自己紹介

自分の写真
オンラインカウンセリング「勇者の部屋」の産業カウンセラー勝水のブログです。セクシャルマイノリティ(ゲイ)・身体障害者(HIV陽性者)・精神障害者(双極症)の当事者としての目線と、理学療法士・社会福祉士・産業カウンセラーとしての目線で、今まで経験したことや普段考えていることなど、様々な情報発信をしております。

2023年11月21日火曜日

そろそろ本当の話しをしましょう(HIV)その⑥

 そろそろ本当の話しをしましょう(HIV)その⑤からの続きです。(今回は文章のみなので覚悟して下さいwww)



ボクが臨床心理士のKさんの心理カウンセリングを受け始めて2年位経った頃でしょうか。Kさんから「同じHIV陽性者でゲイの人達を集めて“自助会”をするんだけど、勝水さんも参加してみますか?」とお誘いを受けました。

「そろそろ本当の話しをしましょう(HIV)」のシリーズで何度もお伝えしてきた通り、当時、ボクは他のHIV陽性者の人たちがどのような療養生活を送っているのか、全く知る事ができなかったので、それを見越してKさんは声をかけてくださったのだと思います。

また、そのような「自助会」自体、Kさんが初めて企画するようでしたので、全くの未知数でしたが、ボクはとても興味が湧きました。

しかし…

もしかしたら参加者の中に、過去にボクと肉体関係を持ったことがある人がいるかもしれない…

そんな思いが頭を過りました。
まあ、でも、その時はその時かぁ~なんて思い、ほぼ二つ返事でお願いすることにしました(これは後から知ったのですが、この自助会の参加者はKさんが『この人ならこーゆー場に出てもらっても大丈夫だろう』と言う判断のもと声をかけていたそうです)。


当日は確か、土曜日の午後だったと思います。
いつもはボクらが診察してもらっている診察室の一室を貸し切って、5~6人のメンバーが集まりました。ファシリテーターはKさん。

一通り自己紹介が終わって「さて、何の話しをするのかな?」と思っていたら、Kさんの「さ!皆さんでどうぞお好きに何でも話して下さい!」と言う無茶振りから始まりました(笑)。

皆、初対面だよ!
確かに「HIV陽性者」で「ゲイ」と言うくくりで集められているとは言え、そんな急にふられても何を話して良いのか…

皆が「キョトン」とした顔でモジモジしながら、バツの悪そうにしていました。
もう20年近く前のことなので、誰が何を話し始めたのか、全く記憶にないのですが、確か1時間半くらい、何かの話題で話をしていたと思います。


そんな感じで始まった自助会。
2~3ヶ月に1回程度の頻度でKさんが主催し開催されるようになりました。集まるのは大体、同じメンバーで徐々に打ち解け合い、自助会の後に少しお茶をする機会もありました。また、Kさんの発案で「勉強会」の様な事も催され、「HIV感染症」と言う病気を通して人と人が繋がりそしてお互いに情報交換や情報共有する場が出来上がっていきました。

まさにセルフヘルプグループ。です。


その後、その自助会の参加者の中からSさんと言う方が「自分たちで自助会を作ろう!」みたいな話が持ち上がりました。Sさんがどういう経緯でその様に思い立ったのか全く知らなかったのですが、臨床心理士Kさんが主催する自助会に参加している人たちが、ある意味「巻き込まれる」形でそのSさんの申し出に乗っかる事になりました(笑)。

それが『LIFE東海』と言うNGOです。

色々な事をSさんが旗振りをして仕切ってくださっていたのですが、当時、ボクは教員をしていて臨床にいた頃より時間に融通が効くようになっていたので、ボクはSさんをお手伝いする形で「LIFE東海」の本格的な始動に関わりました。LIFE東海は、東海地区のHIV陽性者のための支援をメインの活動とし、1ヶ月に2回PGM(ピアグループミーティング)を開催することになりました。

