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オンラインカウンセリング「勇者の部屋」の産業カウンセラー勝水のブログです。セクシャルマイノリティ(ゲイ)・身体障害者(HIV陽性者)・精神障害者(双極症)の当事者としての目線と、理学療法士・社会福祉士・産業カウンセラーとしての目線で、今まで経験したことや普段考えていることなど、様々な情報発信をしております。

2024年10月8日火曜日

HIV陽性者に対する偏見・差別はなぜ起こる?その③【社会福祉学的側面】(リライト版)

 HIV陽性者に対する偏見・差別はなぜ起こる?の第3弾です。

前回は、どちらかと言うと【医学的側面】からお話をしました。今回は、セクシャリティや障害者に関する【社会福祉学的側面】からお話をしたいと思います。




1.HIV陽性者の多くはGBMSMであるということ

GBMSMと言う言葉はあまり聞き馴染みが無いと思います。GBMSM(gay・bisexual・and other men who have sex with men)ザックリと直訳すると「男性とセックスする男性」と言う意味になります。以前は「ゲイ」「バイセクシャル」と言う『性的指向』でHIV感染症やエイズの事を語るのが一般的でしたが、例えばセックスワーカーの中には“自身は男性で異性愛者であるけれど男性とセックスする機会のある人”も一つのカテゴリーにしたほうが良いと言う意味合いから、『GBMSM』と言う言葉が生まれました。


上の図は厚生労働省が発表した資料から引用しています。両方のグラフとも「一年間の新規患者数」を示していています。両者ともに言えるのは「性交渉による感染経路として多いのは同性間である」と言うことです。実はこの事実というのは、日本にHIV感染症が広まりつつある頃から言われていることで、ボクの記憶が正しければ「HIVは普通の生活をしていれば感染する病気ではありません」の様な報道や啓発がなされていたと思います。そしてその「裏メッセージ」として、実は米国では『男性同性愛者間で感染拡大している奇病』と言うような表現の仕方もされていました。

今、このような報道のされ方をしていた、と言う事を振り返ってみると、なんだか「男性同士がセックスすることは普通のことではない」と言っているフシがあると思いませんか?!(腹立たしい!!)

ただ事実、日本でも男性同性間での感染に広がりがあり、GBMSM(当時のゲイ・バイセクシャル男性)が『ハイリスクグループ』(感染リスクの高い集団)として認識され対策が講じられるようになりました。

もしHIV陽性者が自身のHIVステータス(HIVが陽性か陰性か)を開示した時(広くその事実を事実として公表すること)、開示された相手は無意識のうちに「この人はセクシャルマイノリティだろう」と言う判断をしてしまう可能性が非常に高い状況です。

つまり、もしHIV陽性者がご自身の健康状態を伝える時に、意識しないところで相手に自分のセクシャリティまで伝えてしまう可能性が高く、それがさらに偏見や差別の原因にもなりうる、と言うことです。


2.HIV感染症は「免疫機能障害」と言う身体障害者であるということ

現在の日本では、HIV感染症またはAIDSという確定診断がなされ、ある程度病気が進行してきた段階で「身体障害者(免疫機能障害)」として行政に申請が出来ます。身体障害者として認定されると、HIV感染症に対する治療費(薬剤費)が公費で負担してもらえる、と言う利点があります。抗HIV薬と言うのは非常に高額な薬剤であるため、健康保険を利用しても自己負担額が5~8万円/月と非常に高額になります。そのため、HIV感染症を治療するためには身体障害者手帳の取得は不可欠となります。

さて、ここで問題になるのはHIV陽性者は「身体障害者」と言うもう一つのカテゴリーに属することになります。

免疫機能障害と言うのは、見た目では分からない障害です。つまり、自分自身から「障害者です」と開示しなければ誰も分かりません。しかし身体障害者手帳を持っていて、障害者であることは事実です。


