己肯定感とは「ありのままの自分を肯定する感覚」のことで、自尊感情とは「自分には存在する価値があると言う感覚」のことです。

とにかく、どんどん自分に自信が持てなくなり、自分は理学療法士として存在意義があるのか?ちゃんと患者さんの役に立っているのか?と言う考えから、どんどんエスカレートし、この世に自分という人間が存在する意味があるのか?意義があるのか?と言う疑問の答えが「NO」としか言えなくなるのです。

ここまでくると病的ですよね(笑)自分でも思います。


前職を退職する時、実は休職期間中に何度も自死することを考えました。本当に何度も。

その部分に関しては当サイトのブログ「うつ病や双極性障害の自殺(“死”に関する記述あり要注意)」でも記載しましたのでそちらをご参照下さい。

最終的には、自死することを思いとどまるのですが、ボクにとっては「理学療法士として働く」事に対する思い出には、どうしても「負の感情」がついて回るのです。


ボクは理学療法士という仕事が好き(でした)。患者様との触れ合いももちろん、自分自身の技術力が向上し、どんな疾患や障害に対しても自分なりの答えをもって臨むことができるようになると、本当に楽しくまた、理学療法の奥深さも更に実感していたのですが、いつの間にやら「大好きであった仕事」が「できれば関わりたくない仕事」になってしまいました。

もちろんそれには、精神障害(精神疾患)があったからだとは思いますが…


前述した通り、先日のボクのHIV診療の際に感じた「恐怖心」というのは、一種のトラウマだと思います。


「そんな大げさな!」と思うかもしれませんが、理学療法士免許を取得して現在で27年が経ちます。その期間の全てが負の思い出ではありませんが、その要所要所で辛い経験をしていく中で、理学療法士という仕事をするに良い影響を与えず、辛い経験が「タダの辛い経験」として蓄積してしまったのでしょう。


ただし!(ここは強調しておきます)
これまでの経験が全て無駄だったのかと言うと、それは断じてありません!

患者様、お一人お一人から教えていただいたこと、教え子一人ひとりに伝えたこと、それらは今の自分の血となり肉となり、それが統合されて「産業カウンセラー」「心理カウンセラー」と言う心理職としての『ボク』に大きな知識と経験を与えてくれていると思っています。

職種は変わりましたが、対人援助職にはかわりありません。

ボクも懲りないですね(笑)

でも、ある意味、この心理職というのは、ボクの職業人生の集大成だと思っています。



この先、何年生きられるかは分かりません。
しかし、生涯現役を目指し、邁進したいと考えております。





2023年12月7日木曜日

HIV陽性者に対する偏見・差別を解消させる方法・ちょー持論

 これまで「HIV陽性者に対する偏見・差別はなぜ起こる?」として3回のシリーズで、ボクの一方的な持論で、医学的側面・社会福祉学的側面・心理学的側面からお伝えしてきました。



もちろん、ボクは当事者として、今の現状に満足しているわけではありません。

では、どの様にして現状を打破していかなければならないか…

その一つは、正しい情報を発信し続けること。当たり前のことではあるけれど、これはマスメディアの果たす役割が大きいと思っていて。先日も、とあるネットニュースに『エイズウィルス』と言うパワーワードを見つけて、ビックリするやらガッカリするやら(笑)。

確かに「HIV感染症」と言う病名で一般的な人はピンとこないんだろうな~とは予想がつくけれども、だからといって“ありもしないウィルスの名前”を堂々と使用することに、腹立たしさも覚えました。

そして、医療機関やNGO・NPOの方々、もちろん当事者であるボクらも正しく、そしてありのままの情報を発信し続けることが重要だと思っています。


もう一つは「HIV陽性者に対する偏見・差別はなぜ起こる?その③」の「心理学的側面」でもお伝えしましたが、『人間は思考ではなく感情で行動する生き物である』と言うところに着眼して考えられること。

