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オンラインカウンセリング「勇者の部屋」の産業カウンセラー勝水のブログです。セクシャルマイノリティ(ゲイ)・身体障害者(HIV陽性者)・精神障害者(双極症)の当事者としての目線と、理学療法士・社会福祉士・産業カウンセラーとしての目線で、今まで経験したことや普段考えていることなど、様々な情報発信をしております。

2023年12月30日土曜日

2023年(令和5年)大変お世話になりました。

 2023年も残すところわずかとなりました。

ボクにとっては激動の一年間でありまして(笑)。この一年を通してボクは自分の進むべき道、進みたい道を模索しながら、歩んできました。

その一年を少しだけ振り返りたいと思います。


一月
まだ、前職の医療機関で働いていました。前月の十二月に「コロナ後遺症」と言うことで一ヶ月休職しており、新年とともに復職でした。昨年は一年を通じて、メンタル不調が原因で休職と復職を繰り返しており、正直、この復職にも、全く自信がありませんでした。

仕事は量・質ともに減らしていただいたのですが、それはありがたくもあり寂しくもあり。どんどん、仕事に対するやる気は失せていくのがわかりました。

そんな中、産業カウンセラーの筆記試験が下旬にあり、そちらの勉強も並行して行っていました。


二月
メンタル絶不調(笑)その頃はもう、職場にボクの居場所はなくて、話しかけてくれる同僚も殆どおらず、職場でのボクの評価は底をついたと思いました。そう認識したときから、この職場にはもう居たくないしボクは必要とされていないと思った瞬間から、一気にメンタルダウンしました。それがきっかけで中旬から休職しました。


三月
休職中に、元の職場に戻ることはボクにとっても同僚たちにとっても職場としても、なんの利点もない、と考え休職中に退職届を出し、前職を退職しました。ただ、現在のオンラインカウンセリングを個人事業主としてやっていこう、と言う思いは、二月に産業カウンセラーの筆記試験合格の通知を受け取っていたので、この頃からその構想が、現実に近づいていきました。


四月
とにかくお金がない!退職金もすぐ入らない、休職中の休職手当もすぐ入らない、しかも新型コロナに感染したことやその後の後遺症での休職が、労災扱いになるとのことで、手続きに時間がかかり、本当にお金がなかった。

ちょうど、失業保険の手続きのために訪れたハローワークにPSWさんの相談窓口があったため、すぐにそちらに相談したところ、名古屋市の公的機関二箇所を紹介してもらいました。

ひとつは障害者の就労や生活全般をサポートしてくれるところ、もう一つは障害者に限らず生活全般に困っている方への生活をサポートしてくれるところ。後者のサポートセンターでは、フードバンクサービスを利用させて頂き、2~3週間分の食料を頂きました。また、名古屋市の制度を紹介して頂き、3ヶ月分の家賃補助を受ける手続きもしました。

障害者就労支援センターでは、障害年金の相談や、ボクがやりたいと思っているオンラインカウンセリングの仕事へのアドバイス、副職へのアドバイスなどして頂きました。


五月
失業保険も給付され、また、滞っていた休職手当や労災金がもらえるようになり、少しずつ生活が立ち直っていきました。副業探しも本格的に始め、また、起業に関しても少しずつ自分なりに勉強を始めました。

また、前職中に在職中にボクは、多額の借金を作ってしまいました。それは双極性障害の影響もあり、金銭感覚が麻痺してしまっていたこともあります。そのため弁護士さんを紹介していただいて、「個人再生」の手続きを始めました。

この頃、ぷれいす東京のオンラインPGMを知ることができ、そこに参加することでボクは少しずつ自分の居場所を、見つけられるようになり、精神的にも安定してきました。


六月
副業は何社か受けたのですが全て不採用。不採用の連絡が来るたびに「自分の人格まで否定されているような感覚」に陥ることもあり、少し波もありました。また、ネットで起業するということで、愛知県が個人で起業する人向けへの相談事業を行っている場所へ行き、アドバイスを受けようとお話を聞いたのですが、ボクが過去に起こした不祥事がまだ尾を引きずっていることが分かり、酷く落ち込んでしまいました。


