自己紹介

自分の写真
オンラインカウンセリング「勇者の部屋」の産業カウンセラー勝水のブログです。セクシャルマイノリティ(ゲイ)・身体障害者(HIV陽性者)・精神障害者(双極症)の当事者としての目線と、理学療法士・社会福祉士・産業カウンセラーとしての目線で、今まで経験したことや普段考えていることなど、様々な情報発信をしております。

2023年11月16日木曜日

PGM(Peer Group Meeting:ピア・グルーブ・ミーティング)とは

 「勇者の部屋」でも開始しましたプログラム
『メンタル不調を抱えるゲイ・バイセクシャル男性のためのPGM』
『メンタル不調を抱える対人援助職者・感情労働者のためのPGM』
の“PGM”とは何か、を少し説明したいと思います。


ボクが社会福祉の勉強をしていた頃は『セルフ・ヘルプ・グループ』と言う言い方が一般的だったと思います。

セルフ・ヘルプ・グループとは…
Self Help Group
病気や障害、悩みなど、同じ問題を抱えた当事者同士が自主的につながり、問題解決のために経験や悩みを分かち合う集団です。自助グループ、当事者組織、本人の会などとも呼ばれます。


では、ピア・グルーブ・ミーティングとは…
Peer Group Meeting
病気を抱えて生活する仲間同士が集まり、意見や経験談を語り合う場です。一般的に「同じような問題を抱えている人同士が集まる語り合い」です。ピアサポートとは、仲間としての支え合いを指し、集団での支え合いの場合は、自助グループ(セルフヘルプグループ)と呼ばれます。


では両者に何か大きな違いがあるかと言うと、ほとんど無いでしょう(笑)
セルフ・ヘルプ・グループというのは当事者で構成された組織そのものの名称であるのに対し、ピア・グループ・ミーティングというのは、当事者が語り合う場の事を指し示していると考えていただければ、と思います。


ボクが

『メンタル不調を抱えるゲイ・バイセクシャル男性のためのPGM』
『メンタル不調を抱える対人援助職者・感情労働者のためのPGM』

を始めたのは、ボク自身が両者の当事者であるから、と言う意味合いが大きいです。

ボクは「メンタル不調を抱えるゲイ男性」であり「メンタル不調を抱える対人援助職者」でもあります。つまり、このPGMを主催してはいますが、同時にボクは当事者です。

ボクはこれらのPGMに『ピア・ファシリテーター』として参加しますが、あくまで『ピア(Peer:当事者)』なので、話しをまとめたりタイムキーパーとして動きますが、気持ちは参加者の皆さんと同じ、なんです。


PGMはあくまで当事者会なので「まとめ役の人が偉い」とか「年長者が正しい」とかそんな上下関係は、本来、あってはいけません。

参加者は、主催者も含めて、皆、同じ立場です。同じ当事者なのです。


ただし、参加する人たちが発言をしやすいように皆が『護られる必用』があります。そのPGMに参加して傷ついたり傷つけられたり、誰かを攻撃したり攻撃されたりすることは、ご法度です。そしてそれは、PGMの中だけでなくミーティングの時間以外にも考慮されなければなりません。

そのためにグランドルールがあります。
そのためにファシリテーターは、参加者へ最大限の配慮しなければなりません。


PGMの主催者として願うのは、ボクも含めた参加者の方々が「参加して良かった」と思えるような会であり続けたい、と言うことだけです。

そして「もうPGMに参加しなくても、自分は・私は大丈夫」と思えるようになり「また参加したいな」と思った時にそこにあり続ける会でありたい、と願っています。



もし興味を持たれましたら、ぜひボクが主催するPGMに参加していただければと思います。

2023年11月15日水曜日

そろそろ本当の話しをしましょう(HIV)その③

 そろそろ本当の話しをしましょう(HIV)その②からの続きです。




2003年当時『HIV陽性者のリアル』を知る術がなく、様々な不安を抱えたボクの『with HIV』生活。前回のお話しでも書きましたが、まずは1回/月の定期受診(毎回、血液検査を行う)し、免疫細胞の数とHIVのウィルス量を見ながら体調報告も兼ねて通院が始まりました。

