確かあれは、今年の4月の下旬頃の話し。
都市中心部で用事を済ませ、次の目的地のある市郊外に向かう市バスに乗り込んだ時の事。始発のバス停から2つ目の停留所から僕は乗車した。見渡すと乗客は学生らしき男性と女性が2~3人、中年のサラリーマンと思しき人が1人、友人同士と思われる中高年の女性が1組くらい先に乗車していたと思う。
そしてもう一人。
バス車体中程にある“優先席”に、「年齢不詳の女性」が座っていた。
僕は、車体やや後方の二人がけの席に一人腰をおろした。たしかあの時は小雨が降っていたので、僕は傘を持っていた。傘は手に持ったまま席に座ると同時にリュックを隣の席に置いた。いつも使っている骨伝導式のヘッドホンをし、大好きな女性テクノポップユニットの曲を聞きながら、雨粒が濡らすガラス窓の外をぼんやりと眺めていた。
バスは、定刻通りに停留所を出発した。
僕は変わらず窓の外を見ていたが、その「年齢不詳の女性」が落ち着きなくしている様子が目の端に映り、また何か独り言を言っているようにも見えた。声はヘッドホンから聞こえてくるアップテンポな曲にかき消されて、僕には何を言っているのかまでは分からなかった。
停留所を2つ過ぎた辺りだっただろうか。バスは赤信号で停まった。
その途端「年齢不詳の女性」は立ち上がり、前方のバス出口へ向かっていき、何かを叫びながらドアを蹴り始めた。
僕は驚いてヘッドホンを外してみると、その女性は「ここで降りる!」「降ろして!」「早く開けて!!」と叫ぶ声が耳に飛び込んでき、ドンドンと扉を蹴る音が響いてきた。
僕は一瞬、何が起こったのか分からず、ただ呆然とその様子を見ていることしかできなかった。信号は青に変わっていたけれど、バスは止まったままで、運転手さんは「やめてください!」「危ないですから席に座って下さい!」と大声で制止することしかできないようであった。
僕自身、このような状況に出くわしたことはなく、全く初めての経験であったので、何を優先させ、今何をしなければならないのか、頭が真っ白になりさっぱり何も思い浮かばなかった。
しかし、間髪入れずその女性は、運転手さんに掴みかかっていった。
「危ない!」
僕が叫んだのか、心の中で思っただけなのか今でも思い出せないが、そんな言葉が頭をよぎった瞬間、僕のすぐ後ろに座っていた中高年の女性の一人が、それと止めようとしたのか運転席まで走っていった。
そこで僕は我に返った。「皆の安全を確保しなかれば」
とっさに、持っていた傘と耳にかけていたヘッドホン、メガネを座席に放り出して運転席まで走り寄り、「年齢不詳の女性」の掴みかかっている手を何とかしちょうとしている中高年の女性に席に戻るよう伝え、運転手さんと「年齢不詳の女性」の間に割って入った。そして力づくでその「年齢不詳の女性」を車体中程の優先席まで連れていき、押し込むように座らせた。
僕の心臓は口から飛び出そうなほど鼓動しているのに、何故かどこか頭の中には冷静な自分がいることに、ひどく驚いた。
「年齢不詳の女性」は、背丈は僕よりやや小さいくらいだけれども酷く痩せていて、けれどものすごい力で僕に抵抗してきた。しかし、優先席に座らせた後、僕は「年齢不詳の女性」の横に身体をしっかりと寄せ、脇から腕を通してしっかりと離さなかった。
「何があってもこの腕を離してはいけない」
必死で「年齢不詳の女性」の腕を掴んだまま、ふたりとも徐々に落ち着きを取り戻していくのが肌で感じとれた。
「どこのバス停で降りるんですか?」
「◯◯◯」
「じゃああと3つ先ですね」
その時不意に、彼女は言った。
「…トイレ…行きたい…」
その時、僕はハッとした。彼女はトイレに行きたかったのだ、と。きっとすぐにでも降りてトイレに行きたい、ただ、それだけだったのだと。
「もう少し。もう少し…我慢できますか?」
そうたずねると彼女は静かに首を縦に振った。
目的の停留所に着くまで、おそらく15分程度だっただろうか。僕は心のなかで「早く着いてくれ」「このまま冷静でいてくれ」その2つの言葉を繰り返し繰り返し唱えていた。そして彼女を落ち着かせるため、そして自分を落ち着かせるため少し身体を横に揺らし、腕を組んでいないもう片方の僕の手で、彼女の膝をゆっくりと一定のリズムを刻むように、ポンポンと軽く叩きながら停留所に着くのを待った。
目的の停留所に着くと、彼女は僕の腕を振りほどき小走りしながら、バスを降りていった。
それを見届けた僕は、バスが走り出す前に、車体後方のもともと座っていた席に戻るために歩き出したのだが、途中、中年のサラリーマンからは「ありがとう」と声をかけられ、大学生からは会釈され、後方に座っていた中高年の女性からは「すごいですね。ありがとうございました」と感謝の言葉をいただいた。
けれど…
僕が元の席に座る頃には、何か釈然としないというか腑に落ちないと言うか居心地の悪さを感じていた。バスを下車するときには、運転手さんからも「ご迷惑おかけしました。本当にありがとうございました」と声をかけていただいたのだが、「善い行いをした後の何とも言えない爽快感」は全く無かった。
事実だけを並べると「バス車内で暴れていた女性を、たまたま同乗していた男性が制し乗客乗員の安全を守った」と言う美談になるのだが。
おそらく彼女は、精神障害者または発達障害者(心身障害者?)だったのだと思う。
そして僕も、精神障害者で身体障害者だ。
どうも、ここで僕の思考は引っかかって止まってしまう。そして、何か物悲しさを感じてしまう。理由が分からない。今でも何故なのかが分からない。文章にして言語化すれば何か答えが見つかるのかと思ったのだが、何かの答えを出そうとすると筆が止まる。
ここに書いたことは全て事実で、ややドラマチックに仕上げてしまったが、その出来事と僕の心の動きは理解していただけたのではないかと思う。
誰かこの僕の「腑に落ちない何か」の答えを解説してくれる人はいないだろうか。
コメントをお願いしたい。