自己紹介

自分の写真
オンラインカウンセリング「勇者の部屋」の産業カウンセラー勝水のブログです。セクシャルマイノリティ(ゲイ)・身体障害者(HIV陽性者)・精神障害者(双極症)の当事者としての目線と、理学療法士・社会福祉士・産業カウンセラーとしての目線で、今まで経験したことや普段考えていることなど、様々な情報発信をしております。

2023年9月19日火曜日

忘れられない患者さん③後縦靭帯骨化症のおじいさん・その1

 僕が理学療法士として働く中で、忘れられない患者さんシリーズの第3弾。



後縦靭帯骨化症(OPLL)とは…



主に首の骨で「後縦靭帯」と言う名前の靭帯が骨化(石灰化)し、脊髄を圧迫することで起こる手足の麻痺が主な症状の病気です。

「麻痺」って簡単に言うけれど、大きく分けて「運動麻痺」と「感覚麻痺」があって、「運動麻痺」は筋肉を動かすための命令を伝える神経がダメになって起こる麻痺。だから、脳で「筋肉を動かせ!!」と命令しても、それを伝える神経がダメになっているわけだから、筋肉は動いてくれません。一方「感覚麻痺」は主に皮膚で感じる「痛み・熱さ冷たさ・触っている」そんな刺激を脳に伝える神経がダメになっている。だから例えば、熱いお湯に手を突っ込んでも「熱い」と言う刺激が脳に伝わらないので、慌てて手を引っ込めることができない、とか。


Aさん(70代・男性)は元々一人暮らしで賃貸のマンションの1階に住んでいました。ベースに糖尿病があって、糖尿病性腎症のために維持透析をしていたんだけど、ある時道端で転んで救急搬送され「後縦靭帯骨化症による四肢麻痺」と診断されました。「四肢麻痺」というのは「手足の麻痺」と言うことです。

本来なら手術をしてもいいくらいの重症度だったのですが、御本人の強い希望でまだ手術をしたくないということと、リハビリで何とか一人暮らしに戻りたい、ということでその救急病院に2週間ほどしてから僕の勤めていた病院に転院になりました。

転院前に担当のMSW(医療ソーシャルワーカー・社会福祉士)から相談があって「とりあえず介護保険未申請だから申請して、身体の回復の状態を見極めてから退院って話になるんだけど、部屋はマンションの1階なんだけどね、実はマンション入り口に3~4段の段差があるの」と。Googleストリートビューで確認すると、たしかに段差がある。しかも手すりはない(Googleストリートビューはこんなところでも役に立ちます!!)。

この方のように維持透析をされている方は1日おきに透析通院が必要なんだけど、自宅(自室)と送迎車間は自力で移動してもらうしかないんです。送迎ドライバーはいるんだけど制度上、送迎ドライバーが患者様の歩く介助などをしちゃいけないことになっていて、この方もマンションのお部屋と送迎車の止まる路肩の移動は自力で移動しなきゃいけなくなる可能性もあるんです(裏技もありますがそれは後ほど説明します※)。

MSWと一緒に、FAXされてきた事前情報そしてストリートビューを見ながら「この方、自力で送迎車まで行けるようになりますかね?」と。おいおい無茶ぶりだな(笑)と思いながらも「いや~御本人の様子を見てみないとなんとも言えないですよ~」と無難な返事をして、とりあえず転院の受け入れOKを出しました。


さて、糖尿病がとても怖い病気だということは皆さんご存知だと思いますが、なぜ怖いのかと言うと、その合併症が怖いのです。「糖尿病の三大合併症」というのがあって、①糖尿病性腎症 ②糖尿病性網膜症 ③糖尿病性神経障害の3つです。


もう少し加えると、糖尿病になると動脈硬化が進行して、下肢動脈血栓症や心筋梗塞、脳梗塞も引き起こしやすくなります。


初めましての挨拶でAさんのお部屋に伺うと、ひと目見て「この人は癖が強い!!」と分かりました。ムスッとした表情、口元には仙人のように蓄えたひげ。無表情で質問にも「おお」「ああ」「そう」などの一言返事。僕は内心「やば~~~い人だ~~~~」と半泣きでした。

とりあえず、お話をお伺いしていく中で、主な訴えは「手の動かしにくさ」「歩く時にふらつく」「膝から下のしびれ感」などがありました。

Aさん、実はこの時すでに糖尿病性神経障害も併発していたと思われ(医師の診断はなかったけど自覚症状などから判断して)、後縦靭帯骨化症による麻痺と糖尿病性神経障害による麻痺と、おそらく軽度の下肢動脈血栓症も併発していたと思われました。そのため、歩くときのふらつきや膝から下のしびれ感などは、それらの原因が複合的に引き起こしていると思われ、非常に悩みました。

Aさんのリハビリは作業療法士と僕の二人で担当することとなり、とりあえず「手」の症状に関しては作業療法士に任せ、僕は歩くことに関するリハビリを中心に行っていくことになりました。

