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オンラインカウンセリング「勇者の部屋」の産業カウンセラー勝水のブログです。セクシャルマイノリティ(ゲイ)・身体障害者(HIV陽性者)・精神障害者(双極症)の当事者としての目線と、理学療法士・社会福祉士・産業カウンセラーとしての目線で、今まで経験したことや普段考えていることなど、様々な情報発信をしております。

2023年6月29日木曜日

死を考える②故人を偲ぶ日(私の勝手な解釈)

 昨年の秋、私の父の三回忌があり、地元で法要を執り行った。


私が喪主を務めたのは初めての経験であり、長く地元を離れていた私にとってみたら、その土地や宗派特有の“しきたり”というものは、非常にややこしくまた煩雑でかつ面倒(笑)であった。しかし母が影で殆どを取り仕切ってくれ、私は『お飾り喪主』であった(笑)。

葬儀や法要が終わる度に、母が「いつもありがとう。ケンゴがいてくれて本当に助かったわ」と言ってくれる度に、私は申し訳ない気持ちになると同時に「母が他界した時は誰を頼りにすればよいのだろう…」と一抹の不安を覚えるものだ。時々、そんな事を思い出してはいるが「いつやってくるか分からないその時の事を心配して心奪われる」事のないよう、「その時はその時」と自分自身に言い聞かせている。

私の地元では、家人がなくなるとご遺体はまず、自宅に帰ってくる。そこでご遺体の衣装替えや死に化粧をして頂き、ご住職がやってきて読経してくださる。その間に弔問客がやってきて、ご遺体の顔を見ていただいたり、集落の人達が集まり通夜・葬儀のお手伝いの段取りをしてくださる。僕が幼少のころは、必ず誰かか寝ずの番をしていたものだが、今はそのような習慣はないようだった。

今は葬儀屋の葬儀会場で通夜と葬儀を執り行うのが一般的となっていたが、私の祖父母の頃は、自宅で全て執り行ったものだ。そういう点では、遺族の負担は軽くなっていると思う。

集落の方々は、葬儀場の駐車場の誘導や受付などをしてくださり、遺族は会場の前で弔問客の出迎えをする。父の通夜・葬儀では母を真ん中に腰掛けさせ左右に姉と私で並んで立ち、ご挨拶させていただいた。時々母が「この人はお父さんの〇〇っていう関係の人だよ」と詳しく教えてもらったが、正直、今ではもう忘れてしまった(おかーさんゴメン)。


父は15:15に、母・姉・私の見守る中息を引き取った。そのため通夜は翌日、葬儀は翌々日にしたのだが、命日の夜は、ほとんど寝ずに「喪主の挨拶」を考え書面にしたためていた。「通夜用」「葬儀用」それぞれ用意したのだが、父に関して知らないことが多すぎて困った。父が産まれ育ち、就職し母と結婚し私達が産まれ…例えば母との馴れ初めや父がどこで働いてどんな人格の持ち主だったのか、知らないことが多すぎた。かろうじて、弔問客が途切れたほぼ深夜に、母にざっくりと経歴を聞き、何とか「喪主の挨拶」を仕上げた。

ホッとしたのもつかの間、ウトウトしたと思ったらもう、夜明けだった。

朝、母からは「葬儀までの二日間、頑張って。宜しくお願いします」と改めて挨拶された。

その日は、ほとんど父のご遺体のそばにいて、弔問客の相手は母がしてくれ、大事なお客様だけは僕も一緒に頭を下げていた。ぞくぞくと親戚が集まり、皆が父の顔を見てくださっている間中、私はそれを見守っていた。今思い返すと、自分でも何を思っていたのか思い出せないがとにかく父のそばを離れなかった。納棺や出棺などもあったが…今ではハッキリと思い出せない。おそらくアドレナリンが出っぱなしだったと思う。

通夜や葬儀が進行していく中、私は「この“儀式にはなんの意味があるのだろうか”」というどこか客観的な自分と、「母や姉の分まで喪主である私がしっかりと最後まで勤め上げなければ」という義務感で、おそらく今まで生きてきた中で一度も経験したことのないくらいの緊張感の中、2日間(命日入れて3日間)を過ごした。私は心のなかで「絶対に“喪主の挨拶”で泣くものか」と決めており、その決意の通り実行した。しかし火葬場で父のお棺が炉へ入る瞬間だけは、直視できなかった。泣き崩れそうになるのを従姉妹のおねーさんが支えてくれた。

今、思い返しても不思議な時間と空間だったと思う。

お骨の拾い上げまでの間に初七日を済ませ、遺骨を持って自宅に帰り、ご住職へ挨拶した後は、死んだように眠ってしまったのは言うまでもない。

実は、そこからが大変だった。

私の地元では、四十九日までの間、毎週、ご住職を自宅へ招き読経していただくのだ。毎週である。私は高速を使って車で1時間半の道のりを、毎週毎週通い、喪主としてその七日法要を執り行っていた。この七日法要は親族のみで行うため、大事ではないのだが、お仏壇の準備やらご住職への接待やら、細々したことはあうのだ。

通夜や葬儀は葬儀屋が全て取り仕切ってくれるので、そういう面では遺族は楽ができる。しかし四十九日以降は、遺族が全てを段取り取り仕切らなければならない。これがまた、精神的な負担が大きい。誰を呼ぶのか、引き物は何にするのか、食事はどこで摂るのか、食事の席順はどうするのか云々カンヌン…。


しかしそうやって徐々に、故人を「良い思い出」へと昇華させる手順を踏んでいっているのだと思った。

命日

通夜

葬儀

初七日

四十九日

一周忌

三回忌

七回忌


徐々に、故人を偲ぶ日(弔う日)に間隔が空いていくのが分かると思う。宗教的な意味は正直、私は知らないが、私は次のように勝手に解釈した。

故人が極楽浄土へ行き、成仏するようにお祈りするのと同時に、私達遺族も、徐々に故人への強い思いを薄れさせ、故人がこの世にいないことを受け入れ日常へ戻っていく手順を踏んでいるんだ、と。いつまでも故人への強い思いを抱いたままでは、現世に残っている遺族は前を向いて人生を歩むことができなくなる。だから、少しずつ少しずつ悲しみを癒やし、明日へ生きる事に向き合うために「故人を偲ぶ日」を減らしていくのだ、と。

仏教では『五十回忌』が弔い上げとなり、「個人から先祖」という存在になるそうだ。

五十回忌となると、おそらくどこの家庭でも「孫の代」へと変わっている頃であろう。私の父には申し訳ないが、五十回忌までは勤め上げられない。と今から謝罪しておこう。

でも、私が生きている限り、父は私の中にいつまでも存在し続けているから、許していただきたい。

2023年6月28日水曜日

そろそろ本当の話しをしましょう(セクシャリティ)

実はこの話題も私に関する大切な要素であるため、早めに開示しなければならない事であったが、伏線があったためあえて後手に回した。

私はゲイである。

ハッキリと自覚したのは高校生になってからであろうか。いわゆる“第二次性徴期の後期”になってからである。
先回にも書いたが、エリクソンの発達課題『アイデンティティの危機』の真っ只中であった。

