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オンラインカウンセリング「勇者の部屋」の産業カウンセラー勝水のブログです。セクシャルマイノリティ(ゲイ)・身体障害者(HIV陽性者)・精神障害者(双極症)の当事者としての目線と、理学療法士・社会福祉士・産業カウンセラーとしての目線で、今まで経験したことや普段考えていることなど、様々な情報発信をしております。

2024年1月24日水曜日

人はなぜ共感を求めるのか?

 医療や福祉の現場で働く人に求められる素養の1つとして『共感・共感力』がありますよね。何気なくこの『共感』と言う言葉を使っているのですが、なぜ人は共感してもらえると、相手位に対し肯定的に受け止めたり、親密になろうとするのでしょうか。




まずは、いつもの様に言葉の整理から(笑)

『共感』とは…
〘名〙 他人の考え、主張、感情を、自分もその通りだと感じること。また、その気持。同感。

[名](スル)他人の意見や感情などにそのとおりだと感じること。また、その気持ち。

共感とは、他人の気持ちや感じ方に自分を同調させる資質や力を意味する。すなわち、他人の感情や経験を、あたかも自分自身のこととして考え感じ理解し、それと同調したり共有したりするということである。その結果、ヒトは他人のことをより深く理解することができる。


以前、ボクが産業カウンセラーの養成講座を受けていた時、カール・ロジャースの来談者中心療法と言う心理療法の1つを勉強していた時、『心理カウンセリングの基本的な3つの態度』に「受容」「傾聴」「共感的理解」と言うのがあって、「共感と同情はどう違う?」みたいなディスカッションをしたことがあって。

そこで出た答えというか納得したのが〝同情(sympathy)が、悲痛や失敗など困難な経験やネガティブな状況にある他人を心配する感情に限定されるということに対して、共感(empathy)は、ポジティブな意味合いでも用いられる。〟って事。


「同情するなら金をくれ!」


そう、彼女も「同情」と言う一種の憐れみみたいなものに対してとても受け入れがたい感情だったのでしょう。

つまり「共感するなら金をくれ!」って思う人はあまりいない…と思うんですよ。『共感』ってプライスレスな価値があるって、皆さん、なんとなく分かっていると思うんですよね。


どんな精神的・心理的な理論でも(医学的な話し全般そうだけど)、そもそも遺伝的に生まれ持っているものなのか、それとも後天的に生育環境やいわゆる〝育ち〟による影響が大きいのか、と言う議論がなされるんだけど、この『共感』に関してもその議論があるようです。

遺伝的要素として語られる時、それが『進化の過程で何故ソレが必要になったのか』と言うことにフォーカスされることがあるんだけど、この『共感(力)』についても、進化の過程で必要となったから生まれてきたモノだ、と言う研究者がいるんですよ。


ダンバーDumber,R.I.M.とバートンBarton,R.A.(1997)は、次にような仮説を立てました。

霊長類が進化し発展を遂げた理由の一つに、捕食者に対抗する防衛手段として〝集団行動〟を獲得したことが挙げられるという。集団は、その集団を維持させることの優先順位が高いので、個体間にストレスを発生させるけれど、これを低減し、親和行動を促進させるために発達させたのが、多様な情動であると考えられる。また、身体の大型化に伴って脳の容量も増加し、他の個体の心を読みとる認知システム(心の理論theory of mind)が進化した。これが〝共感〟であると考えられる。

端的にいえば、集団行動を取るために生物は『共感』を獲得し、皆がその集団で上手く心地よく過ごすために獲得してきたんだ、と言う説です。


実はこの説には続きがあります。

『共感性』は生得的なものであり、同種の他個体に対する援助メカニズムであると考えている。これに従えば、子どもへの愛や信頼である子育てや親子の愛着が容易に説明できるからである。さらにこの『共感」のメカニズムこそが、ヒトが集団行動や絆を形成する基盤となると考えられる。このように考えると『共感』は、子育てという直接的な遺伝子複製を超えて、集団生活をする他個体に対してヒトがもつ利他的行動(間接的な互恵性)や道徳性とも関連する。ヒトが他個体を認識し、他人の心の理論を把持し、それに基づき親和的な社会生活をするうえで『共感』による基盤は必須なものと考えられる。