目標は、マンション自室と透析の送迎車まで一人で移動すること。しかもマンション入り口の段差を上り下りして。そして最初のご対面の時に御本人から聞いた希望として「近くのコンビニまで歩いて買い物に行けるようになりたい」とのことも目標の一つに加えました。

僕はよく、「歩くことを目標」にする患者様にお伝えすることの一つに、「歩くためには安全に起き上がれること、安全に立ったり座ったりできること、それができて初めて歩くことの練習が始まります」とお伝えすることが多く、その方にも同じ様に説明をしました。そのため、起きる・立つ・座る事をやってみていただきましたが、予想通り、立ったり座ったりは何か固定されたものを持つ+僕が軽くお尻を持ち上げながらで何とか立てる状態でした。とてもとても一人で歩いて移動なんて難しい状況でした。

はてさて、その原因は?
理学療法的な評価を行ってみると、まずは足首の関節がかなり固くなっていること、太もも(大腿四頭筋)とお尻(大殿筋)の萎縮が明らかで筋力低下もありました。萎縮している筋肉と言うのは、単に筋肉がやせ細るだけでなく“固くなる”と言う性質に変わってしまいます。加えて足の裏の感覚もかなり鈍くなっていました。それどころか、ビリビリと痺れ痛いような感覚もあり、触れる場所や触れ方によってはそれがとても不快だと訴えられていました。


先程も述べたように、この方、元々の診断名は「後縦靭帯骨化症」でしたが、僕が見る限り下肢の症状はむしろ「糖尿病性神経障害」や「下肢動脈血栓症」による影響が大きかも…と思いながらリハビリを開始しました。「後縦靭帯骨化症」の麻痺か「糖尿病性神経障害」の麻痺か、もしそれぞれ単独のものであれば、理学療法での評価でも鑑別はできます。「深部腱反射」と言う腱の部分をハンマーで叩いてその反応を見る検査なのですが、予想通り、その検査ではどちらがどれだけ影響しているのか、と言うのは判断ができない状況でした。

まずは立ったり座ったりする事を安定させるのですが、足首の動きを柔らかくするためのマッサージや運動、脚に行く血流を良くするためのおしりのマッサージ、そして大腿四頭筋や大殿筋の筋力強化など、まずはベッド上でおこなることをやるのですが、これがまたヒトクセある方なので「それはどうしてそんなことするの?」「それはどういう効果があるの?」「なんでそんなことせなあかんの?」などなど、もう矢継ぎ早に質問の嵐。どうやら転院前で行っていたリハビリの内容に不満があったらしく「あそこでは歩け!歩け!って言われるだけだった」とかなりご立腹の様子。もともと医者嫌いであったこともあるようで、医療不信の状態だったので、僕は出来うる限り一つ一つの質問に丁寧にお答えしていきました。

クララが立った!!ってクララは何の病気なの?その2」でも書きましたが「立てないからただ立つ練習をする」「歩けないからただ歩く練習をする」のでは、おおよそそのリハビリは失敗に終わります。何度も言いますが、その原因を探ってそこに的確にアプローチする必要があるのです。


患者様との信頼関係が築けてくると、よくあるのが、病院職員に対する苦情を僕らセラピストに訴えるようになります。「看護師の〇〇がこんな酷いこと言った」「主治医の先生が全然、来てくれない」「薬を出すって先生言ったのに持ってきてくれない」などなど。正直、苦情を聞く立場なので非常に心苦しく申し訳ない気持ちになる反面、「ああ、この人は僕に心を開いてくれている」と安心もするわけで。

ありがたいことに?(笑)その方もしばらくして僕に同様の反応を見せてくれました。割と早い段階で(笑)それはもともと医療不信もあったので仕方のないことなのですが、その苦情の合間合間に僕はその方の生い立ちやご家族のお話など、色々なお話を聞かせて頂きました。

何とか立ったり座ったりも安定しU字歩行器での歩行も安定してきた頃、いよいよい、病棟内ぐらいはご自身お一人でU字歩行器を使って歩いて良い、と言う事になったのですが…この方、食へのこだわりが強いと言うか悪く言えば「食べたいものを食べたい時に食べさせろ」的な訴えをするわけです(笑)。そもそも、転院してきた時から「ここの病院食は不味い!」と事あるごとに言っていたわけで。まあ確かに、糖尿病食であったため味は薄味だし、お野菜もクタクタになってるし、文句を言いたい気持ちもよーーーーーく分かる。だから僕らも「そうだよね。そりゃ美味しくないわな」と共感してはいるのですが、立場上、ご自由に何でも食べて下さい、とは言えず。

当時の職場には院内に売店はなくその代わりにお菓子やおにぎり、パンなどの自販機が病棟1階に設置してあって、そこへ行ってお菓子を買いたいと。

正直、僕も困りました。
しかも、自室とリハビリ室の間にその自販機があるわけです。もう、そこで何度も何度もすったもんだしましたよ。まあ、最後の方は、御本人も買わせてくれないと分かっていたから、ほとんど“じゃれ合い”みたいになりましだけどね。

