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オンラインカウンセリング「勇者の部屋」の産業カウンセラー勝水のブログです。セクシャルマイノリティ(ゲイ)・身体障害者(HIV陽性者)・精神障害者(双極性障害)の当事者としての目線と、理学療法士・社会福祉士・産業カウンセラーとしての目線で、今まで経験したことや普段考えていることなど、様々な情報発信をしております。

2023年6月23日金曜日

私の主張!!仕事仲間に求めるもの

 私が理学療法士として、最初に就職したのは、内科と整形外科の有床診療所(ベッド数19床のクリニック)でした。リハビリテーション科には理学療法士しかおらず、同じ医療技術短期大学を卒業した常勤の先輩が二人、非常勤が一人、他校の卒業生の先輩が一人、そして同期入職(他校卒業)が一人の計六人であった。

話を進める前に、これは25年ほど前の話になることを付け加えておく。

その頃の整形外科クリニックのリハビリと言えば、やればやっただけ儲かる部署であり、もちろん患者様からも人気の部署である。そのクリニックでは、午前中は高齢者の慢性疾患が主で、中休みが3時間ほどあり、その後夕方からは一部、入院患者様のリハ。その後は外来患者様で仕事終わりの方や学校終わりの学生さんが中心で、スポーツ障害や交通事故後や仕事での障害などが主だった。

これは少し裏話的な話になるが、診療報酬の制限で「理学療法士一人あたり一日、患者様は◯◯人まで」「患者様一人あたり〇〇分まで」という規定があり、そのクリニックではその限度いっぱいまで患者様を診ているような、とても大人気なクリニックであった。

そんなこともあって「新卒研修」など全く無く、入職した当日になんとなく一日の流れを掴むことだけして、翌日には、ほぼフルで働いていた(笑)。もちろん、不安もたくさんあった。疾患を持った患者様に実際に触れるのなんて、臨床実習以来。しかも誰も「手取り足取り」してくれない。ただただ、その当時の自分自身の知識をフル稼働し、動きを観察して考察し、手先や手の感覚に集中して患者様に触れていくしかなかった。

ここまで聞くと「なんて乱暴な職場なんだ!けしからん!」と思われるかもしれない。しかし、何度も言うが25年も前も話しである。「理学療法士」という資格がまだ成熟していない時期でもあったし、大御所の先生方も色々と模索していた頃であったと思う。

先に書いたように、そのクリニックの理学療法士は、経験年数も年齢もみんなが近く、誰もが気楽に話せる、相談できる、卒業校なんて関係なく、私の考える意味での“仕事仲間”であった。

月~水・金~土の夕方の診療が終わるのが20時頃。それから、誰かが言い出すともなく「〇〇さん(患者様)の〇〇なんだけど…」と話が持ち上がり、特に用事のある人のない限り、みんなが知恵を絞って、あーでもないこーでもないとディスカッションが始まり、治療技術の伝えあいや指導が始まる。大体21時過ぎまでだろうか。終わるのは。ちなみに残業代はつかない。

それが、全く苦ではなかった。

もちろん、若さもあったかもしれない。

けれどそこには「患者様のために」「自分自身の技術を高めるために」という共通の思いがあり、まさに“プライスレス”な時間と空間があった。だから、自分の考えをぶつけることができたし、自分の無知を恥じることもなかったし、何より楽しかった。

(余談だが3時間の中休みは全員、昼食と昼寝の時間だった)

経験年数も年齢もみんな若いということもあって、理学療法士のメンバーからはいわゆる管理職的な者はおらず、他に技師長(レントゲン技師さん)がリハ科の長も兼ねており、やや自由にやらせてもらっていた記憶がある。

私はそのクリニックで4年間働き、本当に良い経験をたくさんさせていただいた。もちろん、挫折も味わった。患者様からクレームを受けたこともあったが、院長先生をはじめ技師長のフォローやリハスタッフの励ましもあり、まだ、若い私は救われながら働け、とてもありがたかった。

それから時が経ち、40代に入ってから入職した職場。100床の病院ではあるが法人として他にいくつも施設があり、勤務していた病院にも、理学療法士・作業療法士・言語聴覚士全て揃って20数名ほどのリハ科に配属された。そう「ありふれた理学療法士」として働いていた職場である。

今、この時代である。臨床教育も業務の一環。仕事の一環。もちろんそれは歓迎されるべきことであるが、年長者が初学者に「知識や技術を伝える・教授する・指導する」事が主となり、またそれが当たり前の“形式”となっていたため、正直、私は物足りなさを感じていた。昨今の学校教育に言われていたように「主体性・自主性がない」と思ってしまっていた。また、誤解を恐れず言葉にすると「教えてくれないことが悪」のような風潮はあり、「誰かが何かを頑張る・頑張っているからそれをみんなで応援する」「それがみんなに感化して“自分もこのままじゃまずいことになる”と思うようになる」と言うような、“陽の連鎖”みたいな現象は見られなかった。

当時の職場では、役職こそ付いていなかったが、最年長であった私は危機感を覚え、システマティックに勉強会をすすめていこうと、立案・計画し、手伝ってくれる仲間を募り、上長の許可を得て3カ年計画で、経験年数に準じた目標を掲げた勉強会を進めていくことにした。

まあ、トライ・アンド・エラーでいくつもりではいたが、実際にはエラーばかりで、その計画した方法で臨床教育が良い方向に向かったかと言うと、正直、狙い通りではなく私の満足のいくものではなかった。

もちろん、私自身の立案した計画にも問題があったと思う。今思えば「あーすればよかったな…」と思うことがいくつも思い浮かぶのであるが、その時、その現場では正直、軽い失望感しかなかった。

その頃、臨床教育のことだけではなく現場内の人間関係に悩んだ時期があり、それを事務長に相談したことがある。「職場は仲良し小好しの集まりではないから。色んな人がいるものだし、仕事がうまく回っていけばそれで良いんじゃない?それにケンゴさんが責任感じることはないと思うから。もっと気楽に!」とアドバイスを頂いたこともある。それも一理あるし、自分のメンタルを守るためにもそれを実践することが正しいことかも…と思い、そのように立居振舞っていた(つもり)。

でもな…

やっぱり…

どうしても、僕が最初に働いていた現場と比べてしまうのである。「割り切る」事をすればするほど、現場が楽しくなくなり(もちろん患者様と接することは楽しかったし相変わらずやりがいを感じていた)“その現場で仕事をすること”が苦痛に思えてきた。

20数名ほどのスタッフ全員が同じ方向を向いて、同じだけの熱量を持って仕事をするなんて、確かに無理なのかもしれない。何度も何度も、自問自答した。でも…でも…と。

出した答えは「私は大所帯の職場には向いていない」というコト。やはり仕事仲間とは、同じ熱量を持つまではいかないにしても、せめて「同じ方向を向いていて欲しい」と思うのである。私自身、組織を動かすこと自体に苦手を意識を持っていて、また、そこに自信がないため、物理的に離れることにしたのである。

今回のblogタイトルから、徐々に話が逸れはじめたので、本日はここまでとする。

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