つまり、『本来は、上手く集団行動をしていくために獲得した〝共感〟は親子の愛着であったり利他的行動の説明がつく』と言っています。


ボク「利他的」と言う言葉、好きです(笑)

『自分のためじゃなく人のため』っていう行為・行動って、とても崇高なものだと思うんですよね。人として忘れちゃいけないもの、って思うんです。


先日の能登半島大地震。元日からとても衝撃的な出来事が起こりました。ボクは自分のメンタルを守るために、衝撃的な映像を見ないように1週間ほどは、積極的にSNSを見たり地上波のTVを見たりせず過ごしたのですが、徐々に、加熱的な報道が治まりつつある頃に、ネットニュースやSNSでその情報を見聞きしました。

とても驚いたのは、阪神淡路大震災や東日本大震災の時とは比べ物にならないほど、素早く的確な援助・支援が現地入りしていることです。

ボクの知人の医師もDMATとして3日間、現地に入られたとSNSで見ました。


これってすごいことだと思うんです。もちろん、自衛隊員など訓練された人たちが援助・支援をされているのは分かりますが、下手をしたら自分自身の命の危険さえあるやもしれない状況で、誰かのために活動する…ボクは感動すら覚えました。




心理カウンセリングにおいて『共感』はとても大切なキーワードになります。『他人事ではなくて自分事として寄り添う』そんなマインドがそこにはあるんです。

共感…人間社会において生きていく上で、なくてはならないもの、と言っても過言ではない、とボクは思っています。

2024年1月22日月曜日

論理的的思考と論破するは全く違う!!

 ボクは個人的に、論破することが好きです(笑)

“論破”と言う言葉、何だかここ数年ではないでしょうか。一般的に使われるようになったのは。


創価大学文学部准教授の倉橋耕平氏が『潮プラス』のネット版に『「論破文化」と歴史修正主義に共通する落とし穴。』と言うタイトルで寄稿されている文章にはこう書かれています。

〝(前略)そもそもそうした現代の文化としての「論破」はいつから始まったのか。特定するのは難しいものの、ネットからというよりは90年代に出てきたディベートや説得力に重きを置いた自己啓発本のブーム、そして討論系のテレビ番組の流れからではないかと私は考えている。(後略)〟


では何故、これまで『論破』と言う言葉が広がったのか。

「2ちゃんねる」開設者で元管理人の西村博之さんが発した、とされるようですが、実はこのひろゆき氏、一度もこの言葉を発したことがないそう。ただしひろゆき氏は2018年に「論破力」という書籍も出しているため、その様な印象が強いかもしれないのだけれど、実は、この言葉が広がったのは、フジテレビのバラエティ番組『痛快TV スカッとジャパン』だったようです。番組内のミニドラマのキャラ「イヤミ課長」の定番のセリフとして流行し、2015年の流行語大賞にもノミネートされました。


『論破』の意味は…
[名](スル)議論をして相手の説を破ること。

とあります。動詞形にすると「サ変活用」になるので『論破する』と言う言葉になります。

『論破する』人がいるということは『論破される』と言う人がいることになりますよね。つまり、「二項対立」になるわけです。『AかBか』のどちらかでしか答えが出せないとなり、実はとても“建設的ではない”方法なのです。

古い言い方をすれば「相手を言い負かす」と言う意味合いと同じことになりますね。

そして「二項対立」と言う意味で考えると、ディベートの様に「勝ち負け」があり、「相手を言い負かす」ことに重きを置くようになり、本来、問題としていることに対して本当に必要な“議論”ではないところに価値がおかれてしまい、結局、根本的な問題解決に繋がらない、と言うことも起きうるのです。


一方、このブログ記事のタイトルにもあります『論理的思考』とは何か。

『ロジカルシンキング』とも言われますね。
論理的思考(ロジカルシンキング)とは、物事を体系的に整理して筋道を立て、矛盾なく考える思考法です。直感や感覚ではなく、論理で物事を理解する考え方です。課題や問題について「要素別に根拠を仕分けして結論を導き出す」「さまざまな視点から分析を行い、解決策を検討する」などができる思考法です。特に問題の解決策を考える場面で力を発揮します。

