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オンラインカウンセリング「勇者の部屋」の産業カウンセラー勝水のブログです。セクシャルマイノリティ(ゲイ)・身体障害者(HIV陽性者)・精神障害者(双極症)の当事者としての目線と、理学療法士・社会福祉士・産業カウンセラーとしての目線で、今まで経験したことや普段考えていることなど、様々な情報発信をしております。

2023年11月20日月曜日

そろそろ本当の話しをしましょう(HIV)その⑤

 そろそろ本当の話しをしましょう(HIV)その④からの続きです。



前回までは主に、臨床心理さんKさんとのカウンセリングについてお伝えしてきました。今回は、陽性告知を受けてからの健康状態や投薬を始めるまでの生活状況などお伝えしたいと思います。



HIVに感染したと思われる時期から半年以上、微熱や倦怠感でかなり体力的に消耗し、毎日疲労感を感じながら仕事をしながら生活をしていました。

2003年11月に陽性告知、すぐエイズ拠点病院に受診し各診断をうけ、年越しを迎えました。

ボクは、実家を離れてからずっと、年越しは必ず実家で過ごすことにしていたので、その年の年越しも実家に帰省し、年を越したのですが、気分は最悪…もちろん、病気の事は両親や姉には伝えることはできず、でも何だか「嘘をついているような罪悪感」があり、とても居心地が悪かった記憶があります。

そしてしばらくしてからボクは、頻繁に下痢を起こすようになりまた、常に疲労感を感じるような体調でした。仕事柄(理学療法士)日々、体力を使う仕事だったので、仕事が終わった後は本当に疲労困憊でした。

一度、定期受診の時に主治医に聞いたことがあります。ボクのこの症状は一般的なのか、と。先生からの答えは「よくあります」とのこと。下痢に関しては対症療法で下痢止めを処方していただきましたが、疲労感に関してはどうしようもありませんでした。


また、食べても食べても体重はやや減っていく様でそれも加えて体力が落ちていく感じがありました。

「そろそろ本当の話しをしましょう(HIV)その③」で少しお伝えしましたが、HIV感染症の治療で重要になるCD4リンパ球の数というのは、200/μLを下回ると日和見感染症と言って、健康な人であれば感染することのない、非常に弱い菌やウィルスにまで感染してしまう状態に陥ってしまいます。


上の表の様にエイズ指標疾患は23疾患あり、このうち1つでも確定診断がつけばその人は「エイズ(後天性免疫不全症候群)」と言う診断になります。

また、ボクが通院していた当時、身体障害者手帳の申請ができるのはCD4が200/μLを下回らないと申請できず、かつ薬物療法も始められないため、ある意味、体調がギリギリまで落ちないと薬物療法も始められない状況でした。


徐々に体調が悪く、また理学療法士として働く体力に自信がなくなっていくうちに、ボクは「転職」を考えるようになりました。また、当時、住んでいた場所が地方都市であり、身体障害者手帳を申請しても、福祉サービスがあまり充実しておらず、転職とともに政令指定都市へ転居、というのも、具体性をもって考えるようになりました。


実はボクは当時、医療短大の頃の恩師の影響で「理学療法士を養成する学校の教員になりたい」と思っていました。そしてちょうどその頃、ボクの母校である医療技術短期大学部が四年制大学へ移行し「医学部保健学科理学療法学専攻」になり、保健学科の学部生が卒業すると同時に大学院も設立。ボクは母校の大学院に入学したい、とも思っていました。それは「理学療法士を養成する学校の教員になる」ためにある意味必須で「修士号」または「博士号」を取得することが、ボクのキャリア・アップのために必要なことでした。

そしてボクの思いが具体性を持って動き出したのは、2004年になってからです。
まずは手始めに、仕事をしながら大学院の「科目等履修生」の制度を利用して、いくつかの大学院の科目を履修しながら、大学院の卒論に当たる論文を書くための基礎研究を、恩師の協力の下、始めました。

そして翌年2006年に正式に「大学院医学研究科修士課程」に入学することができました。

科目等履修生のころからではありましたが、昼間は理学療法士として働き、夕方から修士課程の講義ならびに自分の実験(当時はマウスを使った実験をしていました)をすると言う、二足のわらじを履いていたのですが、何と言っても30代前で若さもあり、体調が悪いと言ってもなんとか踏ん張りが効く年齢でした(笑)。