最終的には、T字杖をついてなんとか3~4段の階段を上り下りできるようになって、かつ、介護保険を使って、お弁当の配食サービスやホームヘルパーによる自宅内の掃除や調理などを利用することになったのですが、当初はこれらのサービスも全くノリ気じゃなく。MSWと作業療法士と僕とで事あるごとに説得し(そう、この時は説得しました。強く)、「今度(病院に)運ばれてきたら施設入所だからね!それが嫌なら家で気をつけて過ごすことと食べることには注意して!!」と何度も何度も年を押して退院になりました。


なぜこの方の事が忘れられなかったかと言うと、実は僕の父と同い年だったんです。
その頃、僕の父は認知症が酷く自宅介護は無理となって精神科に入院療養していたのですが、どうしてもその父と比較してしまっていました。

Aさんの肉親は実の姉(ご結婚されています)だけで、Aさんご自身は結婚歴もなくもちろん内縁の妻や隠し子もおらず(笑)、ご自分お一人で生活されていました。若い頃のお話は、もっぱらやんちゃしていた事の話題が中心でしたが、野球がお好きで仕事をしながら草野球の審判をしていたり仕事仲間との楽しいひとときのお話なども聞かせて頂きました。

僕の父に関しては、「そうは言っても…親というものは、子というものは」「死を考える②故人を偲ぶ日(私の勝手な解釈)」でも記載していますが、どちらかと言うと生真面目な性格だったのでAさんとは真逆のような印象でした。しかし、思うのです。Aさんとお話ししながらAさんも「こんなこと人には言えんけどな」みたいな前置きをして話されることもあったりして、「あゝもしかしたら僕の父にも“人には言えんけどな”というような事があったのかな」と思ってみたり「そんな父の話も聞いておけばよかった」と思ってみたり。当時、認知症のすすんだ父には、もうその様な話が聞けないのだと思うと、急につらくなったりしながらもAさんとの時間を共有していました。

もちろん僕にも「こんなこと人には言えんけどな」みたいな体験はあります。そりゃ人間ですもの。神様や仏様ではありません。だから時々、「実は僕もね」みたいに、お話しできる範囲でAさんに“懺悔”することもありました。



実はこのAさんとはこの後、2回また同じ病院で関わることになるのですが、それについてはまた次回。

2023年9月18日月曜日

クララが立った!!ってクララは何の病気だったの?最終回

身体症状症と思われる方を担当したお話のお二人目のお話です。



B君(中学生・男性)は、学校の階段でつまづき、かなり高所から転落し救急病院に搬送されました。背中を強打し脚に力が入らないとの訴えでMRIを撮影して「胸髄損傷」との診断だったのですが、MRIの画像ではそれほど重症でなかったため、体幹に巻くコルセットを装着して、すぐにリハビリが開始となりましたが、重症ではなかったため、救急病院を2週間で退院し、僕の勤めている病院へリハビリ目的で入院してきました。

それが、学校の春休みがあと2〜3週間で終わると言うタイミングで、何とか新学期には学校へ通学できるようになりたい、と言うのが本人や家族の希望でした。

彼は両親と弟と妹の5人家族でした。

救急病院からの紹介状で、歩行器を使ってなら歩けると言う情報だったので、初めましての時から歩行器を貸出し、病棟内ではご自分一人で出歩いても良いと言う許可を、僕から出しました。


僕はこの時からすでに、違和感を覚えていました。

確かに歩行器を使って歩けるんだけど、歩きにくそうには歩く。けれど、それが歩くたびに“歩きにくそうな状態”が一定でない。歩くたびに歩容(歩き方)がバラバラで、何が原因で歩きにくいのかが、全く掴めませんでした。

一般的に、歩き方が健常な人と違う時、ほぼほぼ歩き方に一定の“異常な状態”が見てとれ、それは大体、何度、歩いても同じ歩き方をするのですが、彼にはそれがなかったのです。


僕の感じた違和感は、それでした。

彼は理学療法だけの介入でしたので、僕だけがリハビリの専属の担当になったのですが、やや不安でした。「身体症状症」の診断名はないけれども、おそらく身体能力的には、支えが無くてもすでに歩ける状態の可能性が高い、と思っていてそれにどう踏み込もうか、とても悩みました。


理学療法でその人の身体能力の状態を把握するためによく使われる検査項目としては、「徒手的筋力検査」「関節可動域検査」「感覚(表在感覚)検査」「深部腱反射」「バランス検査」などがあります。実はその多くが「偽装」できるのです。

