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オンラインカウンセリング「勇者の部屋」の産業カウンセラー勝水のブログです。セクシャルマイノリティ(ゲイ)・身体障害者(HIV陽性者)・精神障害者(双極症)の当事者としての目線と、理学療法士・社会福祉士・産業カウンセラーとしての目線で、今まで経験したことや普段考えていることなど、様々な情報発信をしております。

2023年11月25日土曜日

『セクシャリティ問題におけるAlly(アライ)』に思う

ここ最近、セクシャルマイノリティの同性婚問題に関連して、『Ally(アライ)』と言う言葉を耳にするようになりました。皆さん、この『Ally(アライ)』と言う言葉の意味、キチンと理解されていますか?先日、SNSでとても気になる投稿を見たので、それに感化されまして(笑)ボクなりに深掘りしたいと思います。



(セクシャリティ問題における)allyとは…
ストレート(異性愛者)のシスジェンダーやセクシュアル・マジョリティ(性的多数者)ではあるけれど、セクシュアル・マイノリティ(性的少数者/LGBTQ+などの当事者)が社会的に不利な立場に置かれていると認識し、当事者を支援する人々を指す。


つまり、「私はallyですよ」と公言すると言うことは「セクシャルマイノリティの味方です」と“わぞわざ”周囲に伝える、と言う事です。


では、『ally』の語源は何でしょうか?
[自他動] 同盟する [自動] 提携する [名] 同盟国

この語源から考えるにallyと言う言葉が使われる時、1対1または1対複数の関係性を表していて、その両者には上下関係はなく並列に扱われるべき関係性であると思います。


では『ally』の対義語は何でしょう。

『ally』の対義語は『opponent』と言う単語になります。

opponentとは…
競技や議論などにおいて自分と対立する立場にある人物を指す言葉である。対戦相手や相手、対抗者といった意味合いが含まれる。スポーツやゲーム、政治やビジネスなど、さまざまな分野で使用される。

では『opponent』の語源は?
[名] 対戦相手・敵 [形] 対立する


言葉の意味を考える時、その語源や対義語を知ることで、より深くその言葉の意味を知ることができるのですが、今回『ally』と言う言葉の意味を考える時に、その語源や対義語を知ることで、ボクはより一層、今、日本で使われている『ally』と言う言葉に違和感を覚えずにはいられません。


そしてボクは、その違和感に気づきました。

つまり『ally』と言う言葉を使うことで必然的に『allyではない=opponent』になってしまう、と言うことです。

恐らく、今の日本で、セクシャリティにおけるマジョリティの人たちが、マイノリティの人たちと接する中で、わざわざ「私はallyです」と言う立場をとる人が、どれだけの人数いるか、と言うことです。

「allyでもない。でもopponentでもない」と言う人が大多数ではないでしょうか?

「セクシャルマイノリティがそこにいて当たり前」と思っている人たちがあえて『ally』と言う言葉を使う必要があるかどうか、と言うと、ボクはそれは違うと思います。


セクシャリティ問題におけるallyと言う言葉が、いつ頃から使われ始めたのか少し調べたのですが、はっきりとした事は分かりませんでした。ただ、1つ言えるのは、やはりSDGsが話題になりだした2015年頃からや、日本における同性婚問題が明るみに出始めた頃に、よく耳にするようになったように感じます。


ここからは超持論なのですが(笑)正直、『Ally』と言う言葉を使うその意図には、どうしても「お金」の匂いがしてなりません(笑)。

企業や団体が『Ally』をアピールすることで、何らかの利益を得ると言う、きな臭さがあるような気がするんです。


もっと言うならば、「LGBTQフレンドリー」と言う言葉の方が、よほどしっくり来ます。




もう、ここまでくると理論的ではなくほとんど「印象」とか「感性」の問題になるかもしれませんが(笑)でも、ボクはそんな気がしてなりません。


ボクはよく、「言葉に対してキチンと理解して使う」と言うことを、常に意識しています。その理由の1つはボクが心理職であるということが関係していて、「言葉」というのは「自分以外の誰かに何かを伝えるための手段」ですよね。だから、「その言葉を使う(発する)人」と「その言葉を受取る人」の間に、理解のズレがあっては正しく伝わらない、と思っていて、それって心理カウンセリングでとても大切なことだと思っているんです。

