自己紹介

自分の写真
オンラインカウンセリング「勇者の部屋」の産業カウンセラー勝水のブログです。セクシャルマイノリティ(ゲイ)・身体障害者(HIV陽性者)・精神障害者(双極症)の当事者としての目線と、理学療法士・社会福祉士・産業カウンセラーとしての目線で、今まで経験したことや普段考えていることなど、様々な情報発信をしております。

2024年12月1日日曜日

POSITIVE TALK 2024~第38回日本エイズ学会学術集会より

 2024年11月28日(木)~30日(土)にかけ、東京において開催された『第38回日本エイズ学会』の『POSITIVE TALK 2024』にて、HIV陽性者の当事者としてスピーチをしてきました。まずは、その発表原稿の全文を、こちらでご紹介させて頂きます。

なお、読みやすいように段落ごとにタイトルをつけてお届けします。




①問題提起
皆さん、初めまして。ボクは勝水健吾(かつみずけんご)と申します。よろしくお願いいたします。

よく「珍しい名前ですね」と言われますが、ニックネームでもなければ芸名でもペンネームでもありません。紛れもない実名です。

なぜボクが実名でここに立っているのか、それを頭の隅においていただいて、これからの15分間、お聞きいただければと思います。

ボクが陽性告知を受けたのは2003年ですので、もう20年以上経ちました。その間、医療技術は進歩し、ボクらの療養生活は困難なものから開放されつつあります。また、行政や福祉制度も、より健康的に寿命を全うできるような制度へと、少しずつではありますが変化してきました。

陽性告知を受けて医療機関につながった時、医師・看護師さんを始め、心理カウンセラーや薬剤師さんなど、非常に多くの方々の温かい支えがあり、とても安心した記憶があります。そしてそれは、20年以上たった今でも変わることはありません。

何より、ボクらを勇気づけてくれたのは「U=U」と言う科学的根拠に基づく事実です。
ボクは、陽性告知を受けた後、何より恐れていたのは「自分自身が感染源となり他人に感染させてしまうこと」でした。しかしその恐れも払拭してくれました。

けれど、昔も今も変わらない事実があります。

それは、HIV陽性者に対する偏見や差別です。

ボクが経験してきたのは「ただの勝水健吾さん」がHIV陽性者だと開示しても、多くの方はその事実を受け入れてくれました。しかし「HIV陽性者の勝水健吾さん」となると、途端に雲行きが怪しくなります。

これは何故でしょうか?
ボクなりに考え、導き出した答えが3つあります。


②行動免疫システムとHIV
1つは、人間は行動免疫システムに支配されている生物である、と言うことです。

行動免疫システムの詳細については、おそらくここの中にも、専門家がおられると思うので、ボクの口から改めてご説明することはいたしませんが、人間は生物として本能的に、「感染症」や「感染物」に対して嫌悪するという、生物としてのアラームが備わっているため、ある意味、致し方ないのかもしれません。

思い出して下さい。数年前、新型コロナウイルスの感染拡大に伴って、医療従事者が、医療従事者だということだけで忌み嫌われ、いわれのない差別行動を受けていた事実を。

③集団心理とHIV
2つ目に、集団心理というのもあるでしょう。

人の心というのは、「集団」になると思いも寄らない反応を示します。

集団心理を考える時「利他的行動」を理解するとある程度、問題解決の糸口があるような気がします。

「利他的行動」とはみなさんご存知の通り、「自分を犠牲にして誰かのために何かの行動をする」ことです。人間以外の生物でも、この「利他的行動」は見られるそうなのですが、人間だけは少し違う側面があります。人間は「自発的に利他的行動をする生物だ」ということです。人間以外の生物は、相手から求められれば利他的行動をするそうなのですが、自発的に利他的行動を取るのは人間だけ、なのだそうです。

この利他的行動が起こる背景には、「集団を守ろうとする機能」があると言われています。このことをHIV陽性者への偏見・差別の問題に置き換えて考えてみると、HIV陽性者の集団は、その集団の中で自分たちを守ろうと行動します。

もし、非HIV陽性者から差別行動を受けた、などの事実がわかった時、その非HIV陽性者を攻撃しようとしたり非HIV陽性者に対して嫌悪感情を持ったりするのだと思います。

でもそれは逆でも同じなんです。非HIV陽性者の集団は、非HIV陽性者同士を守ろうと利他的行動に出ます。HIV陽性者から「感染させられた」と言う事実がわかった時、非HIV陽性者の集団は、HIV陽性者の集団を攻撃し嫌悪感情を抱くでしょう。

④リアリティの欠如とHIV
そしてボクが一番の問題点だと思っているのは、3つ目の「リアリティの欠如」です。

事実、ボクらの様に、陽性告知を受けても、長く健康的な社会生活を送れている人たちがいっぱいいるのにも関わらず、不必要に恐怖心や嫌悪感情をもつ人は多くいる、とボクは感じています。

これは「HIVに感染しても健康的な社会生活を送れる」とか「U=Uとなれば性行為で感染させてしまうことはない」と言う「明らかな事実」と言う意味でのリアリティがあるはずなのに、何故か「もし自分が感染していたら」とか「もし誰かからうつされたかも」など、自分事として身に迫った時に、何故か先程お伝えしたような「明らかな事実・リアリティ」がどこへ、吹っ飛んでしまいます。

確かに、ボクも今まで色々な困難にぶつかってきました。しかし、今ここに立って、こうやって皆様の前でお話できているという事自体が、一つの証明でしょう。

しかし、恐怖心を感じずにはいられないという気持ちを抱いている人が多くいるのも事実です。

「頭では分かっていても心では受け入れられない」そんな感じでしょうか。


ボクの考える3つの問題点に対する解決法
さて、これらの問題点に対して、どの様に対処していけばよいのでしょうか?

ボクはこの3つの問題点に対して、この様に考えました。

人間が行動免疫システムに支配されている生物であるとしても、素晴らしい知性や何モノにも代え難い理性というものを持ち合わせています。感情を知性や理性で変容させることができるというのは、周知の事実のはずです。

集団心理であっても「HIV陽性者」と「非HIV陽性者」と言う集団に分けてしまうから、先程、お伝えしたような状況になるのであって、「人間」と言う大きな観点から集団を捉えればいいんです。性別もセクシャリティも年齢も国籍も、全部ひっくるめて「人間」と言う大きな集団なのです。

そしてリアリティの欠如。皆さんどうすれば、自分事として受け止めてもらえるのでしょうか?ボクが考えるに、まずいちばん重要だと思うのは、正しい情報を然るべき人がきちんと発信し続ける事だと思います。

例えば医師が、例えば看護師が、例えば行政が、例えば研究機関が、正しい情報を発信し続ける、と言う事が大きな影響力を持つ、と感じています。

さらに、このような問題は、なにもHIVに感染していない人たち「だけ」の問題ではない、とも思っています。

今まで、ボクらHIV陽性者は、偏見や差別を恐れるあまり、自分のHIVステータスを開示することに、強い抵抗があったのも事実です。それがまた、リアリティを失わせてしまう、一つの要因ではないか、と、最近、常々、思うようになりました。

偏見や差別を語る時、「誰かが悪い」とか「誰が正義だ」とか、そんなことは、全く関係ありません。皆の問題で、皆が解決しなければいけない問題を、それぞれに抱えているから起こる問題だ、と思っているんです。

だから、HIV陽性者自身も変わらなければいけない。

そう思わずにはいられないんです。

人は「変わろうとする」ことに対して恐れを抱く生き物です。
でもそれは、HIV陽性者だろうが非HIV陽性者だろうが、全く同じことのはずです。
変わろうとすること、変わることって、ボクはとても素晴らしい力だと思うんですよね。

ボクは普段、産業カウンセラーとして心理カウンセリングを提供しています。
そこでお会いする方々というのは、「変わりたい。自分を変えたい。けれどどうしたら良いか分からない」そんな方たちばかりです。

ご自身で「変わりたい」と思っておられる方の持つ力と言うのは、とても強い。けれど、「変わる」ためには、たくさんのエネルギーを使いますし、時間のかかることではあります。しかし、人間は必ず変わっていきます。

そんなことを日々、目の当たりにしているボクにとって、「変わること」と言うのは、人間の秘めた力を呼び起こしてくれるとても素晴らしいものだと、心から信じています。


⑥ボクの決意
さて、ボクが実名で、そして顔を隠すことなく、ここに立っている理由をご理解いただけましたでしょうか?

