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オンラインカウンセリング「勇者の部屋」の産業カウンセラー勝水のブログです。セクシャルマイノリティ(ゲイ)・身体障害者(HIV陽性者)・精神障害者(双極症)の当事者としての目線と、理学療法士・社会福祉士・産業カウンセラーとしての目線で、今まで経験したことや普段考えていることなど、様々な情報発信をしております。

2023年9月17日日曜日

クララが立った!!ってクララは何の病気だったの?その3

 前々回から続いている「クララが立った!!ってクララは何の病気だったの?その2」の続編です。今回で最終回。



クララは「ビタミンD欠乏性くる病」が大元でそれを契機に「身体症状症」になった可能性があると、僕の妄想を爆走させたわけですが、僕自身も理学療法士時代、二名の「身体症状症」を担当させていただきました。

A君(20代・男性)は仕事の休憩時、中抜けして自宅に帰り、職場に戻る最中、路上でてんかん発作(と思われる)症状で失神し、救急車でとある大学病院に運ばれました。意識はすぐに回復して命に問題はないとの結論だったけれども、両足が全く動かすことができなくなり、様々な検査をしたのだけれども、結局原因は分からなかったのです。もちろん、様々な検査をしながらもリハビリによる訓練や練習を続けてはいたのですが、ほぼ、回復やその兆候はみられなく、結局、入院期間いっぱいいっぱいまでその大学病院で過ごし、僕の勤めていた病院に転院となりました。

リハビリは理学療法士と作業療法士で関わることになりました。

大学病院からの紹介状には、「〇〇の検査しました」「〇〇の検査しました」ととにかく、様々な観点から検査したけど結局は「原因不明です」とのことでした。一応、診断名は「てんかん発作」と言う曖昧な診断名がついていたけど…

いや~かなりまいりましたね。
前回のブログ「クララが立った!!ってクララは何の病気だったの?その2」でも書きましたが、僕らリハビリセラピストは「立てない原因」「歩けない原因」を見つけてそれにアプローチするわけですが、そもそも何の病気か分からないので、本当に頭が痛かった。

一般的に、身体の一部分が思うように動かない病気、と言うのは大きく「神経が原因の病気」と「筋肉が原因の病気」に分けられます。

神経が原因の病気の代表的なものとしては「脳梗塞」「パーキンソン病」「脊髄損傷」「(他の病気が原因による)ニューロパチー」などがあります。

筋肉が原因の病気の代表的なものとしては「筋ジストロフィー症」「(アルコール依存症による)アルコール性ミオパチー」「重症筋無力症」「筋萎縮性側索硬化症」などがあります。


ただ、大学病院でそれら全ての病気を鑑別するための検査はしっかりされており、結局どれも原因ではない、と除外されたわけです。


実は彼のリハビリを開始して2~3週間くらい経った頃から、僕は違和感を覚えていました。ハッキリ言ってしまえば彼は「演技的」なのです。

20代という若さで両足が動かなくなってこれから生活がどうなっていくか分からないと言う状況で、かつ大学病院で3ヶ月過ごしてきただけで、極端に「切迫感」「悲壮感」がないんです。


一般的に、病気の後遺症が強く残ることで派生する「障害」と言うものを、その人自身が受け入れていくにはこの図のような過程をたどると言われます。
ただ、それぞれの過程をどれくらいの時間かけて、またどれくらいの程度でと言うのは個人差があるので、一概には言えません。

しかし、どう考えても3ヶ月の間で「受容」にたどり着いたとも思えない。僕の経験から言えるのは、過程の最後「受容」の一歩手前である「抑うつ」に留まる人が多く、それは一見「諦め」のような状態なので、言葉の端々にそれらを匂わすような事を言ったり、投げやりな行動をとったりするのだけれども、彼にはそれもない。

納得のいかなかった僕は、担当のMSWさん(医療ソーシャルワーカー・社会福祉士)に無理を言って(笑)もう一度、大学病院に診断名等の確認とちゃんとした経過を教えてもらうよう依頼しました。

そして帰ってきた回答が「器質的な原因(脳や脊髄、筋肉などの身体的な原因)が見つからなかったので精神科にコンサル(他科受診)したところ“身体表現性障害”の診断名でした」と。

彼は母親と妹さんの3人家族で、もちろん入院中は母親が見舞いや身の回りの世話をしていたので、精神科を受診したことやこの身体表現性障害と言う診断名がついたことは知っていたはずなのですが、大学病院側からの紹介状にもかかれておらず、また、本人や母親からもその診断名は告げられていませんでした(身体表現性障害とは前述した身体症状症のこと)。