感情を表現する言葉だけではなく、環境や状況を正しく伝えて理解すると言う事はとても大事です。

もう一つは、医療短大時代の恩師の教えです。

医療の分野では、論文を書いたりレポートと書いたり、または書籍を読んだりする機会は非常に多いです。つまり自分自身が伝えたいと思っていることをキチンと相手に伝えるために言葉を正しく使う、と言う事が必然的に求められるからです。

話が逸れました…(笑)


先程述べたように『ally』と言う言葉を使うことに、何らかの利益を生むために使われているのでは?と言うボクの推測のもう一つの理由に「言葉がおしゃれ」「響きが良い」「なんとなくかっこいい」と言うような理由で使われている印象もあります。

「LGBTQフレンドリー」と言うより「ally」と言ってしまったほうが、そんな印象うけませんか?(笑)



言葉は時代とともに変化するものではありますが、それはそれでいいと思うのです。
しかし、「そもそもこういう意味で使われていてこういう使い方だったんだよ」と言う“源”を知っておくことは、とても大事だと思っています。

2023年11月24日金曜日

HIV/AIDSの偏見差別に思う・RED RIBBON LIVE NAGOYA 2023に参加して

 さる2023年11月23日(木・祝)にアスナル金山において、FM AICHI主催、名古屋市共催の『RED RIBBBON LIVE NAGOYA 2023』が行われ、ボクもトークゲストと言う形で参加させていただいたので、そのご報告をしたいと思います。



この『RED RIBBBON LIVE』は厚生労働省主催で企画・制作がTBSラジオ/レッドリボン実行委員会と言う、比較的大きなイベントで、その一環として名古屋ではFM AICHI様が主催となり、名古屋市と共同で進めている企画で、毎年11月23日がイベント日となっていました。

なんと今年で14回目!だそうです。


総合企画プロデューサーは、山本シュウさん

当日のMCは、FM AICHIのパーソナリティ、重田優平さん

トークゲストは
名古屋市健康福祉局医監 名古屋市保健所所長 小嶋雅代 先生
名古屋市保健所港保健センター 所長 片山幸 先生
そしてボク 産業カウンセラー・HIV当事者 勝水健吾


総合プロデューサーの山本シュウさんは「コメント出演」と言うことで、会場にはいらっしゃらなかったのですが、コロナ禍で中止を余儀なくされていたこのイベントに向けて、とても嬉しいお言葉を頂きました。

イベントはライブ①心悠さん


トーク①
小嶋 雅代先生と片山 幸先生による、HIV感染症の予防法や検査、治療などや、最近、流行している梅毒に関してのお話をされました。

ライブ②はLUCY IN THE ROOMさん


その後にトーク②
ボクが、HIV/AIDSに関する偏見・差別(行動)に対する私見をお話させていただきました。

ライブ③はK:reamさん


約1時間半のイベントとなりました。


当日はきれいに晴れて、少し寒かったのですが日がさしているお陰で屋外イベントにはもってこいのお天気。後ほど聞いたところによると、会場には300名程度の来場者があったとのことでした。


さて、ボクのトークパートについて少しお話をしたいと思います。

ボクは十数年、HIV/AIDSに関するスピーカー活動を行っています。その関係もあって、例えばお薬の開発や社会制度の変化について、ある程度勉強し、その都度知識をアップデートしているのですが、ほとんど変わらないテーマがありまして。それが「偏見・差別(行動)」です。

『障害者に対する偏見・差別(行動)』と言う大きなくくりで話しをしだすと、日本での障害者福祉の話とその歴史にまで話が広がってしまい、また、国民性や社会心理学的な話にまで発展してしまうので、今回は、もっとコンパクトに「HIV/AIDS」に限定したお話をさせていただきました。


今の日本に於いて、HIV/AIDSに対する偏見や差別(行動)がなくならないのは何故か。いくつかの要因が考えられるのですが、順を追って説明したいと思います。


①偏見・差別(行動)をなくすには「正しい情報を知る」事が大事と言うけれど…
 今の世の中、行政や医療機関など、HIV感染症やAIDSに関する知識というのは、非常に新しくそして正しい情報が溢れています。しかもネット社会ですので、誰もが簡単にその情報を手に入れることができます。それなのに「偏見・差別(行動)」がなくならいのはなぜでしょうか?それには、『情報を正しく扱う』事に関係します。