七月
ネット上に残っていたボクの「デジタルタトゥー」に対して対処し、改めてオンラインカウンセリングの事業について具体性を持って活動を始めました。本当は、副業が決まるまで待とうと思っていたのですが、副業が決まるのがいつになるのか、見通しが立たなかったため、先に自分の事業を開始しました。この「勇者の部屋」をプレ・オープンしたのもこの頃です。そして、ロゴの作成を依頼したり、プロフィール用写真撮影の段取りをしたり、というのがこの頃です。

そしてサイトも僕自身の手作りで全て始めました。


八月
オンラインカウンセリングをプレ・オープンし、五名の方と関わらせていただくことが出来ました。これはボクにとって、とてもとても大きな収穫であり、自信へと繋がりました。また、引き続き副職探しもしていたのですが、全く上手く行きませんでした。でも、自分がやりたいと心から思っていることが、何とかやって行けそうかも、と思ううちに、心も安定し、何事も前向きに取り組めるようになったのもこの頃です。


九月
満を持して「勇者の部屋」グランドオープンしました。ボクは心理職としての横のつながりを持っていませんでしたし、ビジネスとして成り立たせるための集客という概念が、ほとんどなく、もう勢いで始めてしまったところもあります(笑)しかし不思議と「何とかなる」と思っていました。その一つが、自分自信が過去にNGOの立ち上げや運営に携わった過去があり、なんとなくその経験が活かされそうだと思っていたからです。

並行して、JaNP+からのスピーカー派遣の依頼もあり、そちらのお仕事もさせてもらい、静岡まで講演のために足を運びました。数年ぶりのスピーカー活動であり珍しく緊張もしておりましたが「今回も引き受けて本当に良かった」と思える経験をさせて頂きました。


十月
グランドオープン後、有料サービスを開始し初めてのクライエントからの申込がありました。嬉しかったです。本当に。反面「心理カウンセリングをして対価を頂く」と言う事が初めての経験であったため、とても緊張もしましたし、何より、どなたのセッションでも自分への気付きが得られ、心豊かに成長していける、そんな感覚になっていました。

また、JaNP+のスピーカー派遣の依頼も受け、初めて厚生労働省という国の機関でお話をさせて頂くという、貴重な体験をさせて頂きました。いつも以上に緊張した覚えがありますが、とにかく本当によい経験になりました(後日、ご報告致します)。



十一月
プライベートでは、障害年金の申請を始めました。昨年九月に初回の申請をしたのですが、今回は、再申請するということで1年間待ち、社労士の先生のご指導のもと、精神科の主治医と連絡を取り合い、必要なサービスを利用しながら書類を作成していきました。

一方で、オンラインカウンセリングには、コンスタントにご利用して頂ける方がいてくださり、想定以上の経験をさせて頂きました。時には心悩ませることもあり、自分の力不足や不甲斐なさを感じることもありましたが、もっと経験を積んでもっと高みを目指したい!とも思える月でした。

また『RED RIBBON LIVE NAGOYA 2023』でHIV陽性者の当事者として登壇させて頂き、非常に短い時間でしたが、ボクの思いを伝えることが出来たと同時に、名古屋市の市の職員の方々と面識を持つことができた、貴重な機会となりました。




十二月
「パラちゃんねるカフェ」にてコラムライターとして出発しました。この一年、HIV陽性者であることを開示し活動を続ける中で、「偏見や差別は終わっていない」と肌身で感じる機会がたくさんあり、このコラムライターと言う仕事を通じて、HIV感染症だけでなく精神障害やセクシャルマイノリティと言う『マイノリティ要素』に対する偏見差別の解消に、ボクなりになにかできれば、ととても感じた1ヶ月でした。

それは『エイズ文化フォーラム in 名古屋 2023』に参加させて頂いた事も大きく影響しています。




もちろん引き続き、オンラインカウンセリングも行わせて頂き、クライエント様の問題が解決し終結を迎えても『勝水さんに定期的に話を聞いて欲しい』とご希望される方も何名かいらっしゃる事が、とてもありがたいし嬉しい思いでいます。

一方で『メンタル不調を抱えるゲイ・バイセクシャル男性のためのオンラインPGM』『メンタル不調を抱える対人援助職者・感情労働者のためのオンラインPGM』を企画し、始動し始めたところです。これは来年への課題として引き続き注力したいと思っています。