身体障害者と言うくくりでお話をさせていただくと、日本の身体障害者に対する偏見や差別というのは根強いものがあります。日本の障害者の福祉に関する歴史を紐解くと

1947年:児童福祉法
1949年:身体障害者福祉法
1951年:社会福祉事業法
1960年:精神薄弱者福祉法
1970年:心身障害者対策基本法
1993年:障害者基本法


日本が障害者福祉に本格的に乗り出したのは第二次大戦後からなのです。戦前の日本においては、身体障害者に対しては民間の篤志家、宗教家、社会事業者などによって行われていました。また、精神障害者に対しては「私宅監禁」「座敷牢」などに代表されるように、『人の目に触れてはいけない存在』でした。

つまり障害者というのは「慈悲で生かせていただく存在」であり、社会で活躍するとか仕事に就くなんてもってのほか!である存在であったわけです。

もちろん、現在の日本において戦前・戦後のような障害者に対する見方というのはなくなってきていますが、どこかでまだ、その “名残”を感じずにはえません


3.HIV感染症に対する療養環境

現在の日本においてHIV感染症の治療というのは、「エイズ拠点病院」と言う医療機関が担っていることがほとんどです。また「エイズ拠点病院」にも二種類あり「ブロック拠点病院」「中核病院」と言う医療機関がありますが、ほとんどのHIV陽性者は「ブロック拠点病院」への通院をしていると思われます。つまり、HIV感染症の治療というのは、ごくごく限られた医療機関でしかなされていないのが現状です。

大都市部を中心に、拠点病院から一般病院へまたは開業クリニックへHIV陽性者の受診者を移行させようという動きがみられるものの、その動きはまだまだ。

これは、誤解を恐れずに伝えるのであれば「患者の囲い込み」であって、HIV陽性者を「世間の目から遠ざけている一要因」であるとボクは考えています。

ここで勘違いしていただきたくないのは「拠点病院が悪い」とか「一般病院・開業クリニックが悪い」とか「HIV陽性者が悪い」とか言う “誰の責任?” 論ではなくて、医療機関・患者を含めた全ての人の問題であって、それぞれが考えなければイケない問題なのではないかと思っています。


今回は社会福祉学的な側面から、HIV陽性者に対する偏見や差別について考えてみました。ボクは、いちHIV陽性者としていち医療従事者として、両方の立場の人間なので、なんだかどっちつかずの中途半端な意見に思われるかもしれません(笑)。でも、一つの問題を考える時にそれを多角的に捉える必要があって、一側面だけの考え方で解決方法を求めると、結局小手先の解決法になり、根本的な解決に至らないと思っているのがボクのスタンスですので、ご了承下さい。


次回は、心理学的側面からお伝えしたいと思います。

HIV陽性者に対する偏見・差別はなぜ起こる?その④【心理学的側面】(リライト版)

 HIV陽性者に対する偏見・差別はなぜ起こる?その③からの続きです。

これまでに【情報を正しく扱うこと】【医学的側面】【社会福祉学的側面】とお伝えしてきました。今回は【心理学的側面】から考えてみたいと思います。



1.集団心理(同調行動)

社会は、個人が集まることで形成されていますが、社会とは単なる個人の総和ではありません。個々人が集まると、一人ひとりのときには生じ得なかったような、態度や振る舞いが生じることが知られています。

アッシュと言う人の有名な実験があります。それがどんな実験であったかを少し説明しますね。


アッシュの同調実験は、以下のような手順で行われました。

まず、実験室に8人の人間を集めます。このうち7人は「サクラ」で、アッシュの指示通りに行動します。したがって、被験者となるのは残りの1名だけです。

次に、図版Aと図版Bを参加者たちに見せます。図版Aには1本の線が描かれていて、図版Bにはそれぞれ長さの異なる3本の線が描かれています。そして、図版Bの3本の線のうち、図版Aの線と長さが同じものはどれか、参加者に1人ずつ答えさせます。なお、図版Bに描かれた線の長さはそれぞれはっきりと異なっていて、正解は明らかなのですが…。

