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オンラインカウンセリング「勇者の部屋」の産業カウンセラー勝水のブログです。セクシャルマイノリティ(ゲイ)・身体障害者(HIV陽性者)・精神障害者(双極症)の当事者としての目線と、理学療法士・社会福祉士・産業カウンセラーとしての目線で、今まで経験したことや普段考えていることなど、様々な情報発信をしております。

2023年11月30日木曜日

精神的ストレスにどう対処する?!ストレスコーピングとレジリエンス

 少し前の話になってしまいますが、労働安全衛生法の改正により、2015年12月1日から、常時50人以上の従業員を雇用する事業場では、毎年1回以上ストレスチェックを実施することが義務付けられるようになりました。従業員が50人未満の事業場には、ストレスチェックを実施する義務はありませんが、努力義務とされています。

それ以前の労働安全衛生法では「健康診断」に代表されるように『身体的な疾病の予防と早期発見』に主眼を置かれていましたが、このストレスチェック制度が始まったことで、『精神的な健康』にも企業努力が必用となりました。


また翌年の2016年には『健康経営優良法人認定制度』を経済産業省が創設し、健康経営に取り組む優良な大企業や中小企業、その他の法人を認定・顕彰することを目的としています。この『健康経営優良法人』というのは「従業員や求職者、関係企業や金融機関などから従業員の健康管理を経営的な視点で考え、戦略的に取り組んでいる法人」と言う法人のことで、その認定制度が始まりました。


この様に産業保健分野では、「企業が労働者の健康を守る」ことの一環として身体的な健康だけではなく精神的な健康も含めた「全ての健康」に対して取り組まなければならなくなりました。

そして近年、精神的な健康を語る時、「ストレス」とそれにどう対処していくかと言う話題が、非常に多くなったように感じます。そして、以前は「如何にストレスを解消するか」と言う“対処法”ばかりに目が向いていたのですが、最近では「如何にストレスに強くなるか」「ストレスをストレスとして処理しない方法はどんな事があるか」などが話題にのぼるようになりました。

今日は、「どうストレスに強くなるか」に関係した『レジリエンス』『ストレスコーピング』についてお伝えしたいと思います。


先に『ストレスコーピング』についてお伝えします。
人間は、精神的ストレスにさらされた時にそれに対して何とかしよう!とします。それは自然な反応でその反応の仕方には大きく3つの対処の仕方があると言われています。


問題焦点型コーピング
例えば人間関係に問題がありストレスを感じる時、その原因となっている人間関係を何とかしようとして対処する方法です。

情動焦点型コーピング
例えば人間関係に問題がありストレスを感じる時、その人間関係の捉え方を変え自分の中の認知の仕方を変化させることで、ストレスとして処理しないようにしようとする方法です。

気晴らし(ストレス解消)型コーピング
買い物や運動など自分の趣味や好きなことをして、気分転換を行うことで、ストレスを解消する方法です。


どれが良いとかどれが悪いとかはないのですが、問題焦点型コーピングというのは、ある意味勇気がいります(笑)。情動焦点型コーピングは自分自身の認知の仕方を変えなければならないので、コツが必用ですし何より訓練が必用です。そして皆さんが一番手っ取り早く日常的に取り入れているのが、気晴らし型コーピングではないでしょうか。

しかし、一番手っ取り早い「気晴らし型コーピング」というのは落とし穴があります。それがよく言われる「依存行動」や「依存物質の使用」などの「依存」につながる方法です。

例えば…
・過食
・多飲酒
・多喫煙
・(後先考えない)買い物
・(限度のない)ゲーム
・薬物使用(市販薬・処方薬・違法薬物)
・(行き過ぎた)性行為

等ですね

もちろん、スポーツやカラオケ、園芸や手芸など「健全な気晴らし」であれば問題ありません。今回は、気晴らし型コーピングと依存症については詳しく述べませんが、機会があればお伝えします。


このストレスコーピングと非常に関係性が深いのが『レジリエンス』と言う考え方です。

レジリエンスとは…
レジリエンス(resilience)とは、「回復力」「弾力性」「しなやかさ」などを意味する英単語です。心理学では「精神的回復力」と表現され、トラブルや困難な状況の際に、逆境をはねのけて回復することを意味します。ビジネスでは「困難やストレスをうまく対処し、回復する力」という意味で使われ、目標達成やパフォーマンス向上を目的に、高めることが求められています。


変化が早く、またコンプライアンスを重要視される世の中は正に「ストレスフル時代」と言ってもいいでしょう。しかし、「ただストレスが多い時代だから」と言ってそれを野放しにしていては、社会も経済も機能しなくなります。

精神ストレスへの対処法であるコーピングを使ってでもなんでもいいので、ご自身の精神的なエネルギーを使ったとしても、できるだけ早く平時に戻す、または上手く対処する必用が出てくるわけです。


では、具体的に『レジリエンスを鍛えるための要素』にはどんなものがあるのか。1つずつご説明致します。



①自尊感情
自分の存在を肯定的に捉えることができることが大切です。自己肯定感と言ってもいいでしょう。この自尊感情あるいは自己肯定感は大切な基礎となる要素です。

②感情の調整(コントロール)
レジリエンスが低いと、物事に「一喜一憂」してしまうと言う側面があります。直面する問題に一喜一憂せず、物事を大らかに柔軟に捉えていくことが重要なのです。そのため、感情をコントロールすることは、必須条件ともいえるでしょう。

③楽観性
②感情の調整にも関係することですが、人間は自分ではどうにもならないと感じる問題に直面した場合、無力感に襲われることが多くあります。そんな時は感情をコントロールすることすら難しくなります。そんな時は、直面している問題を一時的な問題と捉えるか、それとも永続的な問題と捉えるかでは全く認識が変わってきます。「きっとこの問題も乗り越えていけるんだ」という楽観的な思考は、問題を一時的なものとして捉えることが可能になり前向きな方向に進んでいけます。これを『合理的楽観主義』とも言います。

④人間関係
自分が直面した問題を他者に話したりすることによって、心が軽くなったり、貴重なアドバイスを受けたりすることってありますよね?その様な「自分自身の味方」となってくれる人間関係を持っているかいないかで、心の持ちようというのは大きく変わってきます。
心を前向きにする1つの要素として、人間関係は非常に大切な要素です。

⑤自己効力感
自己効力感とは自分が直面する問題に「自分なら大丈夫」という前向きな認識をすることをいいます。前述した自尊感情と異なる点は、自尊感情が「いま現在の自分」を前向きに捉えることであるなら、自己効力感は「いま現在の自分から未来に対する可能性への前向きさ」ということになります。たとえ今の自分が直面する問題が大きなものに見えても、自分なら乗り越えていけるという自分への期待ともいえます。




これからの社会を上手く生き抜いていくには、ストレスコーピングの考え方とレジリエンスの二つの観点から、「強く・逞しく」と言うより「上手く・しなやかに」対処できるようになると、どんな局面にでもメンタルダウンすることなく、生き抜いていけるのではないでしょうか?

2023年11月26日日曜日

対人援助職者・感情労働者とは

 当サービスの1つとして『メンタル不調を抱える対人援助職者・感情労働者のためのPGM』があります。その『対人援助職者『感情労働者』とはどんな仕事・職種の事を指すのか、その概念と具体例をお伝えしたいと思います。




日常生活や社会生活のなかで、私たちはみな助け合いながら生きています。その意味でどんな仕事も「人を援助する」活動にちがいありません。

一方、狭義(狭い意味)での『対人援助』は「援助の必要な人を援助する」仕事です。こんにちさまざまな分野で行われているボランティアも対人援助ですね。そして、これを業務(仕事)として行う職種には、より直接的に援助する仕事と、より間接的に援助する仕事があります。



①人を援助する職種(より直接的な援助)

医療・保健:医師、歯科医師、看護師、助産師、保健師、理学療法士、作業療法士、言語聴覚士、救急救命士、ソーシャルワーカー、心理士、歯科衛生士、視能訓練士、カイロプラクター、柔道整復師、はり師・きゅう師、あんまマッサージ指圧師など

教育:教員、学童保育指導員、カウンセラーなど

介護・保育・福祉:保育士、児童指導員、心理士、介護士、ホームヘルパー、ケアマネジャー、手話通訳者、ソーシャルワーカー、相談員など

その他:裁判官、弁護士、検察官、警察官、消防士など


②人を援助する職種(より間接的な援助)

