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オンラインカウンセリング「勇者の部屋」の産業カウンセラー勝水のブログです。セクシャルマイノリティ(ゲイ)・身体障害者(HIV陽性者)・精神障害者(双極症)の当事者としての目線と、理学療法士・社会福祉士・産業カウンセラーとしての目線で、今まで経験したことや普段考えていることなど、様々な情報発信をしております。

2023年8月9日水曜日

実はすごい!「エモい」の効果

 最近、よく耳にする「エモい」と言う言葉。実は「エモい」と感じると、脳に良い効果を与える、と言う研究結果が出てきているようだ。


私達世代は「キモい」「ハズい」などの言葉を日常的に使う(使ってきた)世代で、それぞれ「気持ち悪い」「恥ずかしい」のスラングだけれども、もう『若者言葉』ではなくなってきている。

「エモい」は「エモーショナル(Emotional)」が由来で日本のスラングで若者言葉だ。もっと起源を遡ると、音楽ジャンルの一つである「Emo(イーモウ)」だと言う説もある。どちらにしろ、意味合い的には『感情が揺さぶられた時や、気持ちをストレートに表現できない時、哀愁を帯びた様、趣がある、グッと来る』などに用いられるとのこと(Wikipedia参照)。私が日本語で表すとしたら『情緒的、叙情的』とでも言えると感じている。

どんな時にエモいと感じるか。一番、分かりやすく身近なのは「懐かしい」と感じる時である。

懐かしい曲を聞く
懐かしい味に出会う
懐かしい景色をみる
懐かしい人と会う

皆さんは、そういう「懐かしい」を感じた時、またはその後、どんな気分になるだろうか。何となく「気分が晴れやかになる」「前向きになる」「スッキリする」そんな気分を味わうことが多いのではないだろうか?

生きている時間が長くなると、もちろん忘れていく過去もあるが、何かのきっかけでその当時の事を思い出し、「懐かしむ機会」が増える。大変かわいそうな話だが、年齢が若ければ若いほど「懐かしむ事柄」が少なく、その機会が少ないだろう。だから「懐かしむ事」は年長者の特権だ。

どうもこの「懐かしむ」事で得られる気分というのは、脳内で『ドーパミン』と言う物質が分泌され活性化されている可能性が高い、と言う研究結果が出てきている。

ドーパミンと言う物質名は、どこかで一度は聞いたことがあると思う。
よく「報酬系」と言う言葉を聞くことがあると思うが、人間が“快”の感覚を味わうと分泌される神経伝達物質の一つで、アルコールを始めとする依存物質を体内に摂取するとドーパミンが“過剰に”活性化されると言われている。

この様に記載すると「ドーパミンは怖い物質」と思われてしまうかもしれないが、ドーパミンそのものは、元々体内で作れる物質で、体内に元々存在するということは、人間として生きていくために必要な物質である。

ドーパミンが活性化されると、幸福感を感じたりやる気を起こしたり、運動機能との関係も密接に関わっているとされており、とても大切な物質の一つである。

そして近年、明らかになりつつあるのは、このドーパミンの活性化が認知症の発症にも関与していること。端的に言うと「エモい」を感じると「認知症の発症を遅らせられる可能性が高い」と言われている。


この話題を目にした時、思い出したことがある。

随分前から、リハビリの世界では「回想療法(回想法)」と言う治療方法が認知症の予防や進行を遅らせる効果があると言われてきている。これは、昔の懐かしい写真や音楽、昔使っていた馴染み深い家庭用品などを見たり、触れたりしながら、昔の経験や思い出を語り合う一種の心理療法で、1960年代にアメリカの精神科医、ロバート・バトラー氏が提唱した。

私の記憶をたどると、「愛知県北名古屋市に回想法センター設立した」と言うニュースを見た。(https://www.city.kitanagoya.lg.jp/fukushi/3000075.php)