ただ、一つ強調しておきたいのは、HIV陽性者皆が「ボクのようになれ!」と言っているわけではありません

HIV陽性者だって、様々なバックグラウンドを持っていたり、様々な環境の中で生活しています。それを無視することはできません。

障害者だって色々ですから。

ただ、ボクの力で、この偏見や差別に関する問題をどれだけ解消できるかは分かりません。

ボクは来年で50歳になります。これから何年生きられるか分かりません。自分自身の死と言うものを意識せざるを得ない年令になってきました。しかし、残りの人生を、この偏見や差別に対する問題に、一石を投じながら社会に爪痕を残して生きていきたい。そう思っています。

そしてこの会場の中にも、ご自身のことを多く開示し、メディアに出て、そしてHIV陽性者のために様々な困難を切り開いていってくださった方がおられます。

ボクの記憶が正しければ、その方は恐らく、20年ちかく、そのスタンスを貫いてこられたはずです。

きっと、ボクなんかが想像する以上に、ご苦労をされてきたんだと思います。


さて皆さん、今年の朝の連ドラ「虎に翼」はご覧になりましたか?その主題歌で米津玄師さんの「さよーならまたいつか!」の2番の歌詞にこうあります。

『人が宣う(のたまう)地獄の先にこそ 私は春を見る』

ボクは、そんな生き方をしたい。今はそう思っております。

どうか皆様、もう少し、もう少しボクらHIV陽性者のためにお力をお貸し下さい。
よろしくお願いいたします。


スピーチ後、座長のお二人からご感想・ご質問を頂きました。

高久様「十分に、社会に爪痕を残していらっしゃいますよ」
ボク「ありがとうございます😭😭😭」

特定非営利活動法人akta 代表者 理事長 岩橋恒太様(本学術集会大会長)より
岩橋様「リアリティの欠如と言う観点から、どの様にしたら“届けたい人”に情報を届ける事ができるのか。何か方法があると思いますか?」
ボク「永遠のテーマだと思います。ただ、方法として様々な人が、様々なタイミングで、様々な方法・ツールを使って、発信し続けるしかない、と今は思っています」


ボクはこの学術集会の期間、参加させていただいた一般演題・シンポジウムにて、必ず一題は質問をさせて頂きました。

必ず「産業カウンセラーでHIV陽性者当事者の勝水と申します」時にはそれに付け加え「長年、理学療法士として医療機関に勤務しておりました」と前置きをし。

これは、スピーチの⑥ボクの決意を体現致しました。

(質問の標的?!になった先生の方々、不躾な質問を投げかけたり困惑されるような内容をお話をさせて頂きました。この場をお借りしお詫びとお礼と申し上げます。本当にありがとうございました🙇🏻‍♂️)

※今一度強調しておきますが、このスピーチはボクの決意であって、セクシャリティやHIVステータスを開示することを推奨するものではありません。

少し余談になるのですが…

学術集会、最終日、TOKYO AIDS WEEKS CHOIRによる「合唱ミニコンサート TOKYO AIDS WEEKS 2024」を聴かせて頂きました。

その歌声を聴き、歌っておられる方々のキラキラとした表情を見ながら、何故か「このキラキラした笑顔を守らなければ!」と言う思いが湧いて出てきました。

そして、(アンコール前の)最後の曲、サウンド・オブ・ミュージックより「Climb Every Mountain」のコーラスが大変、心に響きました。

ボクは中学生の頃に入部していた吹奏楽部で、この曲を演奏した経験があります。それをきっかけに映画「サウンド・オブ・ミュージック」を鑑賞しました。まだまだ若かったボクですが、強烈に印象に残っています。

その歌をご紹介して、このブログを締めくくらせて頂きます。

2024年11月21日木曜日

こころの不調を抱える人が『人を支える“シゴト”』をすると言うコト~心理カウンセラー

 先日、『パラちゃんねるカフェ』でボクの新しい連載『こころの不調を抱える人が『人を支える“シゴト”』をすると言うコト』が始まりました!

そちらでは主に、ボクが長年携わってきた「理学療法士」を、こころの不調を抱えながらシゴトする事に関して、様々な側面から影響や限界などをお伝えしていこうと思っています。

一方で、今現在、ボクは相変わらずこころの不調を抱えたままではあるものの、「オンラインカウンセリング」のサービスを主業としていて「産業カウンセラー」で心理カウンセリングを行っています。

心理カウンセラーも「人を支えるシゴト」にはかわりありません。

これをお読みの方の中には「こころの不調を抱える人が心理カウンセラーなんてしてて、大丈夫なの?」とか「結局、こころの不調を原因で潰れてしまうんじゃないの?」とお思いの方もおられるのでは?

実は、開業する時に、自己紹介のところで、ボク自身のことをどこまで開示しようか迷っていました。いつぞやの(笑)Podcastでもお話していますが…

これは事実として受け止めていただきたいのですが、1年以上、心理カウンセラーとして多くの方と関わらせていただいているけれど、『心理カウンセリングと言うシゴトが原因でメンタル不調になったことは“ない”』のです!

いや、これ、ホント。まじで(笑)

前置きが長くなりましたが、何故、こころの不調を抱えながらも心理カウンセラーとしてやってこれているのか、自分なりの答えを今回のブログでお伝えしたいと思います。



【メリット】

1. 共感性の深さ

○当事者としての理解
精神疾患を経験した人は、当事者ならではの深い理解を持って、クライアントの心の状態に共感することができます。

○言葉の力
同じような経験をしたからこそ、言葉で表せない苦しみや悩みを的確に捉え、共感の言葉をかけられる可能性が高いです。

○信頼関係の構築
共通の経験を持つことで、クライアントはカウンセラーに対してより安心して心を開き、信頼関係を築きやすくなります。

2. 回復過程の共有

○希望を与える
自分の回復体験を話すことで、クライアントに希望を与え、回復へのモチベーションを高めることができます。

○具体的なアドバイス
具体的な回復方法や対処法を共有することで、クライアントはより実践的な支援を受けることができます。

○ロールモデルとなる
自分の経験を通して、クライアントが自分自身の人生を切り開いていくためのロールモデルとなることができます。

3. 多様な視点

○新しい可能性
精神疾患の経験は、多様な視点や価値観をもたらします。

○柔軟な対応
様々な状況に対応できる柔軟性や、クライアントの個性を尊重する姿勢を養うことができます。

○社会への貢献
精神疾患に対する社会の理解を深め、多様性のある社会の実現に貢献することができます。

4. 自己成長

○自己理解の深化
自分の経験を客観的に見つめ直し、自己理解を深めることができます。

○自己肯定感の向上
自分の経験を活かして社会に貢献することで、自己肯定感を高めることができます。

○人間関係の改善
カウンセラーとしての活動を通して、周囲の人々との人間関係を改善することができます。

【デメリット】

1. 心の負担

○再発のリスク
クライアントの話を聞くことで、自分の過去のトラウマが再燃する可能性があります。

○感情の消耗
常にクライアントの心に寄り添うことは、精神的な負担が大きい場合があります。

○境界線の設定の難しさ
自分の経験とクライアントの問題を区別することが難しく、感情的に巻き込まれてしまう可能性があります。

2.社会の偏見

○差別・偏見
精神疾患を持つ人に対する社会の偏見や差別は、依然として根強く残っています。

○雇用への障壁
カウンセラーとしてのキャリアを築く上で、雇用への障壁となる可能性があります。

○自己評価の低下
社会の偏見によって、自己評価が低下してしまう可能性があります。

精神疾患を持つ人が心理カウンセラーになることは、多くのメリットとデメリットが考えられます。自身の経験を活かし、クライアントに寄り添うことができるという点で、大きな可能性を秘めています。しかし、同時に、心の負担や社会の偏見といった課題も存在します。

しかし、これだけは断言できます。

心理学や精神医学、脳科学などを学ぶことは、自分の中にいる『精神疾患という敵』を知ることにも繋がり、冷静に対処できるようになったり、セルフケアの大切を知ることになったりして、実践する機会を与えてくれます。

そして何より、クライエントと過ごす時間が、ある意味、自分への気付きとなることが、大変多くあります。自己一致していれば、クライエントの問題と自分自身の問題と、共感できる反面、それを切り分ける訓練にもなります。



さて、こんなボクではありますが、これからも「産業カウンセラー」と言う資格を活かし、「心理カウンセラー」を生業とし、生涯現役でありたい、そう強く思っております。

2024年11月2日土曜日

「刹那主義」と「今を生きる」…何が違う?

 先日、以下のようなネット記事を発見し、思わず筆を執りました。

刹那主義化する日本人? 「大切なのは今を楽しむこと」が10年間で約1.5倍に【イプソス調べ】

記事中に『「重要なのは今日を楽しむことであり、明日のことは明日考えるようにしている」という設問に対し、「同意する」と回答した人は日本では45%にのぼった。』とあり、その見出しを『刹那主義の価値観』と表現。

ボクは、ちょっと憤りのような感覚に陥りました。

確かに、言葉ヅラだけ追えば、似たような意味に捉えられるかもしれません。しかし、その意味するところは、全く持って雲泥の差があります!!