「自分は何者か」と言うカテゴリーの中に「自分のセクシャリティとは?」が大きくそれを占めていた。もう30年近く前の話しである。「おかま」「ホモ」「おとこおんな」の様な、今では差別用語とされている言葉が、平気で飛び交っている時代である。

しかも僕が育ったのは田舎である。
全くと言って良いほど情報が入らない。

苦しかった。
自分は異常なのではないか、頭がおかしいのではないか、自分の何かが狂っている、高校生2年生の頃から強く意識するようになった。

単純に「恋心」を抱く相手が男性、と言うだけでなく「性愛」として(つまりは自慰行為の時に想像する相手)も男性であり、周囲の友達との違いに戸惑うのはもちろんの事、誰にも言ってはいけない『秘事』として強く思っていた。

けど、やっぱり一人で抱えきれなくて、同じクラスの仲の良い女子二人にカムアウトした。二人は結構軽く?受け止めてくれて、いつの間にやらその3人で“恋バナ”をするまでになっていた(笑)。

そして当時図書委員だった僕は、図書館司書の方に勧められて『考える高校生』と言う雑誌のモニター高校生になる事にした。その雑誌のモニターでは、自校のイベントの報告や自分自身が考えている事、将来の事など定期的に雑誌に投稿するのだが、実は私、編集部宛に『私は同性愛者でとても悩んでいる』と言うお手紙を書いた。

そして編集部の方が紹介して下さったのは『動くゲイとレズビアンの会』(現在の特定非営利活動法人アカー)である。編集部の方は、アカーの発行する広報誌のコピーをいっぱい送って下さった。

記憶が定かではないのだが、その記事を読んで何かのアクションを起こした記憶はない(もしかしたらアカーの方にお手紙を書いたかもしれない)。ただ、私の様な同性愛者が“フツー”に存在する事、異性愛者と一緒に生活している事を知って、心の底から安堵したと同時に、今居るこの環境では、私は受け入れてもらえる環境にない、と強く思った。

高校3年生の夏休み、とある予備校の集中講義に出るために、1週間ほど、片道2時間路線バスに揺られ、とある地方都市まで通っていた。講義終わり、バスの時間までの暇つぶしに入った大きな図書店で衝撃的な出会いがあった。いわゆる『ゲイ雑誌』を見つけてしまったのである。恐る恐る手に取り少しだけ中を見て、意を決してレジに行き汗ばむ手で会計したのを覚えている。

その雑誌を読みながら、そしてアカーの会報誌を読みながら、「ここでは私は自由に生きていけない。とにかく都会に出なければ!」と意を決したのである。

「理学療法士になる」と「都会へ出る」と言う決意がほぼ同時期に湧き上がり、受験勉強をするための原動力となった。

念願かなって実家を出ることに成功し、医療短大に進学した私は、学校・バイト・サークルの他に『ゲイコミュニティ』という、もう一つの居場所を見つけ、そこでたくさんの出会いと別れ、楽しみと悲しみ、そして“世の中”というものを肌身で感じる事となった。もちろんこれが、私の人生に、大きな転換期を与えたということは、言うまでもない。

私の中核をなす物(③友人・短大〜20代終わり)

私の中核をなす物③友人の高校を卒業してから20代終わり位までのお話しです。

高校を卒業してから実家を離れて、名古屋の短大に進学しました…が、同高からは3人しか進学せず、しかも全員、違う学科😑まぁ、もともと仲が良かったわけやないから、それ程ガッカリせーへんかったけど😜なんせ、新しい生活環境(大都会NAGOYA)と一人暮らしと言う生活条件、そして理学療法学科は21名しかおらず男子は4名😱しかもしかも、現役生は僕だけと言う何とも過酷な?!学生生活が始まった!!

まぁ、男子がまとまるのは当然として、でも現役生は僕だけだから、必然と現役生の女子とも仲良くなり、学科自体の人数も少ない事もあって、結構、皆で和気あいあいとしてた。

僕「都会に住むなら絶対にバイトはファストフード!」と決めていた(笑)から、自宅⇔学校の間にある🍩屋にバイトを決めて、同じ学科の3つ年上の友達も引きずり込んだ。

そしてバイト先では違う大学の学生と友達になって、これはまたこれで楽しい友達だった。そこの🍩屋では社員が二人であとは学生アルバイターで回していたんやけど、歓送迎会🍺・忘年会🍶・新年会🍷・BBQ🍖・海水浴🌊・ナイター観戦⚾・花火大会🎆、色んなイベントがあって、田舎にいたらできない経験をたくさんさせてもらった。
ただ、残念なコトに、その店舗は土地開発の要地になってしまって、僕が短大を卒業と同時に閉店となりました…
その閉店の時に、記念にグラス・大皿・小皿・灰皿をもらってきて今も愛用しています。
アイスドリンク用のグラス、本当に丈夫で落としたくらいじゃ割れないんです😳スゴいでしょ!!

短大の仲間は、仲良かったんだけど、実は僕の知らない所でイゾコザがあったらしく、ただ幸いな事に僕の目の届かない耳に入らない所での事だったらしく、卒業してから何年も経って知らされたって言う…僕が鈍感なだけなのか、皆が気を使ってくれていたのか…真相は、今となっては闇の中😎時には学科のみんなで学校に泊まり込みで、実技講義の練習をしたり、スイーツの食べ放題に行ったり🍰。
そして僕は、本学(僕の通っていた短大は四年制大学の附属的な扱いになっていたから、大元の四年制大学の事を“本学”と呼んでいた)のバンドサークルに入った!最初は4人でバンドを組んで(工学部・医学部・法学部・医療短大と言う異色のメンバー校正😂)コピーをしていたんだけど、それも1年で解体して僕は医学部の女子とペアを組んで打ち込みのオリジナルのユニットを組んだ(“打ち込み”というのはボーカル以外の楽器を全て機械にやらせる今で言うDTM)。そのサークルでも夏は1週間の合宿、大学祭には演奏会、冬には定期演奏会ととても忙しくしていた。

短大時代が一番忙しかったかも。
学校の友だち。バイト先の友達。サークルの友達。そして+α。交友関係が一気に広がって、貴重な体験をした3年間だった記憶があるかな。

理学療法学科のみんなとは、卒業してからも何かと連絡をとりあったり勉強会に一緒になったり、同窓会の役員を一緒にやったり、時には旅行に行ったりとしばらくは密な友人関係が続いていたけど、バイトの友達とはすぐに疎遠になってしまった。

無事に短大を卒業して国試に受かり、就職した先の事は先回、書いたので割愛します…が、就職と同時に夜間の大学に入学したので、そちらの交友関係について書きたいと思います。

社会福祉学専攻は確か80名だったかな。それだけいると全員と知り合うのは無理で、何となく似たもの同士がくっつくんだよね。ホントに面白いことに😆

特に仲が良くなったのは、耳👂が不自由な同い年の男子、目👀が少し不自由な同じPTの男性、たこ焼き屋さん🐙で働いている御姐様、年齢不詳の女子、現役で入学した男子。こんな感じでいつもたむろってた。不思議でしょ?このまとまりのなさ(笑)。その頃僕は、愛煙家だったので、講義と講義の合間には、いつも大体このメンバーでタバコ🚬ふかしながらダベってた(笑)。