私は、帰省するたびに母親に昔話を聞くようにしている。それは、「回想療法」の効果を知っているため意図的に聞くこともあれば、話の流れでそうなることもあるのだが、母がいつも「こんな昔話聞いても面白くないでしょ?」とやや自虐的に言うのだが、私は母にいつまでも元気でいて欲しいと思い、昔話を聞く。

事実、私自身の知らない父の話や、祖父母の話し、母の生い立ちやその頃の生活環境の話を聞くのは大変、興味深く、大変面白い。

年を取れば誰しも物覚えは悪くなり、目は見えづらくなるから文字を読むことを避けるようになり、身体一つ動かすのにも億劫になり、「できなくなること」が増えることで、下手をするとそれだけでも憂鬱な気分にさせたり落ちこませたりするものだ。

しかし、それは誰しもが通る道。行く道である。

いつかは「死」を迎えるのだが、その瞬間まで、ご自身がご自分の人生を後悔せず「こんな人生だったけど良い人生だった」と思えるよう、私達が出来うることをしていきたいと思っている。

それが「昔話をする」と言う「エモい」体験を通して、最後の最後までよい気分でいられるのであれば、喜んで昔話を聞こうではないか。


そして最近、精神的に辛いとかなんだか憂鬱だとか、やる気が出ない、前向きな気持ちになれない、そんな事を感じているのであれば、昔の友人に連絡を取って昔話をしてみてはどうか。

または、昔、住んでいた街を訪れたり、アルバムを開いて昔の写真を見たり、よく聞いていた音楽をもう一度聞き直してみたりしてみてはいかがだろうか。

2023年8月8日火曜日

職場環境の見直しを!!心理的安全性と言う環境評価

 近年、働く環境を評価する上で重要視され始めてきているのが「心理的安全性」と言う考え方である。


心理的安全性とは…
ハーバード大学の、アン・マリー・エドモンドソンと言う方がその概念を提唱した。「チームメンバーが、自分の意見やアイディアを自由に言い、リスクを恐れずに行動できる環境」と定義されている。実は1960年代ごろより議論されている古い言葉ではあるが、1999年にアン教授が改めて提唱するようになった。

「心理的安全性が高い」というのは、チームメンバーが自分の失敗や間違いを恐れずに発言することができる状態である。そのため、チーム全体のアイディアやノウハウが共有され、新しい発想や解決策が生まれやすくなり、またメンバーは失敗を恐れずに挑戦できるため、チーム全体の成長やイノベーション(技術革新)が促進される。

この言葉が話題になったのは、2012年に“かの”Google社が、チームの効果性を四半期ごとの売上ノルマ(定量指標)とその要因(定性評価)を組み合わせて調査した結果、『チームの売上に貢献する要素で最も重要なのは心理的安全性であった』と発表したことである。


「心理的安全性が高い・低い」というものは定性的な評価になるので、なかなかご自身の職場や部署がどうであるか、とは言いにくい部分があるかもしれない。また、ある人にとっては心理的安全性が高いと感じていても、ある人にとっては低いというように、評価が分かれる可能性もある。

また、企業や団体で言うと「部署としては心理的安全性が高いけど会社全体では心理的安全性が低い」と言うような、ねじれ現象が起こる可能性がある。部署内では、活発な意見交換や新しいアイディアなどが生まれているが、幹部間ではコミュニケーションがとれておらずせっかく良い提案があっても、そこでは心理的安全性が担保されていないため、結局、企業や団体の成長やイノベーションには結びつかない、などの事例もあるだろう。

部署内のチーム単位
部署単位
組織(企業・会社)単位

それぞれの単位ごとに心理的安全性が高くなければ、効果的ではないと言わざるを得ない。

ではなぜ近年になって「心理的安全性」が注目され始めているかと言うと、その背景には『変化の激しい時代』であり『確実な正確が分からない』と言う現代特有の特徴があるからである、と言う意見がある。

つまり激しく変化し続ける時代に合わせた商品やサービスというのは、同様に変化し続けなければならず、それに呼応するように企業や団体も変化し続けなければならなくなったから、と言うことだ。