簡単に言えば、人間の関節を動かすための筋肉の力を、機械など使わずに検査する方法です。

関節がどの程度動くのかを「角度を測る」と言う方法で、角度計(分度器のようなもの)を使用して測ります。



熱い冷たい・痛い・触っているなど、皮膚で感じることのできる感覚を、筆や針などを使って、感じることのできる程度を調べる検査です。

打腱器(ハンマー)を“腱”とよばれる部分を叩くことで起こる“反射”と言う反応の程度を調べる検査です。


「バランス検査」
この検査は、筋力や感覚、視覚や三半規管などの総合的な検査で、例えば片足立ちが何秒できるか目を閉じて何秒できるか、椅子に座った状態から立って数m先のコーンを1周して戻ってきてまた椅子に座るのに何秒かかるか、などの検査です。


実は、関節可動域検査以外の検査というのは、患者様が簡単に偽装できるのです。
例えば筋力にしたって、一所懸命、力を出さなければいい、感覚検査も刺激に対して「感じません」と言えばいい、深部腱反射は脱力せず力を入れっぱなしにしていればいい。臨床経験のあるセラピストであれば、これらの偽装をある程度見抜くことは可能だと思います。

身体症状性は詐病と違うので、例えば筋力検査で自分自身が「力を出すことに手を抜いている」けど本人は本当に力が出ないと「信じている」。感覚検査で本当は「感じていないつもり」なんだけど本当に感じていないと「信じていいる」。

B君もやはり筋力検査や感覚検査では、異常と判断せざるをえない結果になるのだけれど、先程述べたように歩き方に、一定の異常が見られないので、僕は正直、その筋力検査や感覚検査の結果を信じてはいなかたのが本心です。


入院して最初の週末、ご両親の希望で、一度外泊させたい、との要望があり、母親が家に連れて帰った時にどんなふうに介助をすれば良いのかを知りたい、とのことで、彼のリハビリの時間に病院に来ていただいた。

しかし、歩行器で病院内を歩いているだけなので、まず、家にどう上がるのかが問題になり、そして家の中でどうやって移動するのかも問題になる。

脚の力が弱い場合、階段程度(10~15cm)の段差を上り下りをする時がじつは一番難しく、逆にそれ以上の段差(40cm以上)であれば、その段差に腰掛けてから上がると言う方法がありそれを試そうと思っていました。また、家の中は四つ這い、手すりのある廊下は手すりを使うことを提案するつもりでした。

入院してまだ1週間も経たない週末です。
ぶっつけ本番です。
僕はこの機会を、逆手にとりました。B君はこの時、母親がリハビリの見学に来ることは知っていてもちろんそれは外泊のためだと言うことも知っていました。しかし、実際にどうやって家に上がるのか、また、家の中をどうやって移動するのか、については事前に知らしていませんでした。


さあ、いよいよ母親の前での実践です。

まずは家に上がる方法。僕はB君に指示を出しながら、もちろん転倒などのリスクに最大限配慮したうえで、B君に実践してもらいました。自宅の玄関を想定した段差を用意し、そこに腰掛けてもらい、もう一つの台を支えにしながら立ってもらいました。予想通り、僕はなんの介助もせず彼は一人で立ち上がることが出来ました。しかもスムーズに。立ち上がったあとも、ふらつきなどなく、十分に二本の脚で立っています。

もちろん、そこから腰掛ける動作も行いました。
四つ這いの方法もお教えしました。手すりを持って歩くこともして頂きました。

そのどれもが、全く介助を必要とせず、一人で出来たのです。

僕は内心「しめしめ」と思いながら(笑)「すごいね!!できたじゃん!!お母さんの手を借りなくても出来そうじゃない?!」と満面の笑顔で労いました。B君は少し照れくさそうに「はい…」と。そして母親もこれなら外泊できそうです、と帰っていかれました。


そして週明け、外泊から戻ってきたB君のリハビリの時間。
お部屋まで迎えに行くと、表情が優れません。外泊から帰ってきてさぞ、喜んでいるかと思ったら、リハビリをしたくない、と。

正直、僕は下手こいたかも…とも思いました。身体症状性はある意味「出来ないことが当たり前」で「できることは異常」であるため、思いがけず色々なことが出来てしまった事が、精神心理的に負担をかけたのかもしれません。

そこで僕は、その日のB君のリハビリを諦め、お話をしました。
最初は家族関係やご兄弟の関係、ご両親のお仕事などから始まり、B君が兄弟に対して思っていること、ご両親に思っていること、学校での生活や友達に対する思いなど、少しずつ少しずつ、固く閉じた心の扉を開くように、色々なお話を聞きました。

最初はなかなか、本心を語ってはくれませんでしたが、徐々に「本音」を吐露するようになり、本音で話してくれたことに感謝の気持ちを伝え、最後に僕が「B君、もう君は歩けるよ。階段もできると思う。走ることは難しいかもしれないけど。もうできない“ふり”はしなくて大丈夫だよ」と伝えると、彼は泣き出しました。

しばらく、彼のそばにいてその様子を見守り、落ち着いたところを見計らって、「また明日、やれそうならリハビリしよ」と提案し、僕は退室しました。


1週間後。
彼は杖や支えなどなく、無事に退院しました。



実は、精神心理の問題が身体化した状態で(身体的な)リハビリを処方されるケースはしばしばあります。それは、例えばレントゲンやMRI、血液検査など「確かに正常とは言えないけど自覚症状の程度と合致しない」パターンがあるため「とりあえずリハビリで様子見ましょう」と言う場合です。