ただ、ほとんどみんなが二足のわらじを履く生活をしていたから、プライベートで会うことは殆どなかったかな。時々、学校の講義終わりに、夜の海を見に行ったり(大学自体が海のすぐ近くだった)カラオケ🎤に行ったりしたくらいかも。
残念ながら大学の友だちとは、卒業後、段々と疎遠になっていっちゃった。

夜間の大学を卒業すると同時に僕は、とある市民病院🏥に転職した。そこは、僕が入職するまでリハスタッフはおらず!マッサージ師さんがいるだけの病院で、実質、僕はリハ科の立ち上げに関わることになった、若干25歳にして!いやいや、重荷だよって思ったけど短大時代にお世話になった教授の紹介でもあったので、そりゃ頑張ったさ。僕が入職して半年後に短大の後輩がに入職し、まさに二人三脚でなんとかその病院のリハに関する体制を整えていった。その後輩(女子)とは色恋なしに本当に仲良くて、食事や飲みはもちろん、後輩の彼氏と一緒にスキーに行ったり、最終的には結婚式にも呼ばれました(笑)

その頃になると、短大時代の友人でも特に中の良かった女子3人とよくツルムようになったかな。結局、「理学療法士」といっても「どんな理学療法士になるか」みたいな目標が各々あって、そういう“志”みたいなものが同じような者同士で連絡を取り合うようになっていったと思う。

先回のblogで書いた僕の思い描いていた「理学療法士+α」というのは、実は理学療法士を養成する教員になること、だったんです。だから、自然と僕の周りには同じような志をもった友達が集まるようになり、僕より先に専門学校の教員になった人・大学院に入学して研究している人・臨床研究をする人なんかがいた。僕はとりあえず「大学院に行く」事を目指して勉強をしていたんだけど、友達というよりも「同志」に近い仲間関係に発展していったと思う。


③友人・30代~40代へと続きます。

2023年6月27日火曜日

私の中核を成す物(③友人・小学生~高校生)

 僕の地元🏕は今でこそ“市”だけどそれは『平成の大合併』で市になっただけで、元は〇〇郡〇〇町やったん。そして僕の通っていた小学校も、いくつかの集落の子どもたちが集まってできた学校。僕の学年は1クラスで27人。うち男子は9人😅。そりゃもう、イジメなんてないしクラス全員が友達みたいなもので、つらい思い出なんて一つも思い出せないくらいやったかなあ🤔ただ、男子は“アウトドア派”と“インドア派”に分かれてて僕らは“インドア派”だったかな。いつも。

僕と同じ集落に住んでいたA君は、唯一の同学年の友達で、放課後はいつも彼と一緒。たった2人きりで何をしていたかって?そりゃいっぱいいっぱい😁

裏山にひっそりと秘密小屋を建てて、秘密基地を作ってだいたいそこで過ごしてた。小説のような話やけど、これホントの話やで!!

ある時は、壊れたラジオ📻(誰かの歌ではない)を持ち込んで2人で分解して、また組み立てたり(元には戻らなかったけど、分解することに意義がある)、木片や釘を拾ってきてそれを船に見立てて組み立て、小川で流して競争をしたり、枯れ葉🍂を集めて焚き火したり🔥(大人には内緒でね)、木の葉🌿に絵の具で適当に絵を描いて額縁みたいな木枠を作って飾ってみたり。時には、田植えの始まる前の田んぼにはれんげ草💐がたくさん生えるから、その中を駆けずり回ったり寝転んでみたり花の蜜🐝を吸ってみたり。

そんないかにも“田舎の子どもの遊び”が一変したのが、かの有名な『ファミコン』🎮の登場やった。

確か小学校中学年くらいやったかな。A君より僕が先に買って、僅差で彼が買って。学校でも買っている子が増えてきてカセットの貸し借りとか対戦ゲーム🛩するために誰かの家に集まるとか。それで御多分に漏れず『学校にはファミコンのカセットを持ってきてはいけません!!』と謎の箝口令がしかれて(だってカセット持ってきたって本体がなきゃ遊べないのにどうして貸し借りするために持ってきちゃ駄目なの?って今でも思う🤔)。

そうこうしているうちに中学校へ入学。

中学は、1クラス45人の5クラスあったかな。確か。学区が広がって違う小学校から来てる子達もいて、その分交友関係も広がって。それに部活も始まったから、仲の良かったA君とはすこしずつ疎遠になって。僕は吹奏楽部、彼は美術部に。それに委員会とかも始まってどんどん人脈が広がっていって(委員会は1年生、2年性は図書委員、3年生は生徒会副会長)。

もともと音楽が好きで、小学生の頃から『題名のない音楽会』を毎週欠かさず見ていた渋い小学生だった😁。だから部活が始まったら絶対に吹奏楽、しかもトランペット🎺を絶対やるって決めていた。ただ、残念ながらトランペットはなり手が多くて僕はチューバと言う楽器を割り当てられた😭。でも、みんなで音楽を作り上げることは本当に楽しくて、部活の時間が大好きだった。僕らの学年は男子が2人、女子が10人くらいいたかな。みんな仲良しで本当に音楽をみんなで楽しんでた。

委員会は図書委員をずっとやってて。“これも”何やけど、僕、小学生の頃から小説が好きで(特に赤川次郎さん)毎週、町の図書館に行っては小説を借りてきて読んでた。だって、学校にある図書で読みたいものはほとんど読み漁ってしまっていたから📖。だから、図書委員。何か特別なことをした覚えはないけど😂

そして何故か3年生は生徒会副会長。これは…実はハメられたというかなんというか。生徒会長を決める時にその時の担任の先生が僕の友人の一人、Y君を指名したんだよね。「Y、お前やれよ😁」と気楽に言ったつもりらしいんだけど、そしたら何故か僕に白羽の矢が立って「ケンゴ君が副会長やるなら、オレ(Y君)会長やるわ」と💦💦💦おいおい、なぜ僕?!と心の中で呟いたけど、まさにその時の空気を読み切ってしまった僕は後に引けず「…あ、…はい…やります…僕……副会長…やります…」ということで、あっという間にその年度の生徒会長と副会長が決まったという。。。

ちなみにその当時、クラスの友達の間で流行っていたのは、トランプゲーム(セブンブリッジ・大富豪など)と麻雀。僕は、麻雀の役を覚える気がなかったから、時々、鴨にされに参加するくらいやったかな🦆🧅

とにかく何度も書くけど僕の地元は田舎。高校に進学すると言っても公立3校、私立1校くらいしか選択肢しかなくて、①超進学校、②普通の進学校、③就職専門校、④私立1校は公立校の入学が危ない子のための滑り止め校やった。大体の子が②か③の高校に進学するんやけど、僕も②に進学するつもりでいたし、正直、成績はそこそこ良かった😁からあんまりしっかり勉強した記憶がない。でもいつも、三者面談では「やれば出来る子なんですけどね。やらないだけで」と母親と担任が言っていたのを横目に「ハイハイ👋」と心の中で思っていた、いい加減な子だった。