アッシュはこのような問いを18種類用意し、そのうち12の問いにおいてサクラに不正解を答えさせて、それによって被験者の答えがどう変化するのかを調査しました。

サクラ全員が正解を答えると、被験者も堂々と正解の選択肢を選びました。しかし、サクラが不正解を答えると、被験者も不正解の選択肢を選ぶ傾向が確認されました。

実験の結果、全ての質問に正解を答えつづけた被験者は全体のおよそ25%で、残りの75%は不正解のサクラに一度でも同調してしまいました。被験者がサクラに同調して不正解の選択肢を選ぶ確率は、約3分の1であったといいます。



アッシュはこの実験結果を…

「通常の状況では、同じ長さの線分を回答する課題で間違える人は1%にも満たない。しかし、集団圧力がある場合には、選択の36.8%で、少数派である参加者は多数派による誤った判断を受け入れた」

と解説しました。
つまり、「自分は正しいと思っているけれど周りの多くの人が間違っていると主張していると自分の意見が正しいと言う自信がなくなってしまい周囲と同調しようとしてしまう」わけです。

これを例えばHIV陽性者への偏見・差別に当てはめて考えてみましょう。

先日のblog「HIV陽性者に対する偏見・差別はなぜ起こる?その②【医学的側面】」でHIV陽性者への感染症は性感染症であると言うことから連想されるイメージ「無責任」と言うキーワードで考えてみると、世の中の多くの人が「HIV陽性者は無責任な人だ」と言い始めたとすると、その人数が多くなればなるほど「HIV陽性者は無責任な人ではない」と否定しづらくなります。

それがいつの間にか「みんながHIV陽性者は無責任な人だと言っている」と言うことになり、根拠のない差別へとつながるのです。


2.一般化や抽象化・ラベリング

一般化は、全体を構成する部分を、全体に属するものとして識別するプロセスを指していて、抽象化というのは、対象から注目すべき要素を重点的に抜き出して他は捨て去る方法です。一般化の反対の言葉として個別化と言う考え方があります。

一方、似たような言葉にラベリングというものがあります。

ラベリングというのは、ハワード・ベッカーと言う人の『ラベリング理論』がもとになっているものですが、元々は「犯罪学」から端を発し、逸脱行為を理論的に捉えるために考えられたものです。


ハワード・ベッカーは「社会集団は、これを犯せば逸脱となるような規則をもうけ、それを特定の人々に適用し、彼らにアウトサイダーのラベルを貼ることによって、逸脱を生みだすのである」と言っています。つまりラベリングとは、何らかの枠組みからはみ出した者を “アウトサイダー”として区別する方法であり、ネガティブなラベルを『スティグマ』と言われるようになりました。

スティグマ(stigma)とは…
社会的な偏見や差別の対象となる特徴や属性を指す言葉です。この特徴や属性は、個人の身体的な特徴、疾病、障害、人種、宗教、性別、性的指向など、多岐にわたります。

障害者差別を語る時、人々は個々人の特性や性格、人間性などを無視し「一般化」「抽象化」して「ラベリング」してしまう傾向にあります。「HIV陽性者の〇〇さん」と言う考え方がその代表であり、ざっくり言ってしまえば『十把一絡げ』にしてしまっているからこそ、偏見や差別が生まれるのだと思います。


3.メディアによるリアリティの二重性

今の世の中、情報というのはあらゆる手段を使って入手することができるようになりました。インターネット一つとっても、公式サイト・SNS・掲示板・ブログなど様々な方法で様々な人が発信するツールとなっています。もちろん今まで通りの、テレビ・ラジオ・新聞・雑誌・本などに加え、街頭の大型スクーリーンや公共交通機関の中での広告も、盛んに情報を発信しています。これはボクの印象ですが、それらの情報が過大に表現されていたり、発信者の主観が大きく影響されている事はありますが、総じて大きな誤りはありません。

しかし、「メディアがもたらすリアリティ」と「物理的な実体としてのリアリティ」にどこか乖離を感じている方も多いのではないのでしょうか?