それは、『当事者が生の声をリアリティを持って人々に届ける事』だと思います。

『リアリティの二重性』でもお伝えしましたが、メディアで伝えられる情報というのは、いくら正しい情報であっても、“心に響かない”んです。

ボクは長年、JaNP+の派遣スピーカーとして活動してきました。

派遣スピーカーと言うのは、事務局にHIV陽性者の当事者の話しを聞きたいという依頼がいただいた際に、20人弱いる登録派遣スピーカーがその依頼に応じて講演させて頂く活動です。

ボク自身も今までにおおよそ10講演程度、関わらせていただいてきたけれど、そのほとんどで「当事者の声を聞けたことに対する肯定的な感想」を頂いています。これは正に「感情に訴えかけるうってつけの方法である」とボクは思っています。

眼の前で、当事者が経験してきたこと、感じてきたこと、考えたことを切々とオーディエンスに訴えかけながら語るのだから、それはもう『本物のリアリティ』であるわけで、メディアから受け取るのとはインパクトも違うし、まさに『自分事』として受け止めてもらえる事ができるんだと思っています。

これは少し酷な言い方かもしれませんが、HIV陽性者自身がもっと大きな声をあげて訴えかける必用もあると思うところもあるんです。当事者が「偏見・差別が怖いから」と言って何も言わず影を潜めて、まるで自分は“そうでないかのように”そこに存在しているのにも関わらず「分かってくれない」「理解してくれない」と思っていたり考えていたりするというのは、いささか、わがままな様な気がしてならないんです。

ボクは、再三お伝えしてきているますが、「誰が悪い」と言う責任論で片付けられる話ではなくて、関わる人達皆の問題だと思っています。だから当事者も変わる必用があるのでは、と思っています。



このシリーズを締めくくるにあたって、長年、HIV/エイズ診療に携わり、大きな貢献をされてきた、医師の内海 眞氏が、1997年に『明日の臨床』と言う雑誌に寄稿された『HIV感染症と日常診療‐米国における日常診療の紹介‐』と言うタイトルの総論から引用させていただきたいと思います。非常に古い文献ではあるけれど、とても感慨深い言葉で締めくくられているので、それを紹介して終わりにしたいと思います。



おわりに
2回にわたる米国でのAIDS医療の研修を通して、多くのことを学ぶことが出来た。その中でも最大の収穫は、AIDS患者を特別視することから脱却したことである。特別視する理由には二つの点が挙げられる。一つは、HIV感染症が致死的感染症であるために患者を危険視してしまう点であり、もう一つは、感染経路が性的接触や麻薬の使用によるため、患者に対し道徳的判断を下してしまう点である。(中略)実際のところ、これまで私は医師であるからにはAIDS医療に取り組む義務があるとは考えていたものの、心の隅ではAIDS患者は道徳的に問題があるし、AIDSに罹患したのも自業自得の面があると考えていた。端的に言えば、内心では患者を差別していた。しかし、米国では、やがて来るであろう死を前にしても、多くのAIDS患者やHIV感染者は明るく真剣に生きていたし、他の患者を思いやる心には感動すら覚えた。(中略)これらの人々の精神の崇高さに比較し、道徳的判断を下している自分の貧しさが痛感された時、上述の差別意識は解消してしまったのである。(後略)



ボク自身、内海先生には何度もお会いしお話をさせていただいたこともあり、そのお人柄を知っている身としては、内海先生がこんな事を考えておられたなんて信じられないくらいの思いでした。



皆さんは、何を感じますか?

2023年12月6日水曜日

HIV陽性者に対する偏見・差別はなぜ起こる?その③

 HIV陽性者に対する偏見・差別はなぜ起こる?その②からの続きです。

初回は医学的側面から、前回は社会福祉学的側面から、今回は心理学的側面から考えてみたいと思います。


①集団心理(同調行動)

社会は、個人が集まることで形成されていますが、社会とは単なる個人の総和ではありません。個々人が集まると、一人ひとりのときには生じ得なかったような、態度や振る舞いが生じることが知られています。

