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オンラインカウンセリング「勇者の部屋」の産業カウンセラー勝水のブログです。セクシャルマイノリティ(ゲイ)・身体障害者(HIV陽性者)・精神障害者(双極性障害)の当事者としての目線と、理学療法士・社会福祉士・産業カウンセラーとしての目線で、今まで経験したことや普段考えていることなど、様々な情報発信をしております。

2023年6月27日火曜日

私の中核を成す物(③友人・小学生~高校生)

 僕の地元🏕は今でこそ“市”だけどそれは『平成の大合併』で市になっただけで、元は〇〇郡〇〇町やったん。そして僕の通っていた小学校も、いくつかの集落の子どもたちが集まってできた学校。僕の学年は1クラスで27人。うち男子は9人😅。そりゃもう、イジメなんてないしクラス全員が友達みたいなもので、つらい思い出なんて一つも思い出せないくらいやったかなあ🤔ただ、男子は“アウトドア派”と“インドア派”に分かれてて僕らは“インドア派”だったかな。いつも。

僕と同じ集落に住んでいたA君は、唯一の同学年の友達で、放課後はいつも彼と一緒。たった2人きりで何をしていたかって?そりゃいっぱいいっぱい😁

裏山にひっそりと秘密小屋を建てて、秘密基地を作ってだいたいそこで過ごしてた。小説のような話やけど、これホントの話やで!!

ある時は、壊れたラジオ📻(誰かの歌ではない)を持ち込んで2人で分解して、また組み立てたり(元には戻らなかったけど、分解することに意義がある)、木片や釘を拾ってきてそれを船に見立てて組み立て、小川で流して競争をしたり、枯れ葉🍂を集めて焚き火したり🔥(大人には内緒でね)、木の葉🌿に絵の具で適当に絵を描いて額縁みたいな木枠を作って飾ってみたり。時には、田植えの始まる前の田んぼにはれんげ草💐がたくさん生えるから、その中を駆けずり回ったり寝転んでみたり花の蜜🐝を吸ってみたり。

そんないかにも“田舎の子どもの遊び”が一変したのが、かの有名な『ファミコン』🎮の登場やった。

確か小学校中学年くらいやったかな。A君より僕が先に買って、僅差で彼が買って。学校でも買っている子が増えてきてカセットの貸し借りとか対戦ゲーム🛩するために誰かの家に集まるとか。それで御多分に漏れず『学校にはファミコンのカセットを持ってきてはいけません!!』と謎の箝口令がしかれて(だってカセット持ってきたって本体がなきゃ遊べないのにどうして貸し借りするために持ってきちゃ駄目なの?って今でも思う🤔)。

そうこうしているうちに中学校へ入学。

中学は、1クラス45人の5クラスあったかな。確か。学区が広がって違う小学校から来てる子達もいて、その分交友関係も広がって。それに部活も始まったから、仲の良かったA君とはすこしずつ疎遠になって。僕は吹奏楽部、彼は美術部に。それに委員会とかも始まってどんどん人脈が広がっていって(委員会は1年生、2年性は図書委員、3年生は生徒会副会長)。

もともと音楽が好きで、小学生の頃から『題名のない音楽会』を毎週欠かさず見ていた渋い小学生だった😁。だから部活が始まったら絶対に吹奏楽、しかもトランペット🎺を絶対やるって決めていた。ただ、残念ながらトランペットはなり手が多くて僕はチューバと言う楽器を割り当てられた😭。でも、みんなで音楽を作り上げることは本当に楽しくて、部活の時間が大好きだった。僕らの学年は男子が2人、女子が10人くらいいたかな。みんな仲良しで本当に音楽をみんなで楽しんでた。

委員会は図書委員をずっとやってて。“これも”何やけど、僕、小学生の頃から小説が好きで(特に赤川次郎さん)毎週、町の図書館に行っては小説を借りてきて読んでた。だって、学校にある図書で読みたいものはほとんど読み漁ってしまっていたから📖。だから、図書委員。何か特別なことをした覚えはないけど😂

そして何故か3年生は生徒会副会長。これは…実はハメられたというかなんというか。生徒会長を決める時にその時の担任の先生が僕の友人の一人、Y君を指名したんだよね。「Y、お前やれよ😁」と気楽に言ったつもりらしいんだけど、そしたら何故か僕に白羽の矢が立って「ケンゴ君が副会長やるなら、オレ(Y君)会長やるわ」と💦💦💦おいおい、なぜ僕?!と心の中で呟いたけど、まさにその時の空気を読み切ってしまった僕は後に引けず「…あ、…はい…やります…僕……副会長…やります…」ということで、あっという間にその年度の生徒会長と副会長が決まったという。。。

ちなみにその当時、クラスの友達の間で流行っていたのは、トランプゲーム(セブンブリッジ・大富豪など)と麻雀。僕は、麻雀の役を覚える気がなかったから、時々、鴨にされに参加するくらいやったかな🦆🧅

とにかく何度も書くけど僕の地元は田舎。高校に進学すると言っても公立3校、私立1校くらいしか選択肢しかなくて、①超進学校、②普通の進学校、③就職専門校、④私立1校は公立校の入学が危ない子のための滑り止め校やった。大体の子が②か③の高校に進学するんやけど、僕も②に進学するつもりでいたし、正直、成績はそこそこ良かった😁からあんまりしっかり勉強した記憶がない。でもいつも、三者面談では「やれば出来る子なんですけどね。やらないだけで」と母親と担任が言っていたのを横目に「ハイハイ👋」と心の中で思っていた、いい加減な子だった。

②の高校に進学して、いよいよ、大学進学のこととかも考えなきゃ行けない時期。そして青年期の到来。エリクソンの発達課題「アイデンティティの確立と同一性の拡散」と真っ向からぶつかった時期。「自分は何者なんだろう」「自分はどんな人間になりたいんだろう」そんな事をずっと考えていた気がする3年間。それは僕のセクシャリティにも関連するんだけど、それはまた後日。

中学生の頃とは違い、また広い学区から生徒が集まるから、もちろん新しい人間関係も生まれる。僕はどちらかと言うと自分から声をかけることが苦手で🐱でも不思議と誰かが声をかけてくれて友達になってくれる、そんな環境というか人間関係に恵まれていた。初恋らしい初恋をしたのもこの頃かな(奥手?)。

ちなみにクラスは理系国立・理系私立・文系国立・文系私立・その他専門学校みたいなクラス分けで僕は理系国立のクラスへ。クラスメイトは持ち上がりで変わりがなかったから、友達はずっと友達でいてくれて(?)大きな諍いごともなく。

その代わりと言うか、やはり興味関心は、どんどん自分自身へと向いていった時期だと思う。


その頃の僕は、「人の好き嫌い」がハッキリとある方ではなかったから、基本的に誰とでも普通に?接することはできてた。人間関係で悩んでいたとすれば、高校生時代かな。初恋云々はおいておいて、部活で部長を務めたんだけど、とにかく集団をまとめるのが下手くそで…それで落ち込んだこともあった↷(多分、この失敗は今でも引きずっている💦)副部長は女子で仲が悪いわけではなかったけど、女子の集団特有の派閥抗争はあって、それに巻き込まれてしんどい思いはしたけど…まあ、寝られないとか食事が摂れないとか、そんなことはなかったから。

総じて僕は、友人関係に恵まれていたと思う。本当に。誰かが周りにいてくれていたし、誰かと悩みも共有できていたし。ただ、僕の人格形成における高校生時代というのは、その後の僕の人生に大きな転換期を与えたことは間違いないと思う。

私の中核をなす物(③友人・短大~30代)へ続く…

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