一番わかり易く例えるなら、「数学(物理)の問題を公式に当てはめて考え、答えを導き出すこと」です。ですので理系の方なら得意な思考過程だと思います。

論理的思考は、次のような特徴があります。
・筋道が通っている
・納得感がある
・客観的である
・因果関係がある
・構造的である
・一貫性がある
・思い込みがない
・感情的でない


論理的思考を進めていく中で「思い込みがない」「感情的でない」と言う項目があるように、理論的思考というのは「人間味のない考え方」のように捉えられるかもしれません。しかし、そうではありません。

論理的思考はあくまでも“考え方”であり、答えを導くための道筋です。『論破』とはそもそも観点が違い、論理的思考によって導き出される答えというのは、「二項対立」ではなく、多様で多角的なのです。


何を隠そうボクは根っからの理系なので(笑)この様な論理的思考は好きだし得意です。理学療法の実践の現場でも、「動作分析」「歩行分析」「姿勢分析」と言う考え方があります。

この患者さんはどうしてこういう動かし方をするのだろう?

この患者さんはどうしてこういう歩き方をするのだろう?

この患者さんはどうしてこういう姿勢なんだろう?

外観から観察できる患者さんの動きであったり姿勢であったりを、〇〇と言う関節の動きが悪いから、〇〇という筋肉の働きが弱いから、〇〇と言う神経の働きが鈍いから、などのように考えられる原因を突き止めていきます。

その思考過程は、まさに『論理的思考』なのです。


ただ一方でボクは産業カウンセラーです。心理カウンセラーです。

人の心というのは一筋縄ではいきません。

例えば、これは『ボクのあるある』なのですが「今ここでこのお菓子を食べると体重が増えるから食べたことを後悔する」と考えて「お菓子を食べることを辞められる」なら論理的思考の通りに行動できたわけです。

でもね~そうは問屋が卸しません(笑)

後悔する、と分かっていてもしてしまうことってありません?もう論理的思考の破綻です(笑)



話しを元に戻します。

何か問題解決をしなければならない時、「論破すること」のような問題解決は、実は誰のためにもならないこともあります。論破したその人の爽快感であったり達成感であったり、全く目的が逸れてしまうことを忘れないで頂きたいな、と思います。

2024年1月15日月曜日

忘れられない患者さん④初めて患者さんのお通夜に参列した時のこと

 ボクが理学療法士として臨床で働いていいる中で、どうしても忘れることの出来ない患者さんの第4弾です。




ボクが最初に就職したのは、海辺の田舎町にある整形外科と内科の有床診療所(19床のベットがあり入院することもできるクリニック)でした。当時は、今の制度とは大きく違い、リハビリでは、セラピスト一人あたりの受け持てる患者数が45人ととても多く、ある意味、医療業界では新しい『金のなる木』でした。

そのため、特に整形外科のクリニックなどには、加齢による慢性期疾患や変性疾患(例えば変形性膝関節症・腰椎椎間板ヘルニア・頸肩腕症候群など)の患者様は、受診したいと思えばどれだけでも受診でき、リハビリを受けられる時代でした。

そうすると、近隣には「リハビリの常連さん」と言う方々がおられ、ボクの就職したクリニックにも、その様な多くの方がおられました。


今回、お話させて頂くFさんもそんな常連さんのお一人でした。


Fさんはクリニックから徒歩20分くらいのところにある町営団地にお一人で生活されている80代の女性です。毎朝、その町営団地から押し車(シルバーカーなんてカッコの良いものではない)を押して、ほぼほぼ毎日一番乗り。

当時はまだ、介護保険制度が始まる前だったので、クリニックのリハ通院が運動療法であり、安否確認でもありました。

両方の変形性膝関節症(重度のいわゆるO脚)と変形性腰椎症で腰が曲がっており、平地は杖か押し車、自宅内は壁伝いに移動する事で何とか生活が成り立っている状態でした。隣町に息子さん夫婦が住んでおられたのですが、あまり行き来はないようで、Fさんは押し車を押して、近くの八百屋さんに買い物にでかけたりすることは何とか出来ていました。




当時のクリニックではセラピストがマンツーマンで介入できるのは、外来患者さんに限ってですが約10~15分程度でした。かつ、担当制ではなく、手が空いたセラピストから順番に患者様を診させて頂くと言うシステムで、もちろん予約制ではありませんでした。繰り返しますが現在とは制度が違いますので、それでも問題ない時代でした。

