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オンラインカウンセリング「勇者の部屋」の産業カウンセラー勝水のブログです。セクシャルマイノリティ(ゲイ)・身体障害者(HIV陽性者)・精神障害者(双極性障害)の当事者としての目線と、理学療法士・社会福祉士・産業カウンセラーとしての目線で、今まで経験したことや普段考えていることなど、様々な情報発信をしております。

2023年7月27日木曜日

将来の話し(ビジネスの話し)

このオンラインカウンセリングのサービスを始めたきっかけは、以前のblog「そろそろ本当の事を話しましょう」でお伝えした通り。

私は常々、「人を支える仕事をされている人の支えになりたい」と思っている。「人を支える仕事」とは?と疑問に思われる方もいると思われるので、少し説明をしたい。

「人を支える仕事」の事を『対人援助職』と言う場合が多く、以下のような職種が挙げられる。


医療・保健分野
医師、歯科医師、看護師、助産師、保健師、理学療法士、作業療法士、言語聴覚士、救急救命士、ソーシャルワーカー、心理士、歯科衛生士、視能訓練士、カイロプラクター、柔道整復師、はり師・きゅう師、あんまマッサージ指圧師など

教育分野
教員、学童保育指導員、カウンセラーなど

福祉分野
保育士、児童指導員、心理士、介護士、ホームヘルパー、手話通訳者、ソーシャルワーカー、相談員など

その他の分野
裁判官、弁護士、検察官、警察官、消防士など

その他にも…
薬剤師、臨床検査技師、診療放射線技師、歯科技工士、臨床工学技士、栄養士、調理師、義肢装具士、学校事務員など

その名の通り直接的・間接的に人を支援する仕事である。


一方で『感情労働職』とは何か。
感情労働とは、肉体労働、頭脳労働に並ぶ労働のカテゴリーの事である。以下にその例を示す。

ホテルのコンシェルジュ、鉄道駅員、客室乗務員、ファストフード店員、コールセンターのオペレーター、相談センターの相談員、教員、病院勤務の医師、看護師、営業業務従事者、介護施設職員、カウンセラーなど。

感情労働とは、業務上で感情のコントロールや表現が不可欠な職業のことである。


見て分かる通り、分類の仕方が違うだけで両者とも『人を相手にした職業』と言い換える事ができる。

私も長年、理学療法士(対人援助職であり感情労働者である)として働いてきて実感しているのは、「自分自身の健康状態(フィジカル、メンタル共に)が良くなければ、良いサービスは提供できない」と言う事である。至極、当たり前の事であるが、それは誰も教えてくれなかった事でもある。

経験を積むにつれ、年齢を重ねるにつれ「あゝ自分が健康でないと人には優しくなれない」と実感するようになり、やっと自分自身の健康に意識が向くようになったと思う。

しかしそれは、「フィジカルの面」だけで、メンタルケアの必要性を知ったのは、結局、自分自身がメンタルダウンしてからである。

対人援助職(以下、ここでは感情労働者も含む)では、自分自身の感情をそのままストレートに表現する事は、ほぼ出来ないと言ってもいい程、それを制限される場面が多々ある。自分自身の本当の感情を表現できない場合、表現できる感情との折り合いをつけなければならず、そこには大小のストレスが生じる。

この折り合いをうまくつけれる人は、さほどの苦労をせずとも「仕事」と割り切って日々の業務をこなすことができるが、これがこじれると非常に厄介である。下手をすると自分自身が本当はどのような感情を抱いているのか理解できない、自分の感情を表現することで自分が傷ついてしまうのではないかという恐れなど、『感情の不一致』が起こり、人間関係や仕事がうまくいかなくなる場合がある。

対人援助職では、自分自身が今、抱いている感情を把握するとともに、適切な方法で、適切なタイミングでその感情を表現しなければならず、それには『アサーションスキル』が必要となる。

アサーションスキルについては、後日、詳細を述べていきたいと思う。


現在の私の今後のビジネス展開としては、

①オンラインによる個別の心理カウンセリングを提供する
②特に対人援助職・感情労働者に特化した心理カウンセリングを提供する
③医療機関・福祉事業者・NPOなど、対人援助を主に主とする法人・企業・団体に対し、そこで働く人のメンタルをヘルスアップするためのスキルの研修や講習をする
④障害者や高齢者などの心理などの理解を深めるための研修や講習をする。