②『情報を正しく扱う』とはどういうことか
 今の世の中、情報が溢れている事は事実です。しかし、その情報をキチンと「受け取りに行く」「情報収集する」と言う行動を起こさなければ、その人に正しい情報は伝わりません。情報を発信する側が、色んな手段を使って色んなタイミングで発信していたとしても、受け取る側にそれを「受け取ろう」とする意志がなければ、それは“情報がない” ということ同じことです。
 つまり情報というのは「発信する側の問題」と「受け取る側の問題」があるわけです。

③HIV感染症・免疫機能障害は目に見えない障害
 HIV感染症というのは、外見からでは判断がつかない病気で、免疫機能障害というのは目に見えない障害です。つまり本人が「私はHIV感染症です」「私は免疫機能障害です」と開示(何らかの方法で周知してもらう)しなければ分かりません。もしHIV陽性者自身が周囲の人に「私はHIV陽性者です」「私は免疫機能障害者です」と言わなければ、誰もそれを知ることなく、一緒に生活したり仕事したりすることになります。

④『リアリティがない』
 ③で述べたようにHIV陽性者が身近にいると知らなければ、また、大切な人がHIV陽性者であることを知らなければ、おそらくHIV陽性者の周囲の人はあえて『HIV感染症ってどんな病気?』『免疫機能障害ってどんな障害?』と知ろうとしないでしょう。つまり②に述べてことに関係してくるわけです。HIV陽性者自身が『私はHIV陽性者です!』『私は免疫機能障害です!』と声を挙げなければ、誰もその病気や障害について、“あえて知ろう”としない、つまり自分たちの周囲にHIV陽性者がいるとは思っていないから、正しい情報を手に入れない、と言う事になってしまうのです。

⑤とはいえ「HIV陽性者であることを開示する事」のリスク
 しかし今の世の中、HIV/AIDSに対する偏見や差別(行動)はなくなっていません。ですので、当事者は余計に声を挙げにくい。つまり「開示することで不利益を被るかもしれない」「差別行動を受けるかもしれない」と言う恐れがあるわけです。そうなるとドンドン、当事者は開示しづらくなるわけです。

⑥HIV感染症はSTI(性感染症)であるという事実
 HIVの感染は、現在の日本において、そのほとんどがSTI(性感染症)です。つまり性行為で感染します。それがまた、大きな偏見を生む原因となっています。「不特定多数の相手と関係を持つ人」「リスキーなセックスをする人」と言う一種のスティグマがあり、尚更、自分自身の病気や障害を開示しづらくなっていると言う現状があります。

⑦じゃあ、どうする?
 1つは当事者が周囲に対して開示していく、と言う行動が求められるでしょう。つまりHIV陽性者というのは意外と身近にいるんだということをもっと知って貰う必要があると思います。しかしそれは⑤でお伝えした通り、当事者にとってとてもハードルが高く、また、非常に困難なことです。ボクのように顔を晒し実名まで公言した上でHIV陽性者であることを開示できる人は本当に限られていると思います。
 では、どうすればよいか…やはり当事者が周囲に開示しやすい雰囲気を作っていただきたい。そのために周囲の人達が、 “自分事”として「正しい情報を自ら取りに行きそれをキチンと理解する」行動をとって欲しい、とボクは思います。



実はイベントの時に、ボクがトークを終え舞台袖に下がった時に、次のLIVEをされるK:reamさんの内川祐(Vo, Piano)さんがボクにこう声をかけてくれたのです。

「ありがとうございました!勉強になりました!」

と。

そして、その後のLIVEのMCの中でこの様にお話されました。

「今日、本当は楽しくLIVEができればそれでいいと思っていた。けれど生きづらさを感じている人がこの世にたくさんいることに気付かされた。そんな人達をちゃんと受け入れていける世の中にしようぜ!」

と、言ってくださったのです。

ボクはそれを舞台袖で聞いて泣きそうになりました。
あゝ、ボクの伝えたいことがちゃんと伝わったんだ、と。


その後に歌ってくださった「See The Light」と言う曲が、とにかく心に染み渡り、このイベントに参加できて、心から良かったと思いました。




ボクは今まで、スピーカーとしてお話をさせていただく時というのは、顔は晒すけれどもニックネームで呼んで頂き、お話をする対象者というのも、ある程度カテゴライズされ、しかもHIV/AIDSに関わる、または関心のある人を対象にしてきました。

