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オンラインカウンセリング「勇者の部屋」の産業カウンセラー勝水のブログです。セクシャルマイノリティ(ゲイ)・身体障害者(HIV陽性者)・精神障害者(双極症)の当事者としての目線と、理学療法士・社会福祉士・産業カウンセラーとしての目線で、今まで経験したことや普段考えていることなど、様々な情報発信をしております。

2023年10月6日金曜日

家族とは?家族の意味とは?…機能不全家族

 初めて耳にする方もいらっしゃるかも知れませんね、『機能不全家族』という言葉。
一方で『アダルトチルドレン』という言葉は以前から知られています。また、以前のblog「対人援助職者要注意!共依存と言う罠」にも書きましたが『共依存』という状態なども、この『機能不全家族』に関連のある事柄です。




機能不全家族とは…
別名「家庭崩壊」もしくは「家族崩壊」ともいわれる状態で主に「親子関係に問題がある」ことで、子育て・団らん・地域との関わりと言った一般的に家庭に存在すべきとされる機能が、健全に機能していない家庭の問題を指します。一番の被害者は、自らに生活力がないためにその家庭から脱出することのできない“子ども”です。

最近では「毒親」という呼び方を耳にするようになりましたが、まさにその「毒親」が原因で機能不全家族になってしまう事もあるようです。


家族の形というのは多様で、一つとして同じものはありません。しかし、家族を構成している人(家族構成員)にはそれぞれ役割があり、また一定のルールがあるもののそれは柔軟に変化しそのルールを運用しています。そして家族構成員はその役割に満足していて、お互いに敬意と尊敬をもち、尊重することで一体感がうまれます。しかし、家族構成員の各々が変化していくことにもキチンと受け入れる…それが家族。


機能不全家族になる要因にはいくつかの原因が考えられています。
・家族構成員の様々な依存症(依存症の中には共依存も含まれる)
・親の自殺、死亡、浮気、離婚、再婚
・親からのネグレクト、肉体的虐待、性的虐待
・兄弟姉妹間での処遇格差
・家庭内暴力
・多額の借金負債

またDan Neuharthは、機能不全の要因として、健全でない親の8つの兆候を示しています。
・条件付きの愛情
・非尊重
・発言の抑圧
・感情の強制
・嘲笑
・過大なしつけ
・内面の否定
・社会に対する機能不全、または社会からの孤立



先にも書きました通り、機能不全家族において一番の被害者は“子ども”です。では、その子どもが機能不全家族で育つとどうなるか、というのが上の図に示したものになります。

きょうだい児とは…
病気や障がいのある兄弟姉妹を持つ子どものことを呼びます。彼ら彼女らは幼少期からはっきりと言葉にはできなくても家族の雰囲気や周囲との違いを感じ、親の自分に対する愛情を疑ってしまうことがあります。一方で、周りとは違う兄弟姉妹を自分が守らなければいけないという使命感も生まれることで、親から見たら「よく家のことを手伝ういい子」と思われがちな傾向もあります。

アダルトチルドレンとは…
子どものころに家庭環境によって傷ついた経験などをしてきたことで、大人になってからもコミュニケーションなどの場面で困難を感じている人のことです。アダルトチルドレンの生きづらさとして、対人関係で距離感の取り方がわからない、他人からの承認がないと不安になる、自分に過剰に批判的になる、感情のコントロールが難しいなどがあります。なお「アダルトチルドレン」とは医学用語ではありません。

ヤングケアラーとは…
家族にケアを要する人がおり、本来、大人が担うようなケア責任を引き受け、家事や家族の世話、介護、感情面のサポートなどを行っている、18歳未満の子どものことです。自分の時間が取れない、勉強する時間が充分に取れない、ケアについて話せる人がいなくて孤独を感じる、ストレスを感じる、友人と遊ぶことができない、睡眠が充分に取れないなどの問題を抱えていることが多いとされています。

宗教2世問題とは…
何らかの宗教を信じている親や家族、またその宗教集団のもとで影響を受けて育った子ども(「宗教2世」)が望まない信仰や宗教活動を強いられたり、親に暴力や虐待を受けたり、その教義に基づいて行動に強い制約を受けたりする問題のことです。

被虐待児とは…
虐待を受けていた子どものことです。


不幸にも機能不全家族で育ってしまった子どもには、上記のような問題を抱えていることが多く、子ども自身が収入を得、その家庭環境から運良く抜け出せたとしても、人間関係の築き方に問題があったり、何らかの心理的負担を強いられ、生きづらさを抱えている方も多くいらっしゃいます。

先に「毒親」という呼ばれ方をする親が存在すると書きましたが、実はこの「毒親」と言うのは連鎖する事が知られています。つまり「毒親」の親も「毒親」だった。そして「毒親」は加害者であり被害者であるということです。

ここでは詳細を割愛させていただきますが、この『負の連鎖』を断ち切ることと言うのは、おそらく「毒親」に育てられた子どもだけでは解決できず、何らかの支援があって、やっと抜け出せる事が多いようです。

ゲイでエッセイシストの『望月もちぎ』さんのエッセイやマンガに、彼の「毒親」っぷりが書かれていますが、彼のように(少し特殊ではありますが)周囲に沢山の理解者や支持者がおり、そしてもちぎさんご自身が様々な人生経験をしていく事で、彼自身が生きやすくなるようなテクニックやライフハックを身につけていき、今を生き抜いていらっしゃるのだと思います。


「理解者や支持者」というのは自然に集まってくるのではなく、当人がどうにかしたい・こうなりたいという強い希望と、救けて欲しい・何とかして欲しいという『純粋なSOS』を発信できる人の周りに集まってくるものだと僕は思っています。