そこで、「刹那主義」と「今を生きる」事について言葉の意味などを考えながらお伝えしたいと思います。


1.刹那主義

「刹那主義」という言葉には、一般的にネガティブなイメージがつきまといます。「刹那的に生きる」というと、将来への展望を持たず、その場の快楽だけに身を任せるような、無責任で享楽的な生き方を連想させるからです。しかし、仏教における本来の意味での「刹那」は、単に「極めて短い時間」を指す言葉であり、決して否定的な意味合いはありません。


2.現代社会における「刹那主義」

イプソスの調査では、「既存の政党や政治家は、自分のような人間を気にかけていない」と考える日本人は62%に達し、7年間で約1.6倍に増加しています。将来が予測しにくい状況下では、長期的な展望を持つことよりも、今この瞬間を充実させようとする傾向が強まるのも無理はないでしょう。


3.刹那主義の功罪

刹那主義には、肯定的な側面と否定的な側面の両面があります。

①肯定的な側面
○ストレスの軽減
将来への不安や過去の後悔にとらわれず、「今」に集中することで、ストレスを軽減することができます。

○感性の向上
五感や感情を研ぎ澄まし、瞬間瞬間に意識を向けることで、感受性が豊かになり、人生の喜びをより深く味わえるようになります。

○行動力
未来への不安を理由に行動を先延ばしにするのではなく、「今」できることに積極的に取り組むことで、より多くの経験を積み、成長を促すことができます。

②否定的な側面
○責任感の欠如
将来への備えを怠り、目先の快楽だけに走ってしまう可能性があります。

○人間関係の希薄化
長期的な関係を築くことを重視せず、その場限りの関係に終始してしまう可能性があります。

○目標達成の困難さ
長期的な目標を立て、それに向かって努力することを放棄してしまう可能性があります。


4.「今を生きる」

過去や未来にとらわれず、現在の瞬間を大切にする生き方です。私たちには五感、感情、そして言葉では言い表せない様々な感覚があります。これらの感覚に意識を集中することで、「今」という瞬間を充実させ、多くの満足感、幸福感を得ることができるでしょう。


5.刹那主義と「今を生きる」ことのバランス

重要なのは、刹那主義と「今を生きる」ことのバランスをとることです。

○将来への備えは必要
刹那的に生きることのみに価値を置くのではなく、将来への計画を立て、必要な準備をすることも大切です。

○過去から学ぶ
過去の失敗や成功から学び、将来に活かすことが重要です。

○「今」を充実させる
過去や未来にとらわれすぎず、「今」という瞬間を大切にし、五感を研ぎ澄まし、様々な感覚を味わうことを意識しましょう。

「今を生きる」ことは、単に刹那的に生きることを意味するのではなく、過去と未来を踏まえ、現在という瞬間を最大限に充実させることです。


6.刹那主義を超えて

真に「今を生きる」ためには、自分の人生に責任を持ち、主体的に行動することが重要です。人からどう思われるかを気にするのではなく、ありのままの自分を受け入れ、自分の価値観に基づいて行動することで、地に足の着いた、充実した人生を送ることができるでしょう。

「刹那主義」という言葉の本来の意味を理解し、その肯定的な側面を活かしながら、過去と未来を踏まえた上で「今」という瞬間を大切に生きることが、私たちが目指すべき姿なのではないでしょうか。

2024年10月29日火曜日

苦しんでいるのは若者だけではない…自傷行為の理解と対応

連日、『〇〇横キッズ』と言う呼ばれ方でマスコミに取り上げられている、若者の問題。そこには、市販薬を中心としたOD(オーバードーズ)を常習化してしまった若者の姿があります。


ボクは最初、これらの事実を耳にする度に、何となく「ただの依存行為ではないかも…」と、ずっと思ってきました。そんな矢先、ボクのクライエントの一人が、自傷行為(リストカット)を経験されておられる方に出会い、前述の『〇〇横キッズによるOD』と『リストカットなどの自傷行為』について、深く考えるようになりました。


※なお、この記事は、ボクのクライエントの許可を得て作成し、掲載しています。



1.自傷行為とは?


自傷行為とは、〝自殺以外の目的で、死に至らない程度の予測を持って、意図的に自分の体を傷つける行為〟と定義されています。代表的なものとしてはリストカットが挙げられますが、皮膚を焼く、つねる、壁に頭を打ち付けるなど、様々な形態があります。先ほど出てきたODも、自傷行為の一つだという見解のようです。



2.自傷行為の背景


自傷行為は、激しい怒りや不安、緊張、気分の落ち込みといった、つらい感情を軽減するために行われて、こうした感情の背景には、家庭内での虐待、いじめ、人間関係のトラブルなど、様々な問題が潜んでいることが多いようです。



3.なぜ自傷行為で気持ちが楽になるのか?


脳科学的に言われているのは、自傷行為をすることで、脳内麻薬様物質(エンケファリンやβ-エンドルフィン)が分泌され、一時的につらい気持ちが和らぐという効果があることが分かっています。また、自傷行為によって意識の中でつらい記憶や感情を切り離し、「なかったこと」にすることで、心の痛みから逃れようとしているという側面もある、と言われています。


脳内麻薬様物質が分泌される、と言う意味では、いわゆる依存症と同じですよね。依存症には『物質依存』と『行為依存』があって、前者は体内に依存物質を取り込むことで形成される依存症の事で、違法薬物・市販薬や処方薬・アルコールなどの依存があります。後者は、何かの行為をする事で形成される依存の事で、インターネット・セックス・ギャンブル・万引きなどがあります。


この様に考えると、自傷行為というのは『行為依存』に分類されるものの一種かもしれませんね。



4.自傷行為の問題点


①一時しのぎでしかない

自傷行為は、あくまでも一時的な対処法に過ぎないと言われています。根本的な問題解決を先延ばしにすることで、状況がより複雑化・深刻化する可能性があります。


②エスカレートしやすい

自傷行為を繰り返すうちに耐性ができ、より強い刺激を求めるようになる、と言われています。そのため、自傷の頻度や強度が増加し、最終的には「切ってもつらいが、切らなきゃなおつらい」という状態に陥ってしまう可能性もあります。


これらの観点から、まさに「行為依存」であると言えるかもしれません。一時しのぎだと頭で分かっていても、せずにはいられない。さらに「もっと、もっと」と強い刺激を求めてしまう…。




5.自傷行為への対応


①誤った対応

 ◯頭ごなしに叱責する

 ◯自傷行為を禁止する、約束を強要する

 ◯「誰かの真似」「関心を引こうとしている」などと決めつける

 ◯過剰に同情する、驚く


②望ましい対応

 ◯冷静に状況を把握し、必要に応じて傷の手当てをする

 ◯否定せずに、本人の気持ちに寄り添い、話を聞く

 ◯自傷行為の原因を探る

 ◯自傷行為以外の、より健康的な対処法を一緒に考える

 


6.自傷行為はSOSのサイン

自傷行為は、子どもからのSOSのサインです。「自分を傷つけたいほどつらい」という子どもの心の叫びに耳を傾け、適切なサポートを提供することが重要です。


そして、自傷行為は、子ども時代だけの問題ではありません。


大人になってからも「生きる手段の一つ」として「自傷行為をし続ける」ことをせざるを得ない方もおられます。




このブログ記事を締めくくるに当たり、最初にご紹介しました、ボクのクライエントをご紹介致します。


この方は気分障害によって休職され、ボクのところへ来られました。そして心理カウンセリングを進めるうち、過去にリストカットをしていた事、また、今でも心の調子が悪いときにはリストカットをする、と言うことを開示してくださいました。


その方からのお言葉です。


「自傷行為をする方へ。自傷行為をすることで一時的に気持ちは楽になるし生きられるようになる。けれど、できれば楽な時に、自傷行為以外の方法で楽になれることを探して欲しい。それは、自傷行為は一時しのぎで根本的な問題解決ではないから。けれど、自傷行為を無理に辞める必要はない(それは生きるためだから)。ただ、それを最終手段の“逃げ場”と捉えてほしい。」


「自傷行為を見つけてしまった方へ。自傷行為は生きるための手段だから、無理に止めさせないで欲しい。それよりも、話しを聞いてそばにいてあげて欲しい。それだけで十分。強く否定したり大げさに捉えられると、当事者も困惑してしまう。それは“死にたいからする行為”ではなくて“生きたいからする行為”だから。」




2024年10月19日土曜日

過剰適応~日本社会特有の落とし穴?

 現代社会において、ストレスや精神的な健康は重要なテーマとなっています。特に日本では、周囲の期待に応えようとするあまり、自分自身を犠牲にしてしまう「過剰適応」が問題視されています。

過剰適応は、職場や学校、家庭など、あらゆる場面で起こりうるものであり、一見すると真面目で周囲に気を遣う「良い人」に見えながらも、内面では大きなストレスを抱え込み、心身のバランスを崩してしまう可能性を秘めています。

もう、ここまで読んで「あ!自分の事かも…」とお思いの方もおられるのでは?


1.過剰適応とは?