今回のように、どんな人が会場に来ているのか分からない、そして顔を晒し実名で呼んで頂くということも初体験で、実は前日まで、かなり緊張し少し恐れもありました。

しかし、今回のイベントに参加し、大きな手応えを感じました。

ボクの進むべき道の1つがここにあった、と。

そして、このイベントを通して、またいくつかの人脈ができました。
それは、何物にも代えがたい、大きな収穫・宝物です。



このイベントに関わってくださった方全てに感謝します。

2023年11月21日火曜日

そろそろ本当の話しをしましょう(HIV)その⑥

 そろそろ本当の話しをしましょう(HIV)その⑤からの続きです。(今回は文章のみなので覚悟して下さいwww)



ボクが臨床心理士のKさんの心理カウンセリングを受け始めて2年位経った頃でしょうか。Kさんから「同じHIV陽性者でゲイの人達を集めて“自助会”をするんだけど、勝水さんも参加してみますか?」とお誘いを受けました。

「そろそろ本当の話しをしましょう(HIV)」のシリーズで何度もお伝えしてきた通り、当時、ボクは他のHIV陽性者の人たちがどのような療養生活を送っているのか、全く知る事ができなかったので、それを見越してKさんは声をかけてくださったのだと思います。

また、そのような「自助会」自体、Kさんが初めて企画するようでしたので、全くの未知数でしたが、ボクはとても興味が湧きました。

しかし…

もしかしたら参加者の中に、過去にボクと肉体関係を持ったことがある人がいるかもしれない…

そんな思いが頭を過りました。
まあ、でも、その時はその時かぁ~なんて思い、ほぼ二つ返事でお願いすることにしました(これは後から知ったのですが、この自助会の参加者はKさんが『この人ならこーゆー場に出てもらっても大丈夫だろう』と言う判断のもと声をかけていたそうです)。


当日は確か、土曜日の午後だったと思います。
いつもはボクらが診察してもらっている診察室の一室を貸し切って、5~6人のメンバーが集まりました。ファシリテーターはKさん。

一通り自己紹介が終わって「さて、何の話しをするのかな?」と思っていたら、Kさんの「さ!皆さんでどうぞお好きに何でも話して下さい!」と言う無茶振りから始まりました(笑)。

皆、初対面だよ!
確かに「HIV陽性者」で「ゲイ」と言うくくりで集められているとは言え、そんな急にふられても何を話して良いのか…

皆が「キョトン」とした顔でモジモジしながら、バツの悪そうにしていました。
もう20年近く前のことなので、誰が何を話し始めたのか、全く記憶にないのですが、確か1時間半くらい、何かの話題で話をしていたと思います。


そんな感じで始まった自助会。
2~3ヶ月に1回程度の頻度でKさんが主催し開催されるようになりました。集まるのは大体、同じメンバーで徐々に打ち解け合い、自助会の後に少しお茶をする機会もありました。また、Kさんの発案で「勉強会」の様な事も催され、「HIV感染症」と言う病気を通して人と人が繋がりそしてお互いに情報交換や情報共有する場が出来上がっていきました。

まさにセルフヘルプグループ。です。


その後、その自助会の参加者の中からSさんと言う方が「自分たちで自助会を作ろう!」みたいな話が持ち上がりました。Sさんがどういう経緯でその様に思い立ったのか全く知らなかったのですが、臨床心理士Kさんが主催する自助会に参加している人たちが、ある意味「巻き込まれる」形でそのSさんの申し出に乗っかる事になりました(笑)。

それが『LIFE東海』と言うNGOです。

色々な事をSさんが旗振りをして仕切ってくださっていたのですが、当時、ボクは教員をしていて臨床にいた頃より時間に融通が効くようになっていたので、ボクはSさんをお手伝いする形で「LIFE東海」の本格的な始動に関わりました。LIFE東海は、東海地区のHIV陽性者のための支援をメインの活動とし、1ヶ月に2回PGM(ピアグループミーティング)を開催することになりました。

ボクは一応、副代表と言う形でしたが、主に事務局的な役割をしていて、スキマ時間に書類を作成したり記録をとったり。

また、その頃、「エイズ予防財団」など、HIV/エイズ界隈では、LIFE東海のような自助会などのNGO団体の育成に力を入れてくださっていて、「助成金の申請方法の仕方」「PGMの運営の仕方」などの研修会を開催していただいていて、ボクやSさん、他の運営に関わってくれているメンバーも積極的に参加していました。

それと同じ様な時期に「特定非営利活動法人 日本HIV陽性者ネットワーク・ジャンププラス」が行っている「スピーカー派遣活動」に関わる「スピーカー養成講座」にも参加し、ボクは「HIV陽性者当事者として講演するお仕事」をすることにしました。