リハビリセラピストは、一人の患者様に対し短くとも20分間、長ければ1時間はその患者様につきっきりで、その間に患者様から色々なお話を聞くことが出来ます。そうすると、医師や看護師が気づかないその方の“本当の問題”が見えてくることがあります。それが精神心理的な問題である時、リハビリセラピストは本当に悩みます。それは、医師ではないため診断できないということと、御本人が精神心理に問題があるとは認識しておらず、それを指摘すると強い拒否反応を示すこともあるため、なかなか御本人にも言えず、根本的な解決に結びつかないこともよくあるからです。



「アルプスの少女ハイジ」の話題から、僕の経験した患者様のお話をお伝えしました。あまり一般的には、このようなリハビリセラピストの苦悩というのは知られていません。しかし、リハビリ業界では当たり前のように語られている事実です。

これを読んでいただいた方で身体の不調がなかなか改善しない方がいらっしゃれば、それはもしかしたら精神心理的な問題かもしれないと、その可能性を知っていただけると、本当の問題可決に向かうかもしれません。

2023年9月17日日曜日

クララが立った!!ってクララは何の病気だったの?その3

 前々回から続いている「クララが立った!!ってクララは何の病気だったの?その2」の続編です。今回で最終回。



クララは「ビタミンD欠乏性くる病」が大元でそれを契機に「身体症状症」になった可能性があると、僕の妄想を爆走させたわけですが、僕自身も理学療法士時代、二名の「身体症状症」を担当させていただきました。

A君(20代・男性)は仕事の休憩時、中抜けして自宅に帰り、職場に戻る最中、路上でてんかん発作(と思われる)症状で失神し、救急車でとある大学病院に運ばれました。意識はすぐに回復して命に問題はないとの結論だったけれども、両足が全く動かすことができなくなり、様々な検査をしたのだけれども、結局原因は分からなかったのです。もちろん、様々な検査をしながらもリハビリによる訓練や練習を続けてはいたのですが、ほぼ、回復やその兆候はみられなく、結局、入院期間いっぱいいっぱいまでその大学病院で過ごし、僕の勤めていた病院に転院となりました。

リハビリは理学療法士と作業療法士で関わることになりました。

大学病院からの紹介状には、「〇〇の検査しました」「〇〇の検査しました」ととにかく、様々な観点から検査したけど結局は「原因不明です」とのことでした。一応、診断名は「てんかん発作」と言う曖昧な診断名がついていたけど…

いや~かなりまいりましたね。
前回のブログ「クララが立った!!ってクララは何の病気だったの?その2」でも書きましたが、僕らリハビリセラピストは「立てない原因」「歩けない原因」を見つけてそれにアプローチするわけですが、そもそも何の病気か分からないので、本当に頭が痛かった。

一般的に、身体の一部分が思うように動かない病気、と言うのは大きく「神経が原因の病気」と「筋肉が原因の病気」に分けられます。

神経が原因の病気の代表的なものとしては「脳梗塞」「パーキンソン病」「脊髄損傷」「(他の病気が原因による)ニューロパチー」などがあります。

筋肉が原因の病気の代表的なものとしては「筋ジストロフィー症」「(アルコール依存症による)アルコール性ミオパチー」「重症筋無力症」「筋萎縮性側索硬化症」などがあります。


ただ、大学病院でそれら全ての病気を鑑別するための検査はしっかりされており、結局どれも原因ではない、と除外されたわけです。


実は彼のリハビリを開始して2~3週間くらい経った頃から、僕は違和感を覚えていました。ハッキリ言ってしまえば彼は「演技的」なのです。

20代という若さで両足が動かなくなってこれから生活がどうなっていくか分からないと言う状況で、かつ大学病院で3ヶ月過ごしてきただけで、極端に「切迫感」「悲壮感」がないんです。


一般的に、病気の後遺症が強く残ることで派生する「障害」と言うものを、その人自身が受け入れていくにはこの図のような過程をたどると言われます。
ただ、それぞれの過程をどれくらいの時間かけて、またどれくらいの程度でと言うのは個人差があるので、一概には言えません。

しかし、どう考えても3ヶ月の間で「受容」にたどり着いたとも思えない。僕の経験から言えるのは、過程の最後「受容」の一歩手前である「抑うつ」に留まる人が多く、それは一見「諦め」のような状態なので、言葉の端々にそれらを匂わすような事を言ったり、投げやりな行動をとったりするのだけれども、彼にはそれもない。

納得のいかなかった僕は、担当のMSWさん(医療ソーシャルワーカー・社会福祉士)に無理を言って(笑)もう一度、大学病院に診断名等の確認とちゃんとした経過を教えてもらうよう依頼しました。