『免疫細胞の数』と言っても、人間の体の中には多数の免疫細胞があります。


上の図のマクロファージ・NK細胞・好中球・キラーT細胞・B細胞・(樹状細胞)などが主な免疫細胞なのですが、HIVは下記の図のTリンパ球(キラーT細胞)の中でも『CD4リンパ球』と言う免疫細胞に感染します。


少し生物学的なお話しをしますと、ウィルスというのは細胞の『核』と呼ばれる部分だけの生命体で、ウィルスは細胞の中に取り込まれてその細胞の中だけでしか生きることができません。そして取り憑いた細胞を栄養分にして、ウィルス自身の分身を作るわけですが、その分身を作るたびに取り憑いた細胞を壊していくのです。

そういう意味ではウィルスは非常に弱い存在、とも言えるわけですが、いかんせんHIVは外敵から体を守るための免疫細胞に取り憑いてしまうため厄介なわけです。


話しをもとに戻しますね。

ボクが初診で検査したときは、CD4が600/μL台(血液1μL中に何個のCD4細胞があるか)だったと思います。ウィルス量は10の8乗個/mL(血漿1mL中に何個のウィルスがあるか)くらいでしょうか。

μL=1000000分の1L
mL=1000分の1L

CD4というのは、もともと個人によって持っている細胞数が違っていて、正常値は700-1300/μLと言われています。正常値でもかなり幅が大きいのが分かるかと思います。(これはボクの憶測ですが、ボクは元々CD4の数は少なめだったのではないかと思います)

当時のHIV治療ガイドラインでは『CD4が200を切ったら投薬開始の目安』でしたので、ボクはその日を、毎月の受診と検査で待つことになりました。もう一つ付け加えるなら、当時の法律では、CD4が200を切らないと(つまり投薬が始まるタイミングにならないと)身体障害者手帳が申請できませんでした。身体障害者手帳が申請できないということは、治療費の自己負担額は、毎回、病院の会計窓口で支払わなければなりませんでした。当時3割負担で、毎回の診察で1万円位は支払っていたと思います。



CD4というのはとても敏感な細胞で、その日の体調やストレスなどの精神的なものからもかなり影響を受けるため、血液を採取した時の状況で値が大きく変わることがあります。しかし長いスパンで見ていくと、ジワリジワリとCD4が下がっていくのが分かりました。

そして前回のblogでもお伝えした通り、ボクはこの間、月に一度、心理カウンセリングを受けることにしました。

保健所で陽性告知を受けた時に元カレと友人二人に開示してから、誰にもボクのHIVステータスについて開示することはなかったのですが、初診から2~3か月後、当時の職場の後輩二人に開示しました(その職場は上司があん摩マッサージ師でその下がボク、1つ年下と2つ年下の後輩の全部で4人だけの部署でした)。


ボクの心理カウンセリングを担当してくださったのはKさんという中年女性の臨床心理士さんでした。当時、心理職の地位というのは非常に低く、そもそも臨床心理士と言う資格も任意資格であるため、とてもめずらしい存在でした。

Kさんは長く拠点病院に所属されていて、HIV陽性者の心理カウンセリングを一手に引き受けてくださっており、また、セクシャリティなどの十分な知識と理解を持っていらっしゃる方でした(この方との出会いがあったからボクは心理職をしたいと思うようになった、そんな方です)。

初めましての時からいつも笑顔。
そして柔らかい言葉遣い。
言葉の選び方も丁寧。

今思えば、Kさんは本当に僕らHIV陽性者の患者のために、言葉通り「身を削って」尽くしてくれていたんだと思います。

拠点病院は土日祝日は休みで診療も9:00~16:30と言う時間帯でした。ボクの勤務先も公立病院でしたので、勤務は8:30~17:30で土日祝日が休み。だから受診の際は平日午後に有給休暇をとって受診していたのですが、心理カウンセリングに関しては診療時間外、しかもボクが仕事を終わってから公共交通機関を使って拠点病院に到着する19:00から1時間ほどの時間をわざわざ作っていただいて、心理カウンセリングをしていただきました。