ボクはこの頃の経験したことが、今、とても役に立っていると思っていて。

サイト(ホームページ)の作り方や見せ方、PGMなど人が集まる時にファシリテーターがどの様な役割をしどのような動き方をするのが良いのか、助成金などのお金にまつわること等など「お仕事」では経験することのできない「コミュニティの運営」や「損得勘定のない人間関係」と言うものの必要性、人前で話をする時にどの様にすると自分の伝えたいことが伝わるかなど、本当に多くの事を学びました。



それから色々あってボクは社会の表舞台から退いて、ひっそりと生きてきました(笑)が、個人事業主として活動し始めるに当たって様々なSNSを運用するようになり、この頃築いた人間関係がとてもとてもありがたい形で再び蘇り、切れかけた縁がまた繋がったり行き来をするようになったりして、「ボクは人生で大きな過ちを犯したけれどそれでも大切にしてくれる人がいる」と、今また実感できるようになり、ボクは本当に幸せものだと思っています。

そしてボクは「人に恵まれている」事に本当に感謝しています。




「そろそろ本当の話しをしましょう(HIV)」はとりあえずここで一区切りにしたいと思います。もしこのシリーズを読んでのご感想や聞いてみたいことなどありましたら、お気軽にコメントを残していただけるとありがたいな、と思っています。

2023年11月20日月曜日

そろそろ本当の話しをしましょう(HIV)その⑤

 そろそろ本当の話しをしましょう(HIV)その④からの続きです。



前回までは主に、臨床心理さんKさんとのカウンセリングについてお伝えしてきました。今回は、陽性告知を受けてからの健康状態や投薬を始めるまでの生活状況などお伝えしたいと思います。



HIVに感染したと思われる時期から半年以上、微熱や倦怠感でかなり体力的に消耗し、毎日疲労感を感じながら仕事をしながら生活をしていました。

2003年11月に陽性告知、すぐエイズ拠点病院に受診し各診断をうけ、年越しを迎えました。

ボクは、実家を離れてからずっと、年越しは必ず実家で過ごすことにしていたので、その年の年越しも実家に帰省し、年を越したのですが、気分は最悪…もちろん、病気の事は両親や姉には伝えることはできず、でも何だか「嘘をついているような罪悪感」があり、とても居心地が悪かった記憶があります。

そしてしばらくしてからボクは、頻繁に下痢を起こすようになりまた、常に疲労感を感じるような体調でした。仕事柄(理学療法士)日々、体力を使う仕事だったので、仕事が終わった後は本当に疲労困憊でした。

一度、定期受診の時に主治医に聞いたことがあります。ボクのこの症状は一般的なのか、と。先生からの答えは「よくあります」とのこと。下痢に関しては対症療法で下痢止めを処方していただきましたが、疲労感に関してはどうしようもありませんでした。


また、食べても食べても体重はやや減っていく様でそれも加えて体力が落ちていく感じがありました。

「そろそろ本当の話しをしましょう(HIV)その③」で少しお伝えしましたが、HIV感染症の治療で重要になるCD4リンパ球の数というのは、200/μLを下回ると日和見感染症と言って、健康な人であれば感染することのない、非常に弱い菌やウィルスにまで感染してしまう状態に陥ってしまいます。


上の表の様にエイズ指標疾患は23疾患あり、このうち1つでも確定診断がつけばその人は「エイズ(後天性免疫不全症候群)」と言う診断になります。

また、ボクが通院していた当時、身体障害者手帳の申請ができるのはCD4が200/μLを下回らないと申請できず、かつ薬物療法も始められないため、ある意味、体調がギリギリまで落ちないと薬物療法も始められない状況でした。


徐々に体調が悪く、また理学療法士として働く体力に自信がなくなっていくうちに、ボクは「転職」を考えるようになりました。また、当時、住んでいた場所が地方都市であり、身体障害者手帳を申請しても、福祉サービスがあまり充実しておらず、転職とともに政令指定都市へ転居、というのも、具体性をもって考えるようになりました。


実はボクは当時、医療短大の頃の恩師の影響で「理学療法士を養成する学校の教員になりたい」と思っていました。そしてちょうどその頃、ボクの母校である医療技術短期大学部が四年制大学へ移行し「医学部保健学科理学療法学専攻」になり、保健学科の学部生が卒業すると同時に大学院も設立。ボクは母校の大学院に入学したい、とも思っていました。それは「理学療法士を養成する学校の教員になる」ためにある意味必須で「修士号」または「博士号」を取得することが、ボクのキャリア・アップのために必要なことでした。