②の高校に進学して、いよいよ、大学進学のこととかも考えなきゃ行けない時期。そして青年期の到来。エリクソンの発達課題「アイデンティティの確立と同一性の拡散」と真っ向からぶつかった時期。「自分は何者なんだろう」「自分はどんな人間になりたいんだろう」そんな事をずっと考えていた気がする3年間。それは僕のセクシャリティにも関連するんだけど、それはまた後日。

中学生の頃とは違い、また広い学区から生徒が集まるから、もちろん新しい人間関係も生まれる。僕はどちらかと言うと自分から声をかけることが苦手で🐱でも不思議と誰かが声をかけてくれて友達になってくれる、そんな環境というか人間関係に恵まれていた。初恋らしい初恋をしたのもこの頃かな(奥手?)。

ちなみにクラスは理系国立・理系私立・文系国立・文系私立・その他専門学校みたいなクラス分けで僕は理系国立のクラスへ。クラスメイトは持ち上がりで変わりがなかったから、友達はずっと友達でいてくれて(?)大きな諍いごともなく。

その代わりと言うか、やはり興味関心は、どんどん自分自身へと向いていった時期だと思う。


その頃の僕は、「人の好き嫌い」がハッキリとある方ではなかったから、基本的に誰とでも普通に?接することはできてた。人間関係で悩んでいたとすれば、高校生時代かな。初恋云々はおいておいて、部活で部長を務めたんだけど、とにかく集団をまとめるのが下手くそで…それで落ち込んだこともあった↷(多分、この失敗は今でも引きずっている💦)副部長は女子で仲が悪いわけではなかったけど、女子の集団特有の派閥抗争はあって、それに巻き込まれてしんどい思いはしたけど…まあ、寝られないとか食事が摂れないとか、そんなことはなかったから。

総じて僕は、友人関係に恵まれていたと思う。本当に。誰かが周りにいてくれていたし、誰かと悩みも共有できていたし。ただ、僕の人格形成における高校生時代というのは、その後の僕の人生に大きな転換期を与えたことは間違いないと思う。

私の中核をなす物(③友人・短大~30代)へ続く…

2023年6月26日月曜日

私の中核を成す物(総論・①・②)

なんか〜今まで堅苦しい話しばっかだったし、文語調で読みづらい内容もあったので、もっと僕のPersonalな部分をお話ししたくて、ちょっと🤏だけ指向を変えてみました😜

とは言え、内容に合わせて文調も変えますので、あしからず🙇🏻‍♂️

「私の中核をなすもの」つまり、僕を作り上げている、とても大切な人・モノ等を紹介したいと思います🙋🏻‍♂️

テーマは7つ。
もしかしたら、途中で追加するかもしれないけど、そのへんはゴカンベンを😌

①仕事
②家族
③友人
④音楽
⑤漫画
⑥ドラマ
⑦映画

今回は①仕事②家族、について少々🧂


①仕事
今まで散々書いてきてので、もう、お腹いっぱいでしょ😏?なので書き足らなかったところを少々🧂。
自己紹介欄に「社会福祉士を取得」とあるんやけど、実は僕、社会福祉士の仕事はしたことあらへんのんですわ😅
医療短大を卒業して本当は大学院に行きたかったんやけど、四大卒(学士)の学位がないと大学院は入られへんのんです。だから、短大卒(準学士)ではあかんので福祉関係の大学、しかも夜間大学に入学して、二足のワラジはいてたんです🩴🩴。
「せっかく福祉関係の大学入ったんやし🤤」と思って、社会福祉士の取れるコースに入って、国家試験を受け一発合格💪🏻。
いゃ〜若かったから。若かったからできたんっすよ。今はムリ。やれって言われても絶対にムリ🙅🏻‍♂️(ちなみに理学療法士になるために必要な学生時代にやる“臨床実習”も今やれって言われても絶対に無理。てか嫌。絶対に嫌。)

その頃はまだ、介護保険制度が始まる前で、ウチの大学の教授「あんな制度5年ともたんわ!!」と豪快さしとった人もおったっけ🙎🏻

ただ、理学療法士の仕事をしとって役に立つ知識もたくさんあって、特に社会制度の事なんかは、「知っとって良かったなぁ」って思った事も度々。
と言っても所詮は「ペーパー社福士」。知識も古いし今、役に立っていると言えば「集団援助法」とか「個人援助法」などの方法論くらいかなぁ🤔


②家族
今は、実家で一人暮らしをしている母、そして地元で結婚した姉が僕にはおって、姉には義理のおにーさんと3人の子ども(㊛・㊚・㊛)そして義兄のおとー様、おかー様がおるん。

母は、80歳間近だけど、朝は友人とウォーキング1時間、午前中は畑仕事🍆🥒🥔🧅、午後はゆっくり新聞📰見たり車🚗を運転してスーパーに買物行ったり、スポーツセンターのヨガ🧘に行ったり。実はこのヨガ教室、僕の姉がインストラクターを勤めているんだよねスゴイデショ。
父が亡くなるまでは、ウチの母、介護に仕事に追われた生活をしていたから、父が亡くなって「初めて自由な時間を過ごしてる」と喜んでおります(天国のとーちゃん👼ゴメンね)。母に関しては後日、またゆっくりと書きます。

そして姪や甥。
長女は大学4年生。教員👩🏻‍🏫になるべく一所懸命に勉強して、今年の夏は教員採用試験に挑戦します。長男は絵を書くことが大好きでイラストを描く専門学校に行っております。夢はイラストレーター🧑‍🎨。本や雑誌の挿絵に使うようなイラストを描きたいと思っているようで、毎日毎日“勉強のために”イラストを描いているとのこと(義兄曰く「毎日マンガ描けるなんていい学校だなあ~」だそうで)。末っ子の次女は高校1年生。めちゃくちゃ頭がいい。この3兄弟の中で一番、頭が良くてそして勉強大好き人間。僕の予想ではリケジョ👩‍🔬になるのでは?と思っているけど本人の夢はまだ、固まってないそう。タノシミダナ

この甥や姪たちの母である僕の姉は、スーパーポジティブ人間。長くヨガをやっているせいもあって?確実に今を生きている人。時々LINEすると「おしりの穴をキュッと閉めて!大事な気が抜けていかないようにねっ!!」とアドバイスくれる人。
長男の本家へ嫁いだので、色々と大変だと思うんだけど、それを微塵も感じさせない人。きっと旦那である義兄がいい人なんだと思う。ウラヤマシイヨ

僕は一人、地元を離れて暮らしているけど、今は便利な時代📩📱📷。
いつでも連絡取れるし、遠くにいてもそばに感じることができる、ありがたい時代。もちろん、遠くにいるといっても、僕は地元から車で高速を使って1時間半くらいのところに住んでいるし、何かあったらすぐに駆けつけられる距離。
これは僕の一方的な思いかもしれないけど、これが僕の家族にとっての「程よい距離感」かなって思っています。