「リアリティ」を語る時にそこに二つの意味があると言われています。一つは「客観的事実がそこにある」と言うリアリティ。もう一つは個々人が「体感で得る」リアリティです。言い換えれば前者は「メディアがもたらすリアリティ」であるのに対し後者は「その人が実際に体験したリアリティ」です。

コレをリアリティの二重性と言います。

HIV感染症に関する情報と言うと、例えば「薬を飲み続ければ平均寿命まで生きられる」「ウィルス量をしっかり抑えていれば他人に遷すことはない」「感染しても仕事を変える必用もなければ生活様式を変える必要もない」など『ポジティブな情報』に溢れていてしかもそれを体感している当事者がいます。そしてそれを日常的にSNSやブログでネット上に発信しているにも関わらず、当事者でない人にとってみたらそれは『客観的に正しい事実』と言う認識であって、自分事ではないんですよね。

ボクはSNSなどで自分自信がHIV陽性者だと開示しているのですが、時々「HIVに感染したのですが不安で仕方がない」「(保健所の検査が)判定保留になっているけれどもし陽性だったらどうしよう」などHIV感染症にたいする恐怖心や不安感を訴えかけてくる人もいます。それって結局、正しい情報を自分事としてキャッチしていない証拠だと思うんですよね。


『人間は思考で行動するのではなく感情で行動する生き物だ』とイギリスの文豪ウィリアム・シェークスピアは言っています。まさにそうだと思うんですよね。よく「頭では分かっていても気持ちがついていかない」とか「頭では理解できても生理的に無理」などと表現されるのですが、人間は本質的に「快・不快」「気分」で物事を判断し行動してしまいがちです。昔から「偏見や差別は無知から生まれる」と言われ続けていますが、「知る」ということは「思考で判断する」と言い換えることもできるわけで、「感情で行動する生き物」としては「知ったから偏見や差別がなくなる」とは断言しづらい部分があるわけです。


ちょっとうやむやのままの部分が過分にあるかと思います。その部分は、皆さんで少し考えて頂きたいな~と思っています。

じゃあ、どうしたら偏見や差別がなくなるのか…

次回、ボクなりのその答えをお伝えしたいと思います。

HIV陽性者に対する偏見・差別を解消させる方法・ちょー持論(リライト版)

 これまで「HIV陽性者に対する偏見・差別はなぜ起こる?」としてのシリーズで、ボクの一方的な持論で、【医学的側面】【社会福祉学的側面】【心理学的側面】からお伝えしてきました。



もちろん、ボクは当事者として、今の現状に満足しているわけではありません。

では、どの様にして現状を打破していかなければならないか…

その一つは、正しい情報を発信し続けること。当たり前のことではあるけれど、これはマスメディアの果たす役割が大きいと思っていて。先日も、とあるネットニュースに『エイズウィルス』と言うパワーワードを見つけて、ビックリするやらガッカリするやら(笑)。

確かに「HIV感染症」と言う病名で一般的な人はピンとこないんだろうな~とは予想がつくけれども、だからといって“ありもしないウィルスの名前”を堂々と使用することに、腹立たしさも覚えました。

そして、医療機関やNGO・NPOの方々、もちろん当事者であるボクらも正しく、そしてありのままの情報を発信し続けることが重要だと思っています。


もう一つは「HIV陽性者に対する偏見・差別はなぜ起こる?その③」の「心理学的側面」でもお伝えしましたが、『人間は思考ではなく感情で行動する生き物である』と言うところに着眼して考えられること。

それは、『当事者が生の声をリアリティを持って人々に届ける事』だと思います。

『リアリティの二重性』でもお伝えしましたが、メディアで伝えられる情報というのは、いくら正しい情報であっても、“心に響かない”んです。

ボクは長年、JaNP+の派遣スピーカーとして活動してきました。

派遣スピーカーと言うのは、事務局にHIV陽性者の当事者の話しを聞きたいという依頼がいただいた際に、20人弱いる登録派遣スピーカーがその依頼に応じて講演させて頂く活動です。