そして帰ってきた回答が「器質的な原因(脳や脊髄、筋肉などの身体的な原因)が見つからなかったので精神科にコンサル(他科受診)したところ“身体表現性障害”の診断名でした」と。

彼は母親と妹さんの3人家族で、もちろん入院中は母親が見舞いや身の回りの世話をしていたので、精神科を受診したことやこの身体表現性障害と言う診断名がついたことは知っていたはずなのですが、大学病院側からの紹介状にもかかれておらず、また、本人や母親からもその診断名は告げられていませんでした(身体表現性障害とは前述した身体症状症のこと)。

そう、彼はクララと同じ(であろう)精神疾患の可能性が高かったわけです。

これは担当MSWの意見だけれども「大学病院側は(転院先が見つからないといけないから)精神疾患については伏せていた可能性がある」ということと「この親子はその診断名に納得がいっていなかった」からそれらを伏せていた可能性があると思う、とのことでした。僕もそれに同意しました。

これはこれで非常に困ったのです。
クララが立った!!ってクララは何の病気だったの?その2」でも書きましたが、本当は動けることやできるはずであることを指摘すると、強い拒否にあったり自殺をほのめかしたりすることは知識として知っていたので、どうやってリハビリをすすめていこうか…

作業療法士とMSWと三人で何度も話し合いました。

彼はこの病気で倒れるまではアパートで一人暮らしをしながら仕事をしていました。彼の母親も僕とほぼ同年代で、パートの仕事をしながらアパートに住んでいました。別々に暮らしてはいたものの、この状態で一人暮らし、しかも一般的なアパートでの生活はとても無理です。
彼は、車椅子に乗ってしまえば手を使って上手に操作し、運転はうまいのですが、いかんせん、立てないのでベッドと車椅子の移乗が一人では困難。作業療法士が提案し、ベッド柵を工夫し、かつ車椅子を一般的ではない車椅子に変更することで、何とか一人で移乗できる様にはなりました。

理学療法では、四苦八苦しあれやこれやと手をつくしとにかく脚に少しでも力が入るように様々なトレーニングを続けましたが、2ヶ月経ってもほぼほぼ変化は見られませんでした。当時、彼が入院していた病棟は入院期間が3ヶ月となっていたので、いよいよ、本当にどうするか、と言うところまで来てしまったのです。

またまた作業療法士とMSWの三人で話し合いました。
これ以上は(身体的な回復や日常動作の獲得は)無理だよね、と。どうやって母親や本人に伝えていくか、と言うことに問題はうつっていきました。

結論、窓口は一つに絞ろう、と言うことになりました。
僕や作業療法士、MSWがそれぞれ別々のことを言ってしまっては、結局、不信感につながるし、特に母親に説明する時は気を付けないと、と。そしてその役割をMSWが担うこととしました。


当時、僕の務めていた病院には精神科や心療内科はなく、もちろん臨床心理士などもおらず、「メンタルを扱う専門家」が不在のまま病院での療養とリハビリをすすめていくしかなかったのです。

結局、どうなったか。
回復が遅々としてすすまない事に業を煮やした母親が「もう連れて帰ります」と、退院期限がくるころに、彼を車椅子に乗せて退院されました。

どこにどのような形で退院されたのか不明です。

僕らは具体的な退院に関する提案もできないまま、退院されました。

その後、作業療法士とMSWで反省会をしました。
もっと早く、精神科への転院をすすめるべきだったのかも。
もっと強く、主治医に対応策を考えるよう、進言するべきだったのかも。
もっともっと…

でも、クララでさえ立って歩けるようになるのに3年かかっています。
しかもハイジのような友人がいて、です。


これが僕の体験した「身体症状症」の方の体験例です。
もう一方、いるのですが、次回にまた。

冒頭で「最終回です」と書いてしまいましたが(笑)思ったより長文になってしまったので。

2023年9月15日金曜日

クララが立った!!ってクララは何の病気なの?その2

 前回のblog「クララが立った!!ってクララは何の病気なの?その1」からの続き…



前回は、「アルプスの少女ハイジ」のクララは「ビタミンD欠乏性くる病」の可能性が高い、と言うお話を、スイスの時代背景と共にお伝えしました。

クララは3歳頃から歩けなくなりハイジと出会ったのは12歳の頃だそーです。ってことは約10年弱、歩いていなかったことになりますね。そしてクララがアルプスに過ごすようになって3年の月日が経ち、あの「クララが立った!!」になるわけです。

19世紀のお話なので、もちろん医療も現在のように十分でなかったでしょう。もちろん医学的リハビリテーションなどの概念もなく、それらを提供する人もいなかったと推察されます。10年間、車椅子生活を送っていたクララ。その脚はどうなっていたでしょうか。特別な何かをしていない限り、関節は拘縮と言って固くなり筋肉はやせ細り、骨はくる病の影響と脚に体重をかけない期間が長くなっていたため、なおさら弱く脆くなっていたと思います。人間の骨というのは、適度に力が加わることでその部分の強度が増す事が知られていて、脚の様に長い骨と言うのは、長軸方向に重力が加わることでドンドン、強度が増します。



