ここ数日、熱発したり咽頭炎になったり寝込んだりしていたら、ボクがHIVに感染した頃の事を思い出しまして。多分、ここでは詳しく書いていなかったと思うので、どうやって感染したかとかどうやって陽性告知を受けたのかとか、「ボクのリアル」を伝えていきたいと思います。
ボクがHIV陽性告知を受けたのは2003年11月です。そう今年で20周年。
少しだけ、HIV/AIDSの歴史をふりかえりますと…
1981年にアメリカで初めてAIDSの報告がありました。
日本では1985年に初のエイズ患者の報告がありました(ボクが10歳)。
その後、神戸を皮切りに「エイズパニック」というものが、マス・メディアによってセンセーショナルに報道されました。
そして薬害エイズ事件。
そして1996年頃よりHAART(現在のART)と言う治療法が確立し、これによりHIV感染症は「死の病ではない」と言われるようになってきました。
なので、ボクはこのARTが確立してからわずか5~6年後に陽性告知を受けたのです。
2003年ボクは27歳でした。
当時、とある地方都市の公立病院に勤めていたんですが、プライベートの方は少々荒れておりまして(笑)ちょうど、数年、お付き合いしていた男性と別れたということもあり、ネットの掲示板で知り合った人と一晩だけを共にし性行為をする、と言う事を何度か繰り返していました。
医療短大時代、感染症の勉強はしていたので「肝炎には気をつけなきゃ」と思っていたのですが、HIV/AIDSはどこか対岸の火事…的な感覚でいたのは事実です。「気をつけなきゃ」と言いつつも、コンドームを使わないリスキーな性行為をすることも度々あり、半年に1回くらいのペースで保健所の無料匿名検査を受けていました。
確かあれは初夏…だったと思います。
ネットの掲示板で知り合った人とリスキーなセックスをしたのですが、翌朝、40℃くらいの熱を出し、本当は出勤日だったのですが、とても動ける状態ではなく病欠しました。ボクは元々、扁桃肥大があり、それまでも喉が腫れて高い熱を出して仕事を休むことはあったので、その日も当時の職場の耳鼻咽喉科を受診し、「扁桃腺がスゴク腫れてますよ」と医師から言われ、抗生剤などなど処方され帰宅したのですが、確か3日くらい動けず病欠したと記憶しております。
やっと動けるようになり、仕事をしだしたのですが、毎晩毎晩、酷い寝汗をかき、かつ日中も37℃くらいの微熱が続き、非常に大変な思いをしながら仕事をしていました。さすがに体が持たないと思ったので、2~3週間後に再び耳鼻咽喉科を受診し、医師から「まだリンパ節が腫れているから、一度、生検しようか」と言う話になりました。
上の図の「浅頸リンパ節」を、皮膚を切開して摘出し、病理検査に出すことになったのです。生検なので、まあ簡単な手術と同じです。そして、リンパ節の生検をするというのは、最悪「リンパ腫」とかもありうる話だったので、ボクは内心穏やかではありませんでした。高熱を出してから2ヶ月が過ぎた頃からでしょうか。やっと微熱や寝汗も収まり楽に過ごせるようにはなったのですが、ボクの心は穏やかではありませんでした。
「多分、感染してる」
保健所での無料匿名検査を受けた経験があったので「感染したと思われる行為から3ヶ月以上、日にちを空けて検査を受ける」事は知っていたので、その3ヶ月をしっかりと待って、検査を受けました。
先にも書きました通り、ボクは公立病院に勤めていたので、ボク自身が勤めている市の保健所ではなく、少し離れた都市の保健所の、夜間検査を受けました。
仕事が終わって、車に乗って1時間位でしょうか。
採血した日の事はあまり覚えていません。
「2週間後にこちらの紙をもって結果を聞きに来て下さい」
そう伝えられ、ボクは帰宅しました。
2週間後。
窓口で番号の書かれた紙をお渡ししたら、「少々、そちらに腰掛けてお待ち下さい」と言われ、廊下のベンチで待たされました。
多分。そうだ。
そして窓口で対応してくれた人とは違う人がボクを別室へ案内してくれました。そこには白衣を着た女医さんを思しき方が座って待っていらっしゃいました。
「検査の結果、陽性だと分かりました」
そんな感じの事を告げられたように思います。
一瞬で頭が真っ白になりました。
そして、思い出したかのようにホロホロと涙がこぼれだしました。それが止められなくなり嗚咽混じりに。
その女医先生は、ボクが落ち着くまでしばらく待ってくださり、紹介状を書いてくださること、近隣の政令指定都市にある拠点病院が専門病院なので、できるだけ早めに予約を入れて受診したほうが良いことなど、今後の手順をキチンと丁寧に教えて下さいました。
しばらくして、女医先生は「ツラいよね…」と声をかけて下さり、またボクは堰を切ったように泣いてしまいました。誰に聞かれるでもなく、ポツリポツリと今後の生活への不安、仕事への影響、私生活のことなど話したのですが、一番強く思ったのは、両親への申し訳無さでした。
五体満足に生んでくれて、やりたいことやらせてくれて、ココまで育て上げてきてくれた両親に、本当に申し訳ない。ただただ、それをずっと口にしていたと思います。
それと仕事。
医療従事者であることは明かしたのですが、本当に“こんな病気になったボクが医療従事者をやっていいのか”と言う事を女医先生に聞いた覚えがあります。
今でも思い出すのは、ボクが落ち着きを取り戻しつつあるときに女医先生がかけてくれた言葉。
「好きな食べ物はなに?」
です。
ボクが「中華料理が好きなんです」って答えたら「じゃあ今夜は中華料理をたくさん食べてかえって下さい」っておっしゃられて。
なんかもう、笑うしかなくて。
ただボクは不思議と「もう人生終わった」とか「死んだほうがまし」とかは全く思わなかったんですよね。むしろ「拠点病院を受診するのに職場にどうやって説明して有給とろうか」とか「どのタイミングで予約の電話を入れようか」とか、そんな事を考えていたように思います。
ただ、やっぱりその日は、何も食べる気になれず、そのまま車を運転して帰宅しました。
その頃ボクは、首にマフラーを巻いていたので、もう寒くなりかけていた11月も下旬のことだったと思います。
その後は…気が向いたら『その②』を書きますね。
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