ボクは一応、副代表と言う形でしたが、主に事務局的な役割をしていて、スキマ時間に書類を作成したり記録をとったり。

また、その頃、「エイズ予防財団」など、HIV/エイズ界隈では、LIFE東海のような自助会などのNGO団体の育成に力を入れてくださっていて、「助成金の申請方法の仕方」「PGMの運営の仕方」などの研修会を開催していただいていて、ボクやSさん、他の運営に関わってくれているメンバーも積極的に参加していました。

それと同じ様な時期に「特定非営利活動法人 日本HIV陽性者ネットワーク・ジャンププラス」が行っている「スピーカー派遣活動」に関わる「スピーカー養成講座」にも参加し、ボクは「HIV陽性者当事者として講演するお仕事」をすることにしました。


ボクはこの頃の経験したことが、今、とても役に立っていると思っていて。

サイト(ホームページ)の作り方や見せ方、PGMなど人が集まる時にファシリテーターがどの様な役割をしどのような動き方をするのが良いのか、助成金などのお金にまつわること等など「お仕事」では経験することのできない「コミュニティの運営」や「損得勘定のない人間関係」と言うものの必要性、人前で話をする時にどの様にすると自分の伝えたいことが伝わるかなど、本当に多くの事を学びました。



それから色々あってボクは社会の表舞台から退いて、ひっそりと生きてきました(笑)が、個人事業主として活動し始めるに当たって様々なSNSを運用するようになり、この頃築いた人間関係がとてもとてもありがたい形で再び蘇り、切れかけた縁がまた繋がったり行き来をするようになったりして、「ボクは人生で大きな過ちを犯したけれどそれでも大切にしてくれる人がいる」と、今また実感できるようになり、ボクは本当に幸せものだと思っています。

そしてボクは「人に恵まれている」事に本当に感謝しています。




「そろそろ本当の話しをしましょう(HIV)」はとりあえずここで一区切りにしたいと思います。もしこのシリーズを読んでのご感想や聞いてみたいことなどありましたら、お気軽にコメントを残していただけるとありがたいな、と思っています。

2023年11月20日月曜日

そろそろ本当の話しをしましょう(HIV)その⑤

 そろそろ本当の話しをしましょう(HIV)その④からの続きです。



前回までは主に、臨床心理さんKさんとのカウンセリングについてお伝えしてきました。今回は、陽性告知を受けてからの健康状態や投薬を始めるまでの生活状況などお伝えしたいと思います。



HIVに感染したと思われる時期から半年以上、微熱や倦怠感でかなり体力的に消耗し、毎日疲労感を感じながら仕事をしながら生活をしていました。

2003年11月に陽性告知、すぐエイズ拠点病院に受診し各診断をうけ、年越しを迎えました。

ボクは、実家を離れてからずっと、年越しは必ず実家で過ごすことにしていたので、その年の年越しも実家に帰省し、年を越したのですが、気分は最悪…もちろん、病気の事は両親や姉には伝えることはできず、でも何だか「嘘をついているような罪悪感」があり、とても居心地が悪かった記憶があります。

そしてしばらくしてからボクは、頻繁に下痢を起こすようになりまた、常に疲労感を感じるような体調でした。仕事柄(理学療法士)日々、体力を使う仕事だったので、仕事が終わった後は本当に疲労困憊でした。

一度、定期受診の時に主治医に聞いたことがあります。ボクのこの症状は一般的なのか、と。先生からの答えは「よくあります」とのこと。下痢に関しては対症療法で下痢止めを処方していただきましたが、疲労感に関してはどうしようもありませんでした。


また、食べても食べても体重はやや減っていく様でそれも加えて体力が落ちていく感じがありました。

「そろそろ本当の話しをしましょう(HIV)その③」で少しお伝えしましたが、HIV感染症の治療で重要になるCD4リンパ球の数というのは、200/μLを下回ると日和見感染症と言って、健康な人であれば感染することのない、非常に弱い菌やウィルスにまで感染してしまう状態に陥ってしまいます。