何事もそうですが『0から1にする力』というのは、非常に大変です。しかし幸か不幸かボクは『0から0.3くらいにする』ことから徐々に出力を上げて今は『0から0.6くらい』にやっとなってきたところかな~と思っていて、ある意味、無理のない範囲でやってこれました。来年は『0を1』にできるよう、残りの0.4をできるだけ早く埋めていきたいな~と、個人的には思っています。

ものすごく駆け足で2023年を振り返りましたが、ボクは要所要所で言葉にしてきました、「今のボクは皆さんの支援の元、成り立っています」と。本当に関わってくださった全ての方に感謝しかありません。どの方お一人欠けても今ボクは、ここに存在していなかったと思います。たくさんの『縁』で繋がりその繋がりが『線』になり活動を広げていくことで『面』へと発展し、もう少しで『立体』へと形作られる、一歩手前まで来ています。

今後、ボク自身が精進し、また皆様からのご支援を賜ることで『立体』が『多面体』になれたらとても素晴らしい何かが生まれると思っております。



今年一年、本当にありがとうございました。

ありがとう以上の感謝の言葉を皆様に贈りたいと思います。

2023年12月26日火曜日

緊急提言!市販薬をオーバードーズする若者の報道に思う(自死に関する記述あり!閲覧注意!)

最近、テレビのニュースやワイドショー、週刊誌を賑やかしている『市販薬をオーバードーズ(以下、OD)する若者』に関する報道を見聞きし、どうしても看過できないと思い筆を執りました。



つい数日前での報道では、小学生も救急車で搬送されたとか…

この問題の本質はどこにあるだろうか?ボクなりに様々な視点から考察してみた。


①一般的な依存症と一線を引く必要がある。

様々な見解があり、意見の分かれるところかもしれないけど、一般的に『(物質による)依存症』と言うと、違法薬物・アルコール・タバコ・処方薬などが挙げられます。様々な〝依存物質〟を体内に入れ、その薬理効果を体験することになります。

その効果は、精神的依存や身体的依存として表現されますが、例えば普段では得られない快感を味わったり、気分がスッキリしたり、逆に感覚を麻痺させたり、思考を鈍麻させたりする体験をすると思います。

また、その薬理効果が切れた時の反動を、精神的や身体的に味わうとも言われ、それから逃れるために再び摂取する、それを繰り返していくうちにその物質を摂取しなければ生活が成り立たなくなるほどに依存してしまう、と言うものです。

これは依存症者全員に当てはまるかどうかは分かりませんが『死を選ぶためにその手段をとる』と言うよりも『死ぬほどつらいけど死にたいわけじゃない。だけど現実の苦しみを少しでも和らげたい』そんな思いで、依存物質を体内に入れるのではないのかな~と思っているんです。

でも、この市販薬をODする人たちは、『自ら死を選ぼうとしている』ように思えて仕方がないんです。


②市販薬は誰でも手軽に手に入る

『自ら死を選ぶ方法』というのは、日常的に転がっています。

刃物一つあれば良い。
ロープ一つあれば良い。
高いところへ登れば良い。

非常に簡単にその方法を手に入れることが出来ますが、人はできるだけ苦痛を味わいたくない、と言うわがままな生き物です。そのため『より苦しくない方法』を選びがちなのでは、と個人的には思っています。

先日、名古屋大学で開催された「こころの絆創膏セミナー 2023」で基調講演されたピエール・ヴィダイエ先生のお話の中で、「日本では練炭自殺の報道があってから一気に自死者が増えた」と言う、歴史的なお話を聞きました。

ボク自身は体験したことがないので分からないのですが、練炭自殺と言うのはあまり苦しまない方法だと聞きます。また、今はなくなりましたが、睡眠薬を多量に摂取する服毒自殺も、〝眠るように〟と聞いたことがあります。

何が言いたいかと言うと、今の日本ではODに必要な市販薬というのはかなり簡単に手に入り、それほど高価なものではありません。もちろんどれくらいの量を摂取するかにもよりますが。そして、アルコールと違って購入時に年齢制限も関係ない。違法薬物と違って街のいたるところで売っている。そう言う市販薬を使い『一時的にも楽になれる』なら、と思うとその手段を試してみたくなるのは、ある意味、仕方のないことなのかもしれません。


③だからこそODの裏側に隠されたバックグラウンドに目を向けるべき

以下はNHKの公式サイトから引っ張ってきた情報です。

■ODする年齢と性差
平均年齢は25.8歳で、男女別では女性が79.5%と8割近くを占め、男性が20.5%でした。
■職業
職業別では、学生が33.6%と最も多く、次いでフルタイムで働く人が26.2%、アルバイト・パートが16.4%などとなっていて、7割あまりが家族と同居していました。

これはボクの印象なのですが、〝リストカット〟する人や〝食べ吐き〟する人と同じ様な傾向にあると思います。


④報道上の注意。ウェルテル効果を考えて!