ボク自身も今までにおおよそ10講演程度、関わらせていただいてきたけれど、そのほとんどで「当事者の声を聞けたことに対する肯定的な感想」を頂いています。これは正に「感情に訴えかけるうってつけの方法である」とボクは思っています。

眼の前で、当事者が経験してきたこと、感じてきたこと、考えたことを切々とオーディエンスに訴えかけながら語るのだから、それはもう『本物のリアリティ』であるわけで、メディアから受け取るのとはインパクトも違うし、まさに『自分事』として受け止めてもらえる事ができるんだと思っています。

これは少し酷な言い方かもしれませんが、HIV陽性者自身がもっと大きな声をあげて訴えかける必用もあると思うところもあるんです。当事者が「偏見・差別が怖いから」と言って何も言わず影を潜めて、まるで自分は“そうでないかのように”そこに存在しているのにも関わらず「分かってくれない」「理解してくれない」と思っていたり考えていたりするというのは、いささか、わがままな様な気がしてならないんです。

ボクは、再三お伝えしてきているますが、「誰が悪い」と言う責任論で片付けられる話ではなくて、関わる人達皆の問題だと思っています。だから当事者も変わる必用があるのでは、と思っています。



このシリーズを締めくくるにあたって、長年、HIV/エイズ診療に携わり、大きな貢献をされてきた、医師の内海 眞氏が、1997年に『明日の臨床』と言う雑誌に寄稿された『HIV感染症と日常診療‐米国における日常診療の紹介‐』と言うタイトルの総論から引用させていただきたいと思います。非常に古い文献ではあるけれど、とても感慨深い言葉で締めくくられているので、それを紹介して終わりにしたいと思います。



おわりに
2回にわたる米国でのAIDS医療の研修を通して、多くのことを学ぶことが出来た。その中でも最大の収穫は、AIDS患者を特別視することから脱却したことである。特別視する理由には二つの点が挙げられる。一つは、HIV感染症が致死的感染症であるために患者を危険視してしまう点であり、もう一つは、感染経路が性的接触や麻薬の使用によるため、患者に対し道徳的判断を下してしまう点である。(中略)実際のところ、これまで私は医師であるからにはAIDS医療に取り組む義務があるとは考えていたものの、心の隅ではAIDS患者は道徳的に問題があるし、AIDSに罹患したのも自業自得の面があると考えていた。端的に言えば、内心では患者を差別していた。しかし、米国では、やがて来るであろう死を前にしても、多くのAIDS患者やHIV感染者は明るく真剣に生きていたし、他の患者を思いやる心には感動すら覚えた。(中略)これらの人々の精神の崇高さに比較し、道徳的判断を下している自分の貧しさが痛感された時、上述の差別意識は解消してしまったのである。(後略)



ボク自身、内海先生には何度もお会いしお話をさせていただいたこともあり、そのお人柄を知っている身としては、内海先生がこんな事を考えておられたなんて信じられないくらいの思いでした。



皆さんは、何を感じますか?

2024年9月14日土曜日

人は何故「差別」する?~社会心理的背景から

 今も昔も無くならないものの一つに『差別の心』があると思います。どんなに時代が進んでも、その時代時代に対象はかわるものの、『差別する心』がこの世から消えてはいません。

とても残念なことですが…

ボクだってそうです。

パラちゃんねるカフェに掲載していただいたボクのコラム『ボクのLiving with HIV~番外編』でもお伝えしましたが、ボクがHIV陽性者になり、なぜ長い間、苦しい思いをしていたのか。それは、ボク自身がHIVやエイズに対して偏見を持っており、だから自分を受け入れることができなかったから、と言う事実が心理カウンセリングを通して明らかになりました。

もちろん『偏見を持っている=差別する』とはなりませんが、『偏見を持っている≒差別する』だとは思っています。

日本人ならよく知っている、江戸時代の身分制度『士農工商』というものがありますよね。ボクらが学生の頃は、江戸時代にはこの身分制度が世の中の秩序を平穏に保てていた、と勉強しましたが、最近の研究では『士農工商』と言う身分制度は、それほど厳密ではなかった、と言うのが一般論だそうです。