面白い例えがある。
「100年間、同じ製法で作られ続けてきたお饅頭屋さんにはその製法を継続して守り続ければ良いのであって、そこには“心理的安全性”は必要なく、職人がその技術を伝え続けばそれで良い」


同じものを同じ様に作り続ける事を継続していくことに心理的安全性は必要なく、ただ、脈々と受け継いでいけば良い。逆に言うと、変化し続けるものに対応するためには、それに見合うアイディアや革新的な技術が必要であり、それを生み出すには個々人の思考や考えだけではなくチームで取り組み、かつそのチームの構成員が各々に意見を持ち寄り、より洗練されたアイディアへと昇華させる必要がある。そのためには「心理的安全性」が必要となる。

しかし、これは医療の現場では、今も昔も、あまり変わらないのではないかと思う。

「医学」の歴史は古く、有名なのは紀元前5世紀頃にギリシアで生まれたヒポクラテスである。彼は“医学の父”とも呼ばれるほどで、医学はかれこれ2500年以上も続いていることになるが、今も昔も、医療に関する技術や理論は日進月歩である。そして、治療技術や診断技術は、いつの時代も研究・議論され、そしてその時代その時代で最先端の知見というものを見出してきている。

その最たるものが『学会』であり『学術集会』『学術大会』である。

私も、お恥ずかしながら医療従事者の末端で、学術集会にはオーディエンスとして参加もしたことあるし、発表者として参加したこともある。そこでは、見知らぬ者同士が、それぞれの知見から意見を出し議論し合う。まさしく「心理的安全性が担保された場」での議論である。

しかしおかしなもので、臨床現場に戻ると途端にその、心理的安全性があやしくなる。

以前、このblog記事「医療の現場で働く事の楽しさと闇」で書いたように、どの医療機関でも「派閥」のようなものがあるのは事実である。そこでは大なり小なり「忖度」があり、本当の意味での「心理的安全性が高い」環境であるとは言い難い。

結局のところ、医療の現場であろうが一般企業であろうが、条件は変わらないのかもしれない。


少し、話題を変えよう。
心理的安全性を構成する要因は4つあると言われており、それは「話しやすさ」「助け合い」「挑戦」「新奇歓迎」である。

前者3つは容易に想像できる単語だが、「新奇歓迎」とはなんぞや?と言うと、
「新奇歓迎とは新しいアイデアや考え方を受け入れ、歓迎する文化や風土」とのこと。

結局のところ、変わり続ける努力と変わり続けることを恐れない態度、そしてそれを良しとする社風や文化、それらが心理的安全性に大きく寄与しているように思えてくる。

どの業界において、でも。

人間は、年齢を重ねるごとに頭が固くなる。私も、そうならないように気を付けているつもりだが、結局のところ、自分自身の経験してきた「成功体験」や「良くない自己肯定感」が邪魔をして、新しいものを受け入れる余地を与えなくなる。


「心理的安全性」というものは、「働く環境の評価基準」のひとつであるが、そこで働く人々の「柔軟性」と「寛容さ」と「向上心」で成り立っているのではないか、と私は考える。

皆さんは、どの様に捉える?

2023年8月7日月曜日

マイノリティ+マイノリティ+マイノリティ…

 私が半世紀生きてきて、そしてHIV陽性者となって約20年が経ち、医療や福祉、対人支援に関わるうちに、特に最近強く、思うことがある。


セクシャルマイノリティといえば、私がまだ若かった頃というのは「ゲイ」「レズビアン」「バイセクシャル」と言う、ほぼほぼこの3つの括り(くくり)で語られてきた気がする。

発達障害や知的障害という言葉は「知恵遅れ」「精神遅滞」と言う言葉(現在は差別用語である)で括られていたと思う。

何が言いたいかと言うと、医療の診断技術がすすむことで疾患や障害は細分化され、個人の特性もそれを表現しやすくなったことで、同じような特性を持った者同士が一つの集団を形成することで、さらにそれらも細分化されるようになった。