膝も腰も、両方とも変形はとても強く、特に腰はMRIで見ると、骨が脊髄を圧迫していて、その影響で左下肢に坐骨神経痛が出ており、お薬とリハビリでだましだまし、過ごされているような状況で、リハでも腰から下肢にかけての徒手療法や関節可動域練習などを中心に行っていました。


もちろんボクが就職した時には、もうすでに常連さんで(笑)先輩セラピストから、Fさんは典型的な症例だからまずは手始めに色々診させてもらってっと言われ、遠慮なく、とにかく色んなことをさせてもらったりしました。

ボクの通っていた医療短大では、最終学年に1ヶ月の臨床実習を3施設、行かせていただいたのですが、なんで1施設で1ヶ月ですから、きちんと詳しく患者様を診させてもらえるのなんて、1施設辺り1人くらいでした。ですので、就職したての頃は、本当におっかなびっくり(笑)

人の体を触るって、慣れてないと本当に恐ろしい!
押したり曲げたり…就職したてのボクらだって、本当に怖かって思い出があります。

また、理学療法の分野、特に整形外科疾患では、「どんな姿勢をしているのか」「どんなふうに動かしているのか」と言う所を見る必要があって、それをしっかり観察できるには、もちろんコツもありますが、とにかく多くの方のソレを経験する必要があります。


ボクはFさんに立った時の姿勢や、立ち上がり方、寝た時の姿勢や各関節の動かせる程度、どんな時に痛みが出て、どんあ痛みが出るのか。お恥ずかしい話、学生の頃の臨床実習の時より、真剣に診させてもらった記憶があります。

そんなこんなでボクの『おばあちゃん的存在』になった(笑)Fさん。ボクが担当させてもらっていつもその方から言われることは「ご両親を大切にしなさいね」でした。「親孝行せなあかんよ」とも。事あるごとにそう言われておられ、息子さん夫婦がすぐ近くの隣町に住んでおられることと何か関係があるのかな?と思いながら、その言葉が心に残っていました。


そんなある日、週末が明けた月曜日、ボクが出勤するとそのFさんが入院されているではないですか!お話をお伺いすると、どうも日曜日に腰の痛みと足への痛みが増悪し立てなくなり、息子さんに連れてこられたとのことでした。

お一人暮らしでしたので、もちろんご自宅で生活もできないため、安静と治療とリハビリのために入院、となりました。

入院当時は、寝たり起きたりも難しく、また、椅子に腰掛けたり別途の上で足を投げ出して座ったりと言う姿勢も困難なため、とにかく寝ているしかない状態でした。もちろん寝たり起きたりも介助が必要、そして車椅子へ移乗するのにもそこそこの介助量が必要でした。

たしかボクが理学療法士になって2年目だったと思います。
入院中のリハビリはボクが担当する事になったのですが、なんせ2年目。とにかく知識もなく経験も浅いため、本当に苦労しました。

動き云々ではなく、とにかく痛みをとらないことには、何も始まりません。


正直、レントゲンやMRIの画像を見る限り、神経そのものがかなり圧迫されているので、院長先生である整形外科の医師も「手術の適応レベル。回復は難しい」との見解でした。

ボクが当時持っている知識としては物理療法とくに超音波療法を使うこと、電気刺激療法を行うこと、徒手療法と下肢の筋力強化くらいしか思い浮かばず、とにかくそれらを始めることにしました。

3週間ほどした頃から、じょじょにご自身で寝起きが可能になり、車椅子へ移る時も介助なしでできるようにはなったのですが、いかんせん、歩くことが難しい。手すりを使ったり壁を使ったりする伝い歩きは可能なのですが、杖や押し車では数mが限度でした。


何度もお伝えしますが、当時は介護保険サービスが始まる前です。しかもFさんは独居。

そろそろ退院の時期にも差し掛かり、今後のご自宅での生活を考えると、息子さんと同居する事が一番の方法だと思いました。そしてFさん御本人にも提案しましたが、一向に首を縦に振りません。自宅内の生活が出来たとしても買い物などの外出に困ってしまうだろうと思い、息子さんも交えFさんとお話をすることにしました。