ただし、忘れてはいけません。『士農工商』には続きがありますよね。

『士農工商穢多非人(しのうこうしょうえたひにん)』

ただ、この『穢多非人』についても諸説言われていて、差別部落などとの関わりも研究されているようですが、一つ言われているのが『穢多非人と呼ばれる人々が、一般的に好まれないシゴトをしていた』と言う事が伝えられているということです。

また、諸説ある『穢多非人』の配置について「士農工商のよりも下の身分をおくことで、士農工商たちの不満を抑え込んだ」とも。

実はこの「自分よりも身分の下の人がいることによる心の安寧」が『差別の心』を芽生えさせる原因だ、と言う研究があります。

この研究は、米国エモリー大学のエミリー・ビアンキが行った研究で、2年おきに行われるアメリカ・ナショナル・エレクション・サーベイから、3万189名の白人が、黒人をどう評価しているのかというデータを抜き出して分析た、と言うものがあります。なお経済状況は、失業率を使いました。

その結果、経済状況が悪くなると、白人は、黒人を悪く評価するようになることがわかりました。

経済が好調のときには、白人も黒人に悪い感情はそんなに持ちません。ところが、いったん経済が悪くなってくると、差別の心がむくむくと湧き上がってしまうようです。


もちろん、様々な要因が重なり合い、『差別の心』が生まれるのは確かです。しかし、経済的余裕が心の余裕に繋がり、『差別の心』にも影響を及ぼすということは、感覚的にイメージできるのではないでしょうか。

『士農工商穢多非人』のところでもお伝えしましたが、心の安寧を、誰かを見下し差別することで得ようとする社会心理的な影響は、いつの時代にもあることだと思います。


ここで誤った理解をして欲しくないのは『経済的余裕がないから誰かを差別して良い』と言う事が言いたいのではない、と言うことです。

当たり前ですけど…


ふと誰かの事を差別しそうになった時に思い出してほしいのです。

その『差別の心』は経済的余裕がないからかもしれない、と。

もちろん、『経済的余裕』というものは、一瞬で改善するものではありません(一瞬で悪くなるものではありますが…)。ですので、自分が誰かを差別しそうになった時、人道的に考えて欲しいのです。

倫理的に哲学的に考えて欲しいのです。

よく「相手の立場に立って考える」と言う物の言い方をしますが、これって本当に難しいことだと思います。

でも…

ボクは事あるごとにお伝えしているのですが、人間は考える動物です。『快』『不快』で判断して行動して欲しくない、と言うのがボクからのお願いです。

2024年9月3日火曜日

㊗️開設1周年を迎えるにあたって~初心に帰る~

  2024年9月4日、「勇者の部屋」の開設1周年を迎えることになりました。これもひとえにご利用していただいている方々、様々なアドバイスをくれた友人知人、ハローワークや障害者就労支援センターなどの支援員の皆様、その他たくさんの方からのご支持があってこそと思っております、本当にありがとうございます🙇🏻‍♂️

この一年を振り返ってみると、本当に色々なことがありました。「心理カウンセラー(心理職)をしていく」と言う信念は、絶えず持ち続けていましたが「個人事業主として働く」と言うことに関しては、何度も何度も心が揺らぎ、途方に暮れ歩む道に悩んだこともあります。

ただ、正直、今でもその答えは出ていないものの、誤った道ではない、と何となく思っています。

今日のBlogは、以前の公式サイト内には書かせていただいた内容なのですが、「なぜボクが心理カウンセラーと言う仕事を選んだのか」と言う原点についてお伝えしたいと思っています。


①理学療法士という仕事の限界

高校を卒業し医療技術短大の理学療法学科に進学、卒業と同時に理学療法士免許を取得してから、20年近く理学療法士という仕事をしてきました。今ではリハビリセラピスト(理学療法士・作業療法士・言語聴覚士)のお仕事はかなりメジャーになりましたが、ボクが高校生だった1990年代後半には、まだまだマイナーな仕事でした。