薬剤師、臨床検査技師、診療放射線技師、歯科技工士、臨床工学技士、栄養士、調理師、義肢装具士、学校事務員など



一方『感情労働者』とはなにか

「感情労働」は、近年注目されている新しい概念で、相手(=顧客)の精神を特別な状態に導くために、自分の感情を誘発、または抑圧することを職務にする、精神と感情の協調が必要な労働のことをいいます。

この『感情労働』と言う言葉は、『肉体労働』『頭脳労働』などの言葉による分類に分ける際に使われる言葉の1つで、狭義(狭い意味)では『対人援助職』と同じ仕事を指すことが多いのが現状です。

これらの労働は、感情が労働内容にもたらす影響が大きく、かつ適切・不適切な感情が明文化されており、会社からの管理・指導のうえで、本来の感情を押し殺して業務を遂行することが求められます。

感情労働とは、自分の感情を「抑える」ことで賃金を得る労働です。規範的な感情を商品価値として提供するため、組織に決められたとおりに感情を管理しなければなりません。 会社からの管理・指導のうえで、本来の感情を押し殺して業務を遂行するため、ストレスを溜めやすいといわれます。従業員に感情労働を強いる場合、組織的にメンタルヘルスを管理する必要があるでしょう。

感情労働が求められる職業につく人材は、もともとコミュニケーション好きで、感情豊かである場合が多いといわれます。それだけに、知らず知らずのうちに疲れを溜めてしまい、バーンアウト(燃え尽き症候群)を招くこともあります。


この様に、『対人援助職者』『感情労働者』というのは、仕事そのものが気分や感情に直接関わってくるお仕事であるため、本来であるなら、他の労働よりもメンタルヘルスを意識し、本来であればメンタルケアに力を入れるべき労働であると、ボク個人は思っております。

2023年11月25日土曜日

『セクシャリティ問題におけるAlly(アライ)』に思う

ここ最近、セクシャルマイノリティの同性婚問題に関連して、『Ally(アライ)』と言う言葉を耳にするようになりました。皆さん、この『Ally(アライ)』と言う言葉の意味、キチンと理解されていますか?先日、SNSでとても気になる投稿を見たので、それに感化されまして(笑)ボクなりに深掘りしたいと思います。



(セクシャリティ問題における)allyとは…
ストレート(異性愛者)のシスジェンダーやセクシュアル・マジョリティ(性的多数者)ではあるけれど、セクシュアル・マイノリティ(性的少数者/LGBTQ+などの当事者)が社会的に不利な立場に置かれていると認識し、当事者を支援する人々を指す。


つまり、「私はallyですよ」と公言すると言うことは「セクシャルマイノリティの味方です」と“わぞわざ”周囲に伝える、と言う事です。


では、『ally』の語源は何でしょうか?
[自他動] 同盟する [自動] 提携する [名] 同盟国

この語源から考えるにallyと言う言葉が使われる時、1対1または1対複数の関係性を表していて、その両者には上下関係はなく並列に扱われるべき関係性であると思います。


では『ally』の対義語は何でしょう。

『ally』の対義語は『opponent』と言う単語になります。

opponentとは…
競技や議論などにおいて自分と対立する立場にある人物を指す言葉である。対戦相手や相手、対抗者といった意味合いが含まれる。スポーツやゲーム、政治やビジネスなど、さまざまな分野で使用される。

では『opponent』の語源は?
[名] 対戦相手・敵 [形] 対立する


言葉の意味を考える時、その語源や対義語を知ることで、より深くその言葉の意味を知ることができるのですが、今回『ally』と言う言葉の意味を考える時に、その語源や対義語を知ることで、ボクはより一層、今、日本で使われている『ally』と言う言葉に違和感を覚えずにはいられません。


そしてボクは、その違和感に気づきました。

つまり『ally』と言う言葉を使うことで必然的に『allyではない=opponent』になってしまう、と言うことです。

恐らく、今の日本で、セクシャリティにおけるマジョリティの人たちが、マイノリティの人たちと接する中で、わざわざ「私はallyです」と言う立場をとる人が、どれだけの人数いるか、と言うことです。

「allyでもない。でもopponentでもない」と言う人が大多数ではないでしょうか?

「セクシャルマイノリティがそこにいて当たり前」と思っている人たちがあえて『ally』と言う言葉を使う必要があるかどうか、と言うと、ボクはそれは違うと思います。


セクシャリティ問題におけるallyと言う言葉が、いつ頃から使われ始めたのか少し調べたのですが、はっきりとした事は分かりませんでした。ただ、1つ言えるのは、やはりSDGsが話題になりだした2015年頃からや、日本における同性婚問題が明るみに出始めた頃に、よく耳にするようになったように感じます。


ここからは超持論なのですが(笑)正直、『Ally』と言う言葉を使うその意図には、どうしても「お金」の匂いがしてなりません(笑)。

企業や団体が『Ally』をアピールすることで、何らかの利益を得ると言う、きな臭さがあるような気がするんです。


もっと言うならば、「LGBTQフレンドリー」と言う言葉の方が、よほどしっくり来ます。




もう、ここまでくると理論的ではなくほとんど「印象」とか「感性」の問題になるかもしれませんが(笑)でも、ボクはそんな気がしてなりません。


ボクはよく、「言葉に対してキチンと理解して使う」と言うことを、常に意識しています。その理由の1つはボクが心理職であるということが関係していて、「言葉」というのは「自分以外の誰かに何かを伝えるための手段」ですよね。だから、「その言葉を使う(発する)人」と「その言葉を受取る人」の間に、理解のズレがあっては正しく伝わらない、と思っていて、それって心理カウンセリングでとても大切なことだと思っているんです。

感情を表現する言葉だけではなく、環境や状況を正しく伝えて理解すると言う事はとても大事です。

もう一つは、医療短大時代の恩師の教えです。

医療の分野では、論文を書いたりレポートと書いたり、または書籍を読んだりする機会は非常に多いです。つまり自分自身が伝えたいと思っていることをキチンと相手に伝えるために言葉を正しく使う、と言う事が必然的に求められるからです。

話が逸れました…(笑)


先程述べたように『ally』と言う言葉を使うことに、何らかの利益を生むために使われているのでは?と言うボクの推測のもう一つの理由に「言葉がおしゃれ」「響きが良い」「なんとなくかっこいい」と言うような理由で使われている印象もあります。

「LGBTQフレンドリー」と言うより「ally」と言ってしまったほうが、そんな印象うけませんか?(笑)



言葉は時代とともに変化するものではありますが、それはそれでいいと思うのです。
しかし、「そもそもこういう意味で使われていてこういう使い方だったんだよ」と言う“源”を知っておくことは、とても大事だと思っています。

2023年11月24日金曜日

HIV/AIDSの偏見差別に思う・RED RIBBON LIVE NAGOYA 2023に参加して

 さる2023年11月23日(木・祝)にアスナル金山において、FM AICHI主催、名古屋市共催の『RED RIBBBON LIVE NAGOYA 2023』が行われ、ボクもトークゲストと言う形で参加させていただいたので、そのご報告をしたいと思います。



この『RED RIBBBON LIVE』は厚生労働省主催で企画・制作がTBSラジオ/レッドリボン実行委員会と言う、比較的大きなイベントで、その一環として名古屋ではFM AICHI様が主催となり、名古屋市と共同で進めている企画で、毎年11月23日がイベント日となっていました。

なんと今年で14回目!だそうです。


総合企画プロデューサーは、山本シュウさん

当日のMCは、FM AICHIのパーソナリティ、重田優平さん

トークゲストは
名古屋市健康福祉局医監 名古屋市保健所所長 小嶋雅代 先生
名古屋市保健所港保健センター 所長 片山幸 先生
そしてボク 産業カウンセラー・HIV当事者 勝水健吾


総合プロデューサーの山本シュウさんは「コメント出演」と言うことで、会場にはいらっしゃらなかったのですが、コロナ禍で中止を余儀なくされていたこのイベントに向けて、とても嬉しいお言葉を頂きました。

イベントはライブ①心悠さん


トーク①
小嶋 雅代先生と片山 幸先生による、HIV感染症の予防法や検査、治療などや、最近、流行している梅毒に関してのお話をされました。

ライブ②はLUCY IN THE ROOMさん


その後にトーク②
ボクが、HIV/AIDSに関する偏見・差別(行動)に対する私見をお話させていただきました。

ライブ③はK:reamさん


約1時間半のイベントとなりました。


当日はきれいに晴れて、少し寒かったのですが日がさしているお陰で屋外イベントにはもってこいのお天気。後ほど聞いたところによると、会場には300名程度の来場者があったとのことでした。


