セクシャルマイノリティ(ゲイ)・身体障害者(HIV陽性者)・精神障害者(双極性障害)の当事者としての目線と、理学療法士・社会福祉士・産業カウンセラーとしての目線で、今まで経験したことや普段考えていることなど、様々な情報発信をしております。
自己紹介
- Kengo Katsumizu
- オンラインカウンセリング「勇者の部屋」の産業カウンセラー勝水のブログです。セクシャルマイノリティ(ゲイ)・身体障害者(HIV陽性者)・精神障害者(双極症)の当事者としての目線と、理学療法士・社会福祉士・産業カウンセラーとしての目線で、今まで経験したことや普段考えていることなど、様々な情報発信をしております。
2023年7月27日木曜日
将来の話し(ビジネスの話し)
2023年7月26日水曜日
自分は自分!!②団塊世代ジュニアと言うレッテル
「 レッテルを貼る」と言う言葉は、悪い意味で使われることが多く、このニュースを読んだときも、非常に不快な気分になった。
他にもラベリングやグルーピングとも言いかえられるが、日本人には「レッテルを貼る」という言葉が一番しっくり来るだろう。
某大手中古車買取店の不祥事が話題になっている。そのニュースを報じる、とあるWEB記事の中に、このような分析をする記事があった。
『(前略)報道対策アドバイザーとして、この手の不正も山ほど見てきた立場で言わせていただくと、これはなにもビッグモーターに限った話ではない。「団塊ジュニア企業」が、この10年あまりこぞってハマっている「定番の失敗パターン」だ。「団塊ジュニア?なんだよそれ?」と思った方のために説明すると、団塊ジュニア企業とは第二次ベビーブームによる需要増が大きな要因で急成長して、全国展開を達成した大企業を指す筆者の造語だ。分かりやすいところでは、1973年創業のセブン-イレブン・ジャパン、同年に創業したレオパレス、翌74年創業の大東建託などがこれにあたる。76年創業のビッグモーターは人間で言えば、団塊ジュニア世代(71~74年)ではないが、団塊ジュニアを授かったファミリーが国内で爆発的に増えて、その恩恵を得た会社のことを「団塊ジュニア企業」と呼ばせていただく。そんな団塊ジュニア企業は、近年よく問題を起こしている。業種やビジネスモデルは違えど、共通の「負けパターン」があるからだ。(後略)』(原文ママ)
私はギリギリ団塊世代ジュニアだ(1975年)。第二次ベビーブームの終わりの世代で、両親はまさに団塊世代。
私自身がそのような世代であるから、過剰に反応したのかもしれないが、何でもかんでも「レッテルを貼る」ということが必ずしも良い、とは思えない。
例えば「HIV陽性者」「薬物依存症患者」「うつ病患者」と言われて、皆さんはどんなイメージを持つだろうか。そして果たして、そのイメージが本当に正しいと言い切れるだろうか。
医学モデルでは、その人(病態・状態)を正常と異常に分け、さらにその異常である部分がどのような異常であるのかを分類していく作業がある。これがいわゆる医師の行う「診断」という作業だ。医師は、診断することで治療方法の選択の指針とし、逆に診断することが困難であると治療方法が見つからない、とも言える。
診断は、あくまでも「治療方法の指針を得るため」であることを強調しておきたい。何故ならば、その先には、その患者様に合った方法・用量を決める「個別化」という作業が待っているからである。つまり、診断をすることで「一般化」しさらに「個別化」しなければ、本当の治療には結びつかない。
レッテルを貼る(ラベリングまたはグルーピング)と言うのは、ある物事を捉えるには非常に楽で簡単である。反面、そこには「個別性」というものがマスキングされてしまい、「その人個人」という物を見えなくしてしまう可能性が高い。
SDGsという言葉が浸透し多様性が叫ばれる昨今、あえてレッテルを貼る(ラベリングまたはグルーピング)必要があるのだろうか?