ウェルテル効果とは…
マスメディアの報道に影響されて自殺が増える事象を指します。この言葉は、1774年にドイツの文豪ゲーテが発表した代表作「若きウェルテルの悩み」に由来しています。同書の出版後、主人公をまねて同様の方法で自殺する若者が相次いだことに由来し、報道に影響されて自殺者が増える現象を指します。





フロイトは『デストルドー』と言う概念を提唱しています。

これは、精神分析学用語で、死へ向かおうとする欲動のことです。フロイトが1920年代に導入した概念で、死の神であるタナトスの神話に由来する、と言われています。

死というのは、人にとって、ある種の魅惑的な側面を持っていると思います。簡単に言えば「死ねば楽になれる」とか「死ねば何も考えずに済む」など、誰でもその様な感覚というか思想を大なり小なり持っていると思います。

その引き金を引くのは、実はほんの些細なことであったりする人もいますし、そうでない人もいます。けれど「自ら死を選ぶ選択」と言うのは、誰しもが知っている方法で、人によってはその選択肢を選ぶことは『非常に簡単だ』と思っている人もいます。

そこで注意していただきたいのが『ウェルテル効果に配慮した報道の仕方』です。
例えば、『どんなモノを』『どれくらいの量』『どこで手に入れ』『どの様な場所で』など、具体的な自死の方法を明確にして報道しない、と言うことと、自死を称賛するような、また美徳化するような価値観を付け加えることを、絶対にしてほしくないのです。


『自ら死を選ぶ選択』というのは悲劇しか産みません。
「死にたい」と思えるほど苦しい気持ちを抑える必要はありませんし、むしろそれは適切な支援者と共有すべきことですが、必ず誰かが手を差し伸べてくれると信じてほしいのです。



あなたの身代わりにはなれませんが、あなたに寄り添うことはできます。





2023年12月22日金曜日

そろそろ本当の話しましょう(精神疾患)その③

 「そろそろ本当の話しましょう(精神疾患)その②」からの続きです。




ボクは大学院博士課程に進学しました。そしてあまり納得していない(笑)研究内容で実験も開始しました。

博士課程での実験では、細胞培養を行う実験だったのですが、もちろんそんな実験、したこともないし、しているところを間近で見たこともないし。大学院のキャンパスは、もともとボクが在学していた医療短大のキャンパスにあって、しかも校舎も同じ建物。けれど、設備や部屋の割り振りも変わっていたし、医療短大時代には細胞培養なんてやる、教授陣もおらへんかったからね~。

とにかく、初めてづくしの大学院生活。不安『しか』ありませんでした(笑)。


職場は職場で、短大として稼働し始めました。

前回のblogでは「3年生の学年担当をしていた」と言うところをお話しましたが、今度はそのまま「1年生の学年担当」になりました(笑)。それは色々な大人な事情があるのですが、前回もお伝えした通り、1年生は短大生なのですが2・3年生は専門学生なんです。で、ボクは『短大の専任教員』で『専門学校の非常勤講師』と言う扱いになってるんですわ。その開学の時。なので、必然的に1年生担当に。

1年生って本当に大変(笑)

入学式があって、その後のオリエンテーション。履修登録の仕方や学内での生活、様々な施設や設備の使い方から、図書館の案内、試験や追試、休校案内や補講案内。とにかく、学校生活のありとあらゆる説明を、学年担当が行うという…もちろん、事務の人も担当する部分もあるのですが、基本、学年担当の仕事。

「学生のしおり」的なものや「履修のしおり」的なものはありますが、「は~い。これ全部読んでおいて、コレに記入して〇〇日までに提出ね~」ではいかんのんですわ。1から10まで説明して、質問があれば答え。