このようなことを今後、やっていきたいと思っている。

個人の方だけではなく、法人・企業・団体の人事や総務担当者の方々、ぜひ私「⚔勇者ケンゴ🛡」にご用命を(笑)。

2023年7月26日水曜日

自分は自分!!②団塊世代ジュニアと言うレッテル

「 レッテルを貼る」と言う言葉は、悪い意味で使われることが多く、このニュースを読んだときも、非常に不快な気分になった。

他にもラベリングやグルーピングとも言いかえられるが、日本人には「レッテルを貼る」という言葉が一番しっくり来るだろう。

某大手中古車買取店の不祥事が話題になっている。そのニュースを報じる、とあるWEB記事の中に、このような分析をする記事があった。

『(前略)報道対策アドバイザーとして、この手の不正も山ほど見てきた立場で言わせていただくと、これはなにもビッグモーターに限った話ではない。「団塊ジュニア企業」が、この10年あまりこぞってハマっている「定番の失敗パターン」だ。「団塊ジュニア?なんだよそれ?」と思った方のために説明すると、団塊ジュニア企業とは第二次ベビーブームによる需要増が大きな要因で急成長して、全国展開を達成した大企業を指す筆者の造語だ。分かりやすいところでは、1973年創業のセブン-イレブン・ジャパン、同年に創業したレオパレス、翌74年創業の大東建託などがこれにあたる。76年創業のビッグモーターは人間で言えば、団塊ジュニア世代(71~74年)ではないが、団塊ジュニアを授かったファミリーが国内で爆発的に増えて、その恩恵を得た会社のことを「団塊ジュニア企業」と呼ばせていただく。そんな団塊ジュニア企業は、近年よく問題を起こしている。業種やビジネスモデルは違えど、共通の「負けパターン」があるからだ。(後略)』(原文ママ)

私はギリギリ団塊世代ジュニアだ(1975年)。第二次ベビーブームの終わりの世代で、両親はまさに団塊世代。

私自身がそのような世代であるから、過剰に反応したのかもしれないが、何でもかんでも「レッテルを貼る」ということが必ずしも良い、とは思えない。

例えば「HIV陽性者」「薬物依存症患者」「うつ病患者」と言われて、皆さんはどんなイメージを持つだろうか。そして果たして、そのイメージが本当に正しいと言い切れるだろうか。


医学モデルでは、その人(病態・状態)を正常と異常に分け、さらにその異常である部分がどのような異常であるのかを分類していく作業がある。これがいわゆる医師の行う「診断」という作業だ。医師は、診断することで治療方法の選択の指針とし、逆に診断することが困難であると治療方法が見つからない、とも言える。

診断は、あくまでも「治療方法の指針を得るため」であることを強調しておきたい。何故ならば、その先には、その患者様に合った方法・用量を決める「個別化」という作業が待っているからである。つまり、診断をすることで「一般化」しさらに「個別化」しなければ、本当の治療には結びつかない。

レッテルを貼る(ラベリングまたはグルーピング)と言うのは、ある物事を捉えるには非常に楽で簡単である。反面、そこには「個別性」というものがマスキングされてしまい、「その人個人」という物を見えなくしてしまう可能性が高い。

SDGsという言葉が浸透し多様性が叫ばれる昨今、あえてレッテルを貼る(ラベリングまたはグルーピング)必要があるのだろうか?

LGBTQ+・SOGIに関する話題にも当てはまるだろう(あえてここでは深く触れないが)。


これは、これを読んでいる方にお願いしたい。

私はゲイでありHIV陽性者であり精神障害者である。しかし、それは私を構成する一部分であり、それが全てではないことを理解していただきたい。


そしてこれは今後、このカウンセリングサービスを利用する方々にお約束をする。

私はあなたを「あなた」という個人で理解する、と。病名や社会的地位、職種、セクシャリティ、家庭内役割、それらであなたをフィルタリングすることを、可能な限り排除する事をお約束したい。

