ボクは、「〇〇らしさ」という言葉が嫌いです!とっても(笑)
男らしさ
女らしさ
先生らしさ
患者らしさ
教師らしさ
生徒らしさ
ボクは今まで深く考えずに、その『らしさ』という言葉を嫌ってきたけれども、よくよく考えてみると、それは〝個性を奪う言葉〟なのだと認識したときから、腑に落ちるようになりました。
そして、その『らしさ』にこだわる事が、とっても大きな弊害を生み、それを押し付けたり押し付けられたりすることが『生きづらさ』の原因になっているのでは?と考えるようになりました。
ボクの生まれ故郷は、岐阜県の山奥です。そしてボクは本家の長男として産まれ、小さな頃からなんとなくそれを意識して育ってきた気がするんですよね。田舎の土地の本家だから、盆・正月には親戚一同が集まるし、冠婚葬祭は盛大に行われるのはもちろんのこと、家屋や田畑、山林の世話に至るまで本家長男の役割として、代々、受け継がれてきました。
少し余談になるのですが、先日、母と話をしていて、昔々、このような本家の行事ごとの度に母は、大変な苦労をしていた、と聞きました。食事一つとってもそうだし、その土地の風習や習わしに則った“やり方”があって、それを守らなければならない。
それにいくら親戚(勝水家の血縁)とはいえ、人間的に合わない人やなんとなく反りの合わない人もいるわけですよ(笑)そりゃ~仕方がない。だってお互い、人間だもの。けれど母は文句一つ言わず、父や勝水家を支えてきたわけです。
「内助の功」とはよく言ったもので(笑)
ちなみに…この「内助の功」の語源となったのが、土佐国高知藩主:山内一豊(やまのうちかずとよ)の妻である見性院(けんせいいん)である、とされており、なんとこの見性院さん、岐阜県郡上市の出身と言う説もあるんです!
話を元にもどしますね(笑)。
ボクは、それら「勝水家長男としての役割」みたいなものが嫌で嫌で仕方ありませんでした。
自由がないと思ったし、田舎の非常に狭いコミュニティ、あの世界の中だけで生きていくのはとても耐えられないと思ったから。だからボクは、高校を卒業と同時に実家を離れ、できるだけ接点を持とうとしてきませんでした。
少し話は逸れますが(またか!)昨今の同性婚問題も、日本人特有の「らしさ文化」に根付くところがあるのではないか?と思ってしまうわけです。
ただ、同性愛というものに対し、何らかの嫌悪感を抱く人がいるのは、当たり前だろうな、とボクは思います。それはある種、遺伝子に組み込まれている感覚もあるのかなぁ~と。以前、このblog『汚いモノは嫌われる?!行動免疫システム!!』でも話題にした『行動免疫システム』に近いものが私達ヒトの中に組み込まれていて、「理由はないけどなんとなくイヤ」みたいな事があるんじゃないのかな、とボクは考えます。だからそれは、ある意味仕方のないこと。
けれど、嫌悪することと差別行動を起こすことは別だと思っていて。ましてや、法律で「あれやこれや」と理由をつけ、majority(マジョリティ:多数派)のもつ権利をminority(マイノリティ:少数派)には与えないというのは、いかがなものでしょーか?
特に、人口減少がおき始めている日本において、majorityだけを認めるような法律・法案というのは、日本という国を滅ぼしかねない、とも考えられるわけで。minorityを認めmajorityとの格差を埋めるだけでも、国力になるのではないのかな~と、ボクは考えます。
ゴメンナサイ(汗)話が飛躍しすぎました。
ボクは産業カウンセラーであり、理学療法士であり、社会福祉士です。
どれも対人支援・対人援助のお仕事で、どれもそうなのですが、一番大切にするのは「その人らしさ」であったり「その人の幸福を考える事」です。ボクはそれを大切にしてそのお仕事をしてきたし、今からもそうでありたいと思っています。
そして、ボク自身もボクらしく、またボクなりの幸せを掴み取り生きていきたいと思っています。