それが良いか悪いかは別として、結果的に、自己を表現する際に「この面はマイノリティ」「この面はマジョリティ」というように、自分を多角的に捉え(とらえ)そしてそれの組み合わせに広がりを見せるようになった、という現象が起きている。

私は「ゲイ」であり「HIV陽性者」であり「精神障害者」である。
タイトルに書いた通り、マイノリティ+マイノリティ+マイノリティ(トリプルマイノリティ)である。

自己を表現する時、1つのマイノリティ要素を持つ者同志の集団を見つける場合と、3つのマイノリティ要素を持つ者同志の集団を見つける場合とでは、いわずもがな、後者の方がはるかに困難である。

しかも「私は●●というマイノリティです!!」と開示することと「私は●●と〇〇と■■というマイノリティです!!」と開示することとでは、精神心理的な負担は、圧倒的に後者の方が大きい。

ただ、ここまできてしまうと「マイノリティとマジョリティに分けて考える必要があるのか?」と思ってしまうかもしれないが、当事者としては、やはり「マイノリティ」としての自覚があるからこそ感じてしまう周囲との隔たりや、そうさせてしまう社会環境に問題がある限り、そうせざるを得ないのである。

「マイノリティ」がそこに当たり前に存在して、そして「マジョリティ」がそれを理解する世の中になるまで(“受け入れる”と言うところまで求めてしまうのには多大なる時間がかかるだろうから)、必要なことなのである。

「あゝ、そーゆー人もいるよね」と言ってもらえるような世の中になるまで。


今回は、問題提起だけさせて終わりとする。

2023年8月4日金曜日

Z世代を理解する!!「タイパ」と言う価値観

 「タイパ」と言う言葉をご存知だろうか?


実は私、1年くらい前から言葉自体は知っていたのだが、その意味を知ったのはつい最近のことである。

「コスパ」と言う言葉は、もう一般的になってきて、意味もご存じの方も多いと思う。「コスト・パフォーマンス」の略語で、日本語で「費用対効果」の意味である。商品やサービスを購入する際に検討される重要な要素の一つである。「コスパが良い」というのは、同じ価格帯の商品やサービスより機能が充実していたり、質の良いサービスが受けられることを言う。

では「タイパ」とは何か。

「タイムパフォーマンス」の略語である。意味的には「コスパ」と同じような意味合いで使われることが多いが、時間に対する効果や満足度を示す言葉だ。「タイパが良い」というのは、同じ時間の使い方であっても、より有意義であったり効率的であったりした際に「タイパが良い」と言う。
その一例が動画配信サービスなどのを「1.2倍速」や「1.5倍速」で鑑賞する、と言う行動である。同じ動画を見る際、通常再生よりも早く見終わることで、その時間を他の時間に充てることができる。実際に、大手動画配信サービスでは、標準で視聴者が再生スピードを選択できるようになっており、それを言い換えればそれらの機能を利用する視聴者が大勢いる、ということだ。
どうやら、そのような価値観や行動は、2010年代後半頃より見られていたと言うが、顕在化してきたのは「今年の新流行語大賞 2022」大賞をとった前後であろう。

実は以前から気になっていた、若者が一般的に行っている行動がある。

それは、「音楽の聞き方」である。

最近は、音楽を聴くのもサブスクが一般的になってきて、安い値段で様々なアーティストの音楽にふれる機会が増えている。しかし「サビの部分まで早送りしそれが終われば次の曲へ飛ばす」と言う聞き方をする若者が増えている、と耳にしたことがある。

音楽が好きな私にとってみたら、もう、驚きでしかない。

音楽(一般的な歌唱曲)というのは、おおよそ以下のような構成になっていることが多い。

イントロ → Aメロ → Bメロ → サビ → 間奏(イントロ) → Aメロ → Bメロ → ブリッジ → サビ → エンディング

もちろん、これだけではなく様々なバリエーションがあるが、おおよそ、このような構成になっていることが多く、ある意味「最後のサビをいかに盛り上げるために聞かせるか」と言う意図もあると思われる。