2023年6月25日日曜日

医療の現場で働く事の楽しさと闇

 時々、尋ねられるのだが「どうして理学療法士という仕事を選んだのですか?」と。特に、実習生と話をしているとよく出てくる話題だった。

よくある話だが、私はもともと体が弱く、母を心配させたものだ。

小さな頃は小児喘息があり、ある程度大きくなってからは、扁桃腺肥大があり、年に何度も高熱を出し病院にお世話になった。多くの人は「病院は怖いところ」というイメージかもしれないが、私にしてみれば「優しい大人のいっぱいいる安心できる場所」という認識であった。

たまたま義理の伯母(母の兄の嫁)が看護師で地元の病院(といっても個人の病床数50にも満たない小さな病院)に勤めていたため、僕はよくその病院に通院して治療を受けていた。

昔の医師というと、頑固一徹・わがまま許さん!みたいなイメージだが、その病院の僕の内科の主治医は、とても品があって穏やかでいつもニコニコしていてなんだかいい匂いのする“ロマンスグレー”だった記憶がある(笑)。

とにかく、その病院の職員さんはみんなが優しく穏やかで、僕は居心地の良さを感じていた。

その影響かいつの日にか「医療従事者になろう」と自然に思うようになった。ただ当初は「看護師」という仕事を考えていた。というか看護師しか頭に浮かばなかった。医療従事者と言えば薬剤師や検査技師、レントゲン技師なども当時からあったが、もっと患者様と触れ合える仕事がしたかったのである。

しかし。しかしである。その義理の叔母に相談したところ、断固反対されてしまった。

理由は「男性の職場ではない」から、だと言う。

それ以上は詳しく聞いた記憶はないが、仕事の内容(例えば下の世話とか)や集団の女性特有の仲間意識だったりだとか、きっと義理の伯母はそれを言いたかったのだと思う。その頃の私も、そこまであまり深くは考えておらず、伯母がそこまで反対するのであれば、やはり辞めておくのが賢明だろうと思い、他の職種を探すことにした。

しかし、先程も書いたように、他の仕事でピンと来るものはなく、考えあぐねていた時に母が「理学療法士という仕事があるらしいよ」と教えてくれた。それこそピントは来ず(笑)とにかくどんな仕事かを調べはじめ、理学療法士になるにはどのようにすれば良いのかの情報収集をし始めた。

確かに、患者様とたくさん触れ合える仕事だ。

しかも、まだ、なり手が少ない。

狙い目かも。

理学療法士作業療法士法が制定されたのが昭和40年、私が昭和50年生まれであるから、それほど古い資格(当時は)ではなかったため、田舎に住んでいた私の町に理学療法士がいたという記憶もなく、また、“リハビリテーション”という言葉そのものも一般的ではなかった。

正直、具体的な仕事は分からない。分からないが、やってみたい。

もともと、根が天邪鬼である私は、人と違うことがしたいと常々思っていたので、こんなピッタリな仕事はない!と思い、母の勧めるがまま理学療法士になることを、理学療法士になる学校へ進学することを決意した。

勉強は想像以上に大変であったが、留年することもなく、国家試験も一発で合格し、無事に理学療法士として働くことになったが、先回このblogで書いた通り、大変でもあったが仕事仲間に恵まれてとても楽しかった。

こんな事を書くと誤解があるかもしれないが、患者様が段々と良くなっていく姿を見ることも理学療法士としての醍醐味ではあるが、私はむしろ患者様とお話しをし、その方の人生を知ること、生き様やこれまで成し遂げてこられてきたお話しを聞くことが、とても楽しかった。その方が苦しんで来られたこと、楽しんでこられたこと、生きがいにされてきたこと、それら患者様の過去を聞くことは、目の前にいらっしゃる患者様の“今”を理解することにつながると思っており、たくさん昔話を聞かせていただいた。

患者様に対して、優しい言葉掛けや気にかける言葉かけをするのは当たり前のコト。一歩踏み込んで「この方ならこんな風に感じるのかも」「この方だったらこう考えるかも」という想像(妄想)で言葉かけすると、患者様との信頼関係が築きやすくなることに、私自身が気が付き、実践するようにしていた。そうすると、その方に寄り添うことができ、機能回復も順調に進んで行くように思われた(エビデンスはない)。

一方で「病院側の都合」というものがある。

昨今では「急性期病院」「回復期病院」「維持期病院」「クリニック」などの機能ごとに病院が細分化されることにより、それぞれ入院日数が決まっていたり、受け入れ可能な疾患が決まっていたりと、制度そのものが一般市民には分かりにくいものとなってしまった。

ただ、病院も潰れる時代である。経営も考えなかればならない。あまり深くは書かないが、そのような“患者操作”のような事があることは事実である。

また、よく言う「派閥争い」みたいなものも多かれ少なかれあるのが現状だ。やはり働く人数が多ければ多いほど、どうしてもそのような抗争はある。20数名でのリハ科の中でもなんとなく派閥ができてきていたし、ましてや病院全体となると、例えば「院長派」「副院長派」「事務長派」などの派閥ができてしまう。それはそれで仕方のないことだとは思う。しかしそれが患者サービスへ影響したり、職員の働きやすさ(働きにくさ)にまで影響することもあり、末端の人間としてはまさに「勘弁してよ」という状態になることもしばしば。

ちなみに先日書いたblogに出てきた、私が最初に就職した職場(内科と整形外科のクリニック)では、そのようなことはなかった。整形外科の医師と内科の医師はご夫婦で、整形が旦那様、内科が奥様であった(夫婦喧嘩が勃発することもありやや険悪なムードのときもあったが、とりあえず仕事には支障なかった事もある)。

あゝ、今思えば、そのような派閥抗争のようなことに巻き込まれること自体、私にとっては精神的な負担にもなっていたし、それでも患者様には迷惑をかけられないと思い、そして何より『めんどくさい』のである。そう、めんどくさい。いい歳をした大人が、しょーもないことで争い事をする、それが私にしてみたらしょーもない。

(気分を害された方がいらっしゃったら謝罪する)

これ以上は、タダの愚痴になりそうなので辞めておくが、もちろん、医療の現場だからとか医療従事者だからとか言う、特有の“やりがい”や“楽しさ”もある反面、そうでないものもたくさんあると言うことだ。

2023年6月23日金曜日

私の主張!!仕事仲間に求めるもの

 私が理学療法士として、最初に就職したのは、内科と整形外科の有床診療所(ベッド数19床のクリニック)でした。リハビリテーション科には理学療法士しかおらず、同じ医療技術短期大学を卒業した常勤の先輩が二人、非常勤が一人、他校の卒業生の先輩が一人、そして同期入職(他校卒業)が一人の計六人であった。

話を進める前に、これは25年ほど前の話になることを付け加えておく。

その頃の整形外科クリニックのリハビリと言えば、やればやっただけ儲かる部署であり、もちろん患者様からも人気の部署である。そのクリニックでは、午前中は高齢者の慢性疾患が主で、中休みが3時間ほどあり、その後夕方からは一部、入院患者様のリハ。その後は外来患者様で仕事終わりの方や学校終わりの学生さんが中心で、スポーツ障害や交通事故後や仕事での障害などが主だった。

これは少し裏話的な話になるが、診療報酬の制限で「理学療法士一人あたり一日、患者様は◯◯人まで」「患者様一人あたり〇〇分まで」という規定があり、そのクリニックではその限度いっぱいまで患者様を診ているような、とても大人気なクリニックであった。