息子さんとの同居もダメでもちろん施設入所と言う程度でもない。一番の問題は買い物も含めた外出だということをお話した上で、ボクが提案したのは電動シニアカーでした。


ただ、提案した時、御本人はかなり難色を示されました。
もともと車の運転などもしたこともありませんし、怖い、とのこと。また、当時、電動シニアカーと言うのは今ほど出回っておらず、そもそも、どこで購入すればよいのか、ボクにも分かりませんでしたた。すると息子さんが、自分が見つけて購入してくる!と申し出されたのです。しかも、退院してすぐは、息子さんがつきっきりで練習に付き合う、と。

もしかしたら、Fさん御本人よりも僕自身がホッとしたのかもしれません(笑)

息子さんがそこまでFさんのためを思って尽くしてくださるというのは、ボクにとっても神のような声に聞こえました。


前述したように、Fさんは独居です。もしかしたら過去に息子さんと何らかの確執があったのかもしれません。しかし、このFさんの入院をきっかけに、お二人の距離が縮まったのかな~と、ちょっと心温まる思いでした。


そんな話がまとまり、しばらくしてから息子さんから電動シニアカーを購入したので退院を、との事。Fさんはご自宅へ退院されました。

それからすぐ、いつものようにFさんは通運を始められたのですが、Fさんは電動シニアカーに乗って、そのすぐそばを息子さんが歩いて、そんな二人で通院がはじまりました。息子さんはもう定年退職されていましたのでお時間に余裕があったのでしょう。Fさんのリハビリが終わるまでクリニックのロビーでテレビを見ながら待っておられ、また二人並んで帰られる…そんな光景が2週間程度、続いたでしょうか。

気付くとFさんはお一人で来院されるようになりました。「息子さんは?」と聞くと「もう独りで(電動シニアカーを)運転できるから、断った」と。

最初はあんなに、嫌がっていた電動シニアカー。お一人で上手に運転されるようになってボクも何だか嬉しくなりました。


しかし、ほどなくしてFさんは急に来院されなくなりました。

皆で「どうしたんだろうね…」と言っていた矢先、同じ町内にあるいわゆる総合病院のリハスタッフから電話がありました。当時、同じ地域の理学療法士が月に一度集まって勉強会をしていたので、面識があったのですが、どうやらその病院に入院されたとのこと。

原因は硬便による腸閉塞でした。

おそらく、便が出ないのを長期にわたり放置していたのでしょう。激しい腹痛と食欲不振から救急搬送されたそうです。


それからは、階段を転げ落ちるように、状態が悪化し、帰らる人となりました。



ボクは当時、Fさんと同じ町内に住んでおり、通勤途中にはFさんの菩提寺が在り、亡くなられた翌日の朝、通勤途中に葬儀の場所を知らせる立て看板を見て、その訃報を知りました。

出勤し、同僚たちとFさんの話になり、先輩の一人がこっそり「かっちゃん、お通夜いかない?」と誘ってくれました。

当時ボクは、夜間の大学に通学していてその先輩も同じ大学に通っていました。二人で申し合わせて、大学の講義が終わって急いで自宅に戻り、喪服に着替えてそのお寺へ向かいました。

もちろん、もう通夜のおつとめは終わっており、ひっそりと息子さんがFさんの祭壇の前に座っておられました。

思えば、親族以外の通夜に参列するというのは初めての経験で、「この度はご愁傷さまでした」と言う言葉を何度も、練習していった覚えがあります。

しかし、息子さんとFさんを目の前にして「この度は…」と後が続かず、息子さんと一緒に涙していました。


入院した時の状況や入院してからの事など、涙ながらにお話される息子さんに、ボクは何一つ気の利いた言葉をかけることができず、ただただ、お話を聞くだけでした。




もう25年近く前の話になりますが、今でも、その葬儀場となったお寺の様子をありありと思い出すことが出来ます。

悔しさ、ツラさ、申し訳無さ、やるせなさ、色んな気持ちが今でも湧いてきます。

2024年1月9日火曜日

そろそろ本当の話しましょう(精神疾患)その⑥最終回

 そろそろ本当の話しましょう(精神疾患)その⑤からの続きです。



2回目のメンタルダウンは起こるべくして起こったと言っても過言ではありません。自己判断での服薬中止、通院中止をしたのですから。

ただ、それだけが原因ではなかったと思います。

その当時、職場の短期大学がとある地方学会の学術集会の事務局をすることになり、理学療法学専攻の教員は、全員、何らかの役割を持つことになりました。ご多分に漏れずボクも役割を担うことになったのですが、学術大会長が短期大学とは直接的な関係のない医療機関の重鎮が選ばれたこともあり、その部下や近しい人材が主要な幹部であり、短大職員はほぼほぼ事務局の役割をになっていました。