過剰適応とは、周囲の環境に過度に適応しすぎてしまい、自分自身の内的欲求や感情を抑制してしまう状態を指します。具体的には、以下のような特徴が挙げられます。

○周囲の人の評価を過度に気にする
○他人に嫌われたり、拒否されたりするのを極端に恐れる
○自分よりも他人を優先し、自己犠牲的な行動をとってしまう
○断ることが苦手で、無理な要求にも応じてしまう
○自分の意見や感情を抑圧し、常に「いい子」であろうとする

2.過剰適応の背景

過剰適応は、日本の文化や社会構造と深く関連しているのでは?とボクは思っています。 日本では、協調性や同調性が重視される傾向があり、周囲との調和を乱さないように、自分の意見や感情を抑えることが美徳とされてきました。また、他人からの評価を非常に気にする文化で、「人に迷惑をかけてはいけない」「周りの期待に応えなければならない」という意識が強いことも、過剰適応を生み出す要因となっていると言えるのではないでしょうか。

3.過剰適応がもたらす影響

過剰適応は、以下のような深刻な影響をもたらす可能性があります。

ストレス:常に周囲に気を遣い、自分の感情を抑圧することで、心身に大きなストレスがかかります。
精神疾患:過剰なストレスは、うつ病、不安障害、パニック障害などの精神疾患を引き起こすリスクを高めます。
燃え尽き症候群:仕事や人間関係に過剰に適応しようとするあまり、燃え尽きてしまうことがあります。
自己喪失:自分の意見や感情を抑え続けることで、自分らしさを見失い、自己肯定感が低下してしまう可能性があります。


4.じゃあどうする?過剰適応への対策

過剰適応を防ぎ、自分らしく生きるためには、以下の対策が有効だと言われています。

①自分自身の状態を把握する

まずは、自分が過剰適応に陥っていないか、客観的に自分自身を見つめ直すことが重要です。自分の感情や欲求に素直に向き合い、ストレスを感じている場合は、その原因を分析してみることをオススメします。

②アサーションを身につける

勇者ケンゴのblog「正しい自己主張の仕方!!アサーションスキルとは(リライト版)」をご参照下さい。アサーションを身につけることで、相手に配慮しながらも、自分の意見や気持ちを伝えることができるようになり、過剰適応を防ぐことができます。これ、結構大事!!

③自分を大切にする

実はボク「自分を大切にする」と言う言葉は嫌いです。だって、どんなことをすることが「自分を大切にすること」なのか、と言う具体的な方法が思いつかなかったから。でも、一つ言えることは「自分を犠牲にし誰かのため“だけ”に奉仕する」と言うことは、「自分を大切にして“いない”」と言うことだと、今は理解しています。

④周囲に頼る

これが苦手な人が多い!ボクも含め。頼れる先をたくさん持つことが、もちろん過剰適応にも効果的ですし、生きづらさを解消するためにも、とても大切なことだと思います!!

⑤専門家のサポートを受ける

ぜひ、心理カウンセリングを利用して下さい。これは④周囲に頼る、の一つだと思っていただければ結構です。

5.まとめ

過剰適応は、日本社会特有の文化や価値観が背景にある、複雑な問題です。けれど、自分自身の状態を理解し、適切な対策を講じることで、過剰適応を防ぎ、自分らしく生きることができます!そう、できるんです!! 周囲の期待に応えることも大切ですが、自分自身を護り、生きやすく生活するために、ぜひ、たくさん頼れる先を見つけて、十分に頼って下さい(笑)。

そして「勇者の部屋」のオンラインカウンセリングもぜひ、ご活用下さい(笑)

2024年10月10日木曜日

北欧発!自然と調和する生き方「フリルフスリフ」のススメ

現代社会はストレスに溢れ、心身のバランスを崩しやすい環境にあります。そんな中、北欧発のライフスタイル「フリルフスリフ」が注目を集めています。フリルフスリフとは、ノルウェー語で「気ままなアウトドア生活」「野外での暮らし」を意味し、自然の中に身を置き、ありのままに暮らすシンプルな考え方です。自然と調和し、心身を解放することで、真の豊かさを感じることができるライフスタイルと言えるでしょう。


1.フリルフスリフの起源と歴史

フリルフスリフという言葉は、1850年代にノルウェーの劇作家・詩人であるヘンリック・イプセン氏の作品「オン・ザ・ハイツ」の中で初めて使われたと考えられています。イプセン氏は、自然の中で過ごす時間がメンタルヘルスに好影響を与えることを提唱しました。

北欧諸国、特にノルウェーでは、国土の大部分が自然に囲まれ、人々は古くから自然と共存するライフスタイルを送ってきました。厳しい自然環境の中で生き抜く知恵として、フリルフスリフは人々の生活に深く根付いてきたのです。


2.フリルフスリフの具体的な活動

フリルフスリフは、特定の活動や習慣を指す言葉ではありません。むしろ、アウトドアで過ごす時間全体を包括的に表す概念と言えます。

具体的な活動例としては、以下のようなものが挙げられます。

●散歩
●ハイキング
●ピクニック
●スキー
●釣り
●焚き火を囲んでBBQ
●ラフティング
●カヌー
●テントサウナ
●森歩き

重要なのは、年齢や体力レベルに関係なく、誰もが自然と触れ合い、楽しむことができるということです。

3.フリルフスリフがもたらす効果

フリルフスリフは、心身に様々なポジティブな効果をもたらします。

①メンタルヘルスの向上: 自然の中で過ごすことで、ストレスから解放され、心身のリフレッシュを促します。

②ウェルビーイング: 自然と一体になることで、自己肯定感や幸福感が高まります。

③創造性の刺激: 自然の美しさや静けさは、インスピレーションを与え、創造性を刺激します。

④健康増進: 適度な運動は、体力向上や免疫力強化に繋がります。

⑤環境問題への意識向上: 自然と触れ合うことで、環境問題への意識が高まり、持続可能な社会への貢献に繋がります。


4.現代社会におけるフリルフスリフの重要性

現代社会は、デジタル化や都市化が進み、自然と触れ合う機会が減少しています。そのため、ストレスや不安を感じやすい環境に置かれていると言えます。

コロナ禍を経て、人々の価値観やライフスタイルは大きく変化しました。健康やウェルビーイングへの関心が高まり、自然と触れ合うことの重要性が見直されています。

フリルフスリフは、そんな現代人にこそ必要なライフスタイルと言えるでしょう。

フリルフスリフは、心身を癒し、真の豊かさを追求する北欧発のライフスタイルです。自然と調和することで、現代社会のストレスから解放され、心豊かな生活を送ることができるでしょう。

2024年10月8日火曜日

HIV陽性者に対する偏見・差別はなぜ起こる?その①【情報を正しく扱う】(リライト版)

今回のblogは、【情報を正しく扱う】をキーワードに、HIV感染症およびエイズ患者・HIV陽性者に対する偏見・差別(行動)がなくならないのか、今の日本における現状を、ボクが日常的に感じている事をご説明しました。次回からは3回に分け、もう少し詳しくお伝えしていきます。

 以前ボクが書いたblog記事「HIV/AIDSの偏見差別に思う・RED RIBBON LIVE NAGOYA 2023に参加して」で少しお伝えした、HIV陽性者に対する偏見や差別が起こる要因。ボクはその一つに「HIV陽性者が身近にいると感じられないから」と一つの提案をしました。しかし、それ以外にも、いくつもいくつも要因があり、それらが複雑に絡み合って今の状態があると思います。

今回はまず、今の日本に於いて、HIV/AIDSに対する偏見や差別(行動)がなくならないのは何故か、【情報を正しく扱う】をキーワードに順を追ってご説明したいと思います。また、次回以降、今回のblogでお伝えした事を【医学的側面】【社会福祉学的側面】【心理学的側面】の3つに分けて、詳細をお伝えしていきますね。



1.偏見・差別(行動)をなくすには「正しい情報を知る」事が大事と言うけれど…

今の世の中、行政や医療機関など、HIV感染症やAIDSに関する知識というのは、非常に新しくそして正しい情報が溢れています。しかもネット社会ですので、誰もが簡単にその情報を手に入れることができます。それなのに「偏見・差別(行動)」がなくならないのはなぜでしょうか?それは、【情報を正しく扱う】事に関係します。


2.『情報を正しく扱う』とはどういうことか

今の世の中、情報が溢れている事は事実です。しかし、その情報をキチンと「受け取りに行く」「情報収集する」と言う行動を起こさなければ、その人に正しい情報は伝わりません。情報を発信する側が、様々な手段を使って色んなタイミングで発信していたとしても、受け取る側にそれを「受け取ろう」とする意志がなければ、それは“情報がない” ということと同じことです。

つまり情報というのは【発信する側の問題】【受け取る側の問題】があるわけです。


3.HIV感染症・免疫機能障害は目に見えない障害

HIV感染症というのは、外見からでは判断がつかない病気で、免疫機能障害というのは目に見えない障害です。つまり本人が「私はHIV感染症です」「私は免疫機能障害です」と開示(何らかの方法で周知してもらうこと)しなければ分かりません。もしHIV陽性者自身が周囲の人に開示しなければ、誰もそれを知ることなく、一緒に生活したり仕事したりすることになります。


4.リアリティがない


3で述べたようにHIV陽性者が身近にいることを知らなければ、また、大切な人がHIV陽性者であることを知らなければ、おそらくHIV陽性者の周囲の人はあえて「HIV感染症ってどんな病気?」「免疫機能障害ってどんな障害?」と知ろうとしないでしょう。つまり2に述べていることに関係してくるわけです。HIV陽性者自身が「私はHIV陽性者です!」「私は免疫機能障害です!」と声を挙げなければ、誰もその病気や障害について、“あえて知ろう”としない、つまり【自分たちの周囲にHIV陽性者がいるとは思っていないから、正しい情報を手に入れない】と言う事になってしまうのです。