『機能不全家族』『毒親』という話題から少し話はズレますが…

僕自身もかつて「自分の生きづらさを誰かのせい」にした時期もありました。それはきっと、「自分自身が生きづらいという事を認めたくない」事に関連していると思っています。「誰かのせい」にしてしまえば「今の自分が不幸なのはアイツのせい」であり「自分の考え方や行動の仕方に問題があるから」ではない、と思えるからです。そして「SOS」を出すことは「今、自分が生きづらいと感じている」事に直結していて「今、生きづらいと本当は思っているんだけど、それを認めてしまうと“何かが音を立てて崩れそう”」な不安感があるから『純粋なSOS』を出せないのだと思います。

自分で書いていて笑ってしまったのですが、かなり歪んでいますよね。この理論(笑)。



少し補足を。

『Dan Neuharthによる健全でない親の8つの兆候』では、機能不全家族に陥りそうな危うい親の兆候を示していますが、「あっ、自分のことだ…」とか「私、当てはまるかも」と思った方は大丈夫だと思います。その兆候に「気づけた」という発見がある間は、その事を何とかしようと心がけるからです。


先日、姉の子どもの事に関して、僕がお節介を焼いたことがあります。僕から見てその子はとても苦しんでいるのではないか、そして親に心配をかけまいとして『純粋なSOS』を出せていないだけなのではないか、と。僕は沿う感じてしまい、姉に何か手を差し伸べたほうが良いのでは?と提案しました。そして姉夫婦は色々考え、そしてその子にも問いかけをした上で僕に返事をくれました。

「子どもたちを20年間育ててきて、色んな心配をしながらも、子どもたち一個人を大切に、親の意見ではなく、子どもたちそれぞれの意見を尊重してきました」

「親って結局、見守るしかできないのです。何かしてあげたいとか、手を差し伸べたいとか思ってしまうのですが、いつもグッと気持ちを堪えるのです」


僕の中で何かが「ストン」と落ちました。なんというか「姉」は「姉」であるけれど「親」なのだなって(笑)。そして僕のお節介さ加減に、ちょっと嫌気がさしました。




最後に。
望月もちぎさん、勝手に話題に出してごめんなさい。

2023年10月4日水曜日

マインドフルネス(瞑想法・呼吸法)の医学的根拠『ちょー持論』

 最近、よく耳にするようになりましたね。『マインドフルネス』と言う瞑想法、とでも言いましょうか。スマホのアプリにもありますし、You Tubeでも沢山の“専門家?”が色んなコンテンツを紹介しています。

実は僕もやってます。アプリを使って(笑)

その方法を正しく理解して、タイミングよく使えば、気分を落ち着けたり、高ぶった興奮を鎮めたり、カタルシスを得られたり、様々な効果が得られると思います。




僕は27歳の時にHIV陽性告知を受けてから3年間くらい、月に一度、臨床心理士さんのカウンセリングを受けていました。それはHIV陽性告知を受けたことが原因で引き起こされたメンタル不調もありましたし、気軽に相談が(セクシャリティも含めて)できず、自分の中で処理しきれない感情もあったりしてお願いしていたからです。そしてメンタル不調の一つの兆しとして「不眠」がありました。僕の場合は「入眠障害」です。

入眠障害とは…
ベッドや布団に入っても、なかなか寝付けない状態。睡眠障害の一種で、ベッドや布団に入っても1時間程度経っても寝られない場合は「入眠障害」とされます。

それで、HIV診療の主治医からは「睡眠導入剤」をもらっていてそれを定期的に服薬していました。

睡眠導入剤とは…
睡眠障害を改善するためのお薬の一つ。「睡眠薬」と一般的にまとめて表現されることが多いのですが、「睡眠薬」には効果の効き方の違いで『超短時間作用型』『短時間作用型』『中時間作用型』『長時間作用型』の大きく4つに分類されます。一般的に「睡眠導入剤」と呼ばれる睡眠薬は、この4つの中でも『超短時間作用型』のお薬で、その効果は1~3時間程度と言われているものです。

僕はお薬を服薬することに対する抵抗感は特に持ってはいないのですが(お薬は上手に使うもの、と言う認識をしています)、やはり、寝られないと言うのはストレスからくる自律神経系の働きの不調だと思っていたので、自分で何かできることはないか?と探していました。そこで見つけたのは「自律訓練法」でした。


引用元を見ていただくと分かるのですが、いわゆる「自己暗示」をかけていくわけです。心の中でそれぞれの“言葉”を自分自身に言い聞かせ、その言葉通りに感じるように訓練してくのですが、僕にとっては非常に困難でした。

何故か。

“言葉”を心の中で唱え続けるという事が、とても難しいのです。その“言葉”を心の中で唱えているつもりでも、いつの間にか他の事を考えていたり、物音が気になったり、様々な要因がその集中を妨げるのです。

何度やっても、何度やっても、何度やっても、何度やっても、上手くできませんでした。当時の僕の診断名は「うつ病」でしたがおそらくこの頃から「双極性障害」の気質があって、僕の頭の中というのは、常にグルグルといろいろな事を考えており「頭の中がうるさい」状態でした(笑)。ですので、静かに集中すると言うのは難しかったのだと思います。


色々な事情があって、通院先の精神科クリニックを転院することになり、その転院先の臨床心理士さんによるカウンセリングで「認知行動療法とマインドフルネスをセットで行うと相性が良い」と言うことを教えていただき、カウンセリングの中でもマインドフルネスを取り入れて行ってもらうようになりました。

マインドフルネスのことを「瞑想法」とか「呼吸法」とか様々な呼び方がありますが、それぞれ言い当てています。詳しいことは、ここでは割愛しますが、マインドフルネスを行う際、注意する事が2つあります。

1.常に「呼吸」に意識を向ける。
2.ふと頭に思い浮かんだことや思考が逸れた時、それはそれとして思考が逸れた事に対し良し悪しの判断をせず、頭の中でやりすごし、再び「呼吸」に意識を戻す。