2023年7月25日火曜日

使い分けてる?人を頼る事と甘える事

 とても似ているようで非なるもの。

「頼る」と「甘える」はどこがどう違うのだろうか?とあるフォロワーさんが「“お前はいつも甘えてばかりで云々”と言われて悲しい…」というTweetを見かけて、思わずコメントしてことがある。


「頼る」たのみとする。つてを求めて近づく。助けとして用いる。依存する。

「甘える」かわいがってもらおうとして、まとわりついたり物をねだったりする。甘ったれる。相手の好意に遠慮なくよりかかる。また、慣れ親しんでわがままに振る舞う。

※weblio辞書より


私はこう解釈する。「甘える」というのは腹黒さがあり、かつ計算してよりかかることで、「頼る」というのはそれがないこと。

「頼る」ことの方がその裏に計算された何かはなく、純粋であると言っても良いかもしれない。

人は本当に困った時にするのは「甘える」のではなく「頼る」のであって、甘えるというのは時に人に“負”の印象を与えることがある。ただ、この「甘える」というのも、気心知れた間柄で、それがあからさまであり「可愛げがある」時には、それほど“負”の印象を与えることはないが、それも回数を重ねる事は良しとしない場合が多い。

私も経験があるが、本当に困っている人がいて私を「頼って」くるときには、「何とかしてその気持に応えてあげよう」という気持ちが働くが、ゴロゴロと喉を鳴らして甘えてくる人には「それはあなたの利害に関係することだよね?」と、ついつい問いただしたくなる。

「甘える」の説明にもあるが「わがままに振る舞う」という事が「甘える」という言葉に、良い印象を与えない原因なのかもしれない。しかも「慣れ親しんで」である。

両者の間に互いが「慣れ親しんだ」間柄だと言う認識があれば、まだ「甘え」は許されるのかもしれない。しかし、一方が「慣れ親しんだ」と認識していたとしてももう一方がそうでなければ、「わがままに振る舞う」事が「甘え」であり、不愉快極まりない、ということになりかねない、ということである。しかもそのような認識は、当人同士がどう認識しているかが深く関係している。

と言うことは、その行為が「甘え」なのか「頼って」いることなのかを判断できるのは、当の本人たちしかいないわけで、そとから見ている第三者が「お前はあいつに甘えている」と断言できるはずはないのである。

余計なお世話である。


2023年7月14日金曜日

(モヤモヤ…)ある日のできごと(モヤモヤ…)

 確かあれは、今年の4月の下旬頃の話し。


都市中心部で用事を済ませ、次の目的地のある市郊外に向かう市バスに乗り込んだ時の事。始発のバス停から2つ目の停留所から僕は乗車した。見渡すと乗客は学生らしき男性と女性が2~3人、中年のサラリーマンと思しき人が1人、友人同士と思われる中高年の女性が1組くらい先に乗車していたと思う。

そしてもう一人。

バス車体中程にある“優先席”に、「年齢不詳の女性」が座っていた。

僕は、車体やや後方の二人がけの席に一人腰をおろした。たしかあの時は小雨が降っていたので、僕は傘を持っていた。傘は手に持ったまま席に座ると同時にリュックを隣の席に置いた。いつも使っている骨伝導式のヘッドホンをし、大好きな女性テクノポップユニットの曲を聞きながら、雨粒が濡らすガラス窓の外をぼんやりと眺めていた。

バスは、定刻通りに停留所を出発した。

僕は変わらず窓の外を見ていたが、その「年齢不詳の女性」が落ち着きなくしている様子が目の端に映り、また何か独り言を言っているようにも見えた。声はヘッドホンから聞こえてくるアップテンポな曲にかき消されて、僕には何を言っているのかまでは分からなかった。

停留所を2つ過ぎた辺りだっただろうか。バスは赤信号で停まった。

その途端「年齢不詳の女性」は立ち上がり、前方のバス出口へ向かっていき、何かを叫びながらドアを蹴り始めた。

僕は驚いてヘッドホンを外してみると、その女性は「ここで降りる!」「降ろして!」「早く開けて!!」と叫ぶ声が耳に飛び込んでき、ドンドンと扉を蹴る音が響いてきた。

僕は一瞬、何が起こったのか分からず、ただ呆然とその様子を見ていることしかできなかった。信号は青に変わっていたけれど、バスは止まったままで、運転手さんは「やめてください!」「危ないですから席に座って下さい!」と大声で制止することしかできないようであった。