そして健康診断や、外部講師への挨拶(一年生は一般教養や基礎科目が多いので必然的に外部講師の講義が多いんです)。


そうそう、この仕事に就いて初めて職場から『名刺を支給』されましてん。ちょっと嬉しかったな~。臨床現場で働いている時って、あまり名刺交換する場はなかったんですけど、時々、外部講師に呼ばれたり学術集会(学会)に参加するとそういう場があって、手製の(自宅でパソコンで作るヤツ)名刺を配ってた。


それでですね、1年生は通年、忙しいんです。ピークは学期初めと終わりですが。

ただ、それに加えて3年生は臨床実習に出ています。何をするかと言うと、各教員に実習先への電話での挨拶と実習生の学習フォロー、実習地訪問もしなくちゃいけないんです。実習生を直接、指導していただいている臨床の理学療法士の先生とコンタクトを取って、ある程度の信頼関係を築いておかないと、学生に問題があった時に協業してフォローしなければなりません。それを考えるととても大切なやり取りなのですが、いかんせん気を使う(笑)。こちら(学校サイド)としては、実習生を『受け入れてもらっている』と言う立場。先方は『実習生を受け入れて指導してあげている』立場。こういう構図が成り立っている以上、どうしてもボクらは低頭でいくしかありません。

なかなか、対等な立場にならないな~というのは、ボクが臨床に戻ってからも感じていましたし、ボクは問題のある学生が実習にきて指導することになった時には、積極的に学校の先生と連絡を取り合っていましたが…


話を戻します。

そんなふうにドタバタと、専門学校の教員として入職し4年が過ぎた頃でしょうか。仕事そのものもそうでしたし、大学院での実験も思うようにデータが取れず、そのため在学中に論文を仕上げ学位を取れる見込みがなかったため留年を決意し、プライベートでも当時お付き合いしていた人と遠距離恋愛になったことで不仲になり、どんどん糸が絡み合うようにボクの心を蝕み始めました。


そんなボクがメンタルダウンを経験する一番のきっかけになった出来事があります。

それは短期大学の一期生が3年生に進級し臨床実習へ行っている時の事でした。
ある学生が行っていた実習先でのことです。その学生の実習先である医療機関は「実習指導者が厳しい」ことで有名な実習先でした。ただ、以前にその医療機関で実習を行った学生に話を聞くと、それは『厳しい』のではなく『理不尽』であるとの事でした。

実習先で学生が何に対して理不尽さを感じることが多いかと言うと
・指導者がその日の気分で指導内容にムラがある。
・直接指導してくれる指導者の意見と、他の職員とで意見が食い違い、学生が板挟み。
・実習に関係ない業務の手伝いをさせる。
・就業後、何時間も拘束して指導なのか説教なのか分からない時間を過ごさせる。
そんなところでしょうか。

ボクは実習地訪問をする際、必ず初めに実習指導者と2者で面談をして、実習の進み具合や学生の良いところ悪いところなどをまずお聞きし、その後、実習生と2者で面談をし事実確認や、勉強の進め方や実習態度へのアドバイスなどをし、最後に指導者も交え3者で面談をし申し合わせた上で終わり、とする流れで行っていました。


その実習先に訪問する際、ある程度覚悟はしていました。また、その医療機関で実習をしている学生は、学力としてはそこそこあり、態度面なども良好でそれほど心配していなかったのですが、一応〝鬼門〟的な実習地だったので、それなりに〝構えて〟は行きました。

最初の、指導者との面談。
案の定、とてもとても〝重箱の隅をつつくような〟細かい、しかもそれを実習生に求めるのか?と思ってしまうようなレベルの高いモノを要求しているのが分かりました。一通り、お話をお伺いして、学生本人と話をさせてもらうと、やはり色々と苦慮しているようでした。

少し涙目になって、学生自身、努力している気持ちも伝わりましたし、提出物などを見ても問題ないように思いました。また、学生からは「先生によって言うことが違うから誰の言う事を聞いたら良いのかわからない。A先生の言う通りにしたらB先生には叱られるし、B先生の言う事を聞いたらA先生には怒られるし…」

正直、ボクはこの学生をどう支援すれば良いのか、指導者にどう伝えれば良いのか分かりませんでした。

いや、分かっていたんです。

学生に対しては「ボクから先生方にキチンと説明してお願いする」と伝え、実習指導者に「学生に求めるレベルが高すぎる」「指導者によって指導内容が違うから学生が困惑している」そういう事を伝えるべきだったのです。