この2つです。
実はこの2つの注意点というのは、誠に理にかなっている!!と僕は思っています。


1.常に「呼吸」に意識を向ける
自律訓練法も頭の中で自分に向かって“言葉”を唱えるのですが、マインドフルネスでは実際に身体で行っている「呼吸」に意識を向けるので、非常に集中しやすいと思います。「呼吸」というのは、下の図のように横隔膜と言う筋肉の塊が動いたり、肋骨が筋肉によって動かされたり、鼻の中や口元に空気が通ることでその摩擦を感じたりと、様々な観点から「感じる」事ができるのです。頭の中で言葉を唱える事と、この様に身体から生じる色々な刺激に対する感覚があるという事を比較すると、圧倒的に後者のほうがソレに集中しやすいのです。



そして、「呼吸」に集中すると言う点で僕なりに良いと思っていることがあります。呼吸というのは、意識しなくとも勝手に身体が動いてくれる運動です。しかし、呼吸を早めたり止めたりと意識してコントロールできる運動でもあります。“意識しなくても勝手に動いている運動”の代表として心臓があります。心臓も勝手に動いていますが、意識してその鼓動を早めたり止めたりできませんよね?ここが非常に『みそ』だと思っています。

先程も少し話題にしましたが、身体の内臓の動きというのは「自律神経」によって動かされていて、「交感神経」と「副交感神経」に支配されます。「交感神経」はストレスのかかる状況や緊急事態に際して体の状態を整える働き(闘争・逃走反応)を担っています。一方「副交感神経」はどちらかと言うと日常的な状況下で正常な体の機能を維持する機能を担い、リラックスしている時に働いています。

両者の働きはおおよそ拮抗していて、交感神経が働けば脈拍、血圧、呼吸数を増加させ、副交感神経系はこれらを減少させます。しかしこれは、大体の場合において無意識下で行われており、意識的にコントロールできません。

しかし、「呼吸」だけは意識してコントロールできるんです!!

交感神経が沢山働き呼吸が早くなっていたとしても、意識的に呼吸をゆっくりに鎮めることが可能ですよね(もちろんそうでない状況もありますが)。呼吸がゆっくりになる=副交感神経が働き出す=リラックスしていく、と言う公式になっていくわけです!!!!

皆さんも一度はしたことがありますよね?緊張した時に大きく深呼吸をする、と言うことを。それです。それ。


2.思考が逸れた事を良し悪しの判断をせず、再び「呼吸」に意識を戻す。
「良し悪しの判断をしない」というのが「みそ」です。
僕のように真面目な?(笑)人間は、こういう事に取り組んでいると、してはいけないこと、ルールから外れたことに対して「それはダメなこと」とジャッジしがちです。ジャッジしてしまうと途端に集中が途切れ「思考が逸れた自分はダメな自分」と思い込み、その「ダメな自分」に思考が囚われてしまい、落ち着かなくなります。


(上の図はマインドフルネスのやり方の方法の一つですが、姿勢は基本的に決まり事はあまりありません。椅子に腰掛けてもいいですしベッドに寝ていても大丈夫です。ただ、最初は腰掛けていたほうが集中しやすいです)

「意識が逸れたらそれに良し悪しの判断をせず呼吸に意識を戻す」と言う事を拡大解釈すると「呼吸という“今”に集中する」と言うことに繋がります。

人が不安に陥るときというのは「この先どうなるのか」と言う“先取り不安”や「あの時あーすれば良かった」と言う“過去の囚われ”に起因することが多いと言われています。人はそういった不安や後悔を積み重ねると「今を生きる」事が困難になります。不安や後悔に心が占領されてしまうと「今、何をすべきか」を忘れてしまい、それが原因で不幸な結果を招いてしまう。そしてそれが後悔の原因となる。そんな悪循環が生まれてしまいます。

「呼吸という“今”に集中する」=「今、何をすべきかを考える」と言う繋がりができてくると、自分に対しての客観性がうまれ、後悔しない(しづらい)行動をとりやすくなり、結果的によい循環へと変化していきます。


このような方法というのは、万能ではありません。僕も、感情の振れ幅があまりにも大きい時はかえって「イライラ」の原因になることもあるので、マイルールとして「やって良い時・やってはいけない時・積極的にやるべき時」に分けて実行するようにしています。

そして、アプリを使うことで、アプリの音声で色々な指示をしてくれるのでそれに合わせて自分の意識や思考を順応させるという、利点やとっつきやすさがあります。



もし、精神疾患をお持ちで、お薬やカウンセリングだけではなく、セルフケアとしてやってみたいという方に、ぜひお勧めします。

マインドフルネスについてもっと聞いてみたいということがあれば、当公式サイトの「お問合せ」からご連絡いただければ、僕のできる範囲でお答えしていきたいと思います。どうぞ、ご活用下さい!!

2023年10月3日火曜日

死を考える③父の命日に思う。最終回

今日10月3日は父の命日です。
そして、死を考える③父の命日に思う。その3からの続きです。




僕としては、父を在宅で介護しなくても良くなったことは、自分自身の重荷を下ろすことができ、正直、心の底からホッとしていました。母も、同じ様に言うのですが、時々、迷いがあるようで。

「ねえ、本当にお父さん、病院に預けてよかったのかな?」「もしかしたらもっと家で看てあげることが出来たんじゃないかな」と、こぼすようになりました。それは恐らく、病院に入院し、本当に人が変わったように穏やかになり、そして以前のような父に戻ったと思っていたからだと思います。

しかし僕は、少し厳し目に言っていました。

「お父さんが今、あれだけ穏やかになったのは病院に入院したからだよ。もしかしたら先生がお薬を変えてくれたり何かしらの対応をしてくれたからだとは思うけど、認知症って環境によっても症状の出方が変わるから。おとーさん、家にいたときにあれだけ暴れたり酷いこと言っていたのって、もしかしたら家にいることとかに何か不満や不安を抱えていたのかもしれない。だから、もし今、退院させて家に戻ってきたとしても、病院にいるように穏やかに過ごすことが出来ないかもしれないんだよ」そう言って、母を納得?説得?させていました。