アッシュと言う人の有名な実験があります。それがどんな実験であったかを少し説明しますね。


アッシュの同調実験は、以下のような手順で行われました。
まず、実験室に8人の人間を集めます。このうち7人は「サクラ」で、アッシュの指示通りに行動します。したがって、被験者となるのは残りの1名だけです。
次に、図版Aと図版Bを参加者たちに見せます。図版Aには1本の線が描かれていて、図版Bにはそれぞれ長さの異なる3本の線が描かれています。そして、図版Bの3本の線のうち、図版Aの線と長さが同じものはどれか、参加者に1人ずつ答えさせます。なお、図版Bに描かれた線の長さはそれぞれはっきりと異なっていて、正解は明らかなのですが…。
アッシュはこのような問いを18種類用意し、そのうち12の問いにおいてサクラに不正解を答えさせて、それによって被験者の答えがどう変化するのかを調査しました。

サクラ全員が正解を答えると、被験者も堂々と正解の選択肢を選びました。しかし、サクラが不正解を答えると、被験者も不正解の選択肢を選ぶ傾向が確認されました。
実験の結果、全ての質問に正解を答えつづけた被験者は全体のおよそ25%で、残りの75%は不正解のサクラに一度でも同調してしまいました。被験者がサクラに同調して不正解の選択肢を選ぶ確率は、約3分の1であったといいます。



アッシュはこの実験結果を…

「通常の状況では、同じ長さの線分を回答する課題で間違える人は1%にも満たない。しかし、集団圧力がある場合には、選択の36.8%で、少数派である参加者は多数派による誤った判断を受け入れた」

と解説しました。
つまり、「自分は正しいと思っているけれど周りの多くの人が間違っていると主張していると自分の意見が正しいと言う自信がなくなってしまい周囲と同調しようとしてしまう」わけです。

これを例えばHIV陽性者への偏見・差別に当てはめて考えてみましょう。

先日のblog「HIV陽性者に対する偏見・差別はなぜ起こる?その①」でHIV陽性者への感染症は性感染症であると言うことから連想されるイメージ「無責任」と言うキーワードで考えてみると、世の中の多くの人が「HIV陽性者は無責任な人だ」と言い始めたとすると、その人数が多くなればなるほど「HIV陽性者は無責任な人ではない」と否定しづらくなります。

それがいつの間にか「みんながHIV陽性者は無責任な人だと言っている」と言うことになり、根拠のない差別へとつながるのです。


②一般化や抽象化・ラベリング

一般化は、全体を構成する部分を、全体に属するものとして識別するプロセスを指していて、抽象化というのは、対象から注目すべき要素を重点的に抜き出して他は捨て去る方法です。一般化の反対の言葉として個別化と言う考え方があります。

一方、似たような言葉にラベリングというものがあります。

ラベリングというのは、ハワード・ベッカーと言う人の『ラベリング理論』がもとになっているものですが、元々は「犯罪学」から端を発し、逸脱行為を理論的に捉えるために考えられたものです。


ハワード・ベッカーは「社会集団は、これを犯せば逸脱となるような規則をもうけ、それを特定の人々に適用し、彼らにアウトサイダーのラベルを貼ることによって、逸脱を生みだすのである」と言っています。つまりラベリングとは、何らかの枠組みからはみ出した者を “アウトサイダー”として区別する方法であり、ネガティブなラベルを『スティグマ』と言われるようになりました。

スティグマ(stigma)とは…
社会的な偏見や差別の対象となる特徴や属性を指す言葉です。この特徴や属性は、個人の身体的な特徴、疾病、障害、人種、宗教、性別、性的指向など、多岐にわたります。

障害者差別を語る時、人々は個々人の特性や性格、人間性などを無視し「一般化」「抽象化」して「ラベリング」してしまう傾向にあります。「HIV陽性者の〇〇さん」と言う考え方がその代表であり、ざっくり言ってしまえば『十把一絡げ』にしてしまっているからこそ、偏見や差別が生まれるのだと思います。


③メディアによるリアリティの二重性

今の世の中、情報というのはあらゆる手段を使って入手することができるようになりました。インターネット一つとっても、公式サイト・SNS・掲示板・ブログなど様々な方法で様々な人が発信するツールとなっています。もちろん今まで通りの、テレビ・ラジオ・新聞・雑誌・本などに加え、街頭の大型スクーリーンや公共交通機関の中での広告も、盛んに情報を発信しています。これはボクの印象ですが、それらの情報が過大に表現されていたり、発信者の主観が大きく影響されている事はありますが、総じて大きな誤りはありません。

しかし、「メディアがもたらすリアリティ」と「物理的な実体としてのリアリティ」にどこか乖離を感じている方も多いのではないのでしょうか?