私が10代~30代の頃、よく聞いていたアーティストの音楽というのは、このような構成であり、時々、いきなりサビから入る曲などもあったが、それは非常に稀で、アーティストの意図がそこには隠されていたと思う。

しかし、最近では「いきなりサビ曲」というのは当たり前になってきたようだ。

優里「ベテルギウス」
ヨルシカ「夜に駆ける」
米津玄師「Lemon」
LiSA「紅蓮華」
Ado「うっせぇわ」
Official髭男dism「Pretender」
King Gnu「白日」
星野源「恋」
嵐「Happiness」
乃木坂46「インフルエンサー」

どの曲も、ヒット曲でみなさんも一度は耳にしたことがあると思う。
実はこれらの曲は、カラオケでも人気のある曲であり「すぐに盛り上がる」という特徴を持つ。

それが良い悪いの話ではない。今は、そういう時代だ、と言うことだが、私には少し、寂しい気がする。

「すぐに盛り上がる」=「ノリが良い」と言い換えることもできるが、先程述べたように、最後のサビを盛り上げるための助走部分や、徐々に気分が高揚してくる感覚というものが、失われていくことが、なんとなく「心の余裕のなさ」というものと比例しているように思えて仕方がない。

「いきなりサビ」がくることで「すぐに盛り上がれる」ということはある意味「タイパが良い」と言うことになる(?極論すぎる?)。


そのような現象が起こっている背景には「無駄な時間を過ごしたくない」「無駄だと思う瞬間を作りたくない」と言う感覚がある、と言われている。つまり「より短い時間で」「より満足度の高い」「時間の過ごし方」を求めているとも言い換えられるが、一方で、「失敗したくないZ世代」と言う捉え方から、「タイパの良いものを求める」行動にはしる、とも言われている。

ここで少し、Z世代について説明したい。
1995年~2012年の間に生まれた世代のことで、インターネットやスマートフォンが普及した時代に育っているため「デジタルネイティブ」とも呼ばれている。社会的な意識が高く、環境問題や社会正義などに関心が高く、グローバルな視野を持っている、とも言われている。そして自分の個性を大切にし、他人と違うことに抵抗がない。などと言われている。


「タイパが良い」=「無駄がない」と言う考え方ではあるが、私は少し寂しさを覚える。

コロナ禍、大学を始めとする学校での講義や授業がオンライン化・オンデマンド化が進み、「動画で講義を受ける」事がごくごく当たり前となった。教える側としては、カメラの向こう側・パソコンの向こう側の様子が分からないため、その“空気感”をつかむために苦労したであろう。一方、受ける学生たちはというと、最初に述べたように「1.2倍速」「1.5倍速」で講義動画の視聴をしていた者も大勢いたと聞く。

何が寂しいかと言うと、教える側の俗に言う「話の脱線」が聞けなくなったことである。
私が高校生時代や大学生時代、教科書通りにしかも教科書に書かれたようにしか進めない講義や授業は、大変、つまらなく感じだものだ。「話の脱線」の中には、それこそ教科書に書かれていない事、例えばその先生の人生観や職業倫理、体験談また勉強方法や覚え方などの、実は「ムダでない知識」が詰まっていて、大変興味深く聞いていた。

Z世代というのは、このような「話の脱線」=「無駄な時間」と捉えているものが多いと聞く。

きっと私は昭和生まれの古い人間だ。
時代の流れ、と言ってしまえばそこまでだが、全てにおいて「タイパ」を求める事が必ずしも良いこととは思えない。

日本の文化の中に「行間を読む」「間を大切にする」と言う感覚がある。そこで養われるものは、実は人間関係を構築していく上で非常に大切な能力なのだと思う時がある。


その「間」を感じた時に、何を考えるのか。一度、皆さんも考えてみていただきたい。

2023年8月3日木曜日

自分自身が持つ価値観へ与える影響(お金の話し)

 ご自身が今、あらゆることに対する「価値観」というのは、どこからやってきたのか?