ボクは、それが出来ませんでした。


じゃあ、ボクはどうしたか。
学生には「頑張って先生に付いて行こう!」と。
指導者には「今までどおりお願いします」と。

ボクはこの事実を、誰にも相談しませんでした。
ハッキリ言って、自分で取った行動に対して、ボクはとてもとても大きな後悔をしていました。そしてボクがどんな行動を取るべきだったのか、そう言う相談をしなかった事に対しても、です。


幸か不幸か、その学生は何とかその医療機関での実習を乗り切ってくれたのですが、ボクはその学生に対して、本当に申し訳ないと言う気持ちと、毅然とした態度が取れなかった自分に対して、腹が立つやら情けないやら、とにかく自分を責め続けました。



そんな時でしょうか。

ある朝、目覚めた時に、何故かボクは泣いていました。後から後から涙が出てきて止まりませんでした。

そしてなぜかこう思ったのです。


「もう、終わりだ」

「消えてなくなりたい」

「ボクは価値のない人間だ」

「怖い…生きていくのが怖い」


出勤しなければならない時間になっても、何一つ準備できずベッドの中でうずくまって、泣きながら、頭の中はグルグルと同じ様な事ばかり考えていました。

その一方で「あ、コレが鬱の始まりなんだ」と、どこか冷静にボクを見ている自分もいました。


少し、時間を空けてとにかく上司に、抑うつ状態だと思うのでしばらく休みますと、泣きながら手短に電話し、ひとまず、報告だけしました。



ここからボクの長い長い、精神疾患・精神障害とのモノガタリが始まりました。


2023年12月20日水曜日

そろそろ本当の話しましょう(精神疾患)その②

 「そろそろ本当の話しましょう(精神疾患)その①」からの続きです。



ボクが専門学校に入職して2年目。
学年担当していたクラスが3年生に進級すると同時に、ボクも学年担当3年生になりました。

それでね、3年生はもう、臨床実習と国家試験対策だけの学年だったの。だから、3年生に進級する時は、いわゆる「進級試験」っていのがあるん。これがまた、大変で(笑)

進級試験は筆記試験と実技試験があるんやけど、筆記試験は試験をまた作らなあかんし採点せなあかん。実技試験は教員が模擬患者をして、学生が初期対応と評価項目の抽出と簡単な検査測定をしてもらうんやけど、まーー手がかかる(笑)。


ちなみにですね、『〇〇実習』と名の付く学内実習には、必ずレポート課題がありましてん。もちろんそのレポートを40人分、全て読んで評価をつけなあかんのんですわ。ボクは『〇〇実習』と名の付くレポート課題のある講義を2つ持っていたので、そこそこの仕事量でした。

定期試験に関しても、筆記試験の採点というのは「5択問題」「2択問題」ならなんも大変なことはないんでが「〇〇について述べよ」的ないわゆる『記述問題』という試験問題の採点は、本当に大変。〝最低限、この事は書いてくれてないと〟みたいな基準は自分の中にあるんだけど、ソレ以外は他の学生の出来具合とバランスを見ながら、みたいな「相対評価」にしないと、どーにもこーにも。


話を戻します(笑)

進級試験と並行して臨床実習地の割り振り。

学生一人ひとりの居住地と実習地をニラメッコしながら、パズルを当てはめていくようにあーでもないこーでもないと、頭を悩ます。だって、40人おるんよ!しかも臨床実習、3期あるからそれぞれ3箇所ずつ。通学(通勤)方法とか時間とか色々考慮しながら、だから。


そしてそしてもう一つ、学校として大きな動きがあって。

それは専門学校から短期大学(医療短大)へ移行すると言う決定がなされたんよね。

どういうことかと言うと、その時ボクが学年担当していた学生たちが卒業すると同時に、本来なら専門学生の1年生が入学してくるのですが、短期大学として開校すると、その子達は短期大学の1年生(1期生)として入学してくることになるんです。