上の表の様にエイズ指標疾患は23疾患あり、このうち1つでも確定診断がつけばその人は「エイズ(後天性免疫不全症候群)」と言う診断になります。

また、ボクが通院していた当時、身体障害者手帳の申請ができるのはCD4が200/μLを下回らないと申請できず、かつ薬物療法も始められないため、ある意味、体調がギリギリまで落ちないと薬物療法も始められない状況でした。


徐々に体調が悪く、また理学療法士として働く体力に自信がなくなっていくうちに、ボクは「転職」を考えるようになりました。また、当時、住んでいた場所が地方都市であり、身体障害者手帳を申請しても、福祉サービスがあまり充実しておらず、転職とともに政令指定都市へ転居、というのも、具体性をもって考えるようになりました。


実はボクは当時、医療短大の頃の恩師の影響で「理学療法士を養成する学校の教員になりたい」と思っていました。そしてちょうどその頃、ボクの母校である医療技術短期大学部が四年制大学へ移行し「医学部保健学科理学療法学専攻」になり、保健学科の学部生が卒業すると同時に大学院も設立。ボクは母校の大学院に入学したい、とも思っていました。それは「理学療法士を養成する学校の教員になる」ためにある意味必須で「修士号」または「博士号」を取得することが、ボクのキャリア・アップのために必要なことでした。

そしてボクの思いが具体性を持って動き出したのは、2004年になってからです。
まずは手始めに、仕事をしながら大学院の「科目等履修生」の制度を利用して、いくつかの大学院の科目を履修しながら、大学院の卒論に当たる論文を書くための基礎研究を、恩師の協力の下、始めました。

そして翌年2006年に正式に「大学院医学研究科修士課程」に入学することができました。

科目等履修生のころからではありましたが、昼間は理学療法士として働き、夕方から修士課程の講義ならびに自分の実験(当時はマウスを使った実験をしていました)をすると言う、二足のわらじを履いていたのですが、何と言っても30代前で若さもあり、体調が悪いと言ってもなんとか踏ん張りが効く年齢でした(笑)。

実は、科目等履修生から修士課程に入学する2005年に、ボクは念願の「理学療法士養成校の教員」となりとある専門学校に就職する事ができました。


専門学校に就職し、とにかく無我夢中でした。
自分の研究はもちろん、講義、学生指導、学会発表など、慣れないことばかり。そしてそれまでボクは医療機関に勤めていたので、福利厚生で時期になると「インフルエンザの予防接種」をしていたのですが、専門学校に就職した年はそんな事もすっかり忘れていて予防接種を受けず、人生で初めて「インフルエンザ」を経験しました。

専門学校は土日祝日が休みだったのですが、その他に平日に一日「研修日」と言って、自分自身の研究活動や臨床に割り当てても良い(要は出勤しなくても良い)日がいただけたので、その曜日を研究活動および受診日に当てることができたので、ボクはあえて職場に病気の事を開示はしていませんでした。

実はその頃からボクの免疫力は一気に低下していました。
専門学校に就職した夏頃から、主治医から「そろそろ投薬を考え始めたほうがよいかも」と言われていました。その頃のCD4は200
/μLをうろちょろしていて、障害者手帳もそろそろ申請しようということになり、投薬が始まる前に身体障害者手帳を申請しました。その直後ぐらいでしょうか、ボクは職場からの命令で、1ヶ月間に及ぶ長期講習会を受けることになりました。しかも大阪でマンスリーマンションを借りて。

その長期講習会へ出発する直前の定期受診で主治医からは「その講習会から戻ってきてから服薬を考えましょう」と言うことになり、その時の受診時に薬剤師さんから、お薬の説明をうけ、おおよそボクはどの薬を服薬するかを決めて、長期講習会へ参加しました。