5.『HIV陽性者であることを開示する事』のリスク


しかし今の世の中、HIV/AIDSに対する偏見や差別(行動)はなくなっていません。ですので、当事者は余計に声を挙げにくい。つまり「開示することで不利益を被るかもしれない」「差別行動を受けるかもしれない」と言う恐れがあるわけです。そうなるとドンドン、当事者は開示しづらくなるわけです。


6.HIV感染症はSTI(性感染症)であるという事実


現在の日本において、HIVの感染経路のほとんどがSTI(性感染症)です。つまり性行為で感染します。そしてそれが、男性間の性行為で感染することが多いのが現状です。それがまた、大きな偏見を生む原因となっています。「不特定多数の相手と関係を持つ人」「アンセイフなセックスをする人」「男性と性行為する男性(セクシャルマイノリティ)」と言う別のスティグマがあり、尚更、自分自身の病気や障害を開示しづらくなっていると言う現状があります。


※スティグマとは… 社会的な偏見や差別の対象となる特徴や属性を指す言葉です。例えば、身体的な特徴、疾病、障害、人種、宗教、性別、性的指向など、多岐にわたる特徴や属性を指します。



今回のblogでは、【情報を正しく扱う】をキーワードに、HIV感染症およびエイズ患者・HIV陽性者に対する偏見・差別(行動)がなくならないのか、今の日本における現状を、ボクが日常的に感じている事をご説明しました。次回からは3回に分け、もう少し詳しくお伝えしていきます。

HIV陽性者に対する偏見・差別はなぜ起こる?その②【医学的側面】(リライト版)

 前回は、HIV陽性者に対する偏見・差別(行動)は何故起こるのか、【情報を正しく扱う】をキーワードに大きな流れをご説明しました。今回はそれを【医学的側面】から考えてみたいと思います。

偏見や差別(行動)と言うのは、様々な要因が絡み合います。突き詰めていくと個人個人の価値観や倫理観、哲学や生育歴などが関与してきますので、それはとりあえず脇へ置いておいて(笑)多くの人が当てはまるであろう事実に基づき、ボクの知識と経験を総動員して(笑)それを一つ一つ紐解きながら、できるだけわかりやすくお伝えできれば、と思っております。



1.感染症であるということ

人は目に見えない脅威に恐れを抱きます。逆に言えば目に見えて認識できる脅威に対しては、その脅威を脅威として認識することで、例えばその脅威から遠ざかる(遠ざける)とか、脅威を消滅させる方法がわかっていればその方法で対処するなどの行動を取ることができます。

しかし、目に見えない脅威にはそれが通用しません。

ですので、脅威がそこにあると分かっていても目に見えないことで恐怖心を呼び起こします。

それが人間の健康を脅かすウィルスや菌などに当てはまります。この数年間、Covid-19の感染拡大に伴って、人はその見えない脅威にとても恐怖を感じ、マスクをし、手指消毒を行い、見えない脅威をなんとかして体内に入れないようにしようと躍起になっていました。一時期は街から人が消え、会話のない食事をし、密にならないと言う2mの間隔を空け、ディスプレイや透明なアクリル板越しでしか顔を見ることができなくなりましたよね。

それはHIVも同じことです。


2.性感染症であること

HIV感染症の感染経路は大きく分けて3つ。母子感染、針刺し感染、性感染です。母子感染は母体がHIVに感染している際、胎児が産道を通る時に母体から感染してしまうと言う経路です。針刺し感染は、違法薬物などの注射の回し打ちや医療事故による経路です。そして性感染は、性行為によって伝染る経路です。現在の日本では、母子感染や針刺し感染はほとんどなく、性行為による感染経路がほとんどだと言われます。

皆さんは「性感染症」と言うとどのようなイメージがあるでしょうか?
例えば…
・セックスワーカー
・不道徳
・節操がない
・不義理
・刹那的
・無責任
そんなイメージが湧いてきませんか?

日本はいつの間にか『性』に対して閉鎖的で、何となく『負のイメージ』が植え付けられてしまいました。一説によると戦後、他宗教の影響を受けているとのことですが、詳しい事は割愛します。

そして性行為で伝染る病気であるという事だけで、忌み嫌われる原因になっていると思います。


3.行動免疫システムに従う生物

生き物は『自分の生命に危険を及ぼす可能性のあるウィルスや菌、カビなどに汚染されている(かもしれない)ものに対して“嫌悪感情”を覚える』と言う習性があります。例えば、糞尿などや人の吐瀉物、カビが生えていたり腐っていたりする物などの存在が分かったり目に見える形で認識すると、「触れてはいけない」「口にしてはいけない」など『生物としてのアラーム』が鳴り、自然にそれらを避けるような行動をとります。

つまり『何かに感染している』と言う事実があるだけで、人には『それを嫌悪し避ける』事が当たり前の反応として備わっているのです。この様な行動をとることを『行動免疫システム』と言い、人間だけでなく多くの生物の習性として備わっています。

誤解を恐れずに言うと「差別することは自然な現象」とも言えるわけです。

さて今回は、HIV陽性者に対する偏見や差別がなぜ起こるのか、【医学的側面】から少し考えてみました。次回は、HIV感染者にはどんな特徴があるのか、またその療養生活などの社会福祉学的側面からお伝え致します。

HIV陽性者に対する偏見・差別はなぜ起こる?その③【社会福祉学的側面】(リライト版)

 HIV陽性者に対する偏見・差別はなぜ起こる?の第3弾です。

前回は、どちらかと言うと【医学的側面】からお話をしました。今回は、セクシャリティや障害者に関する【社会福祉学的側面】からお話をしたいと思います。




1.HIV陽性者の多くはGBMSMであるということ

GBMSMと言う言葉はあまり聞き馴染みが無いと思います。GBMSM(gay・bisexual・and other men who have sex with men)ザックリと直訳すると「男性とセックスする男性」と言う意味になります。以前は「ゲイ」「バイセクシャル」と言う『性的指向』でHIV感染症やエイズの事を語るのが一般的でしたが、例えばセックスワーカーの中には“自身は男性で異性愛者であるけれど男性とセックスする機会のある人”も一つのカテゴリーにしたほうが良いと言う意味合いから、『GBMSM』と言う言葉が生まれました。


上の図は厚生労働省が発表した資料から引用しています。両方のグラフとも「一年間の新規患者数」を示していています。両者ともに言えるのは「性交渉による感染経路として多いのは同性間である」と言うことです。実はこの事実というのは、日本にHIV感染症が広まりつつある頃から言われていることで、ボクの記憶が正しければ「HIVは普通の生活をしていれば感染する病気ではありません」の様な報道や啓発がなされていたと思います。そしてその「裏メッセージ」として、実は米国では『男性同性愛者間で感染拡大している奇病』と言うような表現の仕方もされていました。

今、このような報道のされ方をしていた、と言う事を振り返ってみると、なんだか「男性同士がセックスすることは普通のことではない」と言っているフシがあると思いませんか?!(腹立たしい!!)

ただ事実、日本でも男性同性間での感染に広がりがあり、GBMSM(当時のゲイ・バイセクシャル男性)が『ハイリスクグループ』(感染リスクの高い集団)として認識され対策が講じられるようになりました。

もしHIV陽性者が自身のHIVステータス(HIVが陽性か陰性か)を開示した時(広くその事実を事実として公表すること)、開示された相手は無意識のうちに「この人はセクシャルマイノリティだろう」と言う判断をしてしまう可能性が非常に高い状況です。

つまり、もしHIV陽性者がご自身の健康状態を伝える時に、意識しないところで相手に自分のセクシャリティまで伝えてしまう可能性が高く、それがさらに偏見や差別の原因にもなりうる、と言うことです。


2.HIV感染症は「免疫機能障害」と言う身体障害者であるということ

現在の日本では、HIV感染症またはAIDSという確定診断がなされ、ある程度病気が進行してきた段階で「身体障害者(免疫機能障害)」として行政に申請が出来ます。身体障害者として認定されると、HIV感染症に対する治療費(薬剤費)が公費で負担してもらえる、と言う利点があります。抗HIV薬と言うのは非常に高額な薬剤であるため、健康保険を利用しても自己負担額が5~8万円/月と非常に高額になります。そのため、HIV感染症を治療するためには身体障害者手帳の取得は不可欠となります。

さて、ここで問題になるのはHIV陽性者は「身体障害者」と言うもう一つのカテゴリーに属することになります。

免疫機能障害と言うのは、見た目では分からない障害です。つまり、自分自身から「障害者です」と開示しなければ誰も分かりません。しかし身体障害者手帳を持っていて、障害者であることは事実です。


身体障害者と言うくくりでお話をさせていただくと、日本の身体障害者に対する偏見や差別というのは根強いものがあります。日本の障害者の福祉に関する歴史を紐解くと

1947年:児童福祉法
1949年:身体障害者福祉法
1951年:社会福祉事業法
1960年:精神薄弱者福祉法
1970年:心身障害者対策基本法
1993年:障害者基本法