当時、Kさんがどのようなポジションで雇用され、また残業代など支払ってもらっているのかなど、知るよしもありません。しかも心理職が心理カウンセリングを行って診療報酬が支払われるようになったのはここ数年の話なので、当時は心理職が心理カウンセリング業務をしたところで、病院の儲けにはならなかったはずです。


ただ…
ボクは、Kさんに沢山、救けていただきました。
ボクが初診で受診し、Kさんがその拠点病院を退職されるまでの4年間、ほぼ毎月心理カウンセリングをしていただきました。
そしてその方は、拠点病院に通院しているゲイのHIV陽性者のための自助会・当事者会も開いてくれました。しかも勤務外である土曜の午後に。
Kさんとは忘れられないエピソードはたくさんあります。

あかん、泣けてきた…



次回、そろそろ本当の話しをしましょう(HIV)その④では、そのKさんとの対話の中でとても印象的だったエピソードをいくつか紹介したいと思います。

2023年11月14日火曜日

そろそろ本当の話しをしましょう(HIV)その②

 そろそろ本当の話しをしましょう(HIV)その①からの続きです。




2003年11月、ボクは保健所の匿名無料検査を受検してHIVの陽性告知を受けました。そして、いよいよボクの「with HIV」が始まったわけです。

告知を受けた夜、自宅に帰ってまずしたことはなにか…それはとりあえずインターネットで情報を収集するところから始まりまりました。

まずは敵のことを知るところから始めたのです。

当時、ゲイコミュニティ周囲には、HIV/AIDSの予防啓発運動が盛んで、HIVコミュニティセンタが全国にいくつかあり、ボクもその存在を知っていました。もちろん、ボク自身が医療従事者であったので、病気などの情報は何となく見聞きはしていたので、ある程度の知識はあったと思います。


上のような図は、何かしらの機会に見ていたし、この図が意味することもちゃんと理解していました。しかし、いかんせん、『具体的な療養生活』が見えてこない。

そこでインターネットで情報収集したのです。

当時、SNSなどと言うものはなく、老舗のTwitter ですら日本では 2008 年 4 月から日本版が公開だったので、いち個人がどんな生活を送っているのかと言う事を知る手段としては、唯一「ブログ」があったくらいです。

そのため、HIV陽性者が実際の生活を綴ったモノというものはなく、どんなに調べても、厚生労働省やどこかの医療機関、研究機関が公開しているホームページにぶち当たるだけで、「HIV感染症は死ぬ病気ではない」「薬でAIDSの発症を抑えることができる」「生活にはなんら影響がない」など、正直『現実味のある話』はどこにも転がっていませんでした。

ちなみに日本で大流行したSNSといえばmixiですよね。
あのmixiですら、開始は2004年2月ですから。


ネットにはボクの知りたい情報が転がっていないと分かってから次に何をしたか。正直、ボクはこういう事実を一人で抱えるだけの心に余裕がある人間ではなかったので(笑)仲の良い友人二人と、元カレに連絡を取りました。ありがたいことに、みんなボクの事を拒絶することなく、静かに受け入れてくれました。友人二人は遠方に住んでいたのですが、ふたりとも「何かあったら連絡してちょうだいね」と温かい言葉をかけてくれ、元カレは「大丈夫か?」と心配してくれました。

そんな事を一晩のうちにやってのけ、その日は確か、疲れて眠ってしまったと思います。


翌日は勤務日でした。
ボクは、とにかく医療機関を早く受診したいと言う思いがあり、初診の予約を早く入れたかった(この辺りはせっかちというボクの性分です)。朝から「予約の電話を入れるなら昼休みだ!」と思い、朝からソワソワしていたと思います。

そしてドキドキしながら電話をし翌週の金曜日の午後に初診となりました。

今までボクは、その職場で「(病欠以外の)急な予定で有給を取る」と言うことをしてこなかったので、正直、なんと言って上司に休みをもらおうか悩みましたが、結局、口頭で「スミマセン来週の午後から急に予定がありまして…」みたいな感じで有給申請したと思います。