そしてボクの思いが具体性を持って動き出したのは、2004年になってからです。
まずは手始めに、仕事をしながら大学院の「科目等履修生」の制度を利用して、いくつかの大学院の科目を履修しながら、大学院の卒論に当たる論文を書くための基礎研究を、恩師の協力の下、始めました。

そして翌年2006年に正式に「大学院医学研究科修士課程」に入学することができました。

科目等履修生のころからではありましたが、昼間は理学療法士として働き、夕方から修士課程の講義ならびに自分の実験(当時はマウスを使った実験をしていました)をすると言う、二足のわらじを履いていたのですが、何と言っても30代前で若さもあり、体調が悪いと言ってもなんとか踏ん張りが効く年齢でした(笑)。

実は、科目等履修生から修士課程に入学する2005年に、ボクは念願の「理学療法士養成校の教員」となりとある専門学校に就職する事ができました。


専門学校に就職し、とにかく無我夢中でした。
自分の研究はもちろん、講義、学生指導、学会発表など、慣れないことばかり。そしてそれまでボクは医療機関に勤めていたので、福利厚生で時期になると「インフルエンザの予防接種」をしていたのですが、専門学校に就職した年はそんな事もすっかり忘れていて予防接種を受けず、人生で初めて「インフルエンザ」を経験しました。

専門学校は土日祝日が休みだったのですが、その他に平日に一日「研修日」と言って、自分自身の研究活動や臨床に割り当てても良い(要は出勤しなくても良い)日がいただけたので、その曜日を研究活動および受診日に当てることができたので、ボクはあえて職場に病気の事を開示はしていませんでした。

実はその頃からボクの免疫力は一気に低下していました。
専門学校に就職した夏頃から、主治医から「そろそろ投薬を考え始めたほうがよいかも」と言われていました。その頃のCD4は200
/μLをうろちょろしていて、障害者手帳もそろそろ申請しようということになり、投薬が始まる前に身体障害者手帳を申請しました。その直後ぐらいでしょうか、ボクは職場からの命令で、1ヶ月間に及ぶ長期講習会を受けることになりました。しかも大阪でマンスリーマンションを借りて。

その長期講習会へ出発する直前の定期受診で主治医からは「その講習会から戻ってきてから服薬を考えましょう」と言うことになり、その時の受診時に薬剤師さんから、お薬の説明をうけ、おおよそボクはどの薬を服薬するかを決めて、長期講習会へ参加しました。


長期講習会自体は比較的楽しくて(笑)また大阪には友達もたくさんいたので、週末になると誰か彼かと遊びに行ったりして息抜きもしていました。また、専門学校の学生からは、定期的に卒業研究の相談のメールがあったので、まあそれなりに忙しくしていました。

でも、それほどストレスフルには感じていなかったのですが…

長期講習会から戻ってきてすぐに定期受診。
ボクはいつも、診察の後に血液と尿を採取して、その結果は1ヶ月後の受診時に聞く、と言うスタイルだったので、その時の定期受診もとりあえず長期講習会に参加中の体調等報告して、採血・採尿して帰宅しました。

それから恐らく1週間した後だったでしょうか。
病院から電話がかかってきました。「勝水さん、体調は大丈夫ですか?できれば早めに受診してほしいのですが…」と。ボクはなんとなく察し、早めに受診の予約を入れました。


「勝水さんCD4が28です。早速、服薬を始めましょう」
ボクは長期講習会に参加している間に、大きく免疫力が低下していたんです。幸い日和見感染症などの症状はなかったのですが、普段と違う生活環境などの影響もあったのでしょう。ボクはすぐに服薬を開始しました。

当時、2種類の薬を2回/日、しかも食後に服薬しなければならず、やや面倒でした。時間的に朝食ごと夕食後に決めて服薬し始めたのですが、夜はどうしても食事が不規則になりがち。食べられないときは100%のジュースやおにぎり1個でもいいので食べてから、と薬剤師さんからの指導でしたので、なんとかそれを実行していました。

しかし服薬し初めてすぐ副作用が…
常に腹部がムカムカするような吐き気と頭痛です。
すぐに定期受診外で主治医のところへ行き相談し、対症療法のお薬をもらい、それで1週間ほどで副作用は消失しました。