日本が障害者福祉に本格的に乗り出したのは第二次大戦後からなのです。戦前の日本においては、身体障害者に対しては民間の篤志家、宗教家、社会事業者などによって行われていました。また、精神障害者に対しては「私宅監禁」「座敷牢」などに代表されるように、『人の目に触れてはいけない存在』でした。

つまり障害者というのは「慈悲で生かせていただく存在」であり、社会で活躍するとか仕事に就くなんてもってのほか!である存在であったわけです。

もちろん、現在の日本において戦前・戦後のような障害者に対する見方というのはなくなってきていますが、どこかでまだ、その “名残”を感じずにはえません


3.HIV感染症に対する療養環境

現在の日本においてHIV感染症の治療というのは、「エイズ拠点病院」と言う医療機関が担っていることがほとんどです。また「エイズ拠点病院」にも二種類あり「ブロック拠点病院」「中核病院」と言う医療機関がありますが、ほとんどのHIV陽性者は「ブロック拠点病院」への通院をしていると思われます。つまり、HIV感染症の治療というのは、ごくごく限られた医療機関でしかなされていないのが現状です。

大都市部を中心に、拠点病院から一般病院へまたは開業クリニックへHIV陽性者の受診者を移行させようという動きがみられるものの、その動きはまだまだ。

これは、誤解を恐れずに伝えるのであれば「患者の囲い込み」であって、HIV陽性者を「世間の目から遠ざけている一要因」であるとボクは考えています。

ここで勘違いしていただきたくないのは「拠点病院が悪い」とか「一般病院・開業クリニックが悪い」とか「HIV陽性者が悪い」とか言う “誰の責任?” 論ではなくて、医療機関・患者を含めた全ての人の問題であって、それぞれが考えなければイケない問題なのではないかと思っています。


今回は社会福祉学的な側面から、HIV陽性者に対する偏見や差別について考えてみました。ボクは、いちHIV陽性者としていち医療従事者として、両方の立場の人間なので、なんだかどっちつかずの中途半端な意見に思われるかもしれません(笑)。でも、一つの問題を考える時にそれを多角的に捉える必要があって、一側面だけの考え方で解決方法を求めると、結局小手先の解決法になり、根本的な解決に至らないと思っているのがボクのスタンスですので、ご了承下さい。


次回は、心理学的側面からお伝えしたいと思います。

HIV陽性者に対する偏見・差別はなぜ起こる?その④【心理学的側面】(リライト版)

 HIV陽性者に対する偏見・差別はなぜ起こる?その③からの続きです。

これまでに【情報を正しく扱うこと】【医学的側面】【社会福祉学的側面】とお伝えしてきました。今回は【心理学的側面】から考えてみたいと思います。



1.集団心理(同調行動)

社会は、個人が集まることで形成されていますが、社会とは単なる個人の総和ではありません。個々人が集まると、一人ひとりのときには生じ得なかったような、態度や振る舞いが生じることが知られています。

アッシュと言う人の有名な実験があります。それがどんな実験であったかを少し説明しますね。


アッシュの同調実験は、以下のような手順で行われました。

まず、実験室に8人の人間を集めます。このうち7人は「サクラ」で、アッシュの指示通りに行動します。したがって、被験者となるのは残りの1名だけです。

次に、図版Aと図版Bを参加者たちに見せます。図版Aには1本の線が描かれていて、図版Bにはそれぞれ長さの異なる3本の線が描かれています。そして、図版Bの3本の線のうち、図版Aの線と長さが同じものはどれか、参加者に1人ずつ答えさせます。なお、図版Bに描かれた線の長さはそれぞれはっきりと異なっていて、正解は明らかなのですが…。

アッシュはこのような問いを18種類用意し、そのうち12の問いにおいてサクラに不正解を答えさせて、それによって被験者の答えがどう変化するのかを調査しました。

サクラ全員が正解を答えると、被験者も堂々と正解の選択肢を選びました。しかし、サクラが不正解を答えると、被験者も不正解の選択肢を選ぶ傾向が確認されました。

実験の結果、全ての質問に正解を答えつづけた被験者は全体のおよそ25%で、残りの75%は不正解のサクラに一度でも同調してしまいました。被験者がサクラに同調して不正解の選択肢を選ぶ確率は、約3分の1であったといいます。



アッシュはこの実験結果を…

「通常の状況では、同じ長さの線分を回答する課題で間違える人は1%にも満たない。しかし、集団圧力がある場合には、選択の36.8%で、少数派である参加者は多数派による誤った判断を受け入れた」

と解説しました。
つまり、「自分は正しいと思っているけれど周りの多くの人が間違っていると主張していると自分の意見が正しいと言う自信がなくなってしまい周囲と同調しようとしてしまう」わけです。

これを例えばHIV陽性者への偏見・差別に当てはめて考えてみましょう。

先日のblog「HIV陽性者に対する偏見・差別はなぜ起こる?その②【医学的側面】」でHIV陽性者への感染症は性感染症であると言うことから連想されるイメージ「無責任」と言うキーワードで考えてみると、世の中の多くの人が「HIV陽性者は無責任な人だ」と言い始めたとすると、その人数が多くなればなるほど「HIV陽性者は無責任な人ではない」と否定しづらくなります。

それがいつの間にか「みんながHIV陽性者は無責任な人だと言っている」と言うことになり、根拠のない差別へとつながるのです。


2.一般化や抽象化・ラベリング

一般化は、全体を構成する部分を、全体に属するものとして識別するプロセスを指していて、抽象化というのは、対象から注目すべき要素を重点的に抜き出して他は捨て去る方法です。一般化の反対の言葉として個別化と言う考え方があります。

一方、似たような言葉にラベリングというものがあります。

ラベリングというのは、ハワード・ベッカーと言う人の『ラベリング理論』がもとになっているものですが、元々は「犯罪学」から端を発し、逸脱行為を理論的に捉えるために考えられたものです。


ハワード・ベッカーは「社会集団は、これを犯せば逸脱となるような規則をもうけ、それを特定の人々に適用し、彼らにアウトサイダーのラベルを貼ることによって、逸脱を生みだすのである」と言っています。つまりラベリングとは、何らかの枠組みからはみ出した者を “アウトサイダー”として区別する方法であり、ネガティブなラベルを『スティグマ』と言われるようになりました。

スティグマ(stigma)とは…
社会的な偏見や差別の対象となる特徴や属性を指す言葉です。この特徴や属性は、個人の身体的な特徴、疾病、障害、人種、宗教、性別、性的指向など、多岐にわたります。

障害者差別を語る時、人々は個々人の特性や性格、人間性などを無視し「一般化」「抽象化」して「ラベリング」してしまう傾向にあります。「HIV陽性者の〇〇さん」と言う考え方がその代表であり、ざっくり言ってしまえば『十把一絡げ』にしてしまっているからこそ、偏見や差別が生まれるのだと思います。


3.メディアによるリアリティの二重性

今の世の中、情報というのはあらゆる手段を使って入手することができるようになりました。インターネット一つとっても、公式サイト・SNS・掲示板・ブログなど様々な方法で様々な人が発信するツールとなっています。もちろん今まで通りの、テレビ・ラジオ・新聞・雑誌・本などに加え、街頭の大型スクーリーンや公共交通機関の中での広告も、盛んに情報を発信しています。これはボクの印象ですが、それらの情報が過大に表現されていたり、発信者の主観が大きく影響されている事はありますが、総じて大きな誤りはありません。

しかし、「メディアがもたらすリアリティ」と「物理的な実体としてのリアリティ」にどこか乖離を感じている方も多いのではないのでしょうか?

「リアリティ」を語る時にそこに二つの意味があると言われています。一つは「客観的事実がそこにある」と言うリアリティ。もう一つは個々人が「体感で得る」リアリティです。言い換えれば前者は「メディアがもたらすリアリティ」であるのに対し後者は「その人が実際に体験したリアリティ」です。

コレをリアリティの二重性と言います。

HIV感染症に関する情報と言うと、例えば「薬を飲み続ければ平均寿命まで生きられる」「ウィルス量をしっかり抑えていれば他人に遷すことはない」「感染しても仕事を変える必用もなければ生活様式を変える必要もない」など『ポジティブな情報』に溢れていてしかもそれを体感している当事者がいます。そしてそれを日常的にSNSやブログでネット上に発信しているにも関わらず、当事者でない人にとってみたらそれは『客観的に正しい事実』と言う認識であって、自分事ではないんですよね。

ボクはSNSなどで自分自信がHIV陽性者だと開示しているのですが、時々「HIVに感染したのですが不安で仕方がない」「(保健所の検査が)判定保留になっているけれどもし陽性だったらどうしよう」などHIV感染症にたいする恐怖心や不安感を訴えかけてくる人もいます。それって結局、正しい情報を自分事としてキャッチしていない証拠だと思うんですよね。


『人間は思考で行動するのではなく感情で行動する生き物だ』とイギリスの文豪ウィリアム・シェークスピアは言っています。まさにそうだと思うんですよね。よく「頭では分かっていても気持ちがついていかない」とか「頭では理解できても生理的に無理」などと表現されるのですが、人間は本質的に「快・不快」「気分」で物事を判断し行動してしまいがちです。昔から「偏見や差別は無知から生まれる」と言われ続けていますが、「知る」ということは「思考で判断する」と言い換えることもできるわけで、「感情で行動する生き物」としては「知ったから偏見や差別がなくなる」とは断言しづらい部分があるわけです。