翌週。
どうやって病院まで行ったのか、どうやって受付をしたのか、医師との診察の前後のことは全く覚えていません。ボクを担当してくださった医師は、驚くほど落ち着いてボクに説明してくださいました。HIVに感染していることに間違いはないこと、感染経路は同性間の性行為によるものかと言う確認、今後血液検査のデータを見ながら投薬の時期を決めること、月に一度は定期受診してほしいこと、今の生活を変える必要はないこと、理学療法士という仕事も今まで通りに行って良いこと、そんな事をお話していただきました。

検査や診察を一通り終え、最後に看護師さんとお話する機会があって、何だかそこで一気に感情が溢れ出してしまって…仕事を変える必要はないとか、今まで通りの生活ができるとか、頭では分かっているのですが「心」の部分で納得できないと言うか、不安な気持ちというものが抑えきれなくて、ボロ泣きしてしまいました。

それを見かねた看護師さんが、「カウンセリング受けられるけど、受けてみますか?」と声をかけて頂き、ボクは二つ返事でお願いすることにしました。


このとき、ボクの心の中には色々な「思い」があって
・病気の事を誰かに伝えたほうがいいのか
・家族には説明したほうがいいのか
・恋愛は、セックスはどうすればいいのか
・本当に医療従事者として働いていいのか
・薬を飲み始める頃にはどの様な体調になっているのか
・薬の副作用は
・身体障害者手帳の申請は

などなど…もうこの溢れる思いの処理が自分ではできなくなっていたのですが、とにかく自分の気持を落ち着かせながら、1つずつ整理するしかない、と思いました。






そろそろ本当の話しをしましょう(HIV)その③へ続きます。

2023年11月13日月曜日

私の中核をなすもの(⑦映画)

 ずーっと書きたかった(笑)この話題。


ボクは、M・ナイト・シャマラン(M. Night Shyamalan)監督が大好きだ!
一応、彼の歴代の監督映画を列挙すると…

Praying with Anger
翼のない天使(Wide Awake)
シックス・センス(The Sixth Sense)
アンブレイカブル(Unbreakable)
サイン(Signs)
ヴィレッジ(The Village)
レディ・イン・ザ・ウォーター(Lady in the Water)
ハプニング(The Happening)
エアベンダー(The Last Airbender)
アフター・アース(After Earth)
ヴィジット(The Visit)
スプリット(Split)
ミスター・ガラス(Glass)
オールド(Old)
ノック 終末の訪問者(Knock at the Cabin)

ボクが彼の作品にハマるきっかけになったのはズバリ「シックス・センス」


当時、彼の作品で驚かされるのは、すごく平和な日常から徐々に非日常に変わっていく。そしてその原因が全くわからないままストーリーがすすみ、中盤から終盤にかけて何となく全容が分かるんだけど、終わり15分くらいで大どんでん返しが待っている、というのがお決まりの構成でした。

「あなたは終わり15分まで驚愕する!!」的なキャッチフレーズで宣伝されることも多くて、シックス・センス以降、何作か「駄作だ」と評価れる作品もあったりして…

ボク的には「サイン」「ヴィレッジ」「ヴィジット」「オールド」「ノック終末の訪問者」なんかは、意表を突かれて最後まで退屈せずに見たかな。






「サイン」でもそうだったけど、ジワリジワリとやってくる「恐怖の正体」というものを、映像としてハッキリとしたモノを描かないんだよね。「サイン」なんかは、きっと宇宙人が全ての元凶なんだろうけど、宇宙人をハッキリと「宇宙人の姿」として描かない(確かクライマックスで宇宙人らしき人影が映し出されるシーンはあったかな)。

そこがスゴク想像力を掻き立てられる。

そしてどの作品にも「子ども」が重要な役割を果たしていて、どの作品の子役も演技力がスバラシイ。

あと、脇役のキャスティングが秀悦。ビジュアルと役柄のギャップがすごくて、いつも「見た目で人を判断しちゃダメだ」と思い知らされます。


そして、物語は一応の結末を迎えるんだけど、「あれはどうなったの?」「あれとあれの関係は?」「結局あの人たちって何?」みたいな「モヤモヤ感」が残るんだよね。

それがまた良い(笑)

映画を見終わってからもその「モヤモヤ感」を抱えたまま、見たものの想像力をものすごく掻き立てられるから。

一昔前の映画というのは、ホラーにしろサスペンスにしろ、悪者や悪しきものが退治されたり、存在がなくなり「スッキリと平和が訪れる」というのが主流だったと思います。これはシャマラン監督作品に限らず、「モヤモヤ感が残る作品」が多くなりました。