長期講習会自体は比較的楽しくて(笑)また大阪には友達もたくさんいたので、週末になると誰か彼かと遊びに行ったりして息抜きもしていました。また、専門学校の学生からは、定期的に卒業研究の相談のメールがあったので、まあそれなりに忙しくしていました。

でも、それほどストレスフルには感じていなかったのですが…

長期講習会から戻ってきてすぐに定期受診。
ボクはいつも、診察の後に血液と尿を採取して、その結果は1ヶ月後の受診時に聞く、と言うスタイルだったので、その時の定期受診もとりあえず長期講習会に参加中の体調等報告して、採血・採尿して帰宅しました。

それから恐らく1週間した後だったでしょうか。
病院から電話がかかってきました。「勝水さん、体調は大丈夫ですか?できれば早めに受診してほしいのですが…」と。ボクはなんとなく察し、早めに受診の予約を入れました。


「勝水さんCD4が28です。早速、服薬を始めましょう」
ボクは長期講習会に参加している間に、大きく免疫力が低下していたんです。幸い日和見感染症などの症状はなかったのですが、普段と違う生活環境などの影響もあったのでしょう。ボクはすぐに服薬を開始しました。

当時、2種類の薬を2回/日、しかも食後に服薬しなければならず、やや面倒でした。時間的に朝食ごと夕食後に決めて服薬し始めたのですが、夜はどうしても食事が不規則になりがち。食べられないときは100%のジュースやおにぎり1個でもいいので食べてから、と薬剤師さんからの指導でしたので、なんとかそれを実行していました。

しかし服薬し初めてすぐ副作用が…
常に腹部がムカムカするような吐き気と頭痛です。
すぐに定期受診外で主治医のところへ行き相談し、対症療法のお薬をもらい、それで1週間ほどで副作用は消失しました。

しかし、服薬して1ヶ月が過ぎた頃、体に痛痒いような発疹が出てきたのです。


ちょうど上の写真のような状態でした。
ボクはすぐに気づきました。「帯状発疹だ」と。
帯状発疹は、HIV感染症の治療であるHAART(現:ART)と言う治療を始めた初期に出現するという「免疫再構築症候群」というものの中に「帯状発疹」が挙げられていて、ボクはその知識があったので、すぐに受診しました。

帯状発疹は放置して治療が遅れると、つらい痛みが後遺症として残り、かなりQOLを下げると言われていることを知っていたので、とにかく早く対処しなければ、と思っていました。

幸い、気づいてすぐに受診し、服薬や塗り薬などで程なくして回復しました。


こうやってボクのHIV治療は、ドタバタとかなり急ぎ足で始まっていきました。



そろそろ本当の話しをしましょう(HIV)その⑥では、臨床心理士さんの開催していた自助会とその後に発足した「東海地区のHIV陽性者のための支援団」体立ち上げに関して、少し触れたいと思います。


2023年11月17日金曜日

そろそろ本当の話しをしましょう(HIV)その④

 そろそろ本当の話しをしましょう(HIV)その③からの続きです。




臨床心理士Kさんとの心理カウンセリングを、月に一度、受けることになったボク。どんなが対話があったのかというと…


最初の頃は、とにかくボクは自分を責め続けていたと思います。
HIVに感染したと思われる時期というのは、20代の大半を一緒に過ごしてきたパートナーと別れた比較的直後で、しかもパートナーと破局する原因を作ったのは、ボクの浮気でした。そして当時のボクは性活動がとても盛んで、多くの人と肉体的な関係を持っていました。そんな事実が重なり、ボクは「感染したのは自業自得」「自分の行いが悪かったから」そう自分を責め立てていました。