物語の中には、クララがフランクフルトのゼーゼマン家に住んでいた時は医学的リハビリテーションのようなことをしていたと明記されていません。

何度も繰り返しますが、10年間歩くこともせず医学的リハビリテーションも受けずいた人間の脚と言うのは、骨の弱さや筋肉の萎縮はもちろん、一番の難題は関節拘縮(関節が固くなって動かなくなること)のはずなんです。関節が固くなると、自分で関節を曲げ伸ばししようにもできない、そして他人が動かそうとしても動かせない、そんな状態になるのが一般的なのです。

皆さんの中にも手足を骨折してギプスを数週間巻いた経験のある方は分かると思うのですが、ギプスという固定を外して関節を動かそうとしても力が入らないのはもちろん、怪我をする前より関節が動かせる範囲が狭くなっていることに気付くかと思います。

たった1~2ヶ月でもそんな状態になるのに、10年もほとんど動かさないとなると、不可逆的(もうもとには戻らないということ)な関節拘縮に出来上がってしまいます。


「アルプスの少女ハイジ」の物語では、クララがアルムおんじの元(ハイジの住むアルプス)に来た当初は、もちろん車椅子でした。しかしハイジは、クララが立てるように、歩けるように「手を貸しながら立つことを手伝った」ようです。それを3年間続けた結果、何故か「クララのバカ…」から始まり




「クララが立った!!」になったとのことです。




しかし、医学的リハビリテーションの観点から言わせていただくと、「立てないから立つ練習をするだけ」「歩けないから歩く練習をするだけ」では、その練習はおおよそ失敗に終わります。どんなに励ましや自身の努力があったとしても、です。

大事なのは「何故立てないのか」「何故歩けないのか」の評価(分析)が必要で、その分析の結果「〇〇と言う関節が固くて動かないから」とか「〇〇と言う筋肉が弱くなっているから」とか「神経の伝わりが悪いから」とか原因を探りそれに対して直接アプローチすることで、結果として「立てるようになる」「歩けるようになる」のです。


ここで僕なりの見解を加えます。

もともとクララは「ビタミンD欠乏性くる病」であった可能性は高いと思います。しかし実は、立って歩けないほどの病状ではなかった。彼女本人が意識していないところで「筋肉は働き関節は動かせていた」可能性が高いと思うのです。以前は「ヒステリー」とか「心身症」などと呼ばれていた精神疾患で、現在は「身体化障害」や「身体症状症」と言われる疾患があります。僕は、クララがその精神疾患だったのでは、と思っています。


よく「精神状態が身体症状として現れる“身体化”」と呼ばれています。

病状や症状を大袈裟に表現したり、時には病状を捏造したりすることがあるけれど、本人にその自覚はなくて、本人が嘘をついていると言う自覚のある詐病(仮病のこと)とは区別されます。その点が非常に厄介で、本人の訴えを軽視したり無視したりすることで、自殺をほのめかしたり実際に自殺企図をしたり、最も典型なのは病院や主治医を変えたりして、生活の全てをその身体症状に支配されてしまうことです。

クララは幼い頃に母親を亡くしています。本来ならば母親に甘えたい盛の時に母を亡くており、父親のゼーゼマンは献身的にクララの世話をする事になるのですが、父親に母親の代りはできなかった…幼い頃というのは甘えることで愛情の確認作業をすることがあります。甘えに対して厳しくしつけられることが、成長するにつて、必ずしもよい影響を与えているとは限りません。

クララはもっと母親に甘えたかった。しかしもう母親はおらず父親に甘える対象を向けるわけですが、そこでやや歪んだ甘え方になってしまった。

つまり、クララは知らず知らずのうちに、抑圧している母親への甘えを身体化し「身体症状症」になったわけです。

身体症状症の場合、医療従事者の前では多様な症状を訴え、また実際に動けなかったりするわけですが、そうでない時というのは動かせていたりすることも多いのです。しかも本人はそれをハッキリと自覚しておらず、動かせていた事を指摘すると強く拒否反応を示すこともあります。


「クララが立った!!」




それに大きく貢献したのは、ハイジの励ましと決して見捨てなかったその友情。また、周囲の人も彼女を「かわいそうな少女」ではなく一人の人として接し、彼女の本当の問題に向き合った結果である、と僕は思うのです。

平たく言えば「健康な精神・心理状態」になれたことが、「クララが立った!!」



につながったわけです。


実は今回、このブログ記事を書くことにしたのは、ちょうど5年前の夏、前職で「身体症状症」の方を担当した経験があって、いつもこの時期になるとその方のことを思い出すのです。

ハッキリと「身体症状症」と診断された方と、おそらくそうであろうと言う方を、半年の期間をおいてお二人、担当させていただくことがあった、どちらも若い男性で。いつも「彼らは元気にやっているのかな」「今はどんな生活をしているのかな」と思いを巡らす事が、この季節になるとあるんです。