「リアリティ」を語る時にそこに二つの意味があると言われています。一つは「客観的事実がそこにある」と言うリアリティ。もう一つは個々人が「体感で得る」リアリティです。言い換えれば前者は「メディアがもたらすリアリティ」であるのに対し後者は「その人が実際に体験したリアリティ」です。

コレをリアリティの二重性と言います。

HIV感染症に関する情報と言うと、例えば「薬を飲み続ければ平均寿命まで生きられる」「ウィルス量をしっかり抑えていれば他人に遷すことはない」「感染しても仕事を変える必用もなければ生活様式を変える必要もない」など『ポジティブな情報』に溢れていてしかもそれを体感している当事者がいます。そしてそれを日常的にSNSやブログでネット上に発信しているにも関わらず、当事者でない人にとってみたらそれは『客観的に正しい事実』と言う認識であって、自分事ではないんですよね。

ボクはSNSなどで自分自信がHIV陽性者だと開示しているのですが、時々「HIVに感染したのですが不安で仕方がない」「(保健所の検査が)判定保留になっているけれどもし陽性だったらどうしよう」などHIV感染症にたいする恐怖心や不安感を訴えかけてくる人もいます。それって結局、正しい情報を自分事としてキャッチしていない証拠だと思うんですよね。


『人間は思考で行動するのではなく感情で行動する生き物だ』とイギリスの文豪ウィリアム・シェークスピアは言っています。まさにそうだと思うんですよね。よく「頭では分かっていても気持ちがついていかない」とか「頭では理解できても生理的に無理」などと表現されるのですが、人間は本質的に「快・不快」「気分」で物事を判断し行動してしまいがちです。昔から「偏見や差別は無知から生まれる」と言われ続けていますが、「知る」ということは「思考で判断する」と言い換えることもできるわけで、「感情で行動する生き物」としては「知ったから偏見や差別がなくなる」とは断言しづらい部分があるわけです。




ちょっとうやむやのままの部分が過分にあるかと思います。その部分は、皆さんで少し考えて頂きたいな~と思っています。

じゃあ、どうしたら偏見や差別がなくなるのか…

次回、ボクなりのその答えをお伝えしたいと思います。

2023年12月5日火曜日

HIV陽性者に対する偏見・差別はなぜ起こる?その②

 HIV陽性者に対する偏見・差別はなぜ起こる?その①からの続きです。

前回は、どちらかと言うと「医学的な側面」からお話をしました。今回は、セクシャリティや障害者に関する「社会福祉的な側面」からお話をしたいと思います。




①HIV陽性者の多くはMSMであるということ

MSMと言う言葉はあまり聞き馴染みが無いと思います。MSM(Men who have Sex with Men)直訳すると「男性とセックスする男性」と言う意味になります。以前は「ゲイ」「バイセクシャル」と言う『性的指向』でHIV感染症やエイズの事を語るのが一般的でしたが、例えばセックスワーカーの中には“自身は男性で異性愛者であるけれど男性とセックスする機会のある人”も一つのカテゴリーにしたほうが良いと言う意味合いから、『MSM』と言う言葉が生まれました。


上の図は厚生労働省が発表した資料から引用しています。両方のグラフとも「一年間の新規患者数」を示していています。両者ともに言えるのは「性交渉による感染経路として多いのは同性間である」と言うことです。実はこの事実というのは、日本にHIV感染症が広まりつつある頃から言われていることで、ボクの記憶が正しければ「HIVは普通の生活をしていれば感染する病気ではありません」の様な報道や啓発がなされていたと思います。そしてその「裏メッセージ」として、実は米国では『男性同性愛者間で感染拡大している奇病』と言うような表現の仕方もされていました。