ですので、色々とシステム的なものとか物理的な設備だとかはもちろん、ボクら教員の実績だとかそんなものも必要だったり、てんやわんや。

もちろん、事務的な事とかは上司や事務の方々が手を尽くされていたけれど、委員会を設置したり学内の工事が入ったり。

「過渡期ってこういうんだなあ~」なんて思ってたけど、正直、少し学生も可愛そうだなって思った。それは特に、専門学生の最後の入学生たち。専門学生の最後の入学生が2年生に進級した時の1年生というのは、短期大学の1年生なんだよ。つまり専門学生の2年性は留年が出来ない。それはもう、その専門学校は『無いことになっている』から。

あーややこし~

専門学校と短期大学が並行して存在している期間が2年あるってこと。

それはそれは、色んな意味で労力を要することだったんだよ。詳しくは書かんけど(笑)


そしてボクの博士課程への進学。

大学院の学生をした経験のある方なら分かると思うんだけど、基本、大学院って研究するところなんよね。講義を受けたり実習をしたりっていうのは、一部あるけれど、研究しそれを論文にまとめる。ボクの進学した大学院博士課程では、英語の医学雑誌に論文を投稿してそれがアクセプト(採用)されないと、学内の論文審査にも回してくれない、とても厳しい大学院だったから(笑)もう、自信なんでこれっぽっちもなかった。

ほんと。これっぽっちも。

じゃあ、なんで博士課程に進学したかっって?それは、短期大学の教員をするなら、もっと言うなら、これから先『医学系の専門課程の教員をしていくのであれば必須条件』だったんですよ。

そしてもう一つ、自信がなかったポイント。

論文にする研究内容に、あまり納得がいっていなかった(笑)。もっと言うと、ボクがやりたいと思っていた実験研究ではない方向性で研究することになった。

指導してくださる教官は、修士課程でお世話になった教官と同じ指導教官だったんだけど、ボクの提案した実験研究のアイディアでは、英語医学雑誌にアクセプトされないだろう、と言う見解だったんだよね。

いや、そこでボクがゴリ押しすればよかったんだよ。今思えば。
でも、それができないのがボクの欠点で…


そんなこんなで、ボクはどんどん色んなものを抱え込んで、かつ、何となく色んなことが腑に落ちないまま過ごすことが多くなっていたのが、この頃からかな~と思っております。

これは言い訳ではなくて、こーゆーのって『誰かが』とか『誰の』とか特定の人とか出来事だけが悪者になるのではなくて、色々な事が重なって、事態は良くない方向へ向かっていくんだと思う。



それにボクは双極性障害。

うつ病と違って、高ストレス負荷状態は発症のきっかけにはなると思うけど、根本的な原因ではないと言われているからさ。

この頃はまだ、ボクは大丈夫だった(笑)メンタルは、ね。

次回、『そろそろ本当の話しましょう(精神疾患)その③』では、いよいよメンタルダウンの経験についてお伝えできればと思っています。





2023年12月19日火曜日

そろそろ本当の話しましょう(精神疾患)その①

 先日、ボクのblog「理学療法士であったと言うトラウマ(ボクの場合)」で少しお伝えしましたが、ボクが理学療法士として働く中で、メンタルダウンを繰り返し、それが原因で一種の〝トラウマ〟になってしまったことはお伝えしました。

HIV感染症については、「そろそろ本当の話をしましょう(HIV)」として全6シリーズで、感染初期から療養生活の始まりについてお伝えしましたので、同じように、ボクのマイノリティ要素の一つである「精神障害者」の部分を開示したいと思います。




HIV陽性告知を受けてから、時々ではあったのですが、入眠困難(寝付きが悪い)事があったので、HIV診療の主治医に相談したところ、睡眠導入剤を処方していただき、週に2~3回程度、そのお薬を使っていました。

2005年春、ボクは念願であった『理学療法士養成校(専門学校)の教員』になることができました。

実はその専門学校には、ボクも以前から面識のあった2学年上の医療短大時代の先輩が勤務していたこともあり、また、ボクの医療短大時代の恩師が非常勤講師として勤務していた関係もあって、すぐにその専門学校で教鞭をとることを決め、採用されました。

入職するおおよそ半年前なので2004年の秋頃の話です。

早速、担当科目を割り振られ、8科目担当することになりました。そのうち講義が3科目、学内実習が3科目あり(残り2つは卒業研究指導や臨床実習指導)、もちろんその全ての科目が4月から一斉にスタートするわけではないので、少しずつ準備すればよいのですが、基本的に4月に学生に配布される『履修要項』には、講義の進め方やいつどんな内容の講義をするのか、また実習に関しても同様な記載が必要でしたので、ある程度の準備は4月までに間に合うように準備する必要がありました。