そしてボクが友人や元カレにHIV感染のことを開示し、皆が優しく受け入れてくれたのにも関わらず、ボクは自分自身が許せなかった。

そして両親への思い。
五体満足に生んでくれて、それまで両親は、ボクがやりたいと思ったことを好きなようにさせてくれていた。もちろん経済的に困ることもなく何不自由暮らしてこれたのも両親のおかげであるのに、ボクは一時の快楽に身を任せて自分の健康を害するような事をしてしまったことに対し、本当に自分が許せなかった。

そんな思いをKさんの前で、時に涙を流しながら話しをしました。

ボクはもう、幸せになってはいけない。
ボクは大きな十字架を背負っていかなければいけない。
そしてこの事実は誰にも言ってはいけない。絶対に。
そんな事を考えて、素直な気持ちをKさんに吐露していきました。


おそらく1年位は同じ様な話しをしていたような気がします。しかしKさんとの対話を通じて、徐々に「幸せに生きていってもいいのかな」「自分がやりたいと思ったことを今まで通りにやっていってもいいのかな」「今ボクが一番やりたいと思っていることはなんだろう」と、前向きに『生きる』事を考え始めました。

そして徐々にボクは「自分を許す」と言うことにたどり着いていきました。
このままの自分でもいいんじゃないか。
HIV陽性者である自分も、それも自分だよな。
もうこの事実は変えられないし、治癒しない病気になったんだから、いい加減自分を受け入れないと。

そんな事を思うようになりだし、心理カウンセリングのなかでも前向きな自分を表現するようになったのが初診から2年くらいたった後でしょうか。

その頃、Kさんからある相談をされました。
「勝水さんのケースをエイズ学会で発表したい」
そんな申し出でした。

ボクは少し迷って、条件付きで了承しました。その条件とは「学術集会の抄録を発表前に読ませて欲しい」と言うことです。

Kさんは快く了承してくださいました。

なぜボクがこのような条件を出したかというと、ボクの心の変化の過程を専門家はどんなふうに分析し解釈しているのか知りたかったからです。

そのケーススタディのタイトルが『他者受容より自己受容』と言うタイトルでした。


一通り抄録を読ませていただいて、なんだかスーッと腑に落ちたように思いました。
あゝ、ボクはずっと自分で自分を受け入れられなかったんだ。
周りの人がどんなにボクを受け入れてくれたとしても、自分が受け入れなかったから楽になれなかったんだ。
ボクはこのままのボクで良いんだ。
ボクはボク自身がHIV感染症やAIDSに対して、とてもネガティブな事しか考えてこなかったんだ。


それからの心理カウンセリングは、HIV/AIDSとは直接関係のない話し、例えば仕事のことであったり恋話であったり家族関係のことであったりと、それまでとは毛色の違う内容へと変化していきました。


Kさんとの対話の中で時々出てきた話題が「ボクは宙ぶらりんな状態が嫌い、耐えられない」と言うボクの心理状態についてでした。

HIV陽性告知を受けたのが2003年の11月。
それから心理カウンセリングを重ねていくなかで「ボクがやりたいことはなんだろう」と考え始め、その1つが「大学院に進学する」と言うものでした。そして2008年に大学院修士課程に入学することができました。また、その頃、転職も経験しているのですが、とにかくボクは「試験を受けてから結果がでるまでの“宙ぶらりん”の状態がとてもとても不快だった」。

ボクはKさんに、何度も何度も、何度も何度も「この宙ぶらりんの状態が嫌だ!」と訴えていたのです。

その頃のボク自身の自己分析として「白黒はっきりつけたい」とか「竹を割ったような」とか「優柔不断が嫌い」とかそんな言葉で表される様な性格をしていました。

ですので、転職するときもそうでしたし院試を受けたときもそうでしたが、その結果が出るまでの数週間は「落ち着かない」と言うレベルではなく「不快」と言うレベルでの不安定な気分でした。