そんなこともあって「新卒研修」など全く無く、入職した当日になんとなく一日の流れを掴むことだけして、翌日には、ほぼフルで働いていた(笑)。もちろん、不安もたくさんあった。疾患を持った患者様に実際に触れるのなんて、臨床実習以来。しかも誰も「手取り足取り」してくれない。ただただ、その当時の自分自身の知識をフル稼働し、動きを観察して考察し、手先や手の感覚に集中して患者様に触れていくしかなかった。

ここまで聞くと「なんて乱暴な職場なんだ!けしからん!」と思われるかもしれない。しかし、何度も言うが25年も前も話しである。「理学療法士」という資格がまだ成熟していない時期でもあったし、大御所の先生方も色々と模索していた頃であったと思う。

先に書いたように、そのクリニックの理学療法士は、経験年数も年齢もみんなが近く、誰もが気楽に話せる、相談できる、卒業校なんて関係なく、私の考える意味での“仕事仲間”であった。

月~水・金~土の夕方の診療が終わるのが20時頃。それから、誰かが言い出すともなく「〇〇さん(患者様)の〇〇なんだけど…」と話が持ち上がり、特に用事のある人のない限り、みんなが知恵を絞って、あーでもないこーでもないとディスカッションが始まり、治療技術の伝えあいや指導が始まる。大体21時過ぎまでだろうか。終わるのは。ちなみに残業代はつかない。

それが、全く苦ではなかった。

もちろん、若さもあったかもしれない。

けれどそこには「患者様のために」「自分自身の技術を高めるために」という共通の思いがあり、まさに“プライスレス”な時間と空間があった。だから、自分の考えをぶつけることができたし、自分の無知を恥じることもなかったし、何より楽しかった。

(余談だが3時間の中休みは全員、昼食と昼寝の時間だった)

経験年数も年齢もみんな若いということもあって、理学療法士のメンバーからはいわゆる管理職的な者はおらず、他に技師長(レントゲン技師さん)がリハ科の長も兼ねており、やや自由にやらせてもらっていた記憶がある。

私はそのクリニックで4年間働き、本当に良い経験をたくさんさせていただいた。もちろん、挫折も味わった。患者様からクレームを受けたこともあったが、院長先生をはじめ技師長のフォローやリハスタッフの励ましもあり、まだ、若い私は救われながら働け、とてもありがたかった。

それから時が経ち、40代に入ってから入職した職場。100床の病院ではあるが法人として他にいくつも施設があり、勤務していた病院にも、理学療法士・作業療法士・言語聴覚士全て揃って20数名ほどのリハ科に配属された。そう「ありふれた理学療法士」として働いていた職場である。

今、この時代である。臨床教育も業務の一環。仕事の一環。もちろんそれは歓迎されるべきことであるが、年長者が初学者に「知識や技術を伝える・教授する・指導する」事が主となり、またそれが当たり前の“形式”となっていたため、正直、私は物足りなさを感じていた。昨今の学校教育に言われていたように「主体性・自主性がない」と思ってしまっていた。また、誤解を恐れず言葉にすると「教えてくれないことが悪」のような風潮はあり、「誰かが何かを頑張る・頑張っているからそれをみんなで応援する」「それがみんなに感化して“自分もこのままじゃまずいことになる”と思うようになる」と言うような、“陽の連鎖”みたいな現象は見られなかった。

当時の職場では、役職こそ付いていなかったが、最年長であった私は危機感を覚え、システマティックに勉強会をすすめていこうと、立案・計画し、手伝ってくれる仲間を募り、上長の許可を得て3カ年計画で、経験年数に準じた目標を掲げた勉強会を進めていくことにした。

まあ、トライ・アンド・エラーでいくつもりではいたが、実際にはエラーばかりで、その計画した方法で臨床教育が良い方向に向かったかと言うと、正直、狙い通りではなく私の満足のいくものではなかった。

もちろん、私自身の立案した計画にも問題があったと思う。今思えば「あーすればよかったな…」と思うことがいくつも思い浮かぶのであるが、その時、その現場では正直、軽い失望感しかなかった。

その頃、臨床教育のことだけではなく現場内の人間関係に悩んだ時期があり、それを事務長に相談したことがある。「職場は仲良し小好しの集まりではないから。色んな人がいるものだし、仕事がうまく回っていけばそれで良いんじゃない?それにケンゴさんが責任感じることはないと思うから。もっと気楽に!」とアドバイスを頂いたこともある。それも一理あるし、自分のメンタルを守るためにもそれを実践することが正しいことかも…と思い、そのように立居振舞っていた(つもり)。

でもな…

やっぱり…

どうしても、僕が最初に働いていた現場と比べてしまうのである。「割り切る」事をすればするほど、現場が楽しくなくなり(もちろん患者様と接することは楽しかったし相変わらずやりがいを感じていた)“その現場で仕事をすること”が苦痛に思えてきた。

20数名ほどのスタッフ全員が同じ方向を向いて、同じだけの熱量を持って仕事をするなんて、確かに無理なのかもしれない。何度も何度も、自問自答した。でも…でも…と。

出した答えは「私は大所帯の職場には向いていない」というコト。やはり仕事仲間とは、同じ熱量を持つまではいかないにしても、せめて「同じ方向を向いていて欲しい」と思うのである。私自身、組織を動かすこと自体に苦手を意識を持っていて、また、そこに自信がないため、物理的に離れることにしたのである。

今回のblogタイトルから、徐々に話が逸れはじめたので、本日はここまでとする。

2023年6月22日木曜日

あるようでないようで。生きる目的、生きる意味。

 あなたの生きる目的、その意味はなんだろうか?

哲学のように難しく考えずに、パッと思いついたものはなんだろうか?

10代の頃は、そんなことなんて考えもせず生きていたと思う。私自身今、思い出そうとしても思い出せない。20代の頃は、生きる目的=仕事、と考えていたと思う。「こういう職業に就きたい」「仕事でこんなことがしたい」と理想や夢を叶えることが生きる目的だと考えていたと思う。

先回の私のblogで『医療短大を卒業してからやりたい夢があったからUターン就職はしなかった』と書いたが、それは「理学療法士+α」の仕事がしてみたいと思っており、その夢を叶えるための“ロードマップ”があり、それを一つずつクリアしていくことが、その頃の私の生きる目的であったと思う(私が具体的に何をしたかったのかは、後日、機会があれば触れてみたいと思う)。

しかし、その夢や理想が叶ったとき、または“頭打ち”であったり想像してあったものと違うと感じてしまったとき、途端に「生きる目的、生きる意味」を見失ってしまう。私はとある事がきっかけで、30代始めでそのような経験を味わった。

それは、一種の絶望に近い感じであった。

その当時、思ったのは「仕事に生きる目的をもたないようにすればいい。何か他のことを…」と考えを改めるに至った。そしてその当時、お付き合いをしていた人がいたこともあり、その人を一生の伴侶とし、その人との家庭を守っていくことを「生きる目的」と心に決めた。その一環として同棲を始め、仕事は理学療法士という仕事を辞め、一般企業に入社し出版関係の仕事をしていた(これについても後日、機会があれば触れてみたいと思う)。