さて、ボクのトークパートについて少しお話をしたいと思います。

ボクは十数年、HIV/AIDSに関するスピーカー活動を行っています。その関係もあって、例えばお薬の開発や社会制度の変化について、ある程度勉強し、その都度知識をアップデートしているのですが、ほとんど変わらないテーマがありまして。それが「偏見・差別(行動)」です。

『障害者に対する偏見・差別(行動)』と言う大きなくくりで話しをしだすと、日本での障害者福祉の話とその歴史にまで話が広がってしまい、また、国民性や社会心理学的な話にまで発展してしまうので、今回は、もっとコンパクトに「HIV/AIDS」に限定したお話をさせていただきました。


今の日本に於いて、HIV/AIDSに対する偏見や差別(行動)がなくならないのは何故か。いくつかの要因が考えられるのですが、順を追って説明したいと思います。


①偏見・差別(行動)をなくすには「正しい情報を知る」事が大事と言うけれど…
 今の世の中、行政や医療機関など、HIV感染症やAIDSに関する知識というのは、非常に新しくそして正しい情報が溢れています。しかもネット社会ですので、誰もが簡単にその情報を手に入れることができます。それなのに「偏見・差別(行動)」がなくならいのはなぜでしょうか?それには、『情報を正しく扱う』事に関係します。

②『情報を正しく扱う』とはどういうことか
 今の世の中、情報が溢れている事は事実です。しかし、その情報をキチンと「受け取りに行く」「情報収集する」と言う行動を起こさなければ、その人に正しい情報は伝わりません。情報を発信する側が、色んな手段を使って色んなタイミングで発信していたとしても、受け取る側にそれを「受け取ろう」とする意志がなければ、それは“情報がない” ということ同じことです。
 つまり情報というのは「発信する側の問題」と「受け取る側の問題」があるわけです。

③HIV感染症・免疫機能障害は目に見えない障害
 HIV感染症というのは、外見からでは判断がつかない病気で、免疫機能障害というのは目に見えない障害です。つまり本人が「私はHIV感染症です」「私は免疫機能障害です」と開示(何らかの方法で周知してもらう)しなければ分かりません。もしHIV陽性者自身が周囲の人に「私はHIV陽性者です」「私は免疫機能障害者です」と言わなければ、誰もそれを知ることなく、一緒に生活したり仕事したりすることになります。

④『リアリティがない』
 ③で述べたようにHIV陽性者が身近にいると知らなければ、また、大切な人がHIV陽性者であることを知らなければ、おそらくHIV陽性者の周囲の人はあえて『HIV感染症ってどんな病気?』『免疫機能障害ってどんな障害?』と知ろうとしないでしょう。つまり②に述べてことに関係してくるわけです。HIV陽性者自身が『私はHIV陽性者です!』『私は免疫機能障害です!』と声を挙げなければ、誰もその病気や障害について、“あえて知ろう”としない、つまり自分たちの周囲にHIV陽性者がいるとは思っていないから、正しい情報を手に入れない、と言う事になってしまうのです。

⑤とはいえ「HIV陽性者であることを開示する事」のリスク
 しかし今の世の中、HIV/AIDSに対する偏見や差別(行動)はなくなっていません。ですので、当事者は余計に声を挙げにくい。つまり「開示することで不利益を被るかもしれない」「差別行動を受けるかもしれない」と言う恐れがあるわけです。そうなるとドンドン、当事者は開示しづらくなるわけです。

⑥HIV感染症はSTI(性感染症)であるという事実
 HIVの感染は、現在の日本において、そのほとんどがSTI(性感染症)です。つまり性行為で感染します。それがまた、大きな偏見を生む原因となっています。「不特定多数の相手と関係を持つ人」「リスキーなセックスをする人」と言う一種のスティグマがあり、尚更、自分自身の病気や障害を開示しづらくなっていると言う現状があります。

⑦じゃあ、どうする?
 1つは当事者が周囲に対して開示していく、と言う行動が求められるでしょう。つまりHIV陽性者というのは意外と身近にいるんだということをもっと知って貰う必要があると思います。しかしそれは⑤でお伝えした通り、当事者にとってとてもハードルが高く、また、非常に困難なことです。ボクのように顔を晒し実名まで公言した上でHIV陽性者であることを開示できる人は本当に限られていると思います。
 では、どうすればよいか…やはり当事者が周囲に開示しやすい雰囲気を作っていただきたい。そのために周囲の人達が、 “自分事”として「正しい情報を自ら取りに行きそれをキチンと理解する」行動をとって欲しい、とボクは思います。



実はイベントの時に、ボクがトークを終え舞台袖に下がった時に、次のLIVEをされるK:reamさんの内川祐(Vo, Piano)さんがボクにこう声をかけてくれたのです。

「ありがとうございました!勉強になりました!」

と。

そして、その後のLIVEのMCの中でこの様にお話されました。

「今日、本当は楽しくLIVEができればそれでいいと思っていた。けれど生きづらさを感じている人がこの世にたくさんいることに気付かされた。そんな人達をちゃんと受け入れていける世の中にしようぜ!」

と、言ってくださったのです。

ボクはそれを舞台袖で聞いて泣きそうになりました。
あゝ、ボクの伝えたいことがちゃんと伝わったんだ、と。


その後に歌ってくださった「See The Light」と言う曲が、とにかく心に染み渡り、このイベントに参加できて、心から良かったと思いました。




ボクは今まで、スピーカーとしてお話をさせていただく時というのは、顔は晒すけれどもニックネームで呼んで頂き、お話をする対象者というのも、ある程度カテゴライズされ、しかもHIV/AIDSに関わる、または関心のある人を対象にしてきました。

今回のように、どんな人が会場に来ているのか分からない、そして顔を晒し実名で呼んで頂くということも初体験で、実は前日まで、かなり緊張し少し恐れもありました。

しかし、今回のイベントに参加し、大きな手応えを感じました。

ボクの進むべき道の1つがここにあった、と。

そして、このイベントを通して、またいくつかの人脈ができました。
それは、何物にも代えがたい、大きな収穫・宝物です。



このイベントに関わってくださった方全てに感謝します。

2023年11月21日火曜日

そろそろ本当の話しをしましょう(HIV)その⑥

 そろそろ本当の話しをしましょう(HIV)その⑤からの続きです。(今回は文章のみなので覚悟して下さいwww)



ボクが臨床心理士のKさんの心理カウンセリングを受け始めて2年位経った頃でしょうか。Kさんから「同じHIV陽性者でゲイの人達を集めて“自助会”をするんだけど、勝水さんも参加してみますか?」とお誘いを受けました。

「そろそろ本当の話しをしましょう(HIV)」のシリーズで何度もお伝えしてきた通り、当時、ボクは他のHIV陽性者の人たちがどのような療養生活を送っているのか、全く知る事ができなかったので、それを見越してKさんは声をかけてくださったのだと思います。

また、そのような「自助会」自体、Kさんが初めて企画するようでしたので、全くの未知数でしたが、ボクはとても興味が湧きました。

しかし…

もしかしたら参加者の中に、過去にボクと肉体関係を持ったことがある人がいるかもしれない…

そんな思いが頭を過りました。
まあ、でも、その時はその時かぁ~なんて思い、ほぼ二つ返事でお願いすることにしました(これは後から知ったのですが、この自助会の参加者はKさんが『この人ならこーゆー場に出てもらっても大丈夫だろう』と言う判断のもと声をかけていたそうです)。


当日は確か、土曜日の午後だったと思います。
いつもはボクらが診察してもらっている診察室の一室を貸し切って、5~6人のメンバーが集まりました。ファシリテーターはKさん。

一通り自己紹介が終わって「さて、何の話しをするのかな?」と思っていたら、Kさんの「さ!皆さんでどうぞお好きに何でも話して下さい!」と言う無茶振りから始まりました(笑)。

皆、初対面だよ!
確かに「HIV陽性者」で「ゲイ」と言うくくりで集められているとは言え、そんな急にふられても何を話して良いのか…

皆が「キョトン」とした顔でモジモジしながら、バツの悪そうにしていました。
もう20年近く前のことなので、誰が何を話し始めたのか、全く記憶にないのですが、確か1時間半くらい、何かの話題で話をしていたと思います。


そんな感じで始まった自助会。
2~3ヶ月に1回程度の頻度でKさんが主催し開催されるようになりました。集まるのは大体、同じメンバーで徐々に打ち解け合い、自助会の後に少しお茶をする機会もありました。また、Kさんの発案で「勉強会」の様な事も催され、「HIV感染症」と言う病気を通して人と人が繋がりそしてお互いに情報交換や情報共有する場が出来上がっていきました。