今思えば、医療従事者として満点の答えだったと思います。
しかし、息子としてはある意味「冷酷」な言い方だったかも知れません。

僕の言ったことは「穏やかに安心して過ごせるはずの自宅にいるほうが父には負担」「自宅で介護されることに不満」だと言っているようなものです。その時、母は何も言いませんでしたが。多分、僕が「医療従事者だから」きっと僕の言う事が正しいんだ、と自分自身に言い聞かせていたのかも知れません。正直、今でも母にはその当時の気持を聞いたことがありませんし、今後も僕からは聞くことはないと思います。

しかし1年後、思いもよらぬ惨事が起こりました。
そう、新型コロナウイルスの感染爆発です。

父の入院している病院でも、感染症対策のため、病棟への面会はできなくなりました。もともと母は、週に2度、父の着替えの洗濯ものを取りに行っており、その度に父と面会をして帰ってきていました。もちろん僕も月に1回、帰省する時には必ず面会をしていたのですが、それもできなくなりました。下の写真はその面会ができなくなる直前くらいのものです。


3ヶ月位でしたでしょうか。全く面会が出来なかったのは。
そして、短時間であれば面会もできるようになった頃、主治医からお話しがあるとの連絡があり、母と一緒に主治医とお話しをする機会がありました。

面会ができなくなった頃から、父は誤嚥性肺炎を繰り返したようです。
そして、経口摂取(口から食べ物を食べること)が危険だと判断し、持続点滴(24時間ずっと点滴をすること)に切り替え、お楽しみ程度のおやつだけ許可している、と言うお話しでした。

いよいよ来たか。そう僕は思いました。
一応、僕は主治医に確認しました。「先生は胃ろうについてはどうお考えですか?」と。「おすすめはしません」と。僕も同感でした。仕事柄、胃ろうを行っている患者様をみてきましたが、今の父には胃ろうの適応になるとは到底、思えませんでした。「はい。分かりました」と僕は言うしかありませんでした。



母は、ただただ黙っていました。
その時の母の気持ちを聞いたことがないのですが、その後「ね~、ST(言語聴覚士)さんが訓練すれば良くなることはないの?」と聞かれた事があります。僕は「良くなる見込みがあれば(訓練を)すると思う」と言う答えしか言えませんでした。事実、脳血管障害などの摂食障害にはSTの訓練による効果は高いと思っていたけど、認知症による摂食障害に、STによる介入というのは、機能回復と言うよりこれ以上の誤嚥を防ぐと言う意味合いが大きいと思っていたし、この先、父の認知機能の低下が予測される中でどれだけの効果が望めるか、いち理学療法士として、希望的観測で判断はできない、と思っていました。

下の写真は、久しぶりに面会できたときのものです。


それから、母から「本当に、病院に入院させてよかったのか…」と何度も電話が入るようになりました。僕はその都度、何度も「あのまま自宅で介護していたら皆、潰れていたよ」「おかーさんもつらいって、言ってたじゃん」そんな言葉を繰り返していたのですが、ある時、あまりにも同じ話をする母に対して「何度言ったら分かるの!!」とつい喧嘩腰に電話を切ってしまいました。
正直、僕も我慢の限界でした。母は父の介護のことに関しての相談というのは、周囲のひとに漏らすことなく、ほとんど僕にだけ相談をしていたのです(後から知ったのですが)。僕も、自分自身に後ろめたさがあるため、母にそのような相談を何度もされることが苦痛でつらくて、思わず強い口調で拒絶してしまいました。そこで姉に連絡をとり、僕一人では母を支えきれないこと、姉からも連絡をとって母の話を聞いてあげて欲しい事を伝えました。

しばらく母からの連絡はありませんでした。
そして僕はいつもの様に、月に一度の帰省は続けていました。


経口摂取出来ていた頃は、病棟内を自由に歩き回っていた父でしたが、やはり点滴と栄養補助食品だけでは、元気になりようがありません。どんどん痩せていきとうとう、ベッドに寝たきりとなりました。

しかし父は、僕がお見舞いに行くたびに「やっとかめやな!元気にしとるか?」と口癖の様に言うのです。それが僕には辛かった。父自身、口から食べることもできなくなり衰弱していく一方の状況のなか、息子である僕の心配をしている…もしかしたら父は「お腹へったな」「何か食べさせてくれ」と思っていたかも知れない。しかし、そんな事は一言も言いませんでした。

いつもは、月に一回の帰省の時のお見舞いがルーティンでしたが、その日は何故か、母には内緒でお見舞いに行こう、と思いました。僕は手元に古いアルバムを持っており、その中には昔の家族写真や父のご兄弟の写った写真もあり、それを見せてあげたい、何故かそう思い車を走らせました。

父の入院する病院に着き、病棟の看護師さんから「コロナがあるので15分程度で」と念押しされ、父のベッドのそばで行くといつものように「おお!やっとかめやな。元気でやっとるか?」と。僕は元気だという事を告げ、「今日はおとーさんに見せたいものがあって持ってきた」と言って数枚の写真を見せました。すると父は「おお!これ兄貴やな!へー」と。父のお兄さんを写真の中に見つけてとても嬉しそうに見ていました。しかし15分というのはあっという間です。僕は二人の写真をスマホで撮ると(上の写真)また来ることを告げ、病院を後にしました。

それが父と交わした最後の会話になりました。

その2週間後の日曜日の午前中。
僕は友人とランチをする約束をしていたので、いそいそと準備をし車に乗り込んだところで母から電話。

「おとーさん、危ないみたい。私も今から病院に行くけど…」
「!!うん。分かった。おねーちゃんには電話した?」
「ううん。今から」
「じゃあおねーちゃんに電話してくれる?僕、準備が出来たら向かうわ。」
「うん。ありがとう。お願いね」