LGBTQ+・SOGIに関する話題にも当てはまるだろう(あえてここでは深く触れないが)。
これは、これを読んでいる方にお願いしたい。
私はゲイでありHIV陽性者であり精神障害者である。しかし、それは私を構成する一部分であり、それが全てではないことを理解していただきたい。
そしてこれは今後、このカウンセリングサービスを利用する方々にお約束をする。
私はあなたを「あなた」という個人で理解する、と。病名や社会的地位、職種、セクシャリティ、家庭内役割、それらであなたをフィルタリングすることを、可能な限り排除する事をお約束したい。
2023年7月25日火曜日
使い分けてる?人を頼る事と甘える事
とても似ているようで非なるもの。
「頼る」と「甘える」はどこがどう違うのだろうか?とあるフォロワーさんが「“お前はいつも甘えてばかりで云々”と言われて悲しい…」というTweetを見かけて、思わずコメントしてことがある。
「頼る」たのみとする。つてを求めて近づく。助けとして用いる。依存する。
「甘える」かわいがってもらおうとして、まとわりついたり物をねだったりする。甘ったれる。相手の好意に遠慮なくよりかかる。また、慣れ親しんでわがままに振る舞う。
※weblio辞書より
私はこう解釈する。「甘える」というのは腹黒さがあり、かつ計算してよりかかることで、「頼る」というのはそれがないこと。
「頼る」ことの方がその裏に計算された何かはなく、純粋であると言っても良いかもしれない。
人は本当に困った時にするのは「甘える」のではなく「頼る」のであって、甘えるというのは時に人に“負”の印象を与えることがある。ただ、この「甘える」というのも、気心知れた間柄で、それがあからさまであり「可愛げがある」時には、それほど“負”の印象を与えることはないが、それも回数を重ねる事は良しとしない場合が多い。
私も経験があるが、本当に困っている人がいて私を「頼って」くるときには、「何とかしてその気持に応えてあげよう」という気持ちが働くが、ゴロゴロと喉を鳴らして甘えてくる人には「それはあなたの利害に関係することだよね?」と、ついつい問いただしたくなる。
「甘える」の説明にもあるが「わがままに振る舞う」という事が「甘える」という言葉に、良い印象を与えない原因なのかもしれない。しかも「慣れ親しんで」である。
両者の間に互いが「慣れ親しんだ」間柄だと言う認識があれば、まだ「甘え」は許されるのかもしれない。しかし、一方が「慣れ親しんだ」と認識していたとしてももう一方がそうでなければ、「わがままに振る舞う」事が「甘え」であり、不愉快極まりない、ということになりかねない、ということである。しかもそのような認識は、当人同士がどう認識しているかが深く関係している。
と言うことは、その行為が「甘え」なのか「頼って」いることなのかを判断できるのは、当の本人たちしかいないわけで、そとから見ている第三者が「お前はあいつに甘えている」と断言できるはずはないのである。
余計なお世話である。
2023年7月14日金曜日
(モヤモヤ…)ある日のできごと(モヤモヤ…)
確かあれは、今年の4月の下旬頃の話し。
都市中心部で用事を済ませ、次の目的地のある市郊外に向かう市バスに乗り込んだ時の事。始発のバス停から2つ目の停留所から僕は乗車した。見渡すと乗客は学生らしき男性と女性が2~3人、中年のサラリーマンと思しき人が1人、友人同士と思われる中高年の女性が1組くらい先に乗車していたと思う。
そしてもう一人。
バス車体中程にある“優先席”に、「年齢不詳の女性」が座っていた。
僕は、車体やや後方の二人がけの席に一人腰をおろした。たしかあの時は小雨が降っていたので、僕は傘を持っていた。傘は手に持ったまま席に座ると同時にリュックを隣の席に置いた。いつも使っている骨伝導式のヘッドホンをし、大好きな女性テクノポップユニットの曲を聞きながら、雨粒が濡らすガラス窓の外をぼんやりと眺めていた。
バスは、定刻通りに停留所を出発した。
僕は変わらず窓の外を見ていたが、その「年齢不詳の女性」が落ち着きなくしている様子が目の端に映り、また何か独り言を言っているようにも見えた。声はヘッドホンから聞こえてくるアップテンポな曲にかき消されて、僕には何を言っているのかまでは分からなかった。
停留所を2つ過ぎた辺りだっただろうか。バスは赤信号で停まった。
その途端「年齢不詳の女性」は立ち上がり、前方のバス出口へ向かっていき、何かを叫びながらドアを蹴り始めた。
