そろそろ本当の話しをしましょう(HIV)その①からの続きです。
2003年11月、ボクは保健所の匿名無料検査を受検してHIVの陽性告知を受けました。そして、いよいよボクの「with HIV」が始まったわけです。
告知を受けた夜、自宅に帰ってまずしたことはなにか…それはとりあえずインターネットで情報を収集するところから始まりまりました。
まずは敵のことを知るところから始めたのです。
当時、ゲイコミュニティ周囲には、HIV/AIDSの予防啓発運動が盛んで、HIVコミュニティセンタが全国にいくつかあり、ボクもその存在を知っていました。もちろん、ボク自身が医療従事者であったので、病気などの情報は何となく見聞きはしていたので、ある程度の知識はあったと思います。
上のような図は、何かしらの機会に見ていたし、この図が意味することもちゃんと理解していました。しかし、いかんせん、『具体的な療養生活』が見えてこない。
そこでインターネットで情報収集したのです。
当時、SNSなどと言うものはなく、老舗のTwitter ですら日本では 2008 年 4 月から日本版が公開だったので、いち個人がどんな生活を送っているのかと言う事を知る手段としては、唯一「ブログ」があったくらいです。
そのため、HIV陽性者が実際の生活を綴ったモノというものはなく、どんなに調べても、厚生労働省やどこかの医療機関、研究機関が公開しているホームページにぶち当たるだけで、「HIV感染症は死ぬ病気ではない」「薬でAIDSの発症を抑えることができる」「生活にはなんら影響がない」など、正直『現実味のある話』はどこにも転がっていませんでした。
ちなみに日本で大流行したSNSといえばmixiですよね。
あのmixiですら、開始は2004年2月ですから。
ネットにはボクの知りたい情報が転がっていないと分かってから次に何をしたか。正直、ボクはこういう事実を一人で抱えるだけの心に余裕がある人間ではなかったので(笑)仲の良い友人二人と、元カレに連絡を取りました。ありがたいことに、みんなボクの事を拒絶することなく、静かに受け入れてくれました。友人二人は遠方に住んでいたのですが、ふたりとも「何かあったら連絡してちょうだいね」と温かい言葉をかけてくれ、元カレは「大丈夫か?」と心配してくれました。
そんな事を一晩のうちにやってのけ、その日は確か、疲れて眠ってしまったと思います。
翌日は勤務日でした。
ボクは、とにかく医療機関を早く受診したいと言う思いがあり、初診の予約を早く入れたかった(この辺りはせっかちというボクの性分です)。朝から「予約の電話を入れるなら昼休みだ!」と思い、朝からソワソワしていたと思います。
そしてドキドキしながら電話をし翌週の金曜日の午後に初診となりました。
今までボクは、その職場で「(病欠以外の)急な予定で有給を取る」と言うことをしてこなかったので、正直、なんと言って上司に休みをもらおうか悩みましたが、結局、口頭で「スミマセン来週の午後から急に予定がありまして…」みたいな感じで有給申請したと思います。
翌週。
どうやって病院まで行ったのか、どうやって受付をしたのか、医師との診察の前後のことは全く覚えていません。ボクを担当してくださった医師は、驚くほど落ち着いてボクに説明してくださいました。HIVに感染していることに間違いはないこと、感染経路は同性間の性行為によるものかと言う確認、今後血液検査のデータを見ながら投薬の時期を決めること、月に一度は定期受診してほしいこと、今の生活を変える必要はないこと、理学療法士という仕事も今まで通りに行って良いこと、そんな事をお話していただきました。
検査や診察を一通り終え、最後に看護師さんとお話する機会があって、何だかそこで一気に感情が溢れ出してしまって…仕事を変える必要はないとか、今まで通りの生活ができるとか、頭では分かっているのですが「心」の部分で納得できないと言うか、不安な気持ちというものが抑えきれなくて、ボロ泣きしてしまいました。
それを見かねた看護師さんが、「カウンセリング受けられるけど、受けてみますか?」と声をかけて頂き、ボクは二つ返事でお願いすることにしました。
このとき、ボクの心の中には色々な「思い」があって
・病気の事を誰かに伝えたほうがいいのか
・家族には説明したほうがいいのか
・恋愛は、セックスはどうすればいいのか
・本当に医療従事者として働いていいのか
・薬を飲み始める頃にはどの様な体調になっているのか
・薬の副作用は
・身体障害者手帳の申請は
などなど…もうこの溢れる思いの処理が自分ではできなくなっていたのですが、とにかく自分の気持を落ち着かせながら、1つずつ整理するしかない、と思いました。
そろそろ本当の話しをしましょう(HIV)その③へ続きます。
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