まさにセルフヘルプグループ。です。


その後、その自助会の参加者の中からSさんと言う方が「自分たちで自助会を作ろう!」みたいな話が持ち上がりました。Sさんがどういう経緯でその様に思い立ったのか全く知らなかったのですが、臨床心理士Kさんが主催する自助会に参加している人たちが、ある意味「巻き込まれる」形でそのSさんの申し出に乗っかる事になりました(笑)。

それが『LIFE東海』と言うNGOです。

色々な事をSさんが旗振りをして仕切ってくださっていたのですが、当時、ボクは教員をしていて臨床にいた頃より時間に融通が効くようになっていたので、ボクはSさんをお手伝いする形で「LIFE東海」の本格的な始動に関わりました。LIFE東海は、東海地区のHIV陽性者のための支援をメインの活動とし、1ヶ月に2回PGM(ピアグループミーティング)を開催することになりました。

ボクは一応、副代表と言う形でしたが、主に事務局的な役割をしていて、スキマ時間に書類を作成したり記録をとったり。

また、その頃、「エイズ予防財団」など、HIV/エイズ界隈では、LIFE東海のような自助会などのNGO団体の育成に力を入れてくださっていて、「助成金の申請方法の仕方」「PGMの運営の仕方」などの研修会を開催していただいていて、ボクやSさん、他の運営に関わってくれているメンバーも積極的に参加していました。

それと同じ様な時期に「特定非営利活動法人 日本HIV陽性者ネットワーク・ジャンププラス」が行っている「スピーカー派遣活動」に関わる「スピーカー養成講座」にも参加し、ボクは「HIV陽性者当事者として講演するお仕事」をすることにしました。


ボクはこの頃の経験したことが、今、とても役に立っていると思っていて。

サイト(ホームページ)の作り方や見せ方、PGMなど人が集まる時にファシリテーターがどの様な役割をしどのような動き方をするのが良いのか、助成金などのお金にまつわること等など「お仕事」では経験することのできない「コミュニティの運営」や「損得勘定のない人間関係」と言うものの必要性、人前で話をする時にどの様にすると自分の伝えたいことが伝わるかなど、本当に多くの事を学びました。



それから色々あってボクは社会の表舞台から退いて、ひっそりと生きてきました(笑)が、個人事業主として活動し始めるに当たって様々なSNSを運用するようになり、この頃築いた人間関係がとてもとてもありがたい形で再び蘇り、切れかけた縁がまた繋がったり行き来をするようになったりして、「ボクは人生で大きな過ちを犯したけれどそれでも大切にしてくれる人がいる」と、今また実感できるようになり、ボクは本当に幸せものだと思っています。

そしてボクは「人に恵まれている」事に本当に感謝しています。




「そろそろ本当の話しをしましょう(HIV)」はとりあえずここで一区切りにしたいと思います。もしこのシリーズを読んでのご感想や聞いてみたいことなどありましたら、お気軽にコメントを残していただけるとありがたいな、と思っています。

2023年11月20日月曜日

そろそろ本当の話しをしましょう(HIV)その⑤

 そろそろ本当の話しをしましょう(HIV)その④からの続きです。



前回までは主に、臨床心理さんKさんとのカウンセリングについてお伝えしてきました。今回は、陽性告知を受けてからの健康状態や投薬を始めるまでの生活状況などお伝えしたいと思います。



HIVに感染したと思われる時期から半年以上、微熱や倦怠感でかなり体力的に消耗し、毎日疲労感を感じながら仕事をしながら生活をしていました。

2003年11月に陽性告知、すぐエイズ拠点病院に受診し各診断をうけ、年越しを迎えました。

ボクは、実家を離れてからずっと、年越しは必ず実家で過ごすことにしていたので、その年の年越しも実家に帰省し、年を越したのですが、気分は最悪…もちろん、病気の事は両親や姉には伝えることはできず、でも何だか「嘘をついているような罪悪感」があり、とても居心地が悪かった記憶があります。

そしてしばらくしてからボクは、頻繁に下痢を起こすようになりまた、常に疲労感を感じるような体調でした。仕事柄(理学療法士)日々、体力を使う仕事だったので、仕事が終わった後は本当に疲労困憊でした。

一度、定期受診の時に主治医に聞いたことがあります。ボクのこの症状は一般的なのか、と。先生からの答えは「よくあります」とのこと。下痢に関しては対症療法で下痢止めを処方していただきましたが、疲労感に関してはどうしようもありませんでした。


また、食べても食べても体重はやや減っていく様でそれも加えて体力が落ちていく感じがありました。

「そろそろ本当の話しをしましょう(HIV)その③」で少しお伝えしましたが、HIV感染症の治療で重要になるCD4リンパ球の数というのは、200/μLを下回ると日和見感染症と言って、健康な人であれば感染することのない、非常に弱い菌やウィルスにまで感染してしまう状態に陥ってしまいます。


上の表の様にエイズ指標疾患は23疾患あり、このうち1つでも確定診断がつけばその人は「エイズ(後天性免疫不全症候群)」と言う診断になります。

また、ボクが通院していた当時、身体障害者手帳の申請ができるのはCD4が200/μLを下回らないと申請できず、かつ薬物療法も始められないため、ある意味、体調がギリギリまで落ちないと薬物療法も始められない状況でした。


徐々に体調が悪く、また理学療法士として働く体力に自信がなくなっていくうちに、ボクは「転職」を考えるようになりました。また、当時、住んでいた場所が地方都市であり、身体障害者手帳を申請しても、福祉サービスがあまり充実しておらず、転職とともに政令指定都市へ転居、というのも、具体性をもって考えるようになりました。


実はボクは当時、医療短大の頃の恩師の影響で「理学療法士を養成する学校の教員になりたい」と思っていました。そしてちょうどその頃、ボクの母校である医療技術短期大学部が四年制大学へ移行し「医学部保健学科理学療法学専攻」になり、保健学科の学部生が卒業すると同時に大学院も設立。ボクは母校の大学院に入学したい、とも思っていました。それは「理学療法士を養成する学校の教員になる」ためにある意味必須で「修士号」または「博士号」を取得することが、ボクのキャリア・アップのために必要なことでした。

そしてボクの思いが具体性を持って動き出したのは、2004年になってからです。
まずは手始めに、仕事をしながら大学院の「科目等履修生」の制度を利用して、いくつかの大学院の科目を履修しながら、大学院の卒論に当たる論文を書くための基礎研究を、恩師の協力の下、始めました。

そして翌年2006年に正式に「大学院医学研究科修士課程」に入学することができました。

科目等履修生のころからではありましたが、昼間は理学療法士として働き、夕方から修士課程の講義ならびに自分の実験(当時はマウスを使った実験をしていました)をすると言う、二足のわらじを履いていたのですが、何と言っても30代前で若さもあり、体調が悪いと言ってもなんとか踏ん張りが効く年齢でした(笑)。

実は、科目等履修生から修士課程に入学する2005年に、ボクは念願の「理学療法士養成校の教員」となりとある専門学校に就職する事ができました。


専門学校に就職し、とにかく無我夢中でした。
自分の研究はもちろん、講義、学生指導、学会発表など、慣れないことばかり。そしてそれまでボクは医療機関に勤めていたので、福利厚生で時期になると「インフルエンザの予防接種」をしていたのですが、専門学校に就職した年はそんな事もすっかり忘れていて予防接種を受けず、人生で初めて「インフルエンザ」を経験しました。

専門学校は土日祝日が休みだったのですが、その他に平日に一日「研修日」と言って、自分自身の研究活動や臨床に割り当てても良い(要は出勤しなくても良い)日がいただけたので、その曜日を研究活動および受診日に当てることができたので、ボクはあえて職場に病気の事を開示はしていませんでした。

実はその頃からボクの免疫力は一気に低下していました。
専門学校に就職した夏頃から、主治医から「そろそろ投薬を考え始めたほうがよいかも」と言われていました。その頃のCD4は200
/μLをうろちょろしていて、障害者手帳もそろそろ申請しようということになり、投薬が始まる前に身体障害者手帳を申請しました。その直後ぐらいでしょうか、ボクは職場からの命令で、1ヶ月間に及ぶ長期講習会を受けることになりました。しかも大阪でマンスリーマンションを借りて。

その長期講習会へ出発する直前の定期受診で主治医からは「その講習会から戻ってきてから服薬を考えましょう」と言うことになり、その時の受診時に薬剤師さんから、お薬の説明をうけ、おおよそボクはどの薬を服薬するかを決めて、長期講習会へ参加しました。