そんな事があるたびにボクはKさんに「この状況、早く何とかしたい」「とにかく早く落ち着きたい」と言う気持ちをお伝えしたのですが、いつもの笑顔とあの柔らかな言葉遣い
「揺れるのがそんなに嫌ですか?」
「ゆら~りゆら~り揺れるのも良いものですよ」
「こういう状況を楽しんでみては?」
などの言葉をもらったのですが、いまいちボクには響かなくて(笑)口では「そうですね~」とか「そう思えるようになりたいですね」などと全く心にもないことを口にしていました。

おそらくKさんはそんなボクのキモチに気付いていたと思います。

ボクにとってこの「宙ぶらりんな状態」というのは、とてもストレスフルな状態やった。でも、転職にしろ大学院の院試にしろ、「ある期日がくれば答えが分かる事」なんだよね。Kさんはきっと「待つことも楽しみする」と言う事を暗に言っていたのかな~って思うの。


人は精神的ストレスに晒されたとき、それに対してなんとか対処しようとするんやけどそれを『(ストレス)コーピング』と言うん。で、そのコーピングは上の図のようなやり方に分類することができるんやけど、ボク自身「健康的なコーピング」を自分の中に、たくさん持っていなかった。

例えば上の図の「直接的・消極的」に『感情を抑える』っていうのがあるでしょ。まさにコレをしようとしていたんだと思う。また「間接的・消極的」に『アルコールやタバコで気を紛らわせる』と言うのも当てはまるかな。ボクの場合アルコールではなく、例えば一晩だけの相手と肉体関係を持つ、とか。そういう「不健康なコーピング」しか持っていなかったんだと思う。

それって本当に不健康(笑)


Kさんとの心理カウンセリングでは、そんなボクの「心の不健康さ」を沢山、指摘してくれたように思う。けれどね、心理カウンセラーは、ズバリそのものを言わないんだよ。「あなたのその対処の方法、不健康だからやめなさい」とはね。ある程度、信頼関係(ラ・ポール)が形成されていれば、伝えることもあるかもしれないけど、ほとんどの場合、答えは言わない。

それは、クライエント自身が『気づく』ことに重きをおいているから。
なぜ『気づき』が大事かというと、それが「内的動機づけ」になって、自ら変わろう、変化しようと言う思いにつながるから、です。



十数年前のKさんとの対話をこうやって思い返してみると、今やっと気づけた(笑)。そんな気がする。もし、あの時、ボク自身が気付けていれば、今のボクの有り様というのは変わっていたのかもしれないな~

ま、結果論だけど。



次回、そろそろ本当の話しをしましょう(HIV)その⑤では、ボクの体調がどの様に変化して言ってどの様な治療を開始することになったのか、日常生活の様子を交えながらお伝えしたいと思います。


2023年11月16日木曜日

PGM(Peer Group Meeting:ピア・グルーブ・ミーティング)とは

 「勇者の部屋」でも開始しましたプログラム
『メンタル不調を抱えるゲイ・バイセクシャル男性のためのPGM』
『メンタル不調を抱える対人援助職者・感情労働者のためのPGM』
の“PGM”とは何か、を少し説明したいと思います。


ボクが社会福祉の勉強をしていた頃は『セルフ・ヘルプ・グループ』と言う言い方が一般的だったと思います。

セルフ・ヘルプ・グループとは…
Self Help Group
病気や障害、悩みなど、同じ問題を抱えた当事者同士が自主的につながり、問題解決のために経験や悩みを分かち合う集団です。自助グループ、当事者組織、本人の会などとも呼ばれます。


では、ピア・グルーブ・ミーティングとは…
Peer Group Meeting
病気を抱えて生活する仲間同士が集まり、意見や経験談を語り合う場です。一般的に「同じような問題を抱えている人同士が集まる語り合い」です。ピアサポートとは、仲間としての支え合いを指し、集団での支え合いの場合は、自助グループ(セルフヘルプグループ)と呼ばれます。