僕自身、このような状況に出くわしたことはなく、全く初めての経験であったので、何を優先させ、今何をしなければならないのか、頭が真っ白になりさっぱり何も思い浮かばなかった。

しかし、間髪入れずその女性は、運転手さんに掴みかかっていった。

「危ない!」

僕が叫んだのか、心の中で思っただけなのか今でも思い出せないが、そんな言葉が頭をよぎった瞬間、僕のすぐ後ろに座っていた中高年の女性の一人が、それと止めようとしたのか運転席まで走っていった。

そこで僕は我に返った。「皆の安全を確保しなかれば」

とっさに、持っていた傘と耳にかけていたヘッドホン、メガネを座席に放り出して運転席まで走り寄り、「年齢不詳の女性」の掴みかかっている手を何とかしちょうとしている中高年の女性に席に戻るよう伝え、運転手さんと「年齢不詳の女性」の間に割って入った。そして力づくでその「年齢不詳の女性」を車体中程の優先席まで連れていき、押し込むように座らせた。

僕の心臓は口から飛び出そうなほど鼓動しているのに、何故かどこか頭の中には冷静な自分がいることに、ひどく驚いた。

「年齢不詳の女性」は、背丈は僕よりやや小さいくらいだけれども酷く痩せていて、けれどものすごい力で僕に抵抗してきた。しかし、優先席に座らせた後、僕は「年齢不詳の女性」の横に身体をしっかりと寄せ、脇から腕を通してしっかりと離さなかった。

「何があってもこの腕を離してはいけない」

必死で「年齢不詳の女性」の腕を掴んだまま、ふたりとも徐々に落ち着きを取り戻していくのが肌で感じとれた。

「どこのバス停で降りるんですか?」

「◯◯◯」

「じゃああと3つ先ですね」

その時不意に、彼女は言った。

「…トイレ…行きたい…」

その時、僕はハッとした。彼女はトイレに行きたかったのだ、と。きっとすぐにでも降りてトイレに行きたい、ただ、それだけだったのだと。

「もう少し。もう少し…我慢できますか?」

そうたずねると彼女は静かに首を縦に振った。

目的の停留所に着くまで、おそらく15分程度だっただろうか。僕は心のなかで「早く着いてくれ」「このまま冷静でいてくれ」その2つの言葉を繰り返し繰り返し唱えていた。そして彼女を落ち着かせるため、そして自分を落ち着かせるため少し身体を横に揺らし、腕を組んでいないもう片方の僕の手で、彼女の膝をゆっくりと一定のリズムを刻むように、ポンポンと軽く叩きながら停留所に着くのを待った。

目的の停留所に着くと、彼女は僕の腕を振りほどき小走りしながら、バスを降りていった。

それを見届けた僕は、バスが走り出す前に、車体後方のもともと座っていた席に戻るために歩き出したのだが、途中、中年のサラリーマンからは「ありがとう」と声をかけられ、大学生からは会釈され、後方に座っていた中高年の女性からは「すごいですね。ありがとうございました」と感謝の言葉をいただいた。

けれど…

僕が元の席に座る頃には、何か釈然としないというか腑に落ちないと言うか居心地の悪さを感じていた。バスを下車するときには、運転手さんからも「ご迷惑おかけしました。本当にありがとうございました」と声をかけていただいたのだが、「善い行いをした後の何とも言えない爽快感」は全く無かった。


事実だけを並べると「バス車内で暴れていた女性を、たまたま同乗していた男性が制し乗客乗員の安全を守った」と言う美談になるのだが。


おそらく彼女は、精神障害者または発達障害者(心身障害者?)だったのだと思う。

そして僕も、精神障害者で身体障害者だ。


どうも、ここで僕の思考は引っかかって止まってしまう。そして、何か物悲しさを感じてしまう。理由が分からない。今でも何故なのかが分からない。文章にして言語化すれば何か答えが見つかるのかと思ったのだが、何かの答えを出そうとすると筆が止まる。