紆余曲折あり(書くと長くなるので省略)、同棲は解消されまた私は「生きる目的、意味」を失ってしまった。

それまでの私の人生で、「生きる目的、生きる意味」というものは、ハッキリと言葉で表現でき具体性があるものであった。

40代に入り、理学療法士+αとして何かを残してきたわけでもなく、誰かと添い遂げ、家庭を持つわけでもなく、しかし他に「何か」があるわけでもなく、ただひっそりと病院に勤務する「ごくありふれた理学療法士」として生活していた。

そんなとき、私は心の病になった。

大きくメンタルダウンをしてしまい、仕事もままらなくなり生活を送ることそのものが危うくなった。

その時に、強く思った。

幸せになりたい。

一人暮らしの部屋で、しがない中年男が、涙しながら強く思った。

幸せになりたい。

それから、自分自身が幸せになるにはどうしたら良いのだろうか?また、幸せを感じる時ってどんな時だろうか?僕にとっての幸せってなんだろうか?と、深く深く考えるようになった。


実は今現在、その答えは見つかっていない。

つまりそれが私にとっての「生きる目的、生きる意味」なのだと思っている。

2023年6月21日水曜日

そうは言っても…親というものは、子というものは

50歳に近づいてきて、最近つくづく思うのは「私が10代・20代の頃の親ってこんな気持ちだったんだな」と言う事である。

私の親は、子育てに関してはほぼ放任主義で、やりたい事をやりたいようにやらせてくれていた。勉強をしろとガミガミ言われるでもなく、将来の職業についてもアレヤコレヤと口出しすることなく見守り続けてくれていた。
理学療法士の養成校(医療短大)を卒業後、私には夢があって、その夢を追いかけるとなるとUターン就職はできず、実家に戻るつもりはない、と伝えた時も、大事になる事はなかった。

私が20代半ばの頃、父が50代始めの頃より、父が身体の不調を訴え、時々、私のところへ電話が入るようになった。

食欲がない
胸がつかえた感じがする
胃が締め付けられる感じがする
云々…

その頃、父はまだ働いていたが、それらの不調で仕事を休む事も多くなったと言う。

話しを聞いているとその“不調”と言うのも一貫したものがなく、様々な医療機関を受診し検査をしたが、異常はなかった。
と、その話しを聞いただけで僕は「心気症だな…」と思った。

当時の私の知識では、心気症の裏には鬱傾向、不安障害傾向などある事は分かっていて、何とか精神科や心療内科を受診して欲しかったが、やはり父は納得がいかず、ひたすら内科を受診していた。

ただ、いつも父から電話がかかってきた時は、できるだけ否定をせず訴えを聞き、父の言う“内科の病気”だと僕も信じ、この病院に行ってみたらどう?とかアドバイスをしながらやり取りをしていた。

いつも電話を切る頃になると父は「ケンゴに話しを聞いてもらうといつも楽になる」と言っていたことを思い出す。

そんなやり取りが1年以上続いた頃、さすがにもう、どんなに検査しても何も出てこないと半分、諦めたのか、「精神科へ行ってみる」と連絡があった。

診断名は「うつ病」だった。

その頃、実家には、山も畑も田もあり、畑以外は全て、父が面倒をみていた。いわゆる“兼業農家”だ。平日は会社員として働き、休日は田や山の世話をする。

毎年毎年、終わる事のないその作業を、ゴールも見えないままし続けると言うのは、私にしてみたらそれは「苦行」だ。
しかも、誰かにその役割を変わってもらうことができず(つまり私がその役割を変わってやらなかった)、放り出す事もできなかった。

いや、できたであろうに、真面目な父は「先祖代々の土地を守る」事が大きな使命と思っていたのかもしれない。昭和17年生まれの男性ならば、その様に考えていたとしてもおかしくはないだろう。

誰かに頼りたい(精神的にも肉体的にも)でも頼れる人がいない。自分が頑張るしかない。何とかするしかない。

そんな気持ちで父はいたのかもしれない。

今の私は未婚で子もおらず、気楽な一人暮らしで、とりあえずは自分の事だけを考えて生活していればよいのにもかかわらず、時々、誰かに頼りたい気持ちがある。

きっと父も誰かに頼りたかったのかもしれない。それを無意識下に押し込めた結果、心気症として現れたのかもしれない。

中年期と言うのは、青年期と同じくらいに、気持ちや心の揺らぎが大きく、それを上手く乗り越えていくには、それなりの覚悟が必要なのだと思う。

こうやって父の気持ちが想像できるようになったのも、自分自身がこの年齢になり、そして様々な経験をしてきたからこそ、なのだと思う。

2023年6月19日月曜日

楽に生きるための技①今だけ今日だけ

 私は定期的に、自分自身のメンタルヘルスケアの一環として、マインドフルネス瞑想を行っている。

きっかけは、数年前にメンタルダウンした際、臨床心理士さんのカウンセリングを受けた時に、僕が「認知行動療法をやってみたい!」とお願いしたのが発端だった。

認知行動療法は、僕の仲の良い友人が体験していて、すごく良いからと勧められたのもあったし、その理論は、一見「心理」という雲を掴むような実態のない対象に対して、実に理論的にアプローチしていて、興味を惹かれたからだ。

僕は認知行動療法の専門家ではないので、詳しいことは専門書を参照していただくとして、「認知」「感情」「行動」「(身体)反応」を関連付け、自分自身のストレス反応のパターンに気付き、悪循環に陥らないように調整していく。

その臨床心理士さんが教えてくれたのは、「認知行動療法とマインドフルネス瞑想法を一緒に実践していくのが良い」とのことで、カウンセリングの時間の2/3は認知行動療法、1/3はマインドフルネス瞑想といったプログラムですすんだ。

何度か、実践していくうちに「それで認知行動療法とマインドフルネス瞑想法を一緒にやるといいんだ!」と合点がいくようになった。

どちらも「今」「ここで」を大切にするからである。

人間は、過去の過ちに囚われ、見えない未来の先取り不安に感情を揺さぶられることで、いちばん大切な「今」を忘れてしまうと、それがストレスとなったり精神的な不安定さを引き起こしてしまう。

この「今を大切にする」という根本的な考え方は、前述した療法や瞑想だけでなく、ヨガでの瞑想、禅の修行などにも用いられていると聞く。

また、これは少し意味合いが違うかもしれないが、NA(ナルコティクス アノニマス)における12STEPでも「今日だけ」という言葉が出てくる。

もしかしたら、これはごくごく当たり前のことなのかもしれないが、今を大切に生きること、今すべきことをするということに焦点を当てて過ごしていけば、少しでも心の平穏が保たれるのかもしれないと思っている。


2023年6月13日火曜日

汚いモノは嫌われる?!行動免疫システム!!

先日、若い研究者と話しををする機会があった。その話題の中で「行動免疫システム」なるものがヒトには備わっているとの事!