では両者に何か大きな違いがあるかと言うと、ほとんど無いでしょう(笑)
セルフ・ヘルプ・グループというのは当事者で構成された組織そのものの名称であるのに対し、ピア・グループ・ミーティングというのは、当事者が語り合う場の事を指し示していると考えていただければ、と思います。


ボクが

『メンタル不調を抱えるゲイ・バイセクシャル男性のためのPGM』
『メンタル不調を抱える対人援助職者・感情労働者のためのPGM』

を始めたのは、ボク自身が両者の当事者であるから、と言う意味合いが大きいです。

ボクは「メンタル不調を抱えるゲイ男性」であり「メンタル不調を抱える対人援助職者」でもあります。つまり、このPGMを主催してはいますが、同時にボクは当事者です。

ボクはこれらのPGMに『ピア・ファシリテーター』として参加しますが、あくまで『ピア(Peer:当事者)』なので、話しをまとめたりタイムキーパーとして動きますが、気持ちは参加者の皆さんと同じ、なんです。


PGMはあくまで当事者会なので「まとめ役の人が偉い」とか「年長者が正しい」とかそんな上下関係は、本来、あってはいけません。

参加者は、主催者も含めて、皆、同じ立場です。同じ当事者なのです。


ただし、参加する人たちが発言をしやすいように皆が『護られる必用』があります。そのPGMに参加して傷ついたり傷つけられたり、誰かを攻撃したり攻撃されたりすることは、ご法度です。そしてそれは、PGMの中だけでなくミーティングの時間以外にも考慮されなければなりません。

そのためにグランドルールがあります。
そのためにファシリテーターは、参加者へ最大限の配慮しなければなりません。


PGMの主催者として願うのは、ボクも含めた参加者の方々が「参加して良かった」と思えるような会であり続けたい、と言うことだけです。

そして「もうPGMに参加しなくても、自分は・私は大丈夫」と思えるようになり「また参加したいな」と思った時にそこにあり続ける会でありたい、と願っています。



もし興味を持たれましたら、ぜひボクが主催するPGMに参加していただければと思います。

2023年11月15日水曜日

そろそろ本当の話しをしましょう(HIV)その③

 そろそろ本当の話しをしましょう(HIV)その②からの続きです。




2003年当時『HIV陽性者のリアル』を知る術がなく、様々な不安を抱えたボクの『with HIV』生活。前回のお話しでも書きましたが、まずは1回/月の定期受診(毎回、血液検査を行う)し、免疫細胞の数とHIVのウィルス量を見ながら体調報告も兼ねて通院が始まりました。

『免疫細胞の数』と言っても、人間の体の中には多数の免疫細胞があります。


上の図のマクロファージ・NK細胞・好中球・キラーT細胞・B細胞・(樹状細胞)などが主な免疫細胞なのですが、HIVは下記の図のTリンパ球(キラーT細胞)の中でも『CD4リンパ球』と言う免疫細胞に感染します。


少し生物学的なお話しをしますと、ウィルスというのは細胞の『核』と呼ばれる部分だけの生命体で、ウィルスは細胞の中に取り込まれてその細胞の中だけでしか生きることができません。そして取り憑いた細胞を栄養分にして、ウィルス自身の分身を作るわけですが、その分身を作るたびに取り憑いた細胞を壊していくのです。

そういう意味ではウィルスは非常に弱い存在、とも言えるわけですが、いかんせんHIVは外敵から体を守るための免疫細胞に取り憑いてしまうため厄介なわけです。


話しをもとに戻しますね。

ボクが初診で検査したときは、CD4が600/μL台(血液1μL中に何個のCD4細胞があるか)だったと思います。ウィルス量は10の8乗個/mL(血漿1mL中に何個のウィルスがあるか)くらいでしょうか。

μL=1000000分の1L
mL=1000分の1L

CD4というのは、もともと個人によって持っている細胞数が違っていて、正常値は700-1300/μLと言われています。正常値でもかなり幅が大きいのが分かるかと思います。(これはボクの憶測ですが、ボクは元々CD4の数は少なめだったのではないかと思います)