とりあえず、そのまま友人宅に向かい、カクカクシカジカ。ごめん!と言って自宅に引き返し、とりあえず数日分の着替えと常備薬を持って、父の入院している病院に向かいました。

道中、どんな事を考えていたのか全く覚えていません。

夕方前に病院に着き、病室に案内されると、一足先に着いていた母が父の横たわるベッドの横に佇んでいた。父は目を閉じていて、枕元にはモニターが。

僕はもちろん、そのモニターが何を示しているのかを理解していたし、父は目を閉じてはいたが「生きて」いました。
程なくして姉も義兄とともに駆けつけました。

いわゆる「危篤」の状態でした。

まだ、いつどうなるかは分からないけれども、ここ数日でその日がやってくるのは見て取れました。面会時間いっぱいいっぱい(夕方の17時)まで皆で父の周りを取り囲んでいましたが、様態はかわらなかったためそのまま僕とは母は実家へ、姉は嫁ぎ先へ帰りました。

途中、父の兄弟に連絡するかどうか母に相談され、伯父(父の兄)には連絡することにし電話を入れました。伯母(父の姉)は遠方に住んでおり高齢でかつ身体が不自由であったため、今は連絡しないことにしました。

程なくして伯父から電話があり、明日、見舞いに行く、と。高速バスで行くから途中まで迎えに来てほしいとの事で、僕が車で出迎えることにしました。

翌日、父の状態は変わらず。本当に眠ってるようでした。
午後になり、伯父夫婦が来てくれたので迎えに行きました。伯父は父の名前を呼び、とても悲しそうな目をしていました。
その日も、夕方までいたのですが、様態が変わらなかったため、皆、それぞれの家へ引き返しました。伯父夫婦は僕の実家に泊まっていかれました。

翌日、僕は伯父に、
「おじさん、せっかく来てもらって何なんだけど、おとーさんもう長くないと思う。もしかしたらとんぼ返りになるかもしれんけど…」
「うんうん。分かっとるよ。そのつもりで来とるから」
「ありがとうございます…その時はよろしくお願いします」

その日、伯父夫婦はまた、高速バスで帰っていきました。
僕は伯父夫婦を送るついでに自宅に一度戻り、喪服などの準備と着替えを取りに行きました。父が危篤となってから初めて自宅に帰り、一晩泊まったのですが、枕元にスマホを置き、いつでも電話に出られる状態にしていたのですが、ほとんど眠れず夜明けを迎えました。その夜は、スマホが鳴ることはありませんでした。

実家に戻り、二日ほどしたある日の朝、実家の宅電がなりました。
母が出たのですが「おとーさん、血圧が下がっとるって」と。
胸の鼓動が止まりませんでした。姉に連絡し僕は母を車に乗せ病院に向かいました。

病院に到着した頃、父は持ち直し枕元のモニターも安定した数値を示していました。
その日はその後、何もなく一日が終わりました。

翌日、正直、少し僕は疲れが出てきました。いつその時がくるのかわからないという、連日の緊張感。夜も寝ているんだか起きているんだかはっきりしないような曖昧な感覚。ずっとアドレナリンが出ている感覚。

流石にその日は少し休みたく、昼食を母と姉と3人で摂った後、僕は一人車の中でうたた寝していました。すこし休んでスッキリし、病室に戻りました。

しかし、モニターの示す値は明らかに違っていました。
この時ばかりは自分が医療従事者であることを恨みました。

徐々に心拍は弱まっていき
徐々にサチュレーションは低下し
呼吸は浅く
心電図の間隔がひろがっていく

それが何を示しているのか、いち早く僕は察知してしまい、一人涙ぐんでいました。
それに気付いた母や姉は、「おとーさん!!」と泣き叫びながら父の身体に触れていました。

そして数分後。

父は、僕ら家族に見守られながら、静かに、本当に静かに、そして眠るように召されていきました。


10月3日 15:15 享年78歳



親の死に目に会えるというのは、今の時代、とても稀なことだと思います。

父は、危篤になってから6日間、静かに静かに僕らを待っていてくれたんだと思います。そして最後の最後まで、僕らに悔いが残ってはいけないと、家族が揃うのを待って、そして旅立ったのだと思います。


父が他界してこんなにも時間が経っているのに、まだ、僕の中では答えが出ません。

あれで良かったのか。
これが正解だったのか。

父が認知症と診断されて亡くなるまで、丸六年でした。それを誰かに話しをすると「長生きしたね」と言ってくださいます。

しかしそれが良いことなのかそれもと誤りなのか、僕には分かりません。




もし今、父に聞けるものなら「どうして欲しかった?」と聞きたい。
でもそれは永遠にできません。

2023年10月2日月曜日

死を考える③父の命日に思う。その3

 「死を考える③父の命日に思う。その2」からの続きです。




僕は、当時の仕事を介護辞職し、実家に戻りました。僕は失業保険がもらえるので、最悪1年弱(身体障害者手帳を持っているので)はなんとかなるし、住むところもある。食事もなんとかなると思って。逆に母は当時、色々な理由でその時の仕事を辞めるわけにはいかなかったので、母を支えながら父の介護をする事にしました。

もちろん、施設入所の申し込みもして。
介護老人保健施設(老健)と特別養護老人ホーム(特養)の両方を申し込んだのですが、ケアマネさん曰く「いつになるか分からない」とのことでした。



一緒に暮らして初めて分かったのですが、父はほとんど寝られていない様子でした。
父は1階、僕と母は2階の部屋に寝室があり、僕の部屋は廊下を上がってすぐのため、1階の廊下や玄関の物音がよく聞こえる場所にありました。