理学療法士になるためには、その専門課程を持った専門学校・短大・大学に進学し、所定の科目を修了し初めて国家試験を受験する資格を得ることができます。当時は、専門学校が主流で短大は少なく大学に至っては2校くらいしかない時代でした。

紆余曲折あって、正直、ボクは理学療法士と言う仕事をよく知らないまま(笑)短大に進学したのですが、理学療法学を学んでいくうちにその面白さに気づいた、というのが事実です。

また、当時の学科長だった整形外科の医師は、事あるごとに「あなた達は臨床に出てから医者と対等に話ができる理学療法士にならなければならない」とボクたちに言い聞かせていました。それにも洗脳されたかもしれません(笑)

理学療法士免許を取得してから、整形外科のクリニック・地方の公立病院・私立の総合病院などで臨床経験を積み、本当に多種多様な疾患の患者様と関わらせていただくことができました。

理学療法の世界には『〇〇法』とか『〇〇手技』などと呼ばれるものが非常にたくさんあります。

これはそのセラピストの『主義』によると思うのですが、ボクはそのような『○○法』『〇〇手技』というものに対しては、なにか一つを極めるというよりそれぞれの理論やテクニックの良いとこどりをする、そして患者様の症状などに合わせてそれを使い分けていく、というのがボクのスタンスでした。


5年、10年、20年と続けていくうちにボクは、ハタと気付いたのです。

「患者様が回復して良くなっていくのはボクの技術・テクニックが向上しているからののだろうか?」と。

リハビリの仕事というのは、根本的に“患者様にしてもらう”ことばかりです。ボクらはそのお手伝いをしているにすぎません。

もっとザックリ言ってしまえば「患者様のやる気一つ」なのです。


臨床で働いている時、よく「〇〇さんのモチベーションが…」とか「〇〇さんのやる気次第なんだけど…」みたいな話題は絶えずあり、あたかもその患者様の気持ちの問題、みたいな事が、それはそれは沢山(笑)ありました。

そんな事を経験していくうちに、ボクは「これが理学療法の限界なのでは」と思うようになり、人の心理というものに大変、興味を持つようになりました。


②ボク自身が心理カウンセリングを受け、その効果を知っていた


ボクが最初に心理カウンセリングを受けたのは、HIV陽性告知を受けた時でした。その時の経緯などは、ボクがコラムを書いています『パラちゃんねるカフェ』の『ボクのLiving with HIV』と言うシリーズを御覧ください。

ボクは4年近く、一人の臨床心理士さんに担当して頂き、本当に本当に、救われてきました。

もちろん『癒やし』と言う意味でも救われてきましたが、道に迷ったときの羅針盤であったり、自分の知らない自分を探求したり、『楽に生きること』『幸せに生きること』そんな事を考えたり行動するための基礎を作ってくれたのが『心理カウンセリング』と言うものでした。

その後、メンタルダウンを経験し『うつ病』と診断されてからは(後に双極性障害となる)、精神科・心療内科で心理カウンセリングを受けてきました。

それは治療の一環という意味合いもありましたが、“ただ苦しい心の内を打ち明ける”とか“ツラさを吐き出す”場ではない、と言う事を強調しておきたいと思います。

実際に、ボクの心理カウンセリングを受けたことのある方はご存知かと思いますが、“なぜ辛いと思ってしまうのか”“どうして苦しいと感じてしまうのか”と言う根本的な問題を探っていきます。

どうしてそんな事をするのか。

それは、一時(いっとき)の癒やしや問題解決ではなく、これから先、長い人生を歩んでいくうちに同じ様な状況や環境に遭遇した時、上手にそれらに対処していくための手段を体得していくために心理カウンセリングを受けていただく、と言う意味合いが非常に大きいからです。