当時のHIV治療ガイドラインでは『CD4が200を切ったら投薬開始の目安』でしたので、ボクはその日を、毎月の受診と検査で待つことになりました。もう一つ付け加えるなら、当時の法律では、CD4が200を切らないと(つまり投薬が始まるタイミングにならないと)身体障害者手帳が申請できませんでした。身体障害者手帳が申請できないということは、治療費の自己負担額は、毎回、病院の会計窓口で支払わなければなりませんでした。当時3割負担で、毎回の診察で1万円位は支払っていたと思います。



CD4というのはとても敏感な細胞で、その日の体調やストレスなどの精神的なものからもかなり影響を受けるため、血液を採取した時の状況で値が大きく変わることがあります。しかし長いスパンで見ていくと、ジワリジワリとCD4が下がっていくのが分かりました。

そして前回のblogでもお伝えした通り、ボクはこの間、月に一度、心理カウンセリングを受けることにしました。

保健所で陽性告知を受けた時に元カレと友人二人に開示してから、誰にもボクのHIVステータスについて開示することはなかったのですが、初診から2~3か月後、当時の職場の後輩二人に開示しました(その職場は上司があん摩マッサージ師でその下がボク、1つ年下と2つ年下の後輩の全部で4人だけの部署でした)。


ボクの心理カウンセリングを担当してくださったのはKさんという中年女性の臨床心理士さんでした。当時、心理職の地位というのは非常に低く、そもそも臨床心理士と言う資格も任意資格であるため、とてもめずらしい存在でした。

Kさんは長く拠点病院に所属されていて、HIV陽性者の心理カウンセリングを一手に引き受けてくださっており、また、セクシャリティなどの十分な知識と理解を持っていらっしゃる方でした(この方との出会いがあったからボクは心理職をしたいと思うようになった、そんな方です)。

初めましての時からいつも笑顔。
そして柔らかい言葉遣い。
言葉の選び方も丁寧。

今思えば、Kさんは本当に僕らHIV陽性者の患者のために、言葉通り「身を削って」尽くしてくれていたんだと思います。

拠点病院は土日祝日は休みで診療も9:00~16:30と言う時間帯でした。ボクの勤務先も公立病院でしたので、勤務は8:30~17:30で土日祝日が休み。だから受診の際は平日午後に有給休暇をとって受診していたのですが、心理カウンセリングに関しては診療時間外、しかもボクが仕事を終わってから公共交通機関を使って拠点病院に到着する19:00から1時間ほどの時間をわざわざ作っていただいて、心理カウンセリングをしていただきました。

当時、Kさんがどのようなポジションで雇用され、また残業代など支払ってもらっているのかなど、知るよしもありません。しかも心理職が心理カウンセリングを行って診療報酬が支払われるようになったのはここ数年の話なので、当時は心理職が心理カウンセリング業務をしたところで、病院の儲けにはならなかったはずです。


ただ…
ボクは、Kさんに沢山、救けていただきました。
ボクが初診で受診し、Kさんがその拠点病院を退職されるまでの4年間、ほぼ毎月心理カウンセリングをしていただきました。
そしてその方は、拠点病院に通院しているゲイのHIV陽性者のための自助会・当事者会も開いてくれました。しかも勤務外である土曜の午後に。
Kさんとは忘れられないエピソードはたくさんあります。

あかん、泣けてきた…



次回、そろそろ本当の話しをしましょう(HIV)その④では、そのKさんとの対話の中でとても印象的だったエピソードをいくつか紹介したいと思います。

最新のblog

 2024年11月28日(木)~30日(土)にかけ、東京において開催された『 第38回日本エイズ学会 』の『POSITIVE TALK 2024』にて、HIV陽性者の当事者としてスピーチをしてきました。まずは、その発表原稿の全文を、こちらでご紹介させて頂きます。 なお、読みやすい...