そう、彼はクララと同じ(であろう)精神疾患の可能性が高かったわけです。

これは担当MSWの意見だけれども「大学病院側は(転院先が見つからないといけないから)精神疾患については伏せていた可能性がある」ということと「この親子はその診断名に納得がいっていなかった」からそれらを伏せていた可能性があると思う、とのことでした。僕もそれに同意しました。

これはこれで非常に困ったのです。
クララが立った!!ってクララは何の病気だったの?その2」でも書きましたが、本当は動けることやできるはずであることを指摘すると、強い拒否にあったり自殺をほのめかしたりすることは知識として知っていたので、どうやってリハビリをすすめていこうか…

作業療法士とMSWと三人で何度も話し合いました。

彼はこの病気で倒れるまではアパートで一人暮らしをしながら仕事をしていました。彼の母親も僕とほぼ同年代で、パートの仕事をしながらアパートに住んでいました。別々に暮らしてはいたものの、この状態で一人暮らし、しかも一般的なアパートでの生活はとても無理です。
彼は、車椅子に乗ってしまえば手を使って上手に操作し、運転はうまいのですが、いかんせん、立てないのでベッドと車椅子の移乗が一人では困難。作業療法士が提案し、ベッド柵を工夫し、かつ車椅子を一般的ではない車椅子に変更することで、何とか一人で移乗できる様にはなりました。

理学療法では、四苦八苦しあれやこれやと手をつくしとにかく脚に少しでも力が入るように様々なトレーニングを続けましたが、2ヶ月経ってもほぼほぼ変化は見られませんでした。当時、彼が入院していた病棟は入院期間が3ヶ月となっていたので、いよいよ、本当にどうするか、と言うところまで来てしまったのです。

またまた作業療法士とMSWの三人で話し合いました。
これ以上は(身体的な回復や日常動作の獲得は)無理だよね、と。どうやって母親や本人に伝えていくか、と言うことに問題はうつっていきました。

結論、窓口は一つに絞ろう、と言うことになりました。
僕や作業療法士、MSWがそれぞれ別々のことを言ってしまっては、結局、不信感につながるし、特に母親に説明する時は気を付けないと、と。そしてその役割をMSWが担うこととしました。


当時、僕の務めていた病院には精神科や心療内科はなく、もちろん臨床心理士などもおらず、「メンタルを扱う専門家」が不在のまま病院での療養とリハビリをすすめていくしかなかったのです。

結局、どうなったか。
回復が遅々としてすすまない事に業を煮やした母親が「もう連れて帰ります」と、退院期限がくるころに、彼を車椅子に乗せて退院されました。

どこにどのような形で退院されたのか不明です。

僕らは具体的な退院に関する提案もできないまま、退院されました。

その後、作業療法士とMSWで反省会をしました。
もっと早く、精神科への転院をすすめるべきだったのかも。
もっと強く、主治医に対応策を考えるよう、進言するべきだったのかも。
もっともっと…

でも、クララでさえ立って歩けるようになるのに3年かかっています。
しかもハイジのような友人がいて、です。


これが僕の体験した「身体症状症」の方の体験例です。
もう一方、いるのですが、次回にまた。

冒頭で「最終回です」と書いてしまいましたが(笑)思ったより長文になってしまったので。

2023年9月15日金曜日

クララが立った!!ってクララは何の病気なの?その2

 前回のblog「クララが立った!!ってクララは何の病気なの?その1」からの続き…



前回は、「アルプスの少女ハイジ」のクララは「ビタミンD欠乏性くる病」の可能性が高い、と言うお話を、スイスの時代背景と共にお伝えしました。

クララは3歳頃から歩けなくなりハイジと出会ったのは12歳の頃だそーです。ってことは約10年弱、歩いていなかったことになりますね。そしてクララがアルプスに過ごすようになって3年の月日が経ち、あの「クララが立った!!」になるわけです。

19世紀のお話なので、もちろん医療も現在のように十分でなかったでしょう。もちろん医学的リハビリテーションなどの概念もなく、それらを提供する人もいなかったと推察されます。10年間、車椅子生活を送っていたクララ。その脚はどうなっていたでしょうか。特別な何かをしていない限り、関節は拘縮と言って固くなり筋肉はやせ細り、骨はくる病の影響と脚に体重をかけない期間が長くなっていたため、なおさら弱く脆くなっていたと思います。人間の骨というのは、適度に力が加わることでその部分の強度が増す事が知られていて、脚の様に長い骨と言うのは、長軸方向に重力が加わることでドンドン、強度が増します。