そしてボクは、学会本部の役員も担っていたため、学術大会の幹部と学会本部のパイプ役だったのですが…

その幹部の中に、学会本部の一部のメンバーをとても嫌っている方がおり(笑)また、その逆もあり、事あるごとに嫌悪の言葉とともにボクが学会本部へお伺いを立てる、または学会本部からの伝達をボクがする、と言うやり取りが何度となくあり、非常に、非常に辛かった思いがあります。


こっちを立てるとあっちが立たず、あっちを立てるとこっちが立たず。しかも「勝水クン、上手いこと言っておいてよ」と言う言い回しを、両者からされるため、お互いの言い分を何故かボクが『翻訳』してお互いに伝え合うという、とてもとてもストレスフルなやり取りをしなければなりませんでした。

と言うのも、ボクは両者それぞれにお世話になっていたりかわいがってもらっていたりしていたので、どちらの顔も潰すことができず、何とか喧嘩腰な両者を、オブラートに包む?(笑)言い方ややり方を、常にしなければならず、そんな事に神経を日々、すり減らしていました。

もともと、ボク自身が地位や権力を得ることに無関心だったし、それによる争い事も大嫌いでした。


少し話が遡るのですが、当時の職場が短大に移行した時というのは、私学の四年制大学が、こぞって医療系の学科を新設するラッシュ時だったので、実はボクも引き抜きの話が何件かあったんんです。きっと賢い人ならば、自分自身がやりたい研究をしより高い職位を得るために、より条件の良い職場選びをするのでしょうが(まあそれが普通ですよね)、ボクは専門学校時代から入職し短大に移行するときにも、職員全員が一つになってなし得た事だと考えていたし、そう言う仲間意識がとてもボクにはあったので、その人達を裏切るように引き抜きに応じることは、とてもとても出来ませんでした。

多分、もともとの性分として『義理』とか『情』を重んじる考え方をしていたんだと思います。


そしてそんな辛さを「誰かを頼って相談することが苦手な人」であるボクは、ジッと黙って耐えていました。誰にも相談せず。相談できず。

そりゃメンタルダウン、するわ、な。



全6回に分けてお伝えしてきました、ボクが初めてメンタルダウンをした時の経験についてですが、おそらく、ボクの「誰かを頼って相談することが苦手」はなかなか克服できませんでした。

心理カウンセリングを受けて、その時にカタルシスを得ることができ、前向きな気持になれても、例えば職場の上司や同僚に悩みを打ち明け、環境改善を訴えたり処遇の見直しを訴えたり業務改善をお願いしたりと言った事は、自分自身ではなかなか出来ずに過ごしてきました。

つまり行動変容を起こせずに来てしまったんですよね。


今回のお話では、言ってしまえばボクの「愚痴」と言うか「自分以外の誰かのせい」にしている主観的な書き方でお伝えしましたが、「自分以外の誰かのせい」にして「自分が変わることをしてこなかった」事に対して、とても反省している…と言うか悔やんでいます。

この一連のお話は、ボクが30歳前後の頃のお話です。

振り返ってみて言えることは、当時よりも今の方がよっぽど「柔軟だ」と、自分のことを評価できます。相談すること、自分のホントの気持ちを伝えること、そして様々な出来事に対して多角的に受け止めること、自分が変わらなければならないことを真正面から受け入れること、それらのことはきっと、今なら上手にできる。と、思っています(笑)