次回は、そのお二人の事について、少し書いていきたいと思います。

2023年9月13日水曜日

クララが立った!!ってクララは何の病気なの?その1

あの有名な「アルプスの少女ハイジ」皆さんも一度は目にする事はあるでしょう。

そう、そして有名なあのシーン。
「クララが…クララが立った!!」

そもそも、なぜ、クララは歩けなかったのか。立てなかったのか。

時代的な背景と共に医学的な見地から、色々な事が言われていて、調べれば調べるほど面白い事実が分かってきたので、思わず筆を執りました。



原作はスイスの作家ヨハンナ・シュピリによる児童文学作品で、1880年から1881年に執筆されました。原題は『Heidis Lehr- und Wanderjahre』(ハイジの修行時代と遍歴時代)で、1880年に出版されました。


僕はアニメを再放送で見ているだけで、しかも小学生低学年くらいだったから、「アプスの少女ハイジ」のストーリーそのものを忘れてしまったので、少し、調べました。


ハイジは、幼い頃に両親を亡くし母親の妹であるデーテに5歳まで育てられていました(ただし両親の死因は不明)。しかし、デーテがフランクフルトでの住込みの仕事を得たため、ハイジを連れて行くことができず、山奥のアルプスに住む祖父であるアルムおんじに預けました(じつは祖父の正式な名前は不明なんです“アルムおんじ”は通称)。
デーテは、ハイジの祖父アルムおんじが、ハイジを可愛がって育ててくれるだろうと考えていました。また、ハイジは、アルプスの自然の中で、心豊かに成長してくれるだろうとも考えていました。実際、ハイジは、祖父アルムおんじの元で、自然や動物たちと触れ合い、心豊かに成長していきました。

では、ハイジとクララの出会いは…
スイスのフランクフルトに住むクララの親であるゼーゼマンは、裕福な商人でした。しかし、クララが幼い頃に妻を亡くし、一人でクララを育ててきました(死因は不明)。クララのためには、どんなことでも惜しまない、愛情深い父親です。ハイジの叔母に当たるデーテは、ハイジの母のつながりからゼーゼマンと知り合ったようです。ゼーゼマンはデーテにハイジと言う姪がいることを知り、2つの理由からハイジをゼーゼマン家に呼び寄せたと言います。

1つ目は、クララの病気を治すためです。クララは、幼い頃から病気で、足が不自由になっていました。ゼーゼマンは、アルム(アルプス)の自然がクララの体と心に良い影響を与えることを知り、ハイジを呼び寄せることにしました。

2つ目は、クララの心を癒すためです。クララは、病気のために、外出や遊びを制限されてきました。ゼーゼマンは、ハイジの明るく陽気な性格が、クララの心を癒してくれるのではないかと考えました。


さて、ここで問題です。
クララはどんな病気で、足が不自由になったのでしょうか。
実は、原作にもその点については書かれていないのです。そこで、色々な人が色々な見解を述べていて、時代背景とともに具体的な病名が浮かび上がってきました。

ビタミンD欠乏性くる病」と言う病気です。
小さな子供の頃、人間は成長するために、骨もドンドンとより長く、より太く、より固く成長する必要があります。骨がカルシウムで出来ていることは有名な話なのでご存知の方も多いと思いますが、実は骨というのは、コラーゲンというタンパク質の周りにカルシウムやリンと言うミネラルがくっついて固くなります。この“ミネラルがコラーゲンにくっつく”ためにはビタミンDが必要と言われていているのですが、ビタミンDは食べ物から取り入れることの他に、皮膚に日光を当てることによって「活性型ビタミンD」と言うものに変化して、初めて骨を作るために働けるようになるのです。

「アルプスの少女ハイジ」の原作が書かれた1800年代(19世紀)というのは、スイスでも産業革命が起こり1860年代には最盛期と言われた頃です。その頃のヨーロッパというのは、化石燃料を盛んに燃やして産業に活用していたため、大気汚染がかなり進んでおり、昼間でもなお薄暗く、工場が沢山立ち並んでいた都市部では、日光を十分に浴びることが出来なかったと想定されています。

つまり、クララはフランクフルトと言う都会に生まれ育ち、十分にビタミンDを摂取せずかつ日光にもあまり当たることがなかったため、骨の成長が不十分で「ビタミンD欠乏性くる病」になり、立って歩くことが出来なかった、と言うのが、多くの見解です。


しかし、ここで理学療法士として、「クララが…クララが立った!」には疑問を感じずには言えない事実があるのです。

それを次回、理学療法士の視点から見解を述べていきます。

最新のblog

 2024年11月28日(木)~30日(土)にかけ、東京において開催された『 第38回日本エイズ学会 』の『POSITIVE TALK 2024』にて、HIV陽性者の当事者としてスピーチをしてきました。まずは、その発表原稿の全文を、こちらでご紹介させて頂きます。 なお、読みやすい...