私は、子供の頃から、特に母親からお金の使い方に関して、口酸っぱく言われ続けている(現在も)事がある。

「計画的に使いなさい」「貯金しなさい」「無駄遣いしてはいけません」

私は小学生の間のお小遣いは、1週間に¥100だった。毎週土曜日がお小遣いをもらえる日になっていて、実はその日の午後は、母と姉と従姉妹の4人で習字教室へ通う日だった。習字教室が終るとその¥100を持って、近くの駄菓子屋さんへ駆け込んだものだ。

ちなみに、普段のおやつは毎日、母が用意してくれていて(時には手作りのこともあった)、文具や衣服などは必要時に応じて買ってくれる、と言うシステムになっていた。もちろん姉も、だ。

中学生になると¥1000/月となった。普段のおやつや文具、衣服などは同じようなシステムだったが、中学生にもなるともっと欲しい物が増えた。

好きなアーティストのCD
プラモデル
漫画本

その頃僕は「TM NETWORK」を筆頭に「森高千里」「斉藤由貴」「遊佐三森」「大貫妙子」「中島みゆき」「PSY・S」「渡辺美里」が好きでせめてアルバムだけでも欲しかった。でも、シングルCD¥800、アルバム¥3000くらいの時代。単純計算、アルバム一つ買うのにも3ヶ月はかかる。

プラモデルと漫画本に関しては「聖闘士星矢」が大好きで、不定期ではあったけどプラモデルも発売されてたしもちろん漫画本も発売されていた。プラモデルは確か¥1000くらい、漫画本も¥700くらいだったか。

とにかく僕としては、我慢して我慢して我慢して我慢して、その中のどれかを買うわけだ。

ちなみに高校生になった時は¥3000/月であった。音楽ももちろん大好きだったし、相変わらず「聖闘士星矢」も連載が続き、アニメも放映されて興味が薄れることはなかった。確かに、中学生の頃よりはお小遣いが増えたため買えるものも増えたが、それでも僕は我慢して我慢して我慢して我慢して、その中のどれかを買う。

高校生ともなると友達付き合いも増え、買い食いをしたり寄り道したりすることもある。でも、CDアルバム1枚買ってしまうと、その月はもう、買い食いもできない。

ある時、母親にお小遣いの「賃上げ交渉」をしたことがある。
「CDアルバム1枚買ったらもうその月は何も買えないから、せめて¥5000にして!」と。しかし母は「おねーちゃんもおんなじ値段だったんだからあなたも我慢しなさい」と一蹴され、ケンモホロロ、惨敗だった。

短大に入学し、一人暮らしを始めてからは、アルバイトを始めた。生活費は仕送りだったが、遊ぶお金は自分で稼いでいた。しかし当時、やっと週休二日が普及し始めた頃で、医療短大でのカリキュラムはきつかった。週2日は1~5限目まで、週3日は1~6限目まである状況で、6限目まである時は講義が終ると18時だったから、あまりアルバイトにも時間を割けなかった。

僕は、自宅アパートと短大の中間にあるミスドでバイトをしていた。夜間~深夜の大体4時間がベースで、月に稼げてたのはせいぜい、3~4万円だったと思う。

サークル(バンド)も始めて、音楽機材を買ったり、もちろん友達と遊びに出かけたり呑みに行ったりしていた(ただしバーに呑みに行くときは閉店まで1杯で過ごすという嫌な客だった)。

余談だが、行きつけのマスターが僕がリハビリの学校に通っていると知ってから、営業中に肩揉みをすると1杯ごちそうしてくれた。

短大を卒業して、夜間の福祉大学に入学しそれと同時に就職はしたが日中、理学療法士として働いた収入は、生活費を賄うことが精一杯でボーナスは大学の学費に消えた。

この間は、親に借金することもなく何とかやってこれた。

しかし、この後がいけなかった。
夜間の大学を卒業し、無事に社会福祉士の資格を取り、それまで勤めていた整形外科のクリニックを退職、そして地方都市の市民病院に就職してから「お金に余裕があるってこういうことか!」となんとも言えない開放感を味わった。