ここに書いたことは全て事実で、ややドラマチックに仕上げてしまったが、その出来事と僕の心の動きは理解していただけたのではないかと思う。

誰かこの僕の「腑に落ちない何か」の答えを解説してくれる人はいないだろうか。

コメントをお願いしたい。

2023年7月13日木曜日

他人の正義感に流されないで!!「嘘をつく」と「あえて言わない」

お恥ずかしながら、この年齢になって改めて実感した事がある。


私がHIV陽性告知を受けてから、必死に守ろうとしてきた事がある。それは「自分自身がHIV陽性であるとこに嘘をつかない」と言う事である。

27歳であったのでまだ若く、そして変な「熱量」があった。

嘘をつく=絶対悪
嘘をつかない=絶対正義

これがその頃の私の信念でありそれが原動力であった。
特に、お付き合いをしたいと思っている相手には、できるだけ早い段階で開示をして理解を求め、受け入れてもらいたいと言う強い気持ちがあった(今思えば、相手への考慮を全くしないという何とも身勝手な考え方だ)。しかも、聞かれもしないのに自分自身から積極的に開示するという選択肢を、いつもとっていた。

ここでお気付きの方もいるかもしれないが、私の中では「嘘をつく」と「あえて言わない」を混同していたのである。

嘘をつく=あえて言わない=絶対悪

この考え方をしていると自分を許す機会を逃し、自分で自分の首を絞め、自分を追い込んでしまう。そして余裕がなくなり、自分にも他人にも優しくなれなくなってしまう。
しかも厄介な事に、この自分の判断基準を他人に当てはめて考えてしまい、「あの人はダメな人間だ」「あの人の考えはおかしい」と、口にはしないものの内心毒づいていた。

(ろくでもない人間だなwww)

若干、言葉遊びのような印象も受けるが、「嘘をつく」と「あえて言わない」は似ているようで、意味合いとしてはかなり違っている。

嘘をつく=事実とは異なる虚偽を伝える(Weblio辞典より)ことであり、あえて言わないのは、虚偽となるような事“すら”も伝えないのである。つまり、相手の質問の内容や質問の仕方によって『こちらの出方を変える』ことであり、どちらも受動的な意味であるが、「聞かれないことにはあえて触れない」という手法(?)は、一見、ずる賢そうであるが正攻法でもある。

“やぶ蛇”という言葉がある。
「藪をつついて蛇を出す」の略語で『余計なことをして状況を悪くすること。しなくてもよいことをして危難に遭うことなどを意味する』(Weblio辞典より)という意味で、まさしく「あえて言わない」その理由が「やぶ蛇」である。

もしかしたらここまで来ると、個人の価値観に関わってくる事かもしれない。「相手は聞いてこないけど黙っていられない」「嘘はつかないけど事実を隠すことに罪悪感を覚える」「隠すことがとても疲れる」または「聞かれはしないけど先に伝えたほうが誠実さが伝わる」「後からバレるよりも先に伝えた方が印象が良い」そう思われる方もいるかも知れない。

しかし、伝える相手側がどのような価値観を持っていてどのようにジャッジを下すかは、結局のところその人にしか分からないのである。

人間を半世紀もやっていると、多少の罪悪感と当面の利害を天秤にかけた時、多少の罪悪感は無きものとして処理できてしまうことが、往々にしてあることを知り、自分自身も実践するようになった。

バレてしまったら、その時はその時。
その時に“いかに誠実に対応するか”が大切で、そこで誤っても「嘘の厚塗り」をしてはいけない。それこそ取り返しがつかなくなる。
なぜあの時“あえて言わなかった”のか、“あえて言えなかった”のか、それを包み隠さず伝えることで挽回できる事もあるはずである。

もちろん時と場合にはよるし、私が保証するものでもないので強く勧めるつもりもない。先程述べたように、個人の価値観や考え方もあるが、そういう選択肢もあり「嘘をついているわけではない」という、自分自身の罪悪感からも開放されることもあるという事を、頭の片隅に入れておいても損はないと思う。


『後出しジャンケン』は大人の特権である。

2023年7月12日水曜日

ちょっとそこのあなたの事ですよ!!ミドルエイジ・クライシス

 このタイトルを見てドキッとした方もいるのではないだろうか。


かの有名な心理学者「ユング」は、40歳前後を「人生の正午」と例えたと言う。

つまり、40歳前は、職業を得て社会に根付くことや家庭を築くことなど「外的世界に自分を適応させること」が大きな目的であるのに対し、人生の後半(ここでは40歳以降)では、自己の内的欲求や本来の自分の姿を見出し、それを実現させていくことが大きな目的であるとした。