父は夜中になると、おそらく1~2時間に1回くらい、寝室とトイレを何度となく往復している足音が聞こえました。それも、寝室の扉を乱暴に開け締めする音、ドンドンと言う足音、そしてブツブツと言う独語(独り言)。

母の寝室は、2階の一番奥にあるため、どうやらその夜中の様子は知らなかったようですが、僕が話しをすると「そうなの…」と少し困ったようなそして寂しそうな顔をしました。


また、ある日のこと。母がお風呂の介助をしていたのですが、浴室から父の怒鳴る声が。そして母の悲しそうな声。どうしてその様な状況になったのかは、全く分かりませんでしたが、とにかく僕は飛んでいって「とーさん、なんでおかーさんを困らせとるの!!」と怒鳴ってしまいました。父は辻褄の合わない理解不能な言葉を並べていましたが、とにかく居間に連れていき「そんな言い方したらおかーさん困ってまうやん。なんでそんな言い方するの?!」それに対して父は、聞き分けの悪い子供のような言い訳をするんです。母に対して不満があるわけではないよだけれども、なんせ強く怒鳴る。僕もどんどんヒートアップしてしまい「とーさん、まー誰も面倒みてくれんくなるよ!」母も「もー知らん!私、出ていくから!!」と。

すると急に父はシュンとなり…「ごめん…」と一言。

こんな日が週に少なくとも1回、多いと一日おきくらいにあったんです。

ある夜、こんな事もありました。
その日は、夕ご飯を食べた後くらいからなんだか様子がおかしくて「健吾、ここってオレの家だよな?」と何度も聞くんです。「そうだよ。ここはおとーさんが生まれ育った家だよ」と説明するのですが、1時間おきくらいに同じ様な質問をされました。僕も根気よく同じ様に説明し、そろそろ寝る時間だからということで、皆で就寝したのですが…
あれは夜中の1時頃だったと思います。
父が何度も部屋を出たり入ったりする音が聞こえてきました。「あゝ、またいつものことか…」と思っていたのですが、いつもと様子が違います。「困った困った…どうやって帰ろう」「ここはどこだ。家に帰りたい」そんな事を何度も何度も言いながら、廊下を往復しているようなのです。
僕は「このまま放置してても落ち着かないだろう」と思い、慌てて外に出る準備をして「おとーさん、家に帰ろうか。僕が車で来とるから。ね」と言って父を外へ誘い出し、僕の車に乗せました。父は「あー良かった良かった。これで家に帰れる。あーよかった」と言いながら僕の運転する車に乗って、30分ほどドライブをして自宅に帰り、父を寝室へ送り届け、何とかその日は朝を迎えることができました。

翌朝、父のいないところで母にその報告をし、「ごめんね。そんな事させちゃって」と謝る母に、「これくらいはなんてことないよ。大丈夫」とは言うものの、これじゃ皆が共倒れになる、そう思っていました。

僕自身、精神疾患を持っているので、僕自身がいつまでもこの状態が維持できるとは思っていなかったし、施設入所する前にダメになる、と思いました。


そんなある日、母がこう提案してきました。「お隣のタカシ(偽名)さんに聞いたんだけど精神科に入院させるっていう方法もあるみたいよ」と。このタカシさん、市役所の高齢福祉課にお勤めされていて、僕らの様子を見かねて提案して下さいました。

僕は、もう、これしかない、と思いました。そして母に、「そうしよう。お父さんには可愛そうだけど…」と言う僕の言葉に、母も納得してくれました。

当時、父は、市民病院の精神科を受診していたのですが、市民病院では精神科での入院はなく、同じ市内にある、とある精神科単科の医療法人の病院があり、そちらへ紹介状を持っていく事になりました。

当初、母は父の入院に積極的ではありませんでした。母は事あるごとに「おとーさんが私の事をちゃんと認識してくれる間は施設とかには入れたくない。可哀想」と言っていたのです。しかし、もうこれは看過できない状況だと僕は判断し、強く入院を推し進めました。


しかし、ふと、ショートステイを利用しようとしたときの事が頭をよぎりました。
また、暴れるんじゃないか…

やはり、病院へ行く最中、父は落ち着きなさげでした。普段なら僕が運転をして母と父は後部座席なのですが、その日は念のため母が運転し、僕が父と二人、後部座席に乗っていました。「何処へ行くの?」「何しに行くの?」何度となく父の問いかけがありました。その度に僕は「おとーさんの身体の状態を詳しく検査しに行くんだよ」「ちゃんとしたお医者さんに診てもらうんんだよ」と言いながら。


初診であったため、2時間位、待っていたと思います。
父も、いつもと違う雰囲気に、なんとなく緊張していたのでしょう。いつもより言葉少なげでした。

そしてやっと診察。とりあえず、親子三人で診察室へ入りました。
その医師は(後から知ったのですがその方、その病院の院長先生)、すでに紹介状を読んでいただいたようで、色々、察して下さっていました。「認知症」と言う言葉を使わず、巧みに僕らから生活状況を聞き出しました。

そこで、院長先生は僕を指差し「こちらはどの様な関係の方ですか?」と父に尋ねました。父は「ん~なんていうか、ご近所さん…かな~親戚の人」と。

このときばかりは、僕もショックを隠せませんでした。自分の息子に向かって「ご近所さん」「親戚の人」そんな認識でいたなんて…しかも短い時間とはいえ、つい最近まで一緒に暮らしてきたのに。

泣きそうになるのを必死にこらえて、診察を見守りました。そして父は看護師さんに連れられ別室へ。院長先生から「入院…ですね。もう大変でしょう?」と。母と僕は我慢しきれずその場で泣いてしまいました。「はい…ありがとうございます。スミマセン。よろしくお願いします」