新車の車を買った。
飛行機に乗っていく旅行も行った。
ほぼ毎週末はデートだった。
好きな服のブランドも見つけた。
香水も買った。
相変わらず音楽は好きだった。
パソコンも買った。
一応、定期預金も始めた。
民間の健康保険にも入った。

でも、これは通過地点で、以前、僕のblogでも書いた通り僕は「理学療法士+α」の仕事がしたくて、その市民病院で働いている最中に、社会人入試で大学院に進学した。それで定期預金も解約した。また、僕のボーナスは学費に消えた(笑)。

ちょうど、その頃僕はHIVに感染した(27歳)。
だから民間の健康保険も更新手続きはしなかった(当時、HIV感染症患者は適応外だった)。

それがきっかけで(それだけではないけど)転職をし、理学療法士を養成する短期大学で講師として働くことになった(29歳)。もちろん、大学院生を続けながら。博士課程まで進学したけど、実験結果が思うように出ず、在学を2年伸ばしたけど結局、学位は取れなかった。もちろんその伸ばした2年間は、学費を払い続けた。そして僕は短大講師を辞めた(35歳)。

だから、金銭的に本当に余裕があった期間というのは、市民病院で働いていて大学院に進学するまでのほんの数年間である。そして、自分で言うのも変だが、なんだか金銭感覚が人とは違うというか、狂っていたと思う。

母の教えである「計画的に使いなさい」「貯金しなさい」「無駄遣いしてはいけません」と言う「価値観」は十分、理解していたつもりだし必要なことだと思っていた。しかし、実際の行動には伴っていないことが多かった。

夜間の大学に進学するときも大学院に進学するときも「ボーナスをつぎ込めば普段の生活はできる」ということだけで判断し「将来に備える」と言う事はほぼ、念頭になかった。

また、現在に関して言えば双極性障害の影響も多かれ少なかれあると感じている。私は鬱期に入ると過眠・過食の症状に悩まされる。基本的には鬱なので動けないけど食欲は底なし。もちろん料理する気力もなく、ましてや買い物に出かけるなんてもってのほかである。結局は割高なデリバリに頼る。
躁期には「もしもの時に蓄えておく」と言う考えはなくなり、お金はあればあるだけ使うと言う感覚で浪費していた。

しかし母の教えは僕の奥底に根付いているわりには行動は伴っておらず、しかしいつの間にか「お金にだらしないことはとても恥ずかしいこと」と言う認識に変換されていた。そして「お金にだらしない私はダメな人間だ」へと変換されることになる。


人間の価値観というのは、幼少期から成人期にかけ以下のような要因によって形成されると言われている

①家庭環境
②教育
③社会環境
④個人の経験
⑤宗教
…など…

もちろん価値観そのものは、生涯に渡って変化していくものである。

しかし、子どもの頃うけた親からの教育や躾というのは、その人の価値観の奥深く、まるで「棘のある蔦」の様に強くしつこく絡まっていることが多い。その呪縛から開放されるには、その人が成人期に入った時に、どれくらいのインパクトを持ってどの様に何を経験するか(これには社会環境の影響も含む)によって大きく変わってくると考える。


私はこの歳になっても母から聞かされる話がある。

「おとーさんはね、おかーさんと結婚する時、1円も貯金がなかったのよ」
「おねーちゃんは結婚する時〇〇円貯金したの」
「おねーちゃんは子どもたちの学費のために、一人〇〇円ずつ貯金をためたの」

何歳になっても親は親。
でも“子”のほうは、いつの間にか“子”でなくなる。
“子”は親を客観的に評価する“成人”になっていることが多い。


しかし、親の呪縛を振り払うには、並大抵の努力では困難であることも事実である。

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