事実、日本でも男性同性間での感染に広がりがあり、MSM(当時のゲイ・バイセクシャル男性)が『ハイリスクグループ』(感染リスクの高い集団)として認識され対策が講じられるようになりました。

もしHIV陽性者が自身のHIVステータス(HIVが陽性か陰性か)を開示した時、開示された相手は無意識のうちに「この人はセクシャルマイノリティだろう」と言う判断をしてしまう可能性が非常に高い状況です。

つまり、もしHIV陽性者がご自身の健康状態を伝える時に、意識しないところで相手に自分のセクシャリティまで伝えてしまう可能性が高く、それがさらに偏見や差別の原因にもなりうる、と言うことです。


②HIV感染症は「免疫機能障害」と言う身体障害者であるということ

現在の日本では、HIV感染症またはAIDSという確定診断がなされ、ある程度病気が進行してきた段階で「身体障害者(免疫機能障害)」として行政に申請が出来ます。身体障害者として認定されると、HIV感染症に対する治療費(薬剤費)が公費で負担してもらえる、と言う利点があります。抗HIV薬と言うのは非常に高額な薬剤であるため、健康保険を利用しても自己負担額が5~8万円/月と非常に高額になります。そのため、HIV感染症を治療するためには身体障害者手帳の取得は不可欠となります。

さて、ここで問題になるのはHIV陽性者は「身体障害者」と言うもう一つのカテゴリーに属することになります。

免疫機能障害と言うのは、見た目では分からない障害です。つまり、自分自身から「障害者です」と開示しなければ誰も分かりません。しかし身体障害者手帳を持っていて、障害者であることは事実です。


身体障害者と言うくくりでお話をさせていただくと、日本の身体障害者に対する偏見や差別というのは根強いものがあります。日本の障害者の福祉に関する歴史を紐解くと

1947年:児童福祉法
1949年:身体障害者福祉法
1951年:社会福祉事業法
1960年:精神薄弱者福祉法
1970年:心身障害者対策基本法
1993年:障害者基本法


日本が障害者福祉に本格的に乗り出したのは第二次大戦後からなのです。戦前の日本においては、身体障害者に対しては民間の篤志家、宗教家、社会事業者などによって行われていました。また、精神障害者に対しては「私宅監禁」「座敷牢」などに代表されるように、『人の目に触れてはいけない存在』でした。

つまり障害者というのは「慈悲で生かせていただく存在」であり、社会で活躍するとか仕事に就くなんてもってのほか!である存在であったわけです。

もちろん、現在の日本において戦前・戦後のような障害者に対する見方というのはなくなってきていますが、どこかでまだ、その “名残”を感じずにはえません。


③HIV感染症に対する療養環境

現在の日本においてHIV感染症の治療というのは、「エイズ拠点病院」と言う医療機関が担っていることがほとんどです。また「エイズ拠点病院」にも二種類あり「ブロック拠点病院」「中核病院」と言う医療機関がありますが、ほとんどのHIV陽性者は「ブロック拠点病院」への通院をしていると思われます。つまり、HIV感染症の治療というのは、ごくごく限られた医療機関でしかなされていないのが現状です。

大都市部を中心に、拠点病院から一般病院へまたは開業クリニックへHIV陽性者の受診者を移行させようという動きがみられるものの、その動きはまだまだ。

これは、誤解を恐れずに伝えるのであれば「患者の囲い込み」であって、HIV陽性者を「世間の目から遠ざけている一要因」であるとボクは考えています。

ここで勘違いしていただきたくないのは「拠点病院が悪い」とか「一般病院・開業クリニックが悪い」とか「HIV陽性者が悪い」とか言う “誰の責任?” 論ではなくて、医療機関・患者を含めた全ての人の問題であって、それぞれが考えなければイケない問題なのではないかと思っています。