担当科目が決まり、教科書の選定も行った上でボクは、大忙しで講義資料の作成に取り掛かりました。もちろん当時はまだ、臨床で働いていましたし、大学院にも通学し自分の実験研究も行っていて、ま~~~~~~~~~~~目まぐるしい(笑)。

平日は、仕事と大学院・研究で、週末は講義資料の作成に時間を費やしていました。

本当に自分の時間はなかったのですが、とても充実していました。

大学院の講義は大変、興味深いものばかりでしたし、実験もその成果が出ると喜ばしい。講義資料作成も、どうやったら学生さんたちに分かりやすく、かつ楽しく勉強してもらえるだろうか、どんな工夫や仕掛けをすれば、食いついてくれるか、もちろん講義内容も大事ですが、ボクはどちらかと言うと前者の事にとてもエネルギーを費やしていました。

その丁度1年前にはボクはHIV陽性告知を受けていましたが、それがある意味原動力となり、念願の理学療法士養成校の教員になれる!そう思えば、全てが楽しく思えていました。


2005年、春。

本当に、本当に心機一転。転居もし気持ちも新たに専門学校の教員としてスタートしたボク。〝対、患者様〟から〝対、学生〟になったわけです。

ボクが入職した専門学校は、理学療法学科と作業療法学科の2学科だけの、全3学年の専門学校で、各学科とも1学年40名定員でした。

ボクが学生だった医療短大と言うのは、一学年20名だったので、正直、少したじろいだことを覚えています。そして何と、入職してすぐ『2年生の学年担当』を仰せつかりまして(笑)。自分の講義や大学院の講義・実験だけでもまーまーの仕事量だったのに加えて『学年担当』!!

これは後から分かったことなのですが、2年生が一番、学年担当としての仕事は少なく精神的負担も少ない学年でした。と言うのも、学内の講義や実習のみで、学外とのやり取りや特別な行事ごともコレと言ってなかったのですが…

教員の仕事は、講義だけしていれば良い、と言う時代ではなく、学生の生活指導や学習指導も教員が行っていたため、ボクは2年生全員の生活状況や学習状況を把握しなければならず、しかもその2年生が1年生だった頃の様子などは全くわからない状況で、アタフタアタフタ(笑)。

上司からは「学期初めと終わりに一人ずつ面談して欲しい」との指示があったので、学生の時間割や自分の講義の合間を縫って、一人ひとりと面談をしました。今風で言うと〝1 on 1〟ですよ。しかも40名強と。

ボク自身が医療短大の学生時代、そのようなことは一度もなかったので、かなり驚きでした。





それでもボクは、学生一人ひとりとちゃんと向き合いたいと思っていましたので、「学生の困った」にはそれなりに対応していた、と思います(笑)。まあ、初年度ですし、力配分も分からず、全てに全力を注いでいたのは事実でした。

けれど、楽しかった。

誰かに何かを教える、っていう事はそれだけ自分も勉強しなきゃいけないことだし、臨床で働いていたときとは違って、自分が知りたいと思ったことに対して、時間を惜しみなく使える。それがとても楽しかった(笑)

そろそろ本当の話しをしましょう(HIV)その⑤」でお伝えした通り、教員になって1年目に、大阪での長期講習会に参加しHIV治療に関しては、いよいよ投薬が始まって、副作用に悩まされたり帯状発疹になったりと、体調的にはあまり良くなかった。けれど、臨床で働いているときよりも、比較的時間に融通がきいたので、何とかやってこれました。


2年生が3年生に進級すると同時に、ボクは博士課程への進学が決まり、これがまた、さらに大変な時期を迎えるわけです。



それについては「そろそろ本当の話しましょう(精神疾患)その②」でお伝えします。







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 2024年11月28日(木)~30日(土)にかけ、東京において開催された『 第38回日本エイズ学会 』の『POSITIVE TALK 2024』にて、HIV陽性者の当事者としてスピーチをしてきました。まずは、その発表原稿の全文を、こちらでご紹介させて頂きます。 なお、読みやすい...