実は、科目等履修生から修士課程に入学する2005年に、ボクは念願の「理学療法士養成校の教員」となりとある専門学校に就職する事ができました。


専門学校に就職し、とにかく無我夢中でした。
自分の研究はもちろん、講義、学生指導、学会発表など、慣れないことばかり。そしてそれまでボクは医療機関に勤めていたので、福利厚生で時期になると「インフルエンザの予防接種」をしていたのですが、専門学校に就職した年はそんな事もすっかり忘れていて予防接種を受けず、人生で初めて「インフルエンザ」を経験しました。

専門学校は土日祝日が休みだったのですが、その他に平日に一日「研修日」と言って、自分自身の研究活動や臨床に割り当てても良い(要は出勤しなくても良い)日がいただけたので、その曜日を研究活動および受診日に当てることができたので、ボクはあえて職場に病気の事を開示はしていませんでした。

実はその頃からボクの免疫力は一気に低下していました。
専門学校に就職した夏頃から、主治医から「そろそろ投薬を考え始めたほうがよいかも」と言われていました。その頃のCD4は200
/μLをうろちょろしていて、障害者手帳もそろそろ申請しようということになり、投薬が始まる前に身体障害者手帳を申請しました。その直後ぐらいでしょうか、ボクは職場からの命令で、1ヶ月間に及ぶ長期講習会を受けることになりました。しかも大阪でマンスリーマンションを借りて。

その長期講習会へ出発する直前の定期受診で主治医からは「その講習会から戻ってきてから服薬を考えましょう」と言うことになり、その時の受診時に薬剤師さんから、お薬の説明をうけ、おおよそボクはどの薬を服薬するかを決めて、長期講習会へ参加しました。


長期講習会自体は比較的楽しくて(笑)また大阪には友達もたくさんいたので、週末になると誰か彼かと遊びに行ったりして息抜きもしていました。また、専門学校の学生からは、定期的に卒業研究の相談のメールがあったので、まあそれなりに忙しくしていました。

でも、それほどストレスフルには感じていなかったのですが…

長期講習会から戻ってきてすぐに定期受診。
ボクはいつも、診察の後に血液と尿を採取して、その結果は1ヶ月後の受診時に聞く、と言うスタイルだったので、その時の定期受診もとりあえず長期講習会に参加中の体調等報告して、採血・採尿して帰宅しました。

それから恐らく1週間した後だったでしょうか。
病院から電話がかかってきました。「勝水さん、体調は大丈夫ですか?できれば早めに受診してほしいのですが…」と。ボクはなんとなく察し、早めに受診の予約を入れました。


「勝水さんCD4が28です。早速、服薬を始めましょう」
ボクは長期講習会に参加している間に、大きく免疫力が低下していたんです。幸い日和見感染症などの症状はなかったのですが、普段と違う生活環境などの影響もあったのでしょう。ボクはすぐに服薬を開始しました。

当時、2種類の薬を2回/日、しかも食後に服薬しなければならず、やや面倒でした。時間的に朝食ごと夕食後に決めて服薬し始めたのですが、夜はどうしても食事が不規則になりがち。食べられないときは100%のジュースやおにぎり1個でもいいので食べてから、と薬剤師さんからの指導でしたので、なんとかそれを実行していました。

しかし服薬し初めてすぐ副作用が…
常に腹部がムカムカするような吐き気と頭痛です。
すぐに定期受診外で主治医のところへ行き相談し、対症療法のお薬をもらい、それで1週間ほどで副作用は消失しました。

しかし、服薬して1ヶ月が過ぎた頃、体に痛痒いような発疹が出てきたのです。


ちょうど上の写真のような状態でした。
ボクはすぐに気づきました。「帯状発疹だ」と。
帯状発疹は、HIV感染症の治療であるHAART(現:ART)と言う治療を始めた初期に出現するという「免疫再構築症候群」というものの中に「帯状発疹」が挙げられていて、ボクはその知識があったので、すぐに受診しました。

帯状発疹は放置して治療が遅れると、つらい痛みが後遺症として残り、かなりQOLを下げると言われていることを知っていたので、とにかく早く対処しなければ、と思っていました。

幸い、気づいてすぐに受診し、服薬や塗り薬などで程なくして回復しました。


こうやってボクのHIV治療は、ドタバタとかなり急ぎ足で始まっていきました。



そろそろ本当の話しをしましょう(HIV)その⑥では、臨床心理士さんの開催していた自助会とその後に発足した「東海地区のHIV陽性者のための支援団」体立ち上げに関して、少し触れたいと思います。


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