ちょっとうやむやのままの部分が過分にあるかと思います。その部分は、皆さんで少し考えて頂きたいな~と思っています。

じゃあ、どうしたら偏見や差別がなくなるのか…

次回、ボクなりのその答えをお伝えしたいと思います。

HIV陽性者に対する偏見・差別を解消させる方法・ちょー持論(リライト版)

 これまで「HIV陽性者に対する偏見・差別はなぜ起こる?」としてのシリーズで、ボクの一方的な持論で、【医学的側面】【社会福祉学的側面】【心理学的側面】からお伝えしてきました。



もちろん、ボクは当事者として、今の現状に満足しているわけではありません。

では、どの様にして現状を打破していかなければならないか…

その一つは、正しい情報を発信し続けること。当たり前のことではあるけれど、これはマスメディアの果たす役割が大きいと思っていて。先日も、とあるネットニュースに『エイズウィルス』と言うパワーワードを見つけて、ビックリするやらガッカリするやら(笑)。

確かに「HIV感染症」と言う病名で一般的な人はピンとこないんだろうな~とは予想がつくけれども、だからといって“ありもしないウィルスの名前”を堂々と使用することに、腹立たしさも覚えました。

そして、医療機関やNGO・NPOの方々、もちろん当事者であるボクらも正しく、そしてありのままの情報を発信し続けることが重要だと思っています。


もう一つは「HIV陽性者に対する偏見・差別はなぜ起こる?その③」の「心理学的側面」でもお伝えしましたが、『人間は思考ではなく感情で行動する生き物である』と言うところに着眼して考えられること。

それは、『当事者が生の声をリアリティを持って人々に届ける事』だと思います。

『リアリティの二重性』でもお伝えしましたが、メディアで伝えられる情報というのは、いくら正しい情報であっても、“心に響かない”んです。

ボクは長年、JaNP+の派遣スピーカーとして活動してきました。

派遣スピーカーと言うのは、事務局にHIV陽性者の当事者の話しを聞きたいという依頼がいただいた際に、20人弱いる登録派遣スピーカーがその依頼に応じて講演させて頂く活動です。

ボク自身も今までにおおよそ10講演程度、関わらせていただいてきたけれど、そのほとんどで「当事者の声を聞けたことに対する肯定的な感想」を頂いています。これは正に「感情に訴えかけるうってつけの方法である」とボクは思っています。

眼の前で、当事者が経験してきたこと、感じてきたこと、考えたことを切々とオーディエンスに訴えかけながら語るのだから、それはもう『本物のリアリティ』であるわけで、メディアから受け取るのとはインパクトも違うし、まさに『自分事』として受け止めてもらえる事ができるんだと思っています。

これは少し酷な言い方かもしれませんが、HIV陽性者自身がもっと大きな声をあげて訴えかける必用もあると思うところもあるんです。当事者が「偏見・差別が怖いから」と言って何も言わず影を潜めて、まるで自分は“そうでないかのように”そこに存在しているのにも関わらず「分かってくれない」「理解してくれない」と思っていたり考えていたりするというのは、いささか、わがままな様な気がしてならないんです。

ボクは、再三お伝えしてきているますが、「誰が悪い」と言う責任論で片付けられる話ではなくて、関わる人達皆の問題だと思っています。だから当事者も変わる必用があるのでは、と思っています。



このシリーズを締めくくるにあたって、長年、HIV/エイズ診療に携わり、大きな貢献をされてきた、医師の内海 眞氏が、1997年に『明日の臨床』と言う雑誌に寄稿された『HIV感染症と日常診療‐米国における日常診療の紹介‐』と言うタイトルの総論から引用させていただきたいと思います。非常に古い文献ではあるけれど、とても感慨深い言葉で締めくくられているので、それを紹介して終わりにしたいと思います。



おわりに
2回にわたる米国でのAIDS医療の研修を通して、多くのことを学ぶことが出来た。その中でも最大の収穫は、AIDS患者を特別視することから脱却したことである。特別視する理由には二つの点が挙げられる。一つは、HIV感染症が致死的感染症であるために患者を危険視してしまう点であり、もう一つは、感染経路が性的接触や麻薬の使用によるため、患者に対し道徳的判断を下してしまう点である。(中略)実際のところ、これまで私は医師であるからにはAIDS医療に取り組む義務があるとは考えていたものの、心の隅ではAIDS患者は道徳的に問題があるし、AIDSに罹患したのも自業自得の面があると考えていた。端的に言えば、内心では患者を差別していた。しかし、米国では、やがて来るであろう死を前にしても、多くのAIDS患者やHIV感染者は明るく真剣に生きていたし、他の患者を思いやる心には感動すら覚えた。(中略)これらの人々の精神の崇高さに比較し、道徳的判断を下している自分の貧しさが痛感された時、上述の差別意識は解消してしまったのである。(後略)



ボク自身、内海先生には何度もお会いしお話をさせていただいたこともあり、そのお人柄を知っている身としては、内海先生がこんな事を考えておられたなんて信じられないくらいの思いでした。



皆さんは、何を感じますか?

2024年9月14日土曜日

人は何故「差別」する?~社会心理的背景から

 今も昔も無くならないものの一つに『差別の心』があると思います。どんなに時代が進んでも、その時代時代に対象はかわるものの、『差別する心』がこの世から消えてはいません。

とても残念なことですが…

ボクだってそうです。

パラちゃんねるカフェに掲載していただいたボクのコラム『ボクのLiving with HIV~番外編』でもお伝えしましたが、ボクがHIV陽性者になり、なぜ長い間、苦しい思いをしていたのか。それは、ボク自身がHIVやエイズに対して偏見を持っており、だから自分を受け入れることができなかったから、と言う事実が心理カウンセリングを通して明らかになりました。

もちろん『偏見を持っている=差別する』とはなりませんが、『偏見を持っている≒差別する』だとは思っています。

日本人ならよく知っている、江戸時代の身分制度『士農工商』というものがありますよね。ボクらが学生の頃は、江戸時代にはこの身分制度が世の中の秩序を平穏に保てていた、と勉強しましたが、最近の研究では『士農工商』と言う身分制度は、それほど厳密ではなかった、と言うのが一般論だそうです。


ただし、忘れてはいけません。『士農工商』には続きがありますよね。

『士農工商穢多非人(しのうこうしょうえたひにん)』

ただ、この『穢多非人』についても諸説言われていて、差別部落などとの関わりも研究されているようですが、一つ言われているのが『穢多非人と呼ばれる人々が、一般的に好まれないシゴトをしていた』と言う事が伝えられているということです。

また、諸説ある『穢多非人』の配置について「士農工商のよりも下の身分をおくことで、士農工商たちの不満を抑え込んだ」とも。

実はこの「自分よりも身分の下の人がいることによる心の安寧」が『差別の心』を芽生えさせる原因だ、と言う研究があります。

この研究は、米国エモリー大学のエミリー・ビアンキが行った研究で、2年おきに行われるアメリカ・ナショナル・エレクション・サーベイから、3万189名の白人が、黒人をどう評価しているのかというデータを抜き出して分析た、と言うものがあります。なお経済状況は、失業率を使いました。

その結果、経済状況が悪くなると、白人は、黒人を悪く評価するようになることがわかりました。

経済が好調のときには、白人も黒人に悪い感情はそんなに持ちません。ところが、いったん経済が悪くなってくると、差別の心がむくむくと湧き上がってしまうようです。


もちろん、様々な要因が重なり合い、『差別の心』が生まれるのは確かです。しかし、経済的余裕が心の余裕に繋がり、『差別の心』にも影響を及ぼすということは、感覚的にイメージできるのではないでしょうか。

『士農工商穢多非人』のところでもお伝えしましたが、心の安寧を、誰かを見下し差別することで得ようとする社会心理的な影響は、いつの時代にもあることだと思います。


ここで誤った理解をして欲しくないのは『経済的余裕がないから誰かを差別して良い』と言う事が言いたいのではない、と言うことです。

当たり前ですけど…


ふと誰かの事を差別しそうになった時に思い出してほしいのです。

その『差別の心』は経済的余裕がないからかもしれない、と。

もちろん、『経済的余裕』というものは、一瞬で改善するものではありません(一瞬で悪くなるものではありますが…)。ですので、自分が誰かを差別しそうになった時、人道的に考えて欲しいのです。

倫理的に哲学的に考えて欲しいのです。

よく「相手の立場に立って考える」と言う物の言い方をしますが、これって本当に難しいことだと思います。

でも…

ボクは事あるごとにお伝えしているのですが、人間は考える動物です。『快』『不快』で判断して行動して欲しくない、と言うのがボクからのお願いです。

2024年9月3日火曜日

㊗️開設1周年を迎えるにあたって~初心に帰る~

  2024年9月4日、「勇者の部屋」の開設1周年を迎えることになりました。これもひとえにご利用していただいている方々、様々なアドバイスをくれた友人知人、ハローワークや障害者就労支援センターなどの支援員の皆様、その他たくさんの方からのご支持があってこそと思っております、本当にありがとうございます🙇🏻‍♂️