しかも、そういう結末を望むオーディエンスが一定数いて(ボクもその一人www)、ある種のジャンルとなりつつあるかもしれません。

じゃあなんで「モヤモヤ感の残る作品」が好まれるか。

それはエンディングを迎えても、その先をオーディエンスが自由に想像できる、と言う楽しさがあるからだと思います。つまり、映画は終わったけれどもその物語の結末というのは、オーディエンスの数だけあり、それを話題にして一緒に見た人たちと会話を楽しめる、と言う特徴があるからではないでしょうか。



映画は良いですね~

それではみなさん。さようなら。さようなら。さようなら。



2023年11月4日土曜日

そろそろ本当の話しをしましょう(HIV)その①

 ここ数日、熱発したり咽頭炎になったり寝込んだりしていたら、ボクがHIVに感染した頃の事を思い出しまして。多分、ここでは詳しく書いていなかったと思うので、どうやって感染したかとかどうやって陽性告知を受けたのかとか、「ボクのリアル」を伝えていきたいと思います。



ボクがHIV陽性告知を受けたのは2003年11月です。そう今年で20周年。

少しだけ、HIV/AIDSの歴史をふりかえりますと…
1981年にアメリカで初めてAIDSの報告がありました。
日本では1985年に初のエイズ患者の報告がありました(ボクが10歳)。
その後、神戸を皮切りに「エイズパニック」というものが、マス・メディアによってセンセーショナルに報道されました。


そして薬害エイズ事件


そして1996年頃よりHAART(現在のART)と言う治療法が確立し、これによりHIV感染症は「死の病ではない」と言われるようになってきました。

なので、ボクはこのARTが確立してからわずか5~6年後に陽性告知を受けたのです。



2003年ボクは27歳でした。
当時、とある地方都市の公立病院に勤めていたんですが、プライベートの方は少々荒れておりまして(笑)ちょうど、数年、お付き合いしていた男性と別れたということもあり、ネットの掲示板で知り合った人と一晩だけを共にし性行為をする、と言う事を何度か繰り返していました。

医療短大時代、感染症の勉強はしていたので「肝炎には気をつけなきゃ」と思っていたのですが、HIV/AIDSはどこか対岸の火事…的な感覚でいたのは事実です。「気をつけなきゃ」と言いつつも、コンドームを使わないリスキーな性行為をすることも度々あり、半年に1回くらいのペースで保健所の無料匿名検査を受けていました。

確かあれは初夏…だったと思います。
ネットの掲示板で知り合った人とリスキーなセックスをしたのですが、翌朝、40℃くらいの熱を出し、本当は出勤日だったのですが、とても動ける状態ではなく病欠しました。ボクは元々、扁桃肥大があり、それまでも喉が腫れて高い熱を出して仕事を休むことはあったので、その日も当時の職場の耳鼻咽喉科を受診し、「扁桃腺がスゴク腫れてますよ」と医師から言われ、抗生剤などなど処方され帰宅したのですが、確か3日くらい動けず病欠したと記憶しております。

やっと動けるようになり、仕事をしだしたのですが、毎晩毎晩、酷い寝汗をかき、かつ日中も37℃くらいの微熱が続き、非常に大変な思いをしながら仕事をしていました。さすがに体が持たないと思ったので、2~3週間後に再び耳鼻咽喉科を受診し、医師から「まだリンパ節が腫れているから、一度、生検しようか」と言う話になりました。

上の図の「浅頸リンパ節」を、皮膚を切開して摘出し、病理検査に出すことになったのです。生検なので、まあ簡単な手術と同じです。そして、リンパ節の生検をするというのは、最悪「リンパ腫」とかもありうる話だったので、ボクは内心穏やかではありませんでした。

もちろん、職場の同僚や上司には理由を説明して、検査のためにお休みをもらったりしたのですが…

2週間後、結果は“白”でした。リンパ節の検査では原因が特定されなかったのです。
しかしボクは相変わらず、夜は酷い寝汗をかき、昼間は微熱。
結局、ボクの勤務していた病院に2週間に1回くる、非常勤の血液内科の先生の診察を受けることになったのですが…