しかし、服薬して1ヶ月が過ぎた頃、体に痛痒いような発疹が出てきたのです。


ちょうど上の写真のような状態でした。
ボクはすぐに気づきました。「帯状発疹だ」と。
帯状発疹は、HIV感染症の治療であるHAART(現:ART)と言う治療を始めた初期に出現するという「免疫再構築症候群」というものの中に「帯状発疹」が挙げられていて、ボクはその知識があったので、すぐに受診しました。

帯状発疹は放置して治療が遅れると、つらい痛みが後遺症として残り、かなりQOLを下げると言われていることを知っていたので、とにかく早く対処しなければ、と思っていました。

幸い、気づいてすぐに受診し、服薬や塗り薬などで程なくして回復しました。


こうやってボクのHIV治療は、ドタバタとかなり急ぎ足で始まっていきました。



そろそろ本当の話しをしましょう(HIV)その⑥では、臨床心理士さんの開催していた自助会とその後に発足した「東海地区のHIV陽性者のための支援団」体立ち上げに関して、少し触れたいと思います。


2023年11月17日金曜日

そろそろ本当の話しをしましょう(HIV)その④

 そろそろ本当の話しをしましょう(HIV)その③からの続きです。




臨床心理士Kさんとの心理カウンセリングを、月に一度、受けることになったボク。どんなが対話があったのかというと…


最初の頃は、とにかくボクは自分を責め続けていたと思います。
HIVに感染したと思われる時期というのは、20代の大半を一緒に過ごしてきたパートナーと別れた比較的直後で、しかもパートナーと破局する原因を作ったのは、ボクの浮気でした。そして当時のボクは性活動がとても盛んで、多くの人と肉体的な関係を持っていました。そんな事実が重なり、ボクは「感染したのは自業自得」「自分の行いが悪かったから」そう自分を責め立てていました。

そしてボクが友人や元カレにHIV感染のことを開示し、皆が優しく受け入れてくれたのにも関わらず、ボクは自分自身が許せなかった。

そして両親への思い。
五体満足に生んでくれて、それまで両親は、ボクがやりたいと思ったことを好きなようにさせてくれていた。もちろん経済的に困ることもなく何不自由暮らしてこれたのも両親のおかげであるのに、ボクは一時の快楽に身を任せて自分の健康を害するような事をしてしまったことに対し、本当に自分が許せなかった。

そんな思いをKさんの前で、時に涙を流しながら話しをしました。

ボクはもう、幸せになってはいけない。
ボクは大きな十字架を背負っていかなければいけない。
そしてこの事実は誰にも言ってはいけない。絶対に。
そんな事を考えて、素直な気持ちをKさんに吐露していきました。


おそらく1年位は同じ様な話しをしていたような気がします。しかしKさんとの対話を通じて、徐々に「幸せに生きていってもいいのかな」「自分がやりたいと思ったことを今まで通りにやっていってもいいのかな」「今ボクが一番やりたいと思っていることはなんだろう」と、前向きに『生きる』事を考え始めました。

そして徐々にボクは「自分を許す」と言うことにたどり着いていきました。
このままの自分でもいいんじゃないか。
HIV陽性者である自分も、それも自分だよな。
もうこの事実は変えられないし、治癒しない病気になったんだから、いい加減自分を受け入れないと。

そんな事を思うようになりだし、心理カウンセリングのなかでも前向きな自分を表現するようになったのが初診から2年くらいたった後でしょうか。

その頃、Kさんからある相談をされました。
「勝水さんのケースをエイズ学会で発表したい」
そんな申し出でした。

ボクは少し迷って、条件付きで了承しました。その条件とは「学術集会の抄録を発表前に読ませて欲しい」と言うことです。

Kさんは快く了承してくださいました。

なぜボクがこのような条件を出したかというと、ボクの心の変化の過程を専門家はどんなふうに分析し解釈しているのか知りたかったからです。

そのケーススタディのタイトルが『他者受容より自己受容』と言うタイトルでした。


一通り抄録を読ませていただいて、なんだかスーッと腑に落ちたように思いました。
あゝ、ボクはずっと自分で自分を受け入れられなかったんだ。
周りの人がどんなにボクを受け入れてくれたとしても、自分が受け入れなかったから楽になれなかったんだ。
ボクはこのままのボクで良いんだ。
ボクはボク自身がHIV感染症やAIDSに対して、とてもネガティブな事しか考えてこなかったんだ。


