勇者ケンゴです。宜しくお願いします。
最初のブログで何を書こうかすごく悩んでいたのですが、先日、Twitterのフォロワーさんが亡くなり、改めて生と死を考えるようになりました。
その方とTwitterでつながったのは、確か5年ほど前だったと思います。彼は若くしてとある病がきっかけで、片麻痺の後遺症が遺ってしまったため、普段はT字杖を使っていました。それでも、Twitter越しに見える姿は、凄くオシャレをして楽しそうな毎日を送っている様でした。
僕がPTである事を、たまたま彼が知り、DMで「長く歩くと〇〇が痛くなるんだけどどうしたらいい?」みたいな相談をよく受けてました。そして、僕の伝えた様に実践しその報告をしてくれていました。
Twitter上でも“丁々発止”とした僕との掛け合いが、時にはエンドレスになるのではなないか?!と思うほどでした。
彼はとても明るくて、そして一所懸命で、毎日を楽しくしようとしていました。
そして、時々、向こう見ずな事をする危うげなところもあり、歳上である僕はいつも小言を言っていました(笑)。
様相が変わりだしたのは、2023年の年明け頃だったと思います。
Twitter以外の連絡方法は分からないので、詳しく様子は分からないのですが、どうやら入院をしたと。そして手術をすると。
それからは入退院を繰り返し、あっと言う間に、2023年6月10日に永眠されました。
退院したある時、Twitterのスペース機能を使って話しをした時に、病状や手術の内容を聞いてはいたのですが、“その時”が来るのはまだまだ先だろうと僕が考えていたので「7月になったら会いに行くよ!」と言う話しになり、彼も自宅に招待してくれる事を約束してくれました。また、その時に余命について医師からは聞いているかどうかも確認しました。
聞いてはいたようですが、僕は具体的な数字を聞きませんでした。
怖かったのです。
ここ数年、「会いたいと思った人には会いたいと思った時に会いに行く」を実践しつつあったので、それが叶わずとても悔しく思ったのと同時に、年下30代の彼が若くして死を迎えてしまった事に何とも言えないやるせなさを感じ、ただただ残念で悲しいばかりです。
多分、僕たちが生きることや死ぬこと自体に何も意味はないと思います。だけど僕らは人だから、そこに何かを見出そうと考えてしまう。そうでなければきっと人は生きていけないのかもしれない、と思います。
彼の死は、僕の生にどんな意味を与えてくれるのだろうか。
もうしばらく静観してみます。
2023年6月26日追記
どうも、彼(N君とします)の事が頭から離れないようです。なので、ここで言葉にして心の整理をしたいと思いますので、しばらくお付き合い下さい。
彼に対して恋愛感情なんてこれっぽっちもなくて(笑)ゴメンねN君。7月になれば会えると信じていたから、余計に気になるのかな…こんなに早く逝ってしまったことが受け入れられないのか…心の何処かで、もっとN君との時間を過ごすことができると信じていたからなのか。
最近の僕は、とても時間の流れがゆっくりだから、N君が他界してからやっと2週間とちょっとしか経っていないなんて信じられないよ!。だから「時間が解決する」というにはまだ早すぎるもんな~
やっぱり一番の心残りは、一度も会えなかったことなのだと思う。ひと目会っておけば、理由は分からないけど、自分自身納得できたんだと思う。
「いつか会って話がしたいね」なんてDMでやり取りしてたこともあったし、そうそう、今年に入って、入院中の彼に「どうせ暇だろうから僕の作ったサイトの感想聞かせてよ。で、直したほうがいいところあったら、じゃんじゃんDMして」なんて言ってたんだよね。そうだ僕、彼の病気の事を甘く見すぎていたんだと思う。覚悟していなかったのだと思う。
身近な人や顔見知りの人が亡くなっていくことは何度も経験しているけれども、これほどまでに悔やんでいる人の死は初めてかもしれない。
父が亡くなった時でさえ悲しかったけど「ちゃんと送ることができた」と、自分で自分に納得できたし、早い段階で受け入れることができていたのに。N君の事となると、多分、自分で納得できていないんだと思う。
ゴメンなN君。
身勝手な僕の自己満足に付き合わせてしまっているのかもしれない。こんな事、書いてたり考えてたりしてたら、安心してアッチに逝けないよね。でも四十九日までは、まだ極楽浄土へは逝けないらしいから、まだ4週間近くあるから。きっとその頃には、ちゃんと受け入れていられてると思う。
でも、四十九日っていま計算したら、7月29日だってよ!まだまだ先だな!おい。
しばらく、僕の頭の中のグルグルにも付き合っておくれ。やさしいN君に甘えてばかりでゴメンよ。
また、もしかしたら追記するかも。
そん時はよろしく。
0 件のコメント:
コメントを投稿