血液検査をしても、白血球数が高いくらいで他に異常はない、との所見だったんです。
とりあえず、「不明熱」扱いになりボクはそれから毎日、ロキソニン(解熱鎮痛薬)を服薬しながら過ごすことになりました。

この頃からボクは「もしかしたらHIVに感染したかも…」と思ってはいました。
いや、あのリスキーな性行為をした翌日から、何となく予感はあったんです。

高熱を出してから2ヶ月が過ぎた頃からでしょうか。やっと微熱や寝汗も収まり楽に過ごせるようにはなったのですが、ボクの心は穏やかではありませんでした。

「多分、感染してる」

保健所での無料匿名検査を受けた経験があったので「感染したと思われる行為から3ヶ月以上、日にちを空けて検査を受ける」事は知っていたので、その3ヶ月をしっかりと待って、検査を受けました。


先にも書きました通り、ボクは公立病院に勤めていたので、ボク自身が勤めている市の保健所ではなく、少し離れた都市の保健所の、夜間検査を受けました。

仕事が終わって、車に乗って1時間位でしょうか。

採血した日の事はあまり覚えていません。

「2週間後にこちらの紙をもって結果を聞きに来て下さい」

そう伝えられ、ボクは帰宅しました。


2週間後。

窓口で番号の書かれた紙をお渡ししたら、「少々、そちらに腰掛けてお待ち下さい」と言われ、廊下のベンチで待たされました。


多分。そうだ。


そして窓口で対応してくれた人とは違う人がボクを別室へ案内してくれました。そこには白衣を着た女医さんを思しき方が座って待っていらっしゃいました。

「検査の結果、陽性だと分かりました」

そんな感じの事を告げられたように思います。

一瞬で頭が真っ白になりました。

そして、思い出したかのようにホロホロと涙がこぼれだしました。それが止められなくなり嗚咽混じりに。

その女医先生は、ボクが落ち着くまでしばらく待ってくださり、紹介状を書いてくださること、近隣の政令指定都市にある拠点病院が専門病院なので、できるだけ早めに予約を入れて受診したほうが良いことなど、今後の手順をキチンと丁寧に教えて下さいました。

しばらくして、女医先生は「ツラいよね…」と声をかけて下さり、またボクは堰を切ったように泣いてしまいました。誰に聞かれるでもなく、ポツリポツリと今後の生活への不安、仕事への影響、私生活のことなど話したのですが、一番強く思ったのは、両親への申し訳無さでした。

五体満足に生んでくれて、やりたいことやらせてくれて、ココまで育て上げてきてくれた両親に、本当に申し訳ない。ただただ、それをずっと口にしていたと思います。

それと仕事。
医療従事者であることは明かしたのですが、本当に“こんな病気になったボクが医療従事者をやっていいのか”と言う事を女医先生に聞いた覚えがあります。


今でも思い出すのは、ボクが落ち着きを取り戻しつつあるときに女医先生がかけてくれた言葉。

「好きな食べ物はなに?」

です。

ボクが「中華料理が好きなんです」って答えたら「じゃあ今夜は中華料理をたくさん食べてかえって下さい」っておっしゃられて。

なんかもう、笑うしかなくて。


ただボクは不思議と「もう人生終わった」とか「死んだほうがまし」とかは全く思わなかったんですよね。むしろ「拠点病院を受診するのに職場にどうやって説明して有給とろうか」とか「どのタイミングで予約の電話を入れようか」とか、そんな事を考えていたように思います。



ただ、やっぱりその日は、何も食べる気になれず、そのまま車を運転して帰宅しました。

その頃ボクは、首にマフラーを巻いていたので、もう寒くなりかけていた11月も下旬のことだったと思います。


その後は…気が向いたら『その②』を書きますね。

最新のblog

 2024年11月28日(木)~30日(土)にかけ、東京において開催された『 第38回日本エイズ学会 』の『POSITIVE TALK 2024』にて、HIV陽性者の当事者としてスピーチをしてきました。まずは、その発表原稿の全文を、こちらでご紹介させて頂きます。 なお、読みやすい...