とりあえずこれで「そろそろ本当の話しましょう(精神疾患)」は終わりにしますが、もしかしたら、これ以降のお話をする時が来るかもしれません。

また、番外編もあるかもしれません。

2024年1月6日土曜日

そろそろ本当の話しましょう(精神疾患)その⑤

 そろそろ本当の話しましょう(精神疾患)その④からの続きです。



復職日の4日前が、休職中最後の受診日でした。そこで主治医より復職許可がおり、次回の予約とお薬を処方され、翌週、無事に復職しました。

その頃の職場はもう、短期大学に移行した後だったので、ボクは講師という職位上、個室が割り当てられていました。ですので、職員全員が揃うというのは月に一度の職員会議の時ぐらいでした。とりあえず、午前中は、自室で自分の仕事をし、お昼休みの時間帯に学長を始め事務長や専攻長へ復職の挨拶をしました。


短大や大学の教員って、自由裁量の仕事が多くて、自分の担当講義や所属する委員会などの時間以外は、どんな事に時間を使ってもいいんです。講義の準備をしたり自分の研究をしたり、文献を調べたり業者とやり取りしたりと、自分自身でスケジューリングをしておけば良いので、気楽といえば気楽な仕事です。

しかし、ボクのように「誰かを頼って相談することが苦手な人」には、あまりいい環境とはいえません。当時、ボクの勤務していた短大は単科であったこともあり、教員や他の職員との距離感はとても近くて、あまり気を使わなくてもよい人間関係ではあったのですが…

深掘りしていくとボクの生育環境や親子関係の話まで遡るため詳しくは書きませんが(笑)、ボクは「失敗を恐れる人」「間違いを犯せない人」でした。その心理的背景にはそれらを「恥」と思う気持ちが強かったからだと思います。

だからボクは、色んな困難にぶち当たっても一人で解決しようとし、自分の手に余ることでも対処しようとしてしまうため、自分が壊れると言う、とても危なっかしいことばかりをしてきました。


復職後は、とても快調でした。ただ、それは誤った「快調」でした。

これは今思えば「双極性障害」の始まりだったのかもしれませんが、前述した通り、ボクは自分の悩みや失敗を人に話し相談することを怠ってきた人間です。ですので、「快調」と言うのは言い換えれば「自分で何でもできる」と言う思考でした。

もちろん休職した事も功を奏したとも言えますし、抗うつ薬がよく効いていたのだとも思います。ただ、ボクはそれに乗じて「もう治った」と思いました。


いや思い込んでいたんです。

そこでボクは大きな過ちを犯しました。


服薬を自己判断でやめてしまい、かつ予約していた精神科の受診も、勝手に辞めてしまいました。

ご存じの方も多いかと思いますが、この様な行為は症状を悪化させる致命的な行為です。

とりあえずボクは、最後の受診時に処方された抗うつ薬1ヶ月分を飲みきってから、通院もせず服薬もせず過ごしました。

結果、何が起こったか。

2~3ヶ月後に再びメンタルダウンしました。


当時ボクは、どうしてまたメンタルダウンしたのか、全くその理由が分かりませんでした。

朝起きた時の強い抑うつ感。
無気力。
無関心。
過眠と過食。

生活すること全てが面倒に思え、また一方で「また仕事に行けなくなってしまう」「皆や学生に迷惑をかけてしまう」そう言う強い自責の念から「またメンタルダウンしてしまった」「自分はダメな人間だ」「価値のない人間だ」と言う不全感で頭がいっぱいでした。


結局、通院していた精神科の門を再び叩くわけですが、主治医からは優しく「しばらくお薬は続けて通院もして下さいね」と諭され、ボクはホントに穴があったら入りたいくらい、恥ずかしい気持ちでいっぱいでした。

だって、曲がりなりにも医療従事者なんですよ。ボク。

この経験は、良くも悪くもボクにとって、精神疾患患者(精神障害者)として生きていく上で、大きな影響を与えました。

それはブログ記事「理学療法士であったと言うトラウマ(ボクの場合)」に書いた通り、ボクの自己肯定感が下がり、「人に相談できないボク」がさらに輪をかけて「貝になってっしまったボク」へと変容してしまったのです。


今でも時々思います。

あの時、きちんと服薬を続けていれば…

あの時、ちゃんと通院を継続していれば…

そして

どうしてあんなにも失敗を恐れていたのか。

どうしてあんなにも人に頼ることを避けてきたのか。



次回、「そろそろ本当の話しましょう(精神疾患)」最終回です。

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