ボク自身が数年にわたって受けてきた心理カウンセリングで、そんな事を肌身で感じてきました。

③医療従事者へのメンタルフォローがとても疎かである


ボクは30代始めにメンタルダウンを経験し、40代始めに双極性障害と診断され、その間のほとんどを医療機関で理学療法士として働いてきました。

しかし、それはとてもとても辛くて苦しくて楽なものではありませんでした。

一般企業では、従業員の健康管理のため「産業医」がおり「産業保健師」や「産業カウンセラー」の配置を義務付けられています(ただし従業員数による)。

医療機関も「働く場」と言う意味で、同様に産業保健スタッフの配置が義務付けられています。

しかし…

ボクの勤務してきた医療機関のほとんどが、その医療機関に勤務する医師の一人が「産業医」と位置づけられているだけで、一般企業のソレほど「産業医」としての機能を果たしている医療機関は皆無でした。

理由は色々あると思います。しかしボクは、自分自身がメンタルに不調を抱えるものとして、職場に安心して相談できる場がない、相談できる相手がいない、と言うのはとてもとても心細いものでした。

上司や同僚に相談すればいいじゃない、と言われそうですが、同じ現場で働いているからこそ話しづらいこと、言えないことと言うのは、たくさんあります。

それに、これは何となくボクが感じていたことですが「医療従事者なのだから自分の健康は自分で守るのが当たり前」の様な風潮、社風があったように思います。

医療機関というのは、一種独特の環境です。もちろん専門機関であるため、一般企業と比較するのは乱暴なのですが、とても閉ざされた組織であり、表と裏がハッキリとしている業界でもあると、今でも思っています。

そんな環境に長くいると、それが当たり前に感じるようになってきてしまうのですが、ボクは、医療機関で働く従業員に対し、もっともっと手厚くフォローすべきなのではないか、と強く思うようになりました。


これは介護業界や福祉業界でも同じです。

『善意の詐取』

何となく、『自己犠牲が当たり前』と言う風潮が漂うこれらの業界では、もっともっと従業員を大切にすべきです。それはお金の話ではありません。

マインドです。社風です。

ボクはそんな業界に正直、嫌気がさしていました。それに呼応するように、じゃあボクに何ができるのか、と考えた時『産業カウンセラー』と言う資格・仕事が浮上してきました。

④心理カウンセラーはもっと身近であって良い


これは日本人の国民性もあると思います。『我慢することの美徳』と『人に弱みを見せることの恥』。

この記事も『パラちゃんねるカフェ』の『心理カウンセリングのススメ』と言うシリーズでも書かせて頂きました。

日本において『心理カウンセリング』が何となく理解されず受け入れられていないな~と思う原因がいくつかあります。

その詳細については、上記コラムを参照していただきたいのですが、人はもっとオープンマインドであるべきだ、というのがボクの持論です。

“忖度”や“配慮”、“先回り”や“阿吽の呼吸”など、日本人には『言葉にはしないけど通じ合うこと』をとても素晴らしいものとする価値観があると思います。

それを頭から否定するつもりもありません。

けれど、人間は神様ではありません。超能力者でもありません。

人間は言葉を使って(一部、非言語を使って)コミュニケーションをとり、お互いに理解し合う生き物です。

“気持ち”や“感情”だって、なんらかの方法を使って表現しなければ、相手には伝わりません。

その方法を見つけ出したり、表現する勇気をもらったりするのが『心理カウンセリング』の目的の一つだと思っています。

精神疾患患者のためのもの、特別な病気を持った人のためのもの、と言う時代は終わりました。

日常の些細なことや、周囲の誰かに相談しづらいこと、そんな事を気軽に相談できる存在として『心理カウンセラー』を利用していただきたいと思っています。

その気持ちを込めボクは『皆様のかかりつけ心理カウンセラー』を目指したいと思っています。


大変、長文になりました。最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

ボクもこのBlogを書きながら改めて自分の気持ちが整理でき、そしてまた明日から、このお仕事を続けていくんだ!と言う気持ちになりました(笑)

どうかこれからも末永く宜しくお願い申し上げます。


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