昨年の秋、私の父の三回忌があり、地元で法要を執り行った。
私が喪主を務めたのは初めての経験であり、長く地元を離れていた私にとってみたら、その土地や宗派特有の“しきたり”というものは、非常にややこしくまた煩雑でかつ面倒(笑)であった。しかし母が影で殆どを取り仕切ってくれ、私は『お飾り喪主』であった(笑)。
葬儀や法要が終わる度に、母が「いつもありがとう。ケンゴがいてくれて本当に助かったわ」と言ってくれる度に、私は申し訳ない気持ちになると同時に「母が他界した時は誰を頼りにすればよいのだろう…」と一抹の不安を覚えるものだ。時々、そんな事を思い出してはいるが「いつやってくるか分からないその時の事を心配して心奪われる」事のないよう、「その時はその時」と自分自身に言い聞かせている。
私の地元では、家人がなくなるとご遺体はまず、自宅に帰ってくる。そこでご遺体の衣装替えや死に化粧をして頂き、ご住職がやってきて読経してくださる。その間に弔問客がやってきて、ご遺体の顔を見ていただいたり、集落の人達が集まり通夜・葬儀のお手伝いの段取りをしてくださる。僕が幼少のころは、必ず誰かか寝ずの番をしていたものだが、今はそのような習慣はないようだった。
今は葬儀屋の葬儀会場で通夜と葬儀を執り行うのが一般的となっていたが、私の祖父母の頃は、自宅で全て執り行ったものだ。そういう点では、遺族の負担は軽くなっていると思う。
集落の方々は、葬儀場の駐車場の誘導や受付などをしてくださり、遺族は会場の前で弔問客の出迎えをする。父の通夜・葬儀では母を真ん中に腰掛けさせ左右に姉と私で並んで立ち、ご挨拶させていただいた。時々母が「この人はお父さんの〇〇っていう関係の人だよ」と詳しく教えてもらったが、正直、今ではもう忘れてしまった(おかーさんゴメン)。
父は15:15に、母・姉・私の見守る中息を引き取った。そのため通夜は翌日、葬儀は翌々日にしたのだが、命日の夜は、ほとんど寝ずに「喪主の挨拶」を考え書面にしたためていた。「通夜用」「葬儀用」それぞれ用意したのだが、父に関して知らないことが多すぎて困った。父が産まれ育ち、就職し母と結婚し私達が産まれ…例えば母との馴れ初めや父がどこで働いてどんな人格の持ち主だったのか、知らないことが多すぎた。かろうじて、弔問客が途切れたほぼ深夜に、母にざっくりと経歴を聞き、何とか「喪主の挨拶」を仕上げた。
ホッとしたのもつかの間、ウトウトしたと思ったらもう、夜明けだった。
朝、母からは「葬儀までの二日間、頑張って。宜しくお願いします」と改めて挨拶された。
その日は、ほとんど父のご遺体のそばにいて、弔問客の相手は母がしてくれ、大事なお客様だけは僕も一緒に頭を下げていた。ぞくぞくと親戚が集まり、皆が父の顔を見てくださっている間中、私はそれを見守っていた。今思い返すと、自分でも何を思っていたのか思い出せないがとにかく父のそばを離れなかった。納棺や出棺などもあったが…今ではハッキリと思い出せない。おそらくアドレナリンが出っぱなしだったと思う。
通夜や葬儀が進行していく中、私は「この“儀式にはなんの意味があるのだろうか”」というどこか客観的な自分と、「母や姉の分まで喪主である私がしっかりと最後まで勤め上げなければ」という義務感で、おそらく今まで生きてきた中で一度も経験したことのないくらいの緊張感の中、2日間(命日入れて3日間)を過ごした。私は心のなかで「絶対に“喪主の挨拶”で泣くものか」と決めており、その決意の通り実行した。しかし火葬場で父のお棺が炉へ入る瞬間だけは、直視できなかった。泣き崩れそうになるのを従姉妹のおねーさんが支えてくれた。
今、思い返しても不思議な時間と空間だったと思う。
お骨の拾い上げまでの間に初七日を済ませ、遺骨を持って自宅に帰り、ご住職へ挨拶した後は、死んだように眠ってしまったのは言うまでもない。
実は、そこからが大変だった。
私の地元では、四十九日までの間、毎週、ご住職を自宅へ招き読経していただくのだ。毎週である。私は高速を使って車で1時間半の道のりを、毎週毎週通い、喪主としてその七日法要を執り行っていた。この七日法要は親族のみで行うため、大事ではないのだが、お仏壇の準備やらご住職への接待やら、細々したことはあうのだ。
通夜や葬儀は葬儀屋が全て取り仕切ってくれるので、そういう面では遺族は楽ができる。しかし四十九日以降は、遺族が全てを段取り取り仕切らなければならない。これがまた、精神的な負担が大きい。誰を呼ぶのか、引き物は何にするのか、食事はどこで摂るのか、食事の席順はどうするのか云々カンヌン…。
しかしそうやって徐々に、故人を「良い思い出」へと昇華させる手順を踏んでいっているのだと思った。
命日
通夜
葬儀
初七日
四十九日
一周忌
三回忌
七回忌
徐々に、故人を偲ぶ日(弔う日)に間隔が空いていくのが分かると思う。宗教的な意味は正直、私は知らないが、私は次のように勝手に解釈した。
故人が極楽浄土へ行き、成仏するようにお祈りするのと同時に、私達遺族も、徐々に故人への強い思いを薄れさせ、故人がこの世にいないことを受け入れ日常へ戻っていく手順を踏んでいるんだ、と。いつまでも故人への強い思いを抱いたままでは、現世に残っている遺族は前を向いて人生を歩むことができなくなる。だから、少しずつ少しずつ悲しみを癒やし、明日へ生きる事に向き合うために「故人を偲ぶ日」を減らしていくのだ、と。
仏教では『五十回忌』が弔い上げとなり、「個人から先祖」という存在になるそうだ。
五十回忌となると、おそらくどこの家庭でも「孫の代」へと変わっている頃であろう。私の父には申し訳ないが、五十回忌までは勤め上げられない。と今から謝罪しておこう。
でも、私が生きている限り、父は私の中にいつまでも存在し続けているから、許していただきたい。