そして、父はその日のうちにその精神科の病院に入院することが決まりました。


入院のため、色々な検査をその日のうちに行い、母は事務的な手続きに僕は父に付き添い院内を回って、いよいよ入院病棟へ案内されました。

病棟に上がると、男性の看護師さんが出迎えてくださり、父と並んで病棟内の案内を始めました。そこで僕はピンときて、父が看護師さんと先を行くのを見送りながら、そっとそのそばを離れ、病棟を出ました。

病棟の看護師さんには申し訳ないと思いましたが、とにかく父を刺激せずあとは任せよう、と僕は判断し、何も言わず病院を出ました。

後から聞いた話ですが、それから2週間ほどは、かなり荒れていたようです。詳しくは聞きませんでしたが。しかし、1ヶ月もする頃になると、驚くほど穏やかになっていました。面会に行くと、病院への不満も言わず「家に帰りたい」とも言わず「ありがとね。ありがとね」と言っていつも笑顔でいてくれました。

下の写真は入院して2~3ヶ月の頃の写真です。



僕はしばらくして、実家を離れました。
父の介護をすると決め介護離職するタイミングで、自分自身のセクシャリティやHIVのことなど母には話をしてありました。今後、僕自身の健康状態もどうなるか分からなかったし、このまま実家に残るにしても、全てを隠してはおけない、と思ったからです。

父が入院し、介護の必要性がなくなった時、母に「おかーさん、僕、ここ(実家)に残ったほうがいい?」と尋ねました。しかし母は、「病気のこともあるし、田舎にいるより都会に出たほうがあなたは生きやすいでしょう?」と言われ、その言葉に甘える形で、僕は実家から車で1時間半程度の中核都市へ就職し一人暮らしを始めました。

それからは月に一度、父の見舞いと母の一人暮らしの手伝いを兼ねて帰省していました。



しかし、母の苦悩は解消されていなかったのです。

2023年10月1日日曜日

死を考える③父の命日に思う。その2

 「死を考える③父の命日に思う。その1」からの続きです。



父は60歳の半ば頃からうつ病を発症していました。その頃の父の日常というのは、ほぼ自室にこもりきり。部屋から出てくるのは食事・排泄・トイレと、日課のトレーニング。

父は精神科の主治医から運動をすると良いと言うアドバイスを聞き、市のスポーツセンターに、ほぼ毎日のように通っていました。大体、行く時間も決まっていて、夕方の4時頃だったと思います。マシントレーニングとエアロバイクをしておおよそ1時間強、スポーツセンターで過ごし帰宅。そして夕食。そんな流れの中で過ごしていたと記憶しています。

ただ、このルーティンの毎日で、良くも悪くもうつ症状に変化がありませんでした。


うつ病を長く患っていると、顔をみるだけで「あ、この人はうつ病だろうな」と気付くことがあります。


よくあるのが上の図に示した6つのパターンですが、僕がよく見かけるのが「無表情」「ぼんやり」「元気がない」です。

父はもともと話し好きではなかったと思うのですが、もちろん楽しければ笑う事もありました。しかし、うつ病になってからはそれもなくなり、上の図の「元気がない」に該当していました。


そんな父ではあったのですが、認知症と診断された70歳の春頃から様相が変わりだしました。

相変わらずスポーツセンターに行くのですが、スポーツセンターのロッカーの使い方が分からなくなる、と言う症状から始まりました。どうやらスポーツセンターの職員さんに何度も使い方を教わるのですが、一向に覚えられなかったそうです。

次は車の運転ができなくなる。スポーツセンターまで行ったは良いけれど、帰ってこれない。なぜかエンジンがかからない、と。その時は姉の旦那さんが様子を見に行ってくださり、どうやらシフトレバーの位置とキーを回すタイミングが分からなくなったようでした。

そんなことがあったため、スポーツセンターへは母が送り迎えすることになったのですが、運動を終え、母を呼ぶために携帯電話を使うのですが、それが使えなくなる。またスポーツセンターの職員さんに携帯電話の使い方を教えてもらう、などしていたようです。

実はそのスポーツセンターの職員さんの中に姉の同級生の方がいらして、その方から姉にも心配の連絡が入るようになったそうです。

その頃になってそろそろ本格的に「ヤバい」と言う事になり、母からヘルプの電話が入るようになりました。

僕はその頃、離れて暮らしていました。そして上記にあるような出来事は、後から母や姉から聞くことになるのですが、色んな人に迷惑をかけ始めたから何とかしなかれば、と言う事になり、僕は実家のある市の市役所にある「地域包括支援センター」へメールをしました。


僕は、「本人も家族もギリギリになる前に手を打たなければ」と思っていたので、できるだけ早く介護認定を受けてもらい、介護サービスに繋げたほうが良い、と考えていました。メールを出してすぐに地域包括支援センターの主任ケアマネジャーさんから直接お電話いただいたので、父の状況や現在の家族の状況などお伝えし、母に了承をもらった上で「介護認定調査」を受ける算段をすぐにとりました。認定調査当日はもちろん僕も同席し。

父には「介護認定調査」と言うキーワードは使わず「今後のお父さんのために、お父さんの身体の状態を確認しに来る」と言うような説明をした記憶があります。


認定調査の結果、父の要介護度は「要介護1」でした。介護度は、主に認知機能と身体機能の低下がどの程度ありどの程度介助が必要か、また介護力(ご家族などの介護への協力の度合い)などを総合的に見て判断されるのですが、父は足腰は丈夫でしたので主に認知機能の低下に対する評価と介護力である母の状態が反映されていたと思います。母は当時、働いていたのでそれらも考慮されていたのではと思います。

「要介護1」でしたので、実際に介護サービスが受けられることになったのですが、その前にケアマネジャーを探さなければなりません。僕は、インターネットを使って、居宅介護支援事業所を探し、内科クリニックが母体の認知症のグループホームに附属する居宅介護支援事業所を見つけ、もし今後、在宅介護が困難になった時にそちらのグループホームを利用することも出来ないかと見越し、連絡を取りました。