この一年を振り返ってみると、本当に色々なことがありました。「心理カウンセラー(心理職)をしていく」と言う信念は、絶えず持ち続けていましたが「個人事業主として働く」と言うことに関しては、何度も何度も心が揺らぎ、途方に暮れ歩む道に悩んだこともあります。

ただ、正直、今でもその答えは出ていないものの、誤った道ではない、と何となく思っています。

今日のBlogは、以前の公式サイト内には書かせていただいた内容なのですが、「なぜボクが心理カウンセラーと言う仕事を選んだのか」と言う原点についてお伝えしたいと思っています。


①理学療法士という仕事の限界

高校を卒業し医療技術短大の理学療法学科に進学、卒業と同時に理学療法士免許を取得してから、20年近く理学療法士という仕事をしてきました。今ではリハビリセラピスト(理学療法士・作業療法士・言語聴覚士)のお仕事はかなりメジャーになりましたが、ボクが高校生だった1990年代後半には、まだまだマイナーな仕事でした。

理学療法士になるためには、その専門課程を持った専門学校・短大・大学に進学し、所定の科目を修了し初めて国家試験を受験する資格を得ることができます。当時は、専門学校が主流で短大は少なく大学に至っては2校くらいしかない時代でした。

紆余曲折あって、正直、ボクは理学療法士と言う仕事をよく知らないまま(笑)短大に進学したのですが、理学療法学を学んでいくうちにその面白さに気づいた、というのが事実です。

また、当時の学科長だった整形外科の医師は、事あるごとに「あなた達は臨床に出てから医者と対等に話ができる理学療法士にならなければならない」とボクたちに言い聞かせていました。それにも洗脳されたかもしれません(笑)

理学療法士免許を取得してから、整形外科のクリニック・地方の公立病院・私立の総合病院などで臨床経験を積み、本当に多種多様な疾患の患者様と関わらせていただくことができました。

理学療法の世界には『〇〇法』とか『〇〇手技』などと呼ばれるものが非常にたくさんあります。

これはそのセラピストの『主義』によると思うのですが、ボクはそのような『○○法』『〇〇手技』というものに対しては、なにか一つを極めるというよりそれぞれの理論やテクニックの良いとこどりをする、そして患者様の症状などに合わせてそれを使い分けていく、というのがボクのスタンスでした。


5年、10年、20年と続けていくうちにボクは、ハタと気付いたのです。

「患者様が回復して良くなっていくのはボクの技術・テクニックが向上しているからののだろうか?」と。

リハビリの仕事というのは、根本的に“患者様にしてもらう”ことばかりです。ボクらはそのお手伝いをしているにすぎません。

もっとザックリ言ってしまえば「患者様のやる気一つ」なのです。


臨床で働いている時、よく「〇〇さんのモチベーションが…」とか「〇〇さんのやる気次第なんだけど…」みたいな話題は絶えずあり、あたかもその患者様の気持ちの問題、みたいな事が、それはそれは沢山(笑)ありました。

そんな事を経験していくうちに、ボクは「これが理学療法の限界なのでは」と思うようになり、人の心理というものに大変、興味を持つようになりました。


②ボク自身が心理カウンセリングを受け、その効果を知っていた


ボクが最初に心理カウンセリングを受けたのは、HIV陽性告知を受けた時でした。その時の経緯などは、ボクがコラムを書いています『パラちゃんねるカフェ』の『ボクのLiving with HIV』と言うシリーズを御覧ください。

ボクは4年近く、一人の臨床心理士さんに担当して頂き、本当に本当に、救われてきました。

もちろん『癒やし』と言う意味でも救われてきましたが、道に迷ったときの羅針盤であったり、自分の知らない自分を探求したり、『楽に生きること』『幸せに生きること』そんな事を考えたり行動するための基礎を作ってくれたのが『心理カウンセリング』と言うものでした。

その後、メンタルダウンを経験し『うつ病』と診断されてからは(後に双極性障害となる)、精神科・心療内科で心理カウンセリングを受けてきました。

それは治療の一環という意味合いもありましたが、“ただ苦しい心の内を打ち明ける”とか“ツラさを吐き出す”場ではない、と言う事を強調しておきたいと思います。

実際に、ボクの心理カウンセリングを受けたことのある方はご存知かと思いますが、“なぜ辛いと思ってしまうのか”“どうして苦しいと感じてしまうのか”と言う根本的な問題を探っていきます。

どうしてそんな事をするのか。

それは、一時(いっとき)の癒やしや問題解決ではなく、これから先、長い人生を歩んでいくうちに同じ様な状況や環境に遭遇した時、上手にそれらに対処していくための手段を体得していくために心理カウンセリングを受けていただく、と言う意味合いが非常に大きいからです。

ボク自身が数年にわたって受けてきた心理カウンセリングで、そんな事を肌身で感じてきました。

③医療従事者へのメンタルフォローがとても疎かである


ボクは30代始めにメンタルダウンを経験し、40代始めに双極性障害と診断され、その間のほとんどを医療機関で理学療法士として働いてきました。

しかし、それはとてもとても辛くて苦しくて楽なものではありませんでした。

一般企業では、従業員の健康管理のため「産業医」がおり「産業保健師」や「産業カウンセラー」の配置を義務付けられています(ただし従業員数による)。

医療機関も「働く場」と言う意味で、同様に産業保健スタッフの配置が義務付けられています。

しかし…

ボクの勤務してきた医療機関のほとんどが、その医療機関に勤務する医師の一人が「産業医」と位置づけられているだけで、一般企業のソレほど「産業医」としての機能を果たしている医療機関は皆無でした。

理由は色々あると思います。しかしボクは、自分自身がメンタルに不調を抱えるものとして、職場に安心して相談できる場がない、相談できる相手がいない、と言うのはとてもとても心細いものでした。

上司や同僚に相談すればいいじゃない、と言われそうですが、同じ現場で働いているからこそ話しづらいこと、言えないことと言うのは、たくさんあります。

それに、これは何となくボクが感じていたことですが「医療従事者なのだから自分の健康は自分で守るのが当たり前」の様な風潮、社風があったように思います。

医療機関というのは、一種独特の環境です。もちろん専門機関であるため、一般企業と比較するのは乱暴なのですが、とても閉ざされた組織であり、表と裏がハッキリとしている業界でもあると、今でも思っています。

そんな環境に長くいると、それが当たり前に感じるようになってきてしまうのですが、ボクは、医療機関で働く従業員に対し、もっともっと手厚くフォローすべきなのではないか、と強く思うようになりました。


これは介護業界や福祉業界でも同じです。

『善意の詐取』

何となく、『自己犠牲が当たり前』と言う風潮が漂うこれらの業界では、もっともっと従業員を大切にすべきです。それはお金の話ではありません。

マインドです。社風です。

ボクはそんな業界に正直、嫌気がさしていました。それに呼応するように、じゃあボクに何ができるのか、と考えた時『産業カウンセラー』と言う資格・仕事が浮上してきました。

④心理カウンセラーはもっと身近であって良い


これは日本人の国民性もあると思います。『我慢することの美徳』と『人に弱みを見せることの恥』。

この記事も『パラちゃんねるカフェ』の『心理カウンセリングのススメ』と言うシリーズでも書かせて頂きました。

日本において『心理カウンセリング』が何となく理解されず受け入れられていないな~と思う原因がいくつかあります。

その詳細については、上記コラムを参照していただきたいのですが、人はもっとオープンマインドであるべきだ、というのがボクの持論です。

“忖度”や“配慮”、“先回り”や“阿吽の呼吸”など、日本人には『言葉にはしないけど通じ合うこと』をとても素晴らしいものとする価値観があると思います。

それを頭から否定するつもりもありません。

けれど、人間は神様ではありません。超能力者でもありません。

人間は言葉を使って(一部、非言語を使って)コミュニケーションをとり、お互いに理解し合う生き物です。

“気持ち”や“感情”だって、なんらかの方法を使って表現しなければ、相手には伝わりません。

その方法を見つけ出したり、表現する勇気をもらったりするのが『心理カウンセリング』の目的の一つだと思っています。

精神疾患患者のためのもの、特別な病気を持った人のためのもの、と言う時代は終わりました。

日常の些細なことや、周囲の誰かに相談しづらいこと、そんな事を気軽に相談できる存在として『心理カウンセラー』を利用していただきたいと思っています。

その気持ちを込めボクは『皆様のかかりつけ心理カウンセラー』を目指したいと思っています。


大変、長文になりました。最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

ボクもこのBlogを書きながら改めて自分の気持ちが整理でき、そしてまた明日から、このお仕事を続けていくんだ!と言う気持ちになりました(笑)

どうかこれからも末永く宜しくお願い申し上げます。


最新のblog

 2024年11月28日(木)~30日(土)にかけ、東京において開催された『 第38回日本エイズ学会 』の『POSITIVE TALK 2024』にて、HIV陽性者の当事者としてスピーチをしてきました。まずは、その発表原稿の全文を、こちらでご紹介させて頂きます。 なお、読みやすい...