つまり人生の後半は“死”に向かいつつある自分の人生を、もう一度見直し本当に自分のしたかったことは何か、どんな人物になりたいと思っているのか、それを実現するためにはどうしたら良いのか、と言う心の力が働くのである。

また、日本の心理学者「岡本祐子」によると、中年期に見られる自我同一性意識の変化過程には4つの段階があるとして、①心身の変化の認識を伴う危機期 ②自己の再吟味と再方向づけへの模索期 ③これまでの生き方の軌道修正・軌道転換期 ④自我同一性の再確立期 となっている。

簡単に言ってしまえば、心身ともに衰え始めることに気づくとともに、子育てが一段落しこれから自分自身がどのように生きていくのか、どう生きていきたいのかを再度確認、そして模索し確立していくと言うのが中年期である、というしている。

そう、まるで青年期に起こる「自我同一性の危機」がもう一度やってくるわけである。それを日本では揶揄して「第二の思春期」「思秋期(ししゅうき)」とも言う。

ユングの時代で40歳前後であるから、現在の年齢に修正するとざっくり50歳前後だろうか。

現代の日本(人)に当てはめて考えると、50歳前後というと、ちょうど自身の子どもが大学を卒業し社会人になる頃、会社ではある程度の地位になりその地位を定年まで全うしようとする時期、身体は無理が効かなくなり疲労を翌日に残さないことが第一で、風邪をひいてもスッキリと治るまでに時間のかかるようになってくる頃であろう(半分は実体験から)。

この心理的・身体的・社会的な変化は、じつはジワリジワリと心を蝕むことがある。

自己の限界を自覚しつつも、達成できなかった物事への後悔や固着、若さを失っていく絶望、また若さを取り戻したいという実現不可能な執着、社会的ステータスや健康に対する不満など、実は心理的に乗り越えなければならない「危機」が多く潜んでいる時期である。

この危機をうまく乗り越えられないとどうなるか。

適応障害・うつ病・依存症、そして行き着く先は…ということもある。

以前、私の書いたblog「親というものは、子というものは」で記したように、私の父は50歳ごろに「うつ病」になり、それはこの危機をうまく乗り越えられなかったからなのだと、今では理解できる。教科書に出てくるような症例を私は、目の当たりにしていたのだ。

そして私自身が今、まさにその時を向かえている。

確かにこの半年間「このまま人生を終えて良いのか?」と自問自答することがよくあった。残された時間が20年なのか30年なのか、はたまた5年なのか40年なのかは分からない。それこそ“神のみぞ知る”ことである。やはり心のそこから「やりたい」と思うことをやりたいし「やってみたい」と思うことに挑戦したい。だから、それまでの「自分の常識を覆さなければいけない」と思うようになった。

そして今がある。

「岡本祐子」氏が述べているように、私は今、これまでの生き方の軌道修正・軌道転換期を向かえていると、しみじみと感じている。

ありがたいことに、応援してくれる人がいる。協力してくれる人がいる。手を貸してくれる人がいる。残された時間を「自分が幸せに」生きるために、「自分が思うよう」に生きるために、欲を言えば「この世に何かの爪痕を残せる」ように生きてみたいと思っている。


もしよければ、こんな私の戯言にお付き合いいただければ幸いである。

2023年7月11日火曜日

患者として言わせて頂きます!!身体が病むと言う事は心も病むと言う事

私が臨床の場で、実習生さんや新人さんに、必ず伝えていた事がある。

それは「身体が病むと言う事は心も病む」と言う事である。

私自身がHIV感染症であったり双極性障害であったりと「病む」経験が豊富であると(?)、自分自身が医療従事者であると同時に患者さんでもあるわけで。その様な立場でいると“両者の言い分”と言うものがよく分かる。
良くも悪くも。