結論から言えば、そちらのケアマネジャーのうちのお一人が父の担当となったのですが、グループホームも入居者がいっぱいで、必ずしも利用できるようになるとは言えない、とのお返事でした。しかし、父は「元気な認知症」なので、身体機能が保たれている間は、それを活かした介護をしてもらいたい、と思っていましたので、とりあえず担当ケアマネジャーさんにその意志だけはお伝えしておきました。


父の認知症の診断が出てから、ケアマネジャーが決まるまで、おおよそ1年位だったと思います。

この父の一件があったことで、母に連絡を取ったり足繁く実家に帰省したりとしていたのですが、正直僕は「早く“誰かが”何とかして欲しい」と思っていました。当時僕は、30代半ば。その頃すでに僕はHIV陽性者であり障害者だったのですが、セクシャリティも含め家族や血縁者には誰にも伝えておらず、「家族と関わること」「実家に帰省すること」それらがとても後ろめたく、どうしても早くこの問題が僕の手から離れて行ってくれることを望んでいました。

薄情なものです。

その「手を離れる」ための手段として「介護認定を受けケアマネがある程度、家族介護に介入してくれる」事を望んでいたのです。

表向きは父や母のため。
でも本心は僕自身が早く楽になりたかったから。


あとは、父の状態と母の様子・希望などを相談しながらケアプランを立ててくれ、ひとまずは「僕の手を離れた」と思いました。

ホッとしました。
これが本音です。


結局父は、2回/週のデイサービスの利用から介護サービスを始めることになりました。

母の仕事は、仕出し弁当などを作り、その他にもお惣菜などを作る仕事をしていたのですが、早朝に出勤しお昼過ぎ頃帰ってくるお仕事でした。母は、起床後、自分の食事をし父の朝食を食卓のテーブルに用意しておいて出勤。デイサービスのある日は、そのお迎えがくる時間に合わせて仕事を中抜けし、父を見送ってから再度出勤。夕方、父がデイサービスから帰ってくる頃は自宅で出迎える、と言うようなサイクルでした。

もちろん、デイサービスのない日は、日中、父を自宅に残して出勤していたのですが、その間、父は何をしていたのか…

母もあまり把握していなかったようですが、テレビを見ているか頻繁に散歩にでかけていたようです。それは、同じ地区に住む人達がよく父が散歩している姿を見ていたようで、もちろん顔見知りだと挨拶もしていたようです。しかし、とんでもないところまで行くことはなく、ありがたいことに毎日、自宅には帰ってきていました。


上の写真は実家周辺の風景なのですが、幸か不幸か道は一本道で、迷いようがなかったかもしれません。それでも必ず家に帰ってきてくれたということは本当に良かったことだと、今では思っています。


僕としては、比較的早めに父の認知症を見抜けていて、投薬もそして介護保険利用も、先手先手を打ってきたつもりです。それを僕は自分を正当化させる言い訳にしてきました。しかし、結局は、認知症は進行していく病気。徐々に父の様相も変わってきました。


相変わらず、足腰は強く転んだりふらついたりすることはなかったのですが、日常生活のあらゆる事に手がかかるようになってきました。

最初はトイレの失敗。
尿意や便意(おしっこやうんちをしたい、と思うこと)はあるようですが、トイレに行って便器に向かって用を足す、という動作が間に合わなくなることが目立ち、リハビリパンツ+パットをすることから始まりました。


その次はお風呂。
ただ、お風呂に関しては、そのトイレの失敗が始まった頃から、母が「キチンと洗えているか心配」とのことで、自宅のお風呂で母が介助しながら入ることになりました。

この段階で「要介護2」となり、デイサービス利用も4回/週に増やしました。基本的に、デイサービスに行った日は、入浴をさせてもらえていたので、その他の日に関しては、母が「可愛そうだから」と、お風呂の介助をしていました。


この頃の僕は、正直、帰省するとこういう現状を目の当たりにし、責任感を感じるとともに現実逃避をしたくなるため、帰省するのは盆正月くらいだったので、帰省のたびに母から話を聞き、励ましながら、しかし逃げるように実家を後にしていました。


そうこうしているうちに、認知症の周辺症状というものが顕著に出だしました。



父の場合は、多動と暴言です。

たまたま、僕が帰省している時に遭遇したのですが、父の中の何かのスイッチが入ると、元気だった頃とはまるで想像が出来ないような言葉や言い方で、母に怒鳴り散らす現場に居合わせたことがあります。僕は、一瞬、フリーズしてしまいました。

感情に任せて僕も強い口調で父を責めるのか
穏やかな口調で父をたしなめるのか

僕は後者をとりました。とりあえずその場は落ち着かせることが出来たのですが、これが毎日続いたら、母がまいってしまう…


そこで僕は、母に「ショートステイ」の利用を勧めました。どうやらケアマネさんからも言われていたそうなのですが、なかなか踏み切れず、僕の強いすすめもあってやっと利用の手続きをしてのですが…

施設にはケアマネさんも同行してくださり、母が運転する車に施設に向かっていたのですが、もうすでに父は普段と違う風景、そして行動に何かしらの異変を察知していたようであまり落ち着きがなかったようです。とりあえず施設に入り、職員さんに付き添われながら案内を始めたところで、そっと母とケアマネさん二人は、施設を出て帰宅することになったのですが…

その帰宅する車中、施設から電話が入り、父が暴れて手がつけられないと連絡が入り…仕方なく、母は連れ帰ってきたそうです。


その話を聞いた時に、僕は「あゝ、これはもう限界だな」と感じました。そして在宅介護を諦め、施設への入所を真剣に検討しだしました。もうその頃には父の介護度は「要介護3」でした。

そして、父が何らかの形で在宅介護から施設介護へ切り替わるまで、僕自身も実家に戻る決意をしました。



そこから僕は実家に戻り、父と母と生活を共にすることとなりました。

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