長期講習会自体は比較的楽しくて(笑)また大阪には友達もたくさんいたので、週末になると誰か彼かと遊びに行ったりして息抜きもしていました。また、専門学校の学生からは、定期的に卒業研究の相談のメールがあったので、まあそれなりに忙しくしていました。

でも、それほどストレスフルには感じていなかったのですが…

長期講習会から戻ってきてすぐに定期受診。
ボクはいつも、診察の後に血液と尿を採取して、その結果は1ヶ月後の受診時に聞く、と言うスタイルだったので、その時の定期受診もとりあえず長期講習会に参加中の体調等報告して、採血・採尿して帰宅しました。

それから恐らく1週間した後だったでしょうか。
病院から電話がかかってきました。「勝水さん、体調は大丈夫ですか?できれば早めに受診してほしいのですが…」と。ボクはなんとなく察し、早めに受診の予約を入れました。


「勝水さんCD4が28です。早速、服薬を始めましょう」
ボクは長期講習会に参加している間に、大きく免疫力が低下していたんです。幸い日和見感染症などの症状はなかったのですが、普段と違う生活環境などの影響もあったのでしょう。ボクはすぐに服薬を開始しました。

当時、2種類の薬を2回/日、しかも食後に服薬しなければならず、やや面倒でした。時間的に朝食ごと夕食後に決めて服薬し始めたのですが、夜はどうしても食事が不規則になりがち。食べられないときは100%のジュースやおにぎり1個でもいいので食べてから、と薬剤師さんからの指導でしたので、なんとかそれを実行していました。

しかし服薬し初めてすぐ副作用が…
常に腹部がムカムカするような吐き気と頭痛です。
すぐに定期受診外で主治医のところへ行き相談し、対症療法のお薬をもらい、それで1週間ほどで副作用は消失しました。

しかし、服薬して1ヶ月が過ぎた頃、体に痛痒いような発疹が出てきたのです。


ちょうど上の写真のような状態でした。
ボクはすぐに気づきました。「帯状発疹だ」と。
帯状発疹は、HIV感染症の治療であるHAART(現:ART)と言う治療を始めた初期に出現するという「免疫再構築症候群」というものの中に「帯状発疹」が挙げられていて、ボクはその知識があったので、すぐに受診しました。

帯状発疹は放置して治療が遅れると、つらい痛みが後遺症として残り、かなりQOLを下げると言われていることを知っていたので、とにかく早く対処しなければ、と思っていました。

幸い、気づいてすぐに受診し、服薬や塗り薬などで程なくして回復しました。


こうやってボクのHIV治療は、ドタバタとかなり急ぎ足で始まっていきました。



そろそろ本当の話しをしましょう(HIV)その⑥では、臨床心理士さんの開催していた自助会とその後に発足した「東海地区のHIV陽性者のための支援団」体立ち上げに関して、少し触れたいと思います。


2023年11月17日金曜日

そろそろ本当の話しをしましょう(HIV)その④

 そろそろ本当の話しをしましょう(HIV)その③からの続きです。




臨床心理士Kさんとの心理カウンセリングを、月に一度、受けることになったボク。どんなが対話があったのかというと…


最初の頃は、とにかくボクは自分を責め続けていたと思います。
HIVに感染したと思われる時期というのは、20代の大半を一緒に過ごしてきたパートナーと別れた比較的直後で、しかもパートナーと破局する原因を作ったのは、ボクの浮気でした。そして当時のボクは性活動がとても盛んで、多くの人と肉体的な関係を持っていました。そんな事実が重なり、ボクは「感染したのは自業自得」「自分の行いが悪かったから」そう自分を責め立てていました。

そしてボクが友人や元カレにHIV感染のことを開示し、皆が優しく受け入れてくれたのにも関わらず、ボクは自分自身が許せなかった。

そして両親への思い。
五体満足に生んでくれて、それまで両親は、ボクがやりたいと思ったことを好きなようにさせてくれていた。もちろん経済的に困ることもなく何不自由暮らしてこれたのも両親のおかげであるのに、ボクは一時の快楽に身を任せて自分の健康を害するような事をしてしまったことに対し、本当に自分が許せなかった。

そんな思いをKさんの前で、時に涙を流しながら話しをしました。

ボクはもう、幸せになってはいけない。
ボクは大きな十字架を背負っていかなければいけない。
そしてこの事実は誰にも言ってはいけない。絶対に。
そんな事を考えて、素直な気持ちをKさんに吐露していきました。


おそらく1年位は同じ様な話しをしていたような気がします。しかしKさんとの対話を通じて、徐々に「幸せに生きていってもいいのかな」「自分がやりたいと思ったことを今まで通りにやっていってもいいのかな」「今ボクが一番やりたいと思っていることはなんだろう」と、前向きに『生きる』事を考え始めました。

そして徐々にボクは「自分を許す」と言うことにたどり着いていきました。
このままの自分でもいいんじゃないか。
HIV陽性者である自分も、それも自分だよな。
もうこの事実は変えられないし、治癒しない病気になったんだから、いい加減自分を受け入れないと。

そんな事を思うようになりだし、心理カウンセリングのなかでも前向きな自分を表現するようになったのが初診から2年くらいたった後でしょうか。

その頃、Kさんからある相談をされました。
「勝水さんのケースをエイズ学会で発表したい」
そんな申し出でした。

ボクは少し迷って、条件付きで了承しました。その条件とは「学術集会の抄録を発表前に読ませて欲しい」と言うことです。

Kさんは快く了承してくださいました。

なぜボクがこのような条件を出したかというと、ボクの心の変化の過程を専門家はどんなふうに分析し解釈しているのか知りたかったからです。

そのケーススタディのタイトルが『他者受容より自己受容』と言うタイトルでした。


一通り抄録を読ませていただいて、なんだかスーッと腑に落ちたように思いました。
あゝ、ボクはずっと自分で自分を受け入れられなかったんだ。
周りの人がどんなにボクを受け入れてくれたとしても、自分が受け入れなかったから楽になれなかったんだ。
ボクはこのままのボクで良いんだ。
ボクはボク自身がHIV感染症やAIDSに対して、とてもネガティブな事しか考えてこなかったんだ。


それからの心理カウンセリングは、HIV/AIDSとは直接関係のない話し、例えば仕事のことであったり恋話であったり家族関係のことであったりと、それまでとは毛色の違う内容へと変化していきました。


Kさんとの対話の中で時々出てきた話題が「ボクは宙ぶらりんな状態が嫌い、耐えられない」と言うボクの心理状態についてでした。

HIV陽性告知を受けたのが2003年の11月。
それから心理カウンセリングを重ねていくなかで「ボクがやりたいことはなんだろう」と考え始め、その1つが「大学院に進学する」と言うものでした。そして2008年に大学院修士課程に入学することができました。また、その頃、転職も経験しているのですが、とにかくボクは「試験を受けてから結果がでるまでの“宙ぶらりん”の状態がとてもとても不快だった」。

ボクはKさんに、何度も何度も、何度も何度も「この宙ぶらりんの状態が嫌だ!」と訴えていたのです。

その頃のボク自身の自己分析として「白黒はっきりつけたい」とか「竹を割ったような」とか「優柔不断が嫌い」とかそんな言葉で表される様な性格をしていました。

ですので、転職するときもそうでしたし院試を受けたときもそうでしたが、その結果が出るまでの数週間は「落ち着かない」と言うレベルではなく「不快」と言うレベルでの不安定な気分でした。

そんな事があるたびにボクはKさんに「この状況、早く何とかしたい」「とにかく早く落ち着きたい」と言う気持ちをお伝えしたのですが、いつもの笑顔とあの柔らかな言葉遣い
「揺れるのがそんなに嫌ですか?」
「ゆら~りゆら~り揺れるのも良いものですよ」
「こういう状況を楽しんでみては?」
などの言葉をもらったのですが、いまいちボクには響かなくて(笑)口では「そうですね~」とか「そう思えるようになりたいですね」などと全く心にもないことを口にしていました。

おそらくKさんはそんなボクのキモチに気付いていたと思います。

ボクにとってこの「宙ぶらりんな状態」というのは、とてもストレスフルな状態やった。でも、転職にしろ大学院の院試にしろ、「ある期日がくれば答えが分かる事」なんだよね。Kさんはきっと「待つことも楽しみする」と言う事を暗に言っていたのかな~って思うの。


人は精神的ストレスに晒されたとき、それに対してなんとか対処しようとするんやけどそれを『(ストレス)コーピング』と言うん。で、そのコーピングは上の図のようなやり方に分類することができるんやけど、ボク自身「健康的なコーピング」を自分の中に、たくさん持っていなかった。