それからの心理カウンセリングは、HIV/AIDSとは直接関係のない話し、例えば仕事のことであったり恋話であったり家族関係のことであったりと、それまでとは毛色の違う内容へと変化していきました。


Kさんとの対話の中で時々出てきた話題が「ボクは宙ぶらりんな状態が嫌い、耐えられない」と言うボクの心理状態についてでした。

HIV陽性告知を受けたのが2003年の11月。
それから心理カウンセリングを重ねていくなかで「ボクがやりたいことはなんだろう」と考え始め、その1つが「大学院に進学する」と言うものでした。そして2008年に大学院修士課程に入学することができました。また、その頃、転職も経験しているのですが、とにかくボクは「試験を受けてから結果がでるまでの“宙ぶらりん”の状態がとてもとても不快だった」。

ボクはKさんに、何度も何度も、何度も何度も「この宙ぶらりんの状態が嫌だ!」と訴えていたのです。

その頃のボク自身の自己分析として「白黒はっきりつけたい」とか「竹を割ったような」とか「優柔不断が嫌い」とかそんな言葉で表される様な性格をしていました。

ですので、転職するときもそうでしたし院試を受けたときもそうでしたが、その結果が出るまでの数週間は「落ち着かない」と言うレベルではなく「不快」と言うレベルでの不安定な気分でした。

そんな事があるたびにボクはKさんに「この状況、早く何とかしたい」「とにかく早く落ち着きたい」と言う気持ちをお伝えしたのですが、いつもの笑顔とあの柔らかな言葉遣い
「揺れるのがそんなに嫌ですか?」
「ゆら~りゆら~り揺れるのも良いものですよ」
「こういう状況を楽しんでみては?」
などの言葉をもらったのですが、いまいちボクには響かなくて(笑)口では「そうですね~」とか「そう思えるようになりたいですね」などと全く心にもないことを口にしていました。

おそらくKさんはそんなボクのキモチに気付いていたと思います。

ボクにとってこの「宙ぶらりんな状態」というのは、とてもストレスフルな状態やった。でも、転職にしろ大学院の院試にしろ、「ある期日がくれば答えが分かる事」なんだよね。Kさんはきっと「待つことも楽しみする」と言う事を暗に言っていたのかな~って思うの。


人は精神的ストレスに晒されたとき、それに対してなんとか対処しようとするんやけどそれを『(ストレス)コーピング』と言うん。で、そのコーピングは上の図のようなやり方に分類することができるんやけど、ボク自身「健康的なコーピング」を自分の中に、たくさん持っていなかった。

例えば上の図の「直接的・消極的」に『感情を抑える』っていうのがあるでしょ。まさにコレをしようとしていたんだと思う。また「間接的・消極的」に『アルコールやタバコで気を紛らわせる』と言うのも当てはまるかな。ボクの場合アルコールではなく、例えば一晩だけの相手と肉体関係を持つ、とか。そういう「不健康なコーピング」しか持っていなかったんだと思う。

それって本当に不健康(笑)


Kさんとの心理カウンセリングでは、そんなボクの「心の不健康さ」を沢山、指摘してくれたように思う。けれどね、心理カウンセラーは、ズバリそのものを言わないんだよ。「あなたのその対処の方法、不健康だからやめなさい」とはね。ある程度、信頼関係(ラ・ポール)が形成されていれば、伝えることもあるかもしれないけど、ほとんどの場合、答えは言わない。

それは、クライエント自身が『気づく』ことに重きをおいているから。
なぜ『気づき』が大事かというと、それが「内的動機づけ」になって、自ら変わろう、変化しようと言う思いにつながるから、です。



十数年前のKさんとの対話をこうやって思い返してみると、今やっと気づけた(笑)。そんな気がする。もし、あの時、ボク自身が気付けていれば、今のボクの有り様というのは変わっていたのかもしれないな~

ま、結果論だけど。



次回、そろそろ本当の話しをしましょう(HIV)その⑤では、ボクの体調がどの様に変化して言ってどの様な治療を開始することになったのか、日常生活の様子を交えながらお伝えしたいと思います。


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 2024年11月28日(木)~30日(土)にかけ、東京において開催された『 第38回日本エイズ学会 』の『POSITIVE TALK 2024』にて、HIV陽性者の当事者としてスピーチをしてきました。まずは、その発表原稿の全文を、こちらでご紹介させて頂きます。 なお、読みやすい...