今回は社会福祉学的な側面から、HIV陽性者に対する偏見や差別について考えてみました。ボクは、いちHIV陽性者としていち医療従事者として、両方の立場の人間なので、なんだかどっちつかずの中途半端な意見に思われるかもしれません(笑)。でも、一つの問題を考える時にそれを多角的に捉える必要があって、一側面だけの考え方で解決方法を求めると、結局小手先の解決法になり、根本的な解決に至らないと思っているのがボクのスタンスですので、ご了承下さい。


次回は、心理学的側面からお伝えしたいと思います。

2023年12月2日土曜日

HIV陽性者に対する偏見・差別はなぜ起こる?その①

 当サイトのblog記事「HIV/AIDSの偏見差別に思う・RED RIBBON LIVE NAGOYA 2023に参加して」で少しお伝えした、HIV陽性者に対する偏見や差別が起こる要因。ボクはその一つに「HIV陽性者が身近にいると感じられないから」と一つの提案をしました。しかし、それ以外にも、いくつもいくつも要因があり、それらが複雑に絡み合って今の状態があると思います。

ボクの知識と経験を総動員して(笑)それを一つ一つ紐解きながら、できるだけわかりやすくお伝えできれば、と思っております。




①感染症であると言うこと

人は目に見えない脅威に恐れを抱きます。逆に言えば目に見えて認識できる脅威に対しては、脅威を脅威として認識することで、例えばその脅威から遠ざかるとか、脅威を消滅させる方法がわかっていればその方法で対処するなどの行動を取ることができます。

しかし、目に見えない脅威にはそれが通用しません。

ですので、脅威がそこにあると分かっていても目に見えないことで恐怖心を呼び起こします。

それが人間の健康を脅かすウィルスや菌などが当てはまります。この数年間Covid-19の感染拡大に伴って、人はその見えない脅威にとても恐怖を感じ、街から人が消え、マスクをし、手指消毒を行い、見えない脅威をなんとかして体内に入れないようにしようと躍起になっていました。

それはHIVも同じことです。



②性感染症であること

HIV感染症の感染経路は大きく分けて3つ。母子感染、針刺し感染、性感染です。母子感染は母体がHIVに感染している際、胎児が産道を通る時に母体から感染してしまうと言う経路です。針刺し感染は、違法薬物などの注射の回し打ちや医療事故による経路です。そして性感染は、性行為によって伝染る経路です。現在の日本では、母子感染や針刺し感染はほとんどなく、性行為による感染経路がほとんどだと言われます。

皆さんは「性感染症」と言うとどのようなイメージがあるでしょうか?
たとえば…
・セックスワーカー
・不道徳
・節操がない
・不義理
・刹那的
・無責任
そんなイメージが湧いてきませんか?

日本はいつの間にか『性』に対して閉鎖的で、何となく『負のイメージ』が植え付けられてしまいました。一説によると戦後、他宗教の影響を受けているとのことですが、詳しい事は割愛します。

そして性行為で伝染る病気であるという事だけで、忌み嫌われる原因になっていると思います。


③行動免疫システムに従う生物

blog記事「汚いモノは嫌われる?!行動免疫システム!!」にも記載しました。生き物は「自分の生命に危険を及ぼす可能性のあるウィルスや菌、カビなどに汚染されている(かもしれない)ものに対して嫌悪感情を抱く」と言う習性があります。例えば、糞尿などや人の吐瀉物、カビが生えていたり腐っていたりする物など、「触れてはいけない」「口にしてはいけない」など『生物としてのアラームが鳴る』事で、自然に避けるような行動をとります。

つまり「何かに感染している」と言う事実があるだけで、人は「それを嫌悪し避ける」事が当たり前の反応として備わっているのです。

誤解を恐れずに言うと「差別することは自然な現象」とも言えるわけです。



今回は、HIV陽性者に対する偏見や差別がなぜ起こるのか、医学的知見から少し考えてみました。次回以降、様々な観点から考えて、皆さんにお伝えしたいと思っております。


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