例えば上の図の「直接的・消極的」に『感情を抑える』っていうのがあるでしょ。まさにコレをしようとしていたんだと思う。また「間接的・消極的」に『アルコールやタバコで気を紛らわせる』と言うのも当てはまるかな。ボクの場合アルコールではなく、例えば一晩だけの相手と肉体関係を持つ、とか。そういう「不健康なコーピング」しか持っていなかったんだと思う。

それって本当に不健康(笑)


Kさんとの心理カウンセリングでは、そんなボクの「心の不健康さ」を沢山、指摘してくれたように思う。けれどね、心理カウンセラーは、ズバリそのものを言わないんだよ。「あなたのその対処の方法、不健康だからやめなさい」とはね。ある程度、信頼関係(ラ・ポール)が形成されていれば、伝えることもあるかもしれないけど、ほとんどの場合、答えは言わない。

それは、クライエント自身が『気づく』ことに重きをおいているから。
なぜ『気づき』が大事かというと、それが「内的動機づけ」になって、自ら変わろう、変化しようと言う思いにつながるから、です。



十数年前のKさんとの対話をこうやって思い返してみると、今やっと気づけた(笑)。そんな気がする。もし、あの時、ボク自身が気付けていれば、今のボクの有り様というのは変わっていたのかもしれないな~

ま、結果論だけど。



次回、そろそろ本当の話しをしましょう(HIV)その⑤では、ボクの体調がどの様に変化して言ってどの様な治療を開始することになったのか、日常生活の様子を交えながらお伝えしたいと思います。


2023年11月16日木曜日

PGM(Peer Group Meeting:ピア・グルーブ・ミーティング)とは

 「勇者の部屋」でも開始しましたプログラム
『メンタル不調を抱えるゲイ・バイセクシャル男性のためのPGM』
『メンタル不調を抱える対人援助職者・感情労働者のためのPGM』
の“PGM”とは何か、を少し説明したいと思います。


ボクが社会福祉の勉強をしていた頃は『セルフ・ヘルプ・グループ』と言う言い方が一般的だったと思います。

セルフ・ヘルプ・グループとは…
Self Help Group
病気や障害、悩みなど、同じ問題を抱えた当事者同士が自主的につながり、問題解決のために経験や悩みを分かち合う集団です。自助グループ、当事者組織、本人の会などとも呼ばれます。


では、ピア・グルーブ・ミーティングとは…
Peer Group Meeting
病気を抱えて生活する仲間同士が集まり、意見や経験談を語り合う場です。一般的に「同じような問題を抱えている人同士が集まる語り合い」です。ピアサポートとは、仲間としての支え合いを指し、集団での支え合いの場合は、自助グループ(セルフヘルプグループ)と呼ばれます。


では両者に何か大きな違いがあるかと言うと、ほとんど無いでしょう(笑)
セルフ・ヘルプ・グループというのは当事者で構成された組織そのものの名称であるのに対し、ピア・グループ・ミーティングというのは、当事者が語り合う場の事を指し示していると考えていただければ、と思います。


ボクが

『メンタル不調を抱えるゲイ・バイセクシャル男性のためのPGM』
『メンタル不調を抱える対人援助職者・感情労働者のためのPGM』

を始めたのは、ボク自身が両者の当事者であるから、と言う意味合いが大きいです。

ボクは「メンタル不調を抱えるゲイ男性」であり「メンタル不調を抱える対人援助職者」でもあります。つまり、このPGMを主催してはいますが、同時にボクは当事者です。

ボクはこれらのPGMに『ピア・ファシリテーター』として参加しますが、あくまで『ピア(Peer:当事者)』なので、話しをまとめたりタイムキーパーとして動きますが、気持ちは参加者の皆さんと同じ、なんです。


PGMはあくまで当事者会なので「まとめ役の人が偉い」とか「年長者が正しい」とかそんな上下関係は、本来、あってはいけません。

参加者は、主催者も含めて、皆、同じ立場です。同じ当事者なのです。


ただし、参加する人たちが発言をしやすいように皆が『護られる必用』があります。そのPGMに参加して傷ついたり傷つけられたり、誰かを攻撃したり攻撃されたりすることは、ご法度です。そしてそれは、PGMの中だけでなくミーティングの時間以外にも考慮されなければなりません。

そのためにグランドルールがあります。
そのためにファシリテーターは、参加者へ最大限の配慮しなければなりません。


PGMの主催者として願うのは、ボクも含めた参加者の方々が「参加して良かった」と思えるような会であり続けたい、と言うことだけです。

そして「もうPGMに参加しなくても、自分は・私は大丈夫」と思えるようになり「また参加したいな」と思った時にそこにあり続ける会でありたい、と願っています。



もし興味を持たれましたら、ぜひボクが主催するPGMに参加していただければと思います。

2023年11月15日水曜日

そろそろ本当の話しをしましょう(HIV)その③

 そろそろ本当の話しをしましょう(HIV)その②からの続きです。




2003年当時『HIV陽性者のリアル』を知る術がなく、様々な不安を抱えたボクの『with HIV』生活。前回のお話しでも書きましたが、まずは1回/月の定期受診(毎回、血液検査を行う)し、免疫細胞の数とHIVのウィルス量を見ながら体調報告も兼ねて通院が始まりました。

『免疫細胞の数』と言っても、人間の体の中には多数の免疫細胞があります。


上の図のマクロファージ・NK細胞・好中球・キラーT細胞・B細胞・(樹状細胞)などが主な免疫細胞なのですが、HIVは下記の図のTリンパ球(キラーT細胞)の中でも『CD4リンパ球』と言う免疫細胞に感染します。


少し生物学的なお話しをしますと、ウィルスというのは細胞の『核』と呼ばれる部分だけの生命体で、ウィルスは細胞の中に取り込まれてその細胞の中だけでしか生きることができません。そして取り憑いた細胞を栄養分にして、ウィルス自身の分身を作るわけですが、その分身を作るたびに取り憑いた細胞を壊していくのです。

そういう意味ではウィルスは非常に弱い存在、とも言えるわけですが、いかんせんHIVは外敵から体を守るための免疫細胞に取り憑いてしまうため厄介なわけです。


話しをもとに戻しますね。

ボクが初診で検査したときは、CD4が600/μL台(血液1μL中に何個のCD4細胞があるか)だったと思います。ウィルス量は10の8乗個/mL(血漿1mL中に何個のウィルスがあるか)くらいでしょうか。

μL=1000000分の1L
mL=1000分の1L

CD4というのは、もともと個人によって持っている細胞数が違っていて、正常値は700-1300/μLと言われています。正常値でもかなり幅が大きいのが分かるかと思います。(これはボクの憶測ですが、ボクは元々CD4の数は少なめだったのではないかと思います)

当時のHIV治療ガイドラインでは『CD4が200を切ったら投薬開始の目安』でしたので、ボクはその日を、毎月の受診と検査で待つことになりました。もう一つ付け加えるなら、当時の法律では、CD4が200を切らないと(つまり投薬が始まるタイミングにならないと)身体障害者手帳が申請できませんでした。身体障害者手帳が申請できないということは、治療費の自己負担額は、毎回、病院の会計窓口で支払わなければなりませんでした。当時3割負担で、毎回の診察で1万円位は支払っていたと思います。



CD4というのはとても敏感な細胞で、その日の体調やストレスなどの精神的なものからもかなり影響を受けるため、血液を採取した時の状況で値が大きく変わることがあります。しかし長いスパンで見ていくと、ジワリジワリとCD4が下がっていくのが分かりました。

そして前回のblogでもお伝えした通り、ボクはこの間、月に一度、心理カウンセリングを受けることにしました。

保健所で陽性告知を受けた時に元カレと友人二人に開示してから、誰にもボクのHIVステータスについて開示することはなかったのですが、初診から2~3か月後、当時の職場の後輩二人に開示しました(その職場は上司があん摩マッサージ師でその下がボク、1つ年下と2つ年下の後輩の全部で4人だけの部署でした)。


ボクの心理カウンセリングを担当してくださったのはKさんという中年女性の臨床心理士さんでした。当時、心理職の地位というのは非常に低く、そもそも臨床心理士と言う資格も任意資格であるため、とてもめずらしい存在でした。

Kさんは長く拠点病院に所属されていて、HIV陽性者の心理カウンセリングを一手に引き受けてくださっており、また、セクシャリティなどの十分な知識と理解を持っていらっしゃる方でした(この方との出会いがあったからボクは心理職をしたいと思うようになった、そんな方です)。

