それは「身体が病むと言う事は心も病む」と言う事である。
私自身がHIV感染症であったり双極性障害であったりと「病む」経験が豊富であると(?)、自分自身が医療従事者であると同時に患者さんでもあるわけで。その様な立場でいると“両者の言い分”と言うものがよく分かる。
良くも悪くも。
HIVに感染していることが分かってから2~3年経った頃であろうか。まだ、投薬も始まっておらず体調そのものが不安定であった頃、私は生まれて初めてインフルエンザに罹った。医療機関で働いていた頃は、福利厚生で毎年必ずインフルエンザワクチンを接種しており、それまで一度もインフルエンザに罹ったことはなかったが、その時は医療機関で働いておらず、私もうっかりしていて予防接種を忘れていたのである。
あの時は確か、ひとり暮らしでパートナーもおらず、友人はいたが気安く何かを頼めるような関係の友人はいなかったため、とにかく何もかも一人でしなければなかった。症状が出始めたのは、出勤してしばらくしてからだった。
頭がぼーっとする
咳が出始める
ん?なんだか体調がおかしい?
ただの風邪か?
私は元々、扁桃腺肥大があり、扁桃腺が腫れるとすぐに高熱を出していたので、風邪で咳が出ることや熱が高いことには慣れっこだったが、大事を取って午前中で早退した。帰り道のドラッグストアでスポーツ飲料やゼリー飲料を買い込んでとりあえず、自宅にたどり着きベッドに潜り込む。すると…
襲ってくる悪寒と震え
止まらない咳
少しでも動けば軋む関節
食事はおろか水分を摂ることさえつらくて、ベッドから起き上がることももちろん立って歩くことすらままならない状況で、それでも「生きて」いかなきゃならない(大袈裟だがその時の本人の気持ちはこんな感じだった)と思い、汗ばんだ下着やパジャマを着替え、水分補給し、手元にあった解熱鎮痛剤を飲み、夜が明けるのを待った。
こんな時の夜は、本当に長い。
まだ30分しか経ってない。
まだ1時間しか経ってない。
寒気がぶり返してきた。
解熱鎮痛剤が飲めるまであと1時間。
病院が開くまであと3時間。
寝ているのか起きているのかすら自分でも分からない状況の中、それでも何とか病院に電話をかけ、状況を説明し受診のための準備をする。定期受診なら車を運転して行くが流石にそれはやめてタクシーで病院へ向かう。
あゝ、タクシーのメーターが上がっていく。
お金、足りるかな。
何とか病院にたどり着き、受付を済ませ受診科の受付に行くと看護師さんから「ケンゴさん大丈夫?!」と。待合の椅子に座って看護師さんから問診を受け、とりあえずインフルエンザの検査をすぐしていただくことに。
結果を待つこと30分。
「永遠の30分」(なにかの映画のタイトルではない)のように感じたその30分後「インフルエンザ陽性でした。水分摂れてますか?しんどいですよね?横になって点滴しましょう」という主治医の声が天使、いや神様のように聞こえその後ろからは後光が…射したかの如く、私には救いの言葉であった。
処置室のベットに横になって点滴をしていただいていると、どこからか聞きつけたのか、臨床心理士さんのKさんまで顔を出してくれて「ケンゴさん大変だったね。心配で見にきちゃったわ」と。
少し大げさかもしれないが、体が病んでいるときというのは、とにかく「苦痛から逃れる」ことが大一優先になるのは、きっと皆さんも経験があることだと思う。そんな時にかけられる「優しい言葉」「共感の言葉」「いたわりの言葉」というのは、心深く染み渡り何とも言えない癒やしの効果を与えてくれる。
簡単に言えば「ホッとする」のである。
それは老若男女共通することではないだろうか。
もちろん、他人であれ家族であれ、パートナーであれ友人であれ。
身体の苦痛を除くためにはもちろんそのための処置が必要で、それが根治療になるわけだがその効果を何倍にもしてくれるのがこの「言葉かけ」だと私は思っている。
「言霊」とよく言うが「言葉のもつ力」をあなどってはいけない。
(私は無宗教であるがスピリチュアルなものを真っ向から否定する気もないのであしからず)
0 件のコメント:
コメントを投稿