HIVに感染していることが分かってから2~3年経った頃であろうか。まだ、投薬も始まっておらず体調そのものが不安定であった頃、私は生まれて初めてインフルエンザに罹った。医療機関で働いていた頃は、福利厚生で毎年必ずインフルエンザワクチンを接種しており、それまで一度もインフルエンザに罹ったことはなかったが、その時は医療機関で働いておらず、私もうっかりしていて予防接種を忘れていたのである。

あの時は確か、ひとり暮らしでパートナーもおらず、友人はいたが気安く何かを頼めるような関係の友人はいなかったため、とにかく何もかも一人でしなければなかった。症状が出始めたのは、出勤してしばらくしてからだった。

頭がぼーっとする
咳が出始める
ん?なんだか体調がおかしい?
ただの風邪か?

私は元々、扁桃腺肥大があり、扁桃腺が腫れるとすぐに高熱を出していたので、風邪で咳が出ることや熱が高いことには慣れっこだったが、大事を取って午前中で早退した。帰り道のドラッグストアでスポーツ飲料やゼリー飲料を買い込んでとりあえず、自宅にたどり着きベッドに潜り込む。すると…

襲ってくる悪寒と震え
止まらない咳
少しでも動けば軋む関節

食事はおろか水分を摂ることさえつらくて、ベッドから起き上がることももちろん立って歩くことすらままならない状況で、それでも「生きて」いかなきゃならない(大袈裟だがその時の本人の気持ちはこんな感じだった)と思い、汗ばんだ下着やパジャマを着替え、水分補給し、手元にあった解熱鎮痛剤を飲み、夜が明けるのを待った。

こんな時の夜は、本当に長い。
まだ30分しか経ってない。
まだ1時間しか経ってない。
寒気がぶり返してきた。
解熱鎮痛剤が飲めるまであと1時間。
病院が開くまであと3時間。

寝ているのか起きているのかすら自分でも分からない状況の中、それでも何とか病院に電話をかけ、状況を説明し受診のための準備をする。定期受診なら車を運転して行くが流石にそれはやめてタクシーで病院へ向かう。

あゝ、タクシーのメーターが上がっていく。
お金、足りるかな。

何とか病院にたどり着き、受付を済ませ受診科の受付に行くと看護師さんから「ケンゴさん大丈夫?!」と。待合の椅子に座って看護師さんから問診を受け、とりあえずインフルエンザの検査をすぐしていただくことに。

結果を待つこと30分。

「永遠の30分」(なにかの映画のタイトルではない)のように感じたその30分後「インフルエンザ陽性でした。水分摂れてますか?しんどいですよね?横になって点滴しましょう」という主治医の声が天使、いや神様のように聞こえその後ろからは後光が…射したかの如く、私には救いの言葉であった。

処置室のベットに横になって点滴をしていただいていると、どこからか聞きつけたのか、臨床心理士さんのKさんまで顔を出してくれて「ケンゴさん大変だったね。心配で見にきちゃったわ」と。

少し大げさかもしれないが、体が病んでいるときというのは、とにかく「苦痛から逃れる」ことが大一優先になるのは、きっと皆さんも経験があることだと思う。そんな時にかけられる「優しい言葉」「共感の言葉」「いたわりの言葉」というのは、心深く染み渡り何とも言えない癒やしの効果を与えてくれる。

簡単に言えば「ホッとする」のである。

それは老若男女共通することではないだろうか。
もちろん、他人であれ家族であれ、パートナーであれ友人であれ。


身体の苦痛を除くためにはもちろんそのための処置が必要で、それが根治療になるわけだがその効果を何倍にもしてくれるのがこの「言葉かけ」だと私は思っている。

「言霊」とよく言うが「言葉のもつ力」をあなどってはいけない。
(私は無宗教であるがスピリチュアルなものを真っ向から否定する気もないのであしからず)

2023年7月10日月曜日

私の欠点↷揺れる→迷う→悩む

人生の岐路に立った時、人はストレスを感じる時がある。


私は、元々の性分として(あえてここでは“性格”とは表現しないでおく)、『中途半端が嫌い』『白黒はっきりさせたい』『優柔不断が嫌い』と言う、文字面だけ観ると“キツい”性分の持ち主だ。だから何かを選択する時に「AかB」を早く決めて、早く落ち着きたいと、いつも思っていた。