初めましての時からいつも笑顔。
そして柔らかい言葉遣い。
言葉の選び方も丁寧。

今思えば、Kさんは本当に僕らHIV陽性者の患者のために、言葉通り「身を削って」尽くしてくれていたんだと思います。

拠点病院は土日祝日は休みで診療も9:00~16:30と言う時間帯でした。ボクの勤務先も公立病院でしたので、勤務は8:30~17:30で土日祝日が休み。だから受診の際は平日午後に有給休暇をとって受診していたのですが、心理カウンセリングに関しては診療時間外、しかもボクが仕事を終わってから公共交通機関を使って拠点病院に到着する19:00から1時間ほどの時間をわざわざ作っていただいて、心理カウンセリングをしていただきました。

当時、Kさんがどのようなポジションで雇用され、また残業代など支払ってもらっているのかなど、知るよしもありません。しかも心理職が心理カウンセリングを行って診療報酬が支払われるようになったのはここ数年の話なので、当時は心理職が心理カウンセリング業務をしたところで、病院の儲けにはならなかったはずです。


ただ…
ボクは、Kさんに沢山、救けていただきました。
ボクが初診で受診し、Kさんがその拠点病院を退職されるまでの4年間、ほぼ毎月心理カウンセリングをしていただきました。
そしてその方は、拠点病院に通院しているゲイのHIV陽性者のための自助会・当事者会も開いてくれました。しかも勤務外である土曜の午後に。
Kさんとは忘れられないエピソードはたくさんあります。

あかん、泣けてきた…



次回、そろそろ本当の話しをしましょう(HIV)その④では、そのKさんとの対話の中でとても印象的だったエピソードをいくつか紹介したいと思います。

2023年11月14日火曜日

そろそろ本当の話しをしましょう(HIV)その②

 そろそろ本当の話しをしましょう(HIV)その①からの続きです。




2003年11月、ボクは保健所の匿名無料検査を受検してHIVの陽性告知を受けました。そして、いよいよボクの「with HIV」が始まったわけです。

告知を受けた夜、自宅に帰ってまずしたことはなにか…それはとりあえずインターネットで情報を収集するところから始まりまりました。

まずは敵のことを知るところから始めたのです。

当時、ゲイコミュニティ周囲には、HIV/AIDSの予防啓発運動が盛んで、HIVコミュニティセンタが全国にいくつかあり、ボクもその存在を知っていました。もちろん、ボク自身が医療従事者であったので、病気などの情報は何となく見聞きはしていたので、ある程度の知識はあったと思います。


上のような図は、何かしらの機会に見ていたし、この図が意味することもちゃんと理解していました。しかし、いかんせん、『具体的な療養生活』が見えてこない。

そこでインターネットで情報収集したのです。

当時、SNSなどと言うものはなく、老舗のTwitter ですら日本では 2008 年 4 月から日本版が公開だったので、いち個人がどんな生活を送っているのかと言う事を知る手段としては、唯一「ブログ」があったくらいです。

そのため、HIV陽性者が実際の生活を綴ったモノというものはなく、どんなに調べても、厚生労働省やどこかの医療機関、研究機関が公開しているホームページにぶち当たるだけで、「HIV感染症は死ぬ病気ではない」「薬でAIDSの発症を抑えることができる」「生活にはなんら影響がない」など、正直『現実味のある話』はどこにも転がっていませんでした。

ちなみに日本で大流行したSNSといえばmixiですよね。
あのmixiですら、開始は2004年2月ですから。


ネットにはボクの知りたい情報が転がっていないと分かってから次に何をしたか。正直、ボクはこういう事実を一人で抱えるだけの心に余裕がある人間ではなかったので(笑)仲の良い友人二人と、元カレに連絡を取りました。ありがたいことに、みんなボクの事を拒絶することなく、静かに受け入れてくれました。友人二人は遠方に住んでいたのですが、ふたりとも「何かあったら連絡してちょうだいね」と温かい言葉をかけてくれ、元カレは「大丈夫か?」と心配してくれました。

そんな事を一晩のうちにやってのけ、その日は確か、疲れて眠ってしまったと思います。


翌日は勤務日でした。
ボクは、とにかく医療機関を早く受診したいと言う思いがあり、初診の予約を早く入れたかった(この辺りはせっかちというボクの性分です)。朝から「予約の電話を入れるなら昼休みだ!」と思い、朝からソワソワしていたと思います。

そしてドキドキしながら電話をし翌週の金曜日の午後に初診となりました。

今までボクは、その職場で「(病欠以外の)急な予定で有給を取る」と言うことをしてこなかったので、正直、なんと言って上司に休みをもらおうか悩みましたが、結局、口頭で「スミマセン来週の午後から急に予定がありまして…」みたいな感じで有給申請したと思います。


翌週。
どうやって病院まで行ったのか、どうやって受付をしたのか、医師との診察の前後のことは全く覚えていません。ボクを担当してくださった医師は、驚くほど落ち着いてボクに説明してくださいました。HIVに感染していることに間違いはないこと、感染経路は同性間の性行為によるものかと言う確認、今後血液検査のデータを見ながら投薬の時期を決めること、月に一度は定期受診してほしいこと、今の生活を変える必要はないこと、理学療法士という仕事も今まで通りに行って良いこと、そんな事をお話していただきました。

検査や診察を一通り終え、最後に看護師さんとお話する機会があって、何だかそこで一気に感情が溢れ出してしまって…仕事を変える必要はないとか、今まで通りの生活ができるとか、頭では分かっているのですが「心」の部分で納得できないと言うか、不安な気持ちというものが抑えきれなくて、ボロ泣きしてしまいました。

それを見かねた看護師さんが、「カウンセリング受けられるけど、受けてみますか?」と声をかけて頂き、ボクは二つ返事でお願いすることにしました。


このとき、ボクの心の中には色々な「思い」があって
・病気の事を誰かに伝えたほうがいいのか
・家族には説明したほうがいいのか
・恋愛は、セックスはどうすればいいのか
・本当に医療従事者として働いていいのか
・薬を飲み始める頃にはどの様な体調になっているのか
・薬の副作用は
・身体障害者手帳の申請は

などなど…もうこの溢れる思いの処理が自分ではできなくなっていたのですが、とにかく自分の気持を落ち着かせながら、1つずつ整理するしかない、と思いました。






そろそろ本当の話しをしましょう(HIV)その③へ続きます。

2023年11月13日月曜日

私の中核をなすもの(⑦映画)

 ずーっと書きたかった(笑)この話題。


ボクは、M・ナイト・シャマラン(M. Night Shyamalan)監督が大好きだ!
一応、彼の歴代の監督映画を列挙すると…

Praying with Anger
翼のない天使(Wide Awake)
シックス・センス(The Sixth Sense)
アンブレイカブル(Unbreakable)
サイン(Signs)
ヴィレッジ(The Village)
レディ・イン・ザ・ウォーター(Lady in the Water)
ハプニング(The Happening)
エアベンダー(The Last Airbender)
アフター・アース(After Earth)
ヴィジット(The Visit)
スプリット(Split)
ミスター・ガラス(Glass)
オールド(Old)
ノック 終末の訪問者(Knock at the Cabin)

ボクが彼の作品にハマるきっかけになったのはズバリ「シックス・センス」


当時、彼の作品で驚かされるのは、すごく平和な日常から徐々に非日常に変わっていく。そしてその原因が全くわからないままストーリーがすすみ、中盤から終盤にかけて何となく全容が分かるんだけど、終わり15分くらいで大どんでん返しが待っている、というのがお決まりの構成でした。

「あなたは終わり15分まで驚愕する!!」的なキャッチフレーズで宣伝されることも多くて、シックス・センス以降、何作か「駄作だ」と評価れる作品もあったりして…

ボク的には「サイン」「ヴィレッジ」「ヴィジット」「オールド」「ノック終末の訪問者」なんかは、意表を突かれて最後まで退屈せずに見たかな。






「サイン」でもそうだったけど、ジワリジワリとやってくる「恐怖の正体」というものを、映像としてハッキリとしたモノを描かないんだよね。「サイン」なんかは、きっと宇宙人が全ての元凶なんだろうけど、宇宙人をハッキリと「宇宙人の姿」として描かない(確かクライマックスで宇宙人らしき人影が映し出されるシーンはあったかな)。