医療・福祉業界に長くいる僕でも知らなかったこの言葉の意味はとても興味深いものだった。

少し「汚い」話しになるのでご勘弁を。

多くのヒトはなぜ、糞尿を見ると「嫌悪」するのか?それらを「汚くて避けるべきモノ」として認識するのか。

それは糞尿があらゆる感染症の感染源になるから触ってはならない、近づいてはならないモノだと本能的に反応するため、と言うのが最近の研究で分かってきているそうだ。

それを「行動免疫システム」と言うのだそーだ。

この様な行動は、昆虫や鳥類にも見られるようで、生物の長い進化の過程で得られた、一種の生命を守るためのシステムなのだそうだ(詳細は各専門論文で)。

昨今のcovid-19感染拡大による一連の騒動を思い出して欲しい。事実、地方では、どの家庭から感染者が出たのかと言う“噂話し”は絶えることがなかった(私の地元でも御多分に漏れず)。また、都市部のナンバープレートを掲げた自家用で地方へ出向くと、何らかの嫌がらせを受ける、と言った事も話題に上がった。

そして“医療従事者への謂れのない風評被害”である。一部、医療従事者の家庭のお子さんがいじめにあったり、御本人も今までお付き合いのあったご近所さんと距離ができたりと、covid-19に感染しているわけでもないのにヒトから“嫌悪”されると言う事象があったと伝え聞く。

さて、前の話題に戻って、ヒトは感染源となり得るモノを嫌悪し距離を取ろうとすると言う理論に当てはまると、至極、当たり前の行動であると言わざるを得ない。
これはcovid-19の話だけではなく、過去が物語っている。

ハンセン病しかり
エイズ(HIV感染症)しかり

簡単には感染しないと分かってはいても“嫌悪”する感情は、理屈では説明できない部分ではなかろうか。もうDNAに組み込まれてしまっている感情と言ってしまっても良いのかもしれない。

ここで大切なのは、私たちは“人”であって“ヒト”ではないと言う事である。昆虫や鳥類ではないと言う事である。

嫌悪する事と差別行動をとる事とは、関連はあるとはいえ、全く別の事と捉えるべきである。

人は高い知性を持ち理性があり、そして何より、相手の立場になって考え、思いやりや優しさを持つ生き物である。
嫌悪を抱いたとしても、それはそれとワキへ追いやり、取るべき行動が取れるのが人であると、私は信じている。

その若い研究者は、HIV陽性者への偏見差別に関する研究をされているとの事。

将来は明るい。

2023年6月12日月曜日

死を考える①人は生きるもの、死ぬもの(追記あり)

初めましてのブログです。
勇者ケンゴです。宜しくお願いします。

最初のブログで何を書こうかすごく悩んでいたのですが、先日、Twitterのフォロワーさんが亡くなり、改めて生と死を考えるようになりました。

その方とTwitterでつながったのは、確か5年ほど前だったと思います。彼は若くしてとある病がきっかけで、片麻痺の後遺症が遺ってしまったため、普段はT字杖を使っていました。それでも、Twitter越しに見える姿は、凄くオシャレをして楽しそうな毎日を送っている様でした。

僕がPTである事を、たまたま彼が知り、DMで「長く歩くと〇〇が痛くなるんだけどどうしたらいい?」みたいな相談をよく受けてました。そして、僕の伝えた様に実践しその報告をしてくれていました。

Twitter上でも“丁々発止”とした僕との掛け合いが、時にはエンドレスになるのではなないか?!と思うほどでした。

彼はとても明るくて、そして一所懸命で、毎日を楽しくしようとしていました。
そして、時々、向こう見ずな事をする危うげなところもあり、歳上である僕はいつも小言を言っていました(笑)。

様相が変わりだしたのは、2023年の年明け頃だったと思います。

Twitter以外の連絡方法は分からないので、詳しく様子は分からないのですが、どうやら入院をしたと。そして手術をすると。

それからは入退院を繰り返し、あっと言う間に、2023年6月10日に永眠されました。

退院したある時、Twitterのスペース機能を使って話しをした時に、病状や手術の内容を聞いてはいたのですが、“その時”が来るのはまだまだ先だろうと僕が考えていたので「7月になったら会いに行くよ!」と言う話しになり、彼も自宅に招待してくれる事を約束してくれました。また、その時に余命について医師からは聞いているかどうかも確認しました。

聞いてはいたようですが、僕は具体的な数字を聞きませんでした。

怖かったのです。

ここ数年、「会いたいと思った人には会いたいと思った時に会いに行く」を実践しつつあったので、それが叶わずとても悔しく思ったのと同時に、年下30代の彼が若くして死を迎えてしまった事に何とも言えないやるせなさを感じ、ただただ残念で悲しいばかりです。

多分、僕たちが生きることや死ぬこと自体に何も意味はないと思います。だけど僕らは人だから、そこに何かを見出そうと考えてしまう。そうでなければきっと人は生きていけないのかもしれない、と思います。

彼の死は、僕の生にどんな意味を与えてくれるのだろうか。
もうしばらく静観してみます。


2023年6月26日追記
どうも、彼(N君とします)の事が頭から離れないようです。なので、ここで言葉にして心の整理をしたいと思いますので、しばらくお付き合い下さい。

彼に対して恋愛感情なんてこれっぽっちもなくて(笑)ゴメンねN君。7月になれば会えると信じていたから、余計に気になるのかな…こんなに早く逝ってしまったことが受け入れられないのか…心の何処かで、もっとN君との時間を過ごすことができると信じていたからなのか。

最近の僕は、とても時間の流れがゆっくりだから、N君が他界してからやっと2週間とちょっとしか経っていないなんて信じられないよ!。だから「時間が解決する」というにはまだ早すぎるもんな~

やっぱり一番の心残りは、一度も会えなかったことなのだと思う。ひと目会っておけば、理由は分からないけど、自分自身納得できたんだと思う。

「いつか会って話がしたいね」なんてDMでやり取りしてたこともあったし、そうそう、今年に入って、入院中の彼に「どうせ暇だろうから僕の作ったサイトの感想聞かせてよ。で、直したほうがいいところあったら、じゃんじゃんDMして」なんて言ってたんだよね。そうだ僕、彼の病気の事を甘く見すぎていたんだと思う。覚悟していなかったのだと思う。

身近な人や顔見知りの人が亡くなっていくことは何度も経験しているけれども、これほどまでに悔やんでいる人の死は初めてかもしれない。

父が亡くなった時でさえ悲しかったけど「ちゃんと送ることができた」と、自分で自分に納得できたし、早い段階で受け入れることができていたのに。N君の事となると、多分、自分で納得できていないんだと思う。

ゴメンなN君。
身勝手な僕の自己満足に付き合わせてしまっているのかもしれない。こんな事、書いてたり考えてたりしてたら、安心してアッチに逝けないよね。でも四十九日までは、まだ極楽浄土へは逝けないらしいから、まだ4週間近くあるから。きっとその頃には、ちゃんと受け入れていられてると思う。
でも、四十九日っていま計算したら、7月29日だってよ!まだまだ先だな!おい。
しばらく、僕の頭の中のグルグルにも付き合っておくれ。やさしいN君に甘えてばかりでゴメンよ。

また、もしかしたら追記するかも。
そん時はよろしく。

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