僕は驚いてヘッドホンを外してみると、その女性は「ここで降りる!」「降ろして!」「早く開けて!!」と叫ぶ声が耳に飛び込んでき、ドンドンと扉を蹴る音が響いてきた。
僕は一瞬、何が起こったのか分からず、ただ呆然とその様子を見ていることしかできなかった。信号は青に変わっていたけれど、バスは止まったままで、運転手さんは「やめてください!」「危ないですから席に座って下さい!」と大声で制止することしかできないようであった。
僕自身、このような状況に出くわしたことはなく、全く初めての経験であったので、何を優先させ、今何をしなければならないのか、頭が真っ白になりさっぱり何も思い浮かばなかった。
しかし、間髪入れずその女性は、運転手さんに掴みかかっていった。
「危ない!」
僕が叫んだのか、心の中で思っただけなのか今でも思い出せないが、そんな言葉が頭をよぎった瞬間、僕のすぐ後ろに座っていた中高年の女性の一人が、それと止めようとしたのか運転席まで走っていった。
そこで僕は我に返った。「皆の安全を確保しなかれば」
とっさに、持っていた傘と耳にかけていたヘッドホン、メガネを座席に放り出して運転席まで走り寄り、「年齢不詳の女性」の掴みかかっている手を何とかしちょうとしている中高年の女性に席に戻るよう伝え、運転手さんと「年齢不詳の女性」の間に割って入った。そして力づくでその「年齢不詳の女性」を車体中程の優先席まで連れていき、押し込むように座らせた。
僕の心臓は口から飛び出そうなほど鼓動しているのに、何故かどこか頭の中には冷静な自分がいることに、ひどく驚いた。
「年齢不詳の女性」は、背丈は僕よりやや小さいくらいだけれども酷く痩せていて、けれどものすごい力で僕に抵抗してきた。しかし、優先席に座らせた後、僕は「年齢不詳の女性」の横に身体をしっかりと寄せ、脇から腕を通してしっかりと離さなかった。
「何があってもこの腕を離してはいけない」
必死で「年齢不詳の女性」の腕を掴んだまま、ふたりとも徐々に落ち着きを取り戻していくのが肌で感じとれた。
「どこのバス停で降りるんですか?」
「◯◯◯」
「じゃああと3つ先ですね」
その時不意に、彼女は言った。
「…トイレ…行きたい…」
その時、僕はハッとした。彼女はトイレに行きたかったのだ、と。きっとすぐにでも降りてトイレに行きたい、ただ、それだけだったのだと。
「もう少し。もう少し…我慢できますか?」
そうたずねると彼女は静かに首を縦に振った。
目的の停留所に着くまで、おそらく15分程度だっただろうか。僕は心のなかで「早く着いてくれ」「このまま冷静でいてくれ」その2つの言葉を繰り返し繰り返し唱えていた。そして彼女を落ち着かせるため、そして自分を落ち着かせるため少し身体を横に揺らし、腕を組んでいないもう片方の僕の手で、彼女の膝をゆっくりと一定のリズムを刻むように、ポンポンと軽く叩きながら停留所に着くのを待った。
目的の停留所に着くと、彼女は僕の腕を振りほどき小走りしながら、バスを降りていった。
それを見届けた僕は、バスが走り出す前に、車体後方のもともと座っていた席に戻るために歩き出したのだが、途中、中年のサラリーマンからは「ありがとう」と声をかけられ、大学生からは会釈され、後方に座っていた中高年の女性からは「すごいですね。ありがとうございました」と感謝の言葉をいただいた。
けれど…
僕が元の席に座る頃には、何か釈然としないというか腑に落ちないと言うか居心地の悪さを感じていた。バスを下車するときには、運転手さんからも「ご迷惑おかけしました。本当にありがとうございました」と声をかけていただいたのだが、「善い行いをした後の何とも言えない爽快感」は全く無かった。
事実だけを並べると「バス車内で暴れていた女性を、たまたま同乗していた男性が制し乗客乗員の安全を守った」と言う美談になるのだが。
おそらく彼女は、精神障害者または発達障害者(心身障害者?)だったのだと思う。
そして僕も、精神障害者で身体障害者だ。
どうも、ここで僕の思考は引っかかって止まってしまう。そして、何か物悲しさを感じてしまう。理由が分からない。今でも何故なのかが分からない。文章にして言語化すれば何か答えが見つかるのかと思ったのだが、何かの答えを出そうとすると筆が止まる。
ここに書いたことは全て事実で、ややドラマチックに仕上げてしまったが、その出来事と僕の心の動きは理解していただけたのではないかと思う。
