HIV陽性者に対する偏見・差別はなぜ起こる?その③からの続きです。
これまでに【情報を正しく扱うこと】【医学的側面】【社会福祉学的側面】とお伝えしてきました。今回は【心理学的側面】から考えてみたいと思います。
1.集団心理(同調行動)
社会は、個人が集まることで形成されていますが、社会とは単なる個人の総和ではありません。個々人が集まると、一人ひとりのときには生じ得なかったような、態度や振る舞いが生じることが知られています。
アッシュと言う人の有名な実験があります。それがどんな実験であったかを少し説明しますね。
アッシュの同調実験は、以下のような手順で行われました。
まず、実験室に8人の人間を集めます。このうち7人は「サクラ」で、アッシュの指示通りに行動します。したがって、被験者となるのは残りの1名だけです。
次に、図版Aと図版Bを参加者たちに見せます。図版Aには1本の線が描かれていて、図版Bにはそれぞれ長さの異なる3本の線が描かれています。そして、図版Bの3本の線のうち、図版Aの線と長さが同じものはどれか、参加者に1人ずつ答えさせます。なお、図版Bに描かれた線の長さはそれぞれはっきりと異なっていて、正解は明らかなのですが…。
アッシュはこのような問いを18種類用意し、そのうち12の問いにおいてサクラに不正解を答えさせて、それによって被験者の答えがどう変化するのかを調査しました。
サクラ全員が正解を答えると、被験者も堂々と正解の選択肢を選びました。しかし、サクラが不正解を答えると、被験者も不正解の選択肢を選ぶ傾向が確認されました。
実験の結果、全ての質問に正解を答えつづけた被験者は全体のおよそ25%で、残りの75%は不正解のサクラに一度でも同調してしまいました。被験者がサクラに同調して不正解の選択肢を選ぶ確率は、約3分の1であったといいます。
アッシュはこの実験結果を…
「通常の状況では、同じ長さの線分を回答する課題で間違える人は1%にも満たない。しかし、集団圧力がある場合には、選択の36.8%で、少数派である参加者は多数派による誤った判断を受け入れた」
と解説しました。
つまり、「自分は正しいと思っているけれど周りの多くの人が間違っていると主張していると自分の意見が正しいと言う自信がなくなってしまい周囲と同調しようとしてしまう」わけです。
これを例えばHIV陽性者への偏見・差別に当てはめて考えてみましょう。
先日のblog「HIV陽性者に対する偏見・差別はなぜ起こる?その②【医学的側面】」でHIV陽性者への感染症は性感染症であると言うことから連想されるイメージ「無責任」と言うキーワードで考えてみると、世の中の多くの人が「HIV陽性者は無責任な人だ」と言い始めたとすると、その人数が多くなればなるほど「HIV陽性者は無責任な人ではない」と否定しづらくなります。
それがいつの間にか「みんながHIV陽性者は無責任な人だと言っている」と言うことになり、根拠のない差別へとつながるのです。
2.一般化や抽象化・ラベリング
一般化は、全体を構成する部分を、全体に属するものとして識別するプロセスを指していて、抽象化というのは、対象から注目すべき要素を重点的に抜き出して他は捨て去る方法です。一般化の反対の言葉として個別化と言う考え方があります。
一方、似たような言葉にラベリングというものがあります。
ラベリングというのは、ハワード・ベッカーと言う人の『ラベリング理論』がもとになっているものですが、元々は「犯罪学」から端を発し、逸脱行為を理論的に捉えるために考えられたものです。
ハワード・ベッカーは「社会集団は、これを犯せば逸脱となるような規則をもうけ、それを特定の人々に適用し、彼らにアウトサイダーのラベルを貼ることによって、逸脱を生みだすのである」と言っています。つまりラベリングとは、何らかの枠組みからはみ出した者を “アウトサイダー”として区別する方法であり、ネガティブなラベルを『スティグマ』と言われるようになりました。
スティグマ(stigma)とは…
社会的な偏見や差別の対象となる特徴や属性を指す言葉です。この特徴や属性は、個人の身体的な特徴、疾病、障害、人種、宗教、性別、性的指向など、多岐にわたります。
障害者差別を語る時、人々は個々人の特性や性格、人間性などを無視し「一般化」「抽象化」して「ラベリング」してしまう傾向にあります。「HIV陽性者の〇〇さん」と言う考え方がその代表であり、ざっくり言ってしまえば『十把一絡げ』にしてしまっているからこそ、偏見や差別が生まれるのだと思います。
3.メディアによるリアリティの二重性
今の世の中、情報というのはあらゆる手段を使って入手することができるようになりました。インターネット一つとっても、公式サイト・SNS・掲示板・ブログなど様々な方法で様々な人が発信するツールとなっています。もちろん今まで通りの、テレビ・ラジオ・新聞・雑誌・本などに加え、街頭の大型スクーリーンや公共交通機関の中での広告も、盛んに情報を発信しています。これはボクの印象ですが、それらの情報が過大に表現されていたり、発信者の主観が大きく影響されている事はありますが、総じて大きな誤りはありません。
しかし、「メディアがもたらすリアリティ」と「物理的な実体としてのリアリティ」にどこか乖離を感じている方も多いのではないのでしょうか?
「リアリティ」を語る時にそこに二つの意味があると言われています。一つは「客観的事実がそこにある」と言うリアリティ。もう一つは個々人が「体感で得る」リアリティです。言い換えれば前者は「メディアがもたらすリアリティ」であるのに対し後者は「その人が実際に体験したリアリティ」です。
コレをリアリティの二重性と言います。
HIV感染症に関する情報と言うと、例えば「薬を飲み続ければ平均寿命まで生きられる」「ウィルス量をしっかり抑えていれば他人に遷すことはない」「感染しても仕事を変える必用もなければ生活様式を変える必要もない」など『ポジティブな情報』に溢れていてしかもそれを体感している当事者がいます。そしてそれを日常的にSNSやブログでネット上に発信しているにも関わらず、当事者でない人にとってみたらそれは『客観的に正しい事実』と言う認識であって、自分事ではないんですよね。
ボクはSNSなどで自分自信がHIV陽性者だと開示しているのですが、時々「HIVに感染したのですが不安で仕方がない」「(保健所の検査が)判定保留になっているけれどもし陽性だったらどうしよう」などHIV感染症にたいする恐怖心や不安感を訴えかけてくる人もいます。それって結局、正しい情報を自分事としてキャッチしていない証拠だと思うんですよね。
『人間は思考で行動するのではなく感情で行動する生き物だ』とイギリスの文豪ウィリアム・シェークスピアは言っています。まさにそうだと思うんですよね。よく「頭では分かっていても気持ちがついていかない」とか「頭では理解できても生理的に無理」などと表現されるのですが、人間は本質的に「快・不快」「気分」で物事を判断し行動してしまいがちです。昔から「偏見や差別は無知から生まれる」と言われ続けていますが、「知る」ということは「思考で判断する」と言い換えることもできるわけで、「感情で行動する生き物」としては「知ったから偏見や差別がなくなる」とは断言しづらい部分があるわけです。
ちょっとうやむやのままの部分が過分にあるかと思います。その部分は、皆さんで少し考えて頂きたいな~と思っています。
じゃあ、どうしたら偏見や差別がなくなるのか…
次回、ボクなりのその答えをお伝えしたいと思います。
0 件のコメント:
コメントを投稿