そこがスゴク想像力を掻き立てられる。

そしてどの作品にも「子ども」が重要な役割を果たしていて、どの作品の子役も演技力がスバラシイ。

あと、脇役のキャスティングが秀悦。ビジュアルと役柄のギャップがすごくて、いつも「見た目で人を判断しちゃダメだ」と思い知らされます。


そして、物語は一応の結末を迎えるんだけど、「あれはどうなったの?」「あれとあれの関係は?」「結局あの人たちって何?」みたいな「モヤモヤ感」が残るんだよね。

それがまた良い(笑)

映画を見終わってからもその「モヤモヤ感」を抱えたまま、見たものの想像力をものすごく掻き立てられるから。

一昔前の映画というのは、ホラーにしろサスペンスにしろ、悪者や悪しきものが退治されたり、存在がなくなり「スッキリと平和が訪れる」というのが主流だったと思います。これはシャマラン監督作品に限らず、「モヤモヤ感が残る作品」が多くなりました。

しかも、そういう結末を望むオーディエンスが一定数いて(ボクもその一人www)、ある種のジャンルとなりつつあるかもしれません。

じゃあなんで「モヤモヤ感の残る作品」が好まれるか。

それはエンディングを迎えても、その先をオーディエンスが自由に想像できる、と言う楽しさがあるからだと思います。つまり、映画は終わったけれどもその物語の結末というのは、オーディエンスの数だけあり、それを話題にして一緒に見た人たちと会話を楽しめる、と言う特徴があるからではないでしょうか。



映画は良いですね~

それではみなさん。さようなら。さようなら。さようなら。



2023年11月4日土曜日

そろそろ本当の話しをしましょう(HIV)その①

 ここ数日、熱発したり咽頭炎になったり寝込んだりしていたら、ボクがHIVに感染した頃の事を思い出しまして。多分、ここでは詳しく書いていなかったと思うので、どうやって感染したかとかどうやって陽性告知を受けたのかとか、「ボクのリアル」を伝えていきたいと思います。



ボクがHIV陽性告知を受けたのは2003年11月です。そう今年で20周年。

少しだけ、HIV/AIDSの歴史をふりかえりますと…
1981年にアメリカで初めてAIDSの報告がありました。
日本では1985年に初のエイズ患者の報告がありました(ボクが10歳)。
その後、神戸を皮切りに「エイズパニック」というものが、マス・メディアによってセンセーショナルに報道されました。


そして薬害エイズ事件


そして1996年頃よりHAART(現在のART)と言う治療法が確立し、これによりHIV感染症は「死の病ではない」と言われるようになってきました。

なので、ボクはこのARTが確立してからわずか5~6年後に陽性告知を受けたのです。



2003年ボクは27歳でした。
当時、とある地方都市の公立病院に勤めていたんですが、プライベートの方は少々荒れておりまして(笑)ちょうど、数年、お付き合いしていた男性と別れたということもあり、ネットの掲示板で知り合った人と一晩だけを共にし性行為をする、と言う事を何度か繰り返していました。

医療短大時代、感染症の勉強はしていたので「肝炎には気をつけなきゃ」と思っていたのですが、HIV/AIDSはどこか対岸の火事…的な感覚でいたのは事実です。「気をつけなきゃ」と言いつつも、コンドームを使わないリスキーな性行為をすることも度々あり、半年に1回くらいのペースで保健所の無料匿名検査を受けていました。

確かあれは初夏…だったと思います。
ネットの掲示板で知り合った人とリスキーなセックスをしたのですが、翌朝、40℃くらいの熱を出し、本当は出勤日だったのですが、とても動ける状態ではなく病欠しました。ボクは元々、扁桃肥大があり、それまでも喉が腫れて高い熱を出して仕事を休むことはあったので、その日も当時の職場の耳鼻咽喉科を受診し、「扁桃腺がスゴク腫れてますよ」と医師から言われ、抗生剤などなど処方され帰宅したのですが、確か3日くらい動けず病欠したと記憶しております。

やっと動けるようになり、仕事をしだしたのですが、毎晩毎晩、酷い寝汗をかき、かつ日中も37℃くらいの微熱が続き、非常に大変な思いをしながら仕事をしていました。さすがに体が持たないと思ったので、2~3週間後に再び耳鼻咽喉科を受診し、医師から「まだリンパ節が腫れているから、一度、生検しようか」と言う話になりました。

上の図の「浅頸リンパ節」を、皮膚を切開して摘出し、病理検査に出すことになったのです。生検なので、まあ簡単な手術と同じです。そして、リンパ節の生検をするというのは、最悪「リンパ腫」とかもありうる話だったので、ボクは内心穏やかではありませんでした。

もちろん、職場の同僚や上司には理由を説明して、検査のためにお休みをもらったりしたのですが…

2週間後、結果は“白”でした。リンパ節の検査では原因が特定されなかったのです。
しかしボクは相変わらず、夜は酷い寝汗をかき、昼間は微熱。
結局、ボクの勤務していた病院に2週間に1回くる、非常勤の血液内科の先生の診察を受けることになったのですが…

血液検査をしても、白血球数が高いくらいで他に異常はない、との所見だったんです。
とりあえず、「不明熱」扱いになりボクはそれから毎日、ロキソニン(解熱鎮痛薬)を服薬しながら過ごすことになりました。

この頃からボクは「もしかしたらHIVに感染したかも…」と思ってはいました。
いや、あのリスキーな性行為をした翌日から、何となく予感はあったんです。

高熱を出してから2ヶ月が過ぎた頃からでしょうか。やっと微熱や寝汗も収まり楽に過ごせるようにはなったのですが、ボクの心は穏やかではありませんでした。

「多分、感染してる」

保健所での無料匿名検査を受けた経験があったので「感染したと思われる行為から3ヶ月以上、日にちを空けて検査を受ける」事は知っていたので、その3ヶ月をしっかりと待って、検査を受けました。


先にも書きました通り、ボクは公立病院に勤めていたので、ボク自身が勤めている市の保健所ではなく、少し離れた都市の保健所の、夜間検査を受けました。

仕事が終わって、車に乗って1時間位でしょうか。

採血した日の事はあまり覚えていません。

「2週間後にこちらの紙をもって結果を聞きに来て下さい」

そう伝えられ、ボクは帰宅しました。


2週間後。

窓口で番号の書かれた紙をお渡ししたら、「少々、そちらに腰掛けてお待ち下さい」と言われ、廊下のベンチで待たされました。


多分。そうだ。


そして窓口で対応してくれた人とは違う人がボクを別室へ案内してくれました。そこには白衣を着た女医さんを思しき方が座って待っていらっしゃいました。

「検査の結果、陽性だと分かりました」

そんな感じの事を告げられたように思います。

一瞬で頭が真っ白になりました。

そして、思い出したかのようにホロホロと涙がこぼれだしました。それが止められなくなり嗚咽混じりに。

その女医先生は、ボクが落ち着くまでしばらく待ってくださり、紹介状を書いてくださること、近隣の政令指定都市にある拠点病院が専門病院なので、できるだけ早めに予約を入れて受診したほうが良いことなど、今後の手順をキチンと丁寧に教えて下さいました。

しばらくして、女医先生は「ツラいよね…」と声をかけて下さり、またボクは堰を切ったように泣いてしまいました。誰に聞かれるでもなく、ポツリポツリと今後の生活への不安、仕事への影響、私生活のことなど話したのですが、一番強く思ったのは、両親への申し訳無さでした。

五体満足に生んでくれて、やりたいことやらせてくれて、ココまで育て上げてきてくれた両親に、本当に申し訳ない。ただただ、それをずっと口にしていたと思います。

それと仕事。
医療従事者であることは明かしたのですが、本当に“こんな病気になったボクが医療従事者をやっていいのか”と言う事を女医先生に聞いた覚えがあります。


今でも思い出すのは、ボクが落ち着きを取り戻しつつあるときに女医先生がかけてくれた言葉。

「好きな食べ物はなに?」

です。

ボクが「中華料理が好きなんです」って答えたら「じゃあ今夜は中華料理をたくさん食べてかえって下さい」っておっしゃられて。

なんかもう、笑うしかなくて。


ただボクは不思議と「もう人生終わった」とか「死んだほうがまし」とかは全く思わなかったんですよね。むしろ「拠点病院を受診するのに職場にどうやって説明して有給とろうか」とか「どのタイミングで予約の電話を入れようか」とか、そんな事を考えていたように思います。



ただ、やっぱりその日は、何も食べる気になれず、そのまま車を運転して帰宅しました。

その頃ボクは、首にマフラーを巻いていたので、もう寒くなりかけていた11月も下旬のことだったと思います。


その後は…気が向いたら『その②』を書きますね。

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