誰かこの僕の「腑に落ちない何か」の答えを解説してくれる人はいないだろうか。
コメントをお願いしたい。
2023年7月13日木曜日
他人の正義感に流されないで!!「嘘をつく」と「あえて言わない」
2023年7月12日水曜日
ちょっとそこのあなたの事ですよ!!ミドルエイジ・クライシス
このタイトルを見てドキッとした方もいるのではないだろうか。
かの有名な心理学者「ユング」は、40歳前後を「人生の正午」と例えたと言う。
つまり、40歳前は、職業を得て社会に根付くことや家庭を築くことなど「外的世界に自分を適応させること」が大きな目的であるのに対し、人生の後半(ここでは40歳以降)では、自己の内的欲求や本来の自分の姿を見出し、それを実現させていくことが大きな目的であるとした。
つまり人生の後半は“死”に向かいつつある自分の人生を、もう一度見直し本当に自分のしたかったことは何か、どんな人物になりたいと思っているのか、それを実現するためにはどうしたら良いのか、と言う心の力が働くのである。
また、日本の心理学者「岡本祐子」によると、中年期に見られる自我同一性意識の変化過程には4つの段階があるとして、①心身の変化の認識を伴う危機期 ②自己の再吟味と再方向づけへの模索期 ③これまでの生き方の軌道修正・軌道転換期 ④自我同一性の再確立期 となっている。
簡単に言ってしまえば、心身ともに衰え始めることに気づくとともに、子育てが一段落しこれから自分自身がどのように生きていくのか、どう生きていきたいのかを再度確認、そして模索し確立していくと言うのが中年期である、というしている。
そう、まるで青年期に起こる「自我同一性の危機」がもう一度やってくるわけである。それを日本では揶揄して「第二の思春期」「思秋期(ししゅうき)」とも言う。
ユングの時代で40歳前後であるから、現在の年齢に修正するとざっくり50歳前後だろうか。
現代の日本(人)に当てはめて考えると、50歳前後というと、ちょうど自身の子どもが大学を卒業し社会人になる頃、会社ではある程度の地位になりその地位を定年まで全うしようとする時期、身体は無理が効かなくなり疲労を翌日に残さないことが第一で、風邪をひいてもスッキリと治るまでに時間のかかるようになってくる頃であろう(半分は実体験から)。
この心理的・身体的・社会的な変化は、じつはジワリジワリと心を蝕むことがある。
自己の限界を自覚しつつも、達成できなかった物事への後悔や固着、若さを失っていく絶望、また若さを取り戻したいという実現不可能な執着、社会的ステータスや健康に対する不満など、実は心理的に乗り越えなければならない「危機」が多く潜んでいる時期である。
この危機をうまく乗り越えられないとどうなるか。
適応障害・うつ病・依存症、そして行き着く先は…ということもある。
以前、私の書いたblog「親というものは、子というものは」で記したように、私の父は50歳ごろに「うつ病」になり、それはこの危機をうまく乗り越えられなかったからなのだと、今では理解できる。教科書に出てくるような症例を私は、目の当たりにしていたのだ。
そして私自身が今、まさにその時を向かえている。
確かにこの半年間「このまま人生を終えて良いのか?」と自問自答することがよくあった。残された時間が20年なのか30年なのか、はたまた5年なのか40年なのかは分からない。それこそ“神のみぞ知る”ことである。やはり心のそこから「やりたい」と思うことをやりたいし「やってみたい」と思うことに挑戦したい。だから、それまでの「自分の常識を覆さなければいけない」と思うようになった。
そして今がある。
「岡本祐子」氏が述べているように、私は今、これまでの生き方の軌道修正・軌道転換期を向かえていると、しみじみと感じている。
ありがたいことに、応援してくれる人がいる。協力してくれる人がいる。手を貸してくれる人がいる。残された時間を「自分が幸せに」生きるために、「自分が思うよう」に生きるために、欲を言えば「この世に何かの爪痕を残せる」ように生きてみたいと思っている。
もしよければ、こんな私の戯言にお付き合いいただければ幸いである。
2023年7月11日火曜日
患者として言わせて頂きます!!身体が病むと言う事は心も病むと言う事
2023年7月10日月曜日
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