人はAとBと言う選択肢がある時、次のような条件の時にストレスと感じるときがある。
①AにもBにも同等の利点と欠点があり、ABどちらかを選ばなければならない。
②AにもBにも利点がなく、ただし同等の欠点しかないがどちらかを選ばなければならない。
AにもBにも欠点がなく利点しかないときは、あまりストレスを感じることがなく、どちらかを選択することができるが、①②の場合は、大なり小なりストレスが生じる。

つまり私は、無意識のうちに“選択をする時間”を「ストレスフルな時間」と認識していて、できるだけそれを避けようとしてきていたのだと思う。

AとBの間で揺れている=AとBで迷う=AとBで悩む

という公式が成り立ち、揺れている時間・迷っている時間を極力短時間に、そして意識しないようにしてきていた。

しかしここに大きな落とし穴がある。

つまり「熟考」しないのだ。
いや、本人は熟考したつもりでいるのだ。そして「熟考したつもりでいる」先に待っているのが「決断の失敗」「誤った決断」である。

何度となく、これを繰り返してきた。

一つここで言っておきたいのが「熟考」と言うのは、一人で考えること“ではない”ことである。誰かに相談する、教えを請う、意見を聴く、そういう行為も「熟考」に入るのだと思う。私はそうやって、「ストレスと感じる迷う行為」を避けるがために、熟考もせず決断を急ぎ、結果、「こんなはずではなかった」と後悔する。これを何度となく繰り返してきた。

失敗は成功のもと。
間違いを犯して学習する。
人間はそういう生き物だ。

しかし、私がHIV感染症の治療を始めてから受けた、臨床心理士さん(Kさんとする)のカウンセリングでは、しばしば、これが話題になった。しかも、何度も何度もKさんに「揺れているのもいいんじゃない?」「グレーの何が駄目なの?」「曖昧を楽しみなさい」言われたことか。

私が20代終わりから30代始めにかけての頃である。

Kさんにそのような言葉をもらって「そうですね~」「それもそうだと思います」「やってみます!」と“優等生なふりをしたクライエント”の私は、口先だけでKさんの提案に同意するものの、内心は「そうは言ってもさ…」「嫌なものは嫌なんだよね」と、結局、臨床心理士さんであるKさんの意見や提案“すら”受け入れられなかった。

おそらくKさんは、優等生ぶっている私を見抜いていたと思う。

話を戻そう。
私は、40大半ばにして産業カウンセラーになろうと決心し、講座を受講して試験に合格することができた。そして一念発起し、務めていた病院を辞め、理学療法士という仕事に一区切りをつけ、フリーランスとしてカウンセラーを“生業(なりわい)”とすることに決めた。やはり、この決断に至るまでは相当の「熟考」があった。

Aと言う選択肢は、精神的な不安を抱えながら病院勤務を続ける。組織の中で働く窮屈さはあるがしかし社会的補償はあり、ある意味安心感はある。
Bと言う選択肢は、自分自身で仕事のペースを決められ、人間関係の煩わしさから開放されるフリーランスという働き方。精神的な抑圧や決められた枠組みで働かなくてもよい反面、金銭的な不安定さや将来への備えと言った不安要素はある。

実は、この決断をするにあたり、それまでつとめていた病院を休職していた期間があり、その頃より「自分自身が“生きやすい方法は何か”」「どんな仕事の仕方が自分にあっているのか」「なにより私にとって“幸せに生きる方法”とはなにか」を考える期間が、十二分にあった。
中にはTwitterのfollowerさんの仕事の仕方も参考にさせてもらった。
親しい友人にも相談した。
姉にも相談した。
産業カウンセラー協会の方にも話を聞いてもらった。

AかBか…AかBか…AかBか…AかBか…

そして私は、この道を選んだ。


臨床心理士のKさんの助言が、20年の年月を経て、やっと私の心に響いている。
(Kさんありがとう)


※余談ではあるが、このKさん、HIV診療に長く携わっておりそして私達HIV陽性者の心を癒やすことに情熱を注がれていた。10年近く前に結婚され旦那様の住む遠くの国へ引っ越され、もうやり取りもなく、どのような暮らしをされているか知る由もないが、ご健在であれば50代なかばくらいであろうか。元気にされていることを心より願う。

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