物語の中には、クララがフランクフルトのゼーゼマン家に住んでいた時は医学的リハビリテーションのようなことをしていたと明記されていません。

何度も繰り返しますが、10年間歩くこともせず医学的リハビリテーションも受けずいた人間の脚と言うのは、骨の弱さや筋肉の萎縮はもちろん、一番の難題は関節拘縮(関節が固くなって動かなくなること)のはずなんです。関節が固くなると、自分で関節を曲げ伸ばししようにもできない、そして他人が動かそうとしても動かせない、そんな状態になるのが一般的なのです。

皆さんの中にも手足を骨折してギプスを数週間巻いた経験のある方は分かると思うのですが、ギプスという固定を外して関節を動かそうとしても力が入らないのはもちろん、怪我をする前より関節が動かせる範囲が狭くなっていることに気付くかと思います。

たった1~2ヶ月でもそんな状態になるのに、10年もほとんど動かさないとなると、不可逆的(もうもとには戻らないということ)な関節拘縮に出来上がってしまいます。


「アルプスの少女ハイジ」の物語では、クララがアルムおんじの元(ハイジの住むアルプス)に来た当初は、もちろん車椅子でした。しかしハイジは、クララが立てるように、歩けるように「手を貸しながら立つことを手伝った」ようです。それを3年間続けた結果、何故か「クララのバカ…」から始まり




「クララが立った!!」になったとのことです。




しかし、医学的リハビリテーションの観点から言わせていただくと、「立てないから立つ練習をするだけ」「歩けないから歩く練習をするだけ」では、その練習はおおよそ失敗に終わります。どんなに励ましや自身の努力があったとしても、です。

大事なのは「何故立てないのか」「何故歩けないのか」の評価(分析)が必要で、その分析の結果「〇〇と言う関節が固くて動かないから」とか「〇〇と言う筋肉が弱くなっているから」とか「神経の伝わりが悪いから」とか原因を探りそれに対して直接アプローチすることで、結果として「立てるようになる」「歩けるようになる」のです。


ここで僕なりの見解を加えます。

もともとクララは「ビタミンD欠乏性くる病」であった可能性は高いと思います。しかし実は、立って歩けないほどの病状ではなかった。彼女本人が意識していないところで「筋肉は働き関節は動かせていた」可能性が高いと思うのです。以前は「ヒステリー」とか「心身症」などと呼ばれていた精神疾患で、現在は「身体化障害」や「身体症状症」と言われる疾患があります。僕は、クララがその精神疾患だったのでは、と思っています。


よく「精神状態が身体症状として現れる“身体化”」と呼ばれています。

病状や症状を大袈裟に表現したり、時には病状を捏造したりすることがあるけれど、本人にその自覚はなくて、本人が嘘をついていると言う自覚のある詐病(仮病のこと)とは区別されます。その点が非常に厄介で、本人の訴えを軽視したり無視したりすることで、自殺をほのめかしたり実際に自殺企図をしたり、最も典型なのは病院や主治医を変えたりして、生活の全てをその身体症状に支配されてしまうことです。

クララは幼い頃に母親を亡くしています。本来ならば母親に甘えたい盛の時に母を亡くており、父親のゼーゼマンは献身的にクララの世話をする事になるのですが、父親に母親の代りはできなかった…幼い頃というのは甘えることで愛情の確認作業をすることがあります。甘えに対して厳しくしつけられることが、成長するにつて、必ずしもよい影響を与えているとは限りません。

クララはもっと母親に甘えたかった。しかしもう母親はおらず父親に甘える対象を向けるわけですが、そこでやや歪んだ甘え方になってしまった。

つまり、クララは知らず知らずのうちに、抑圧している母親への甘えを身体化し「身体症状症」になったわけです。

身体症状症の場合、医療従事者の前では多様な症状を訴え、また実際に動けなかったりするわけですが、そうでない時というのは動かせていたりすることも多いのです。しかも本人はそれをハッキリと自覚しておらず、動かせていた事を指摘すると強く拒否反応を示すこともあります。


「クララが立った!!」




それに大きく貢献したのは、ハイジの励ましと決して見捨てなかったその友情。また、周囲の人も彼女を「かわいそうな少女」ではなく一人の人として接し、彼女の本当の問題に向き合った結果である、と僕は思うのです。

平たく言えば「健康な精神・心理状態」になれたことが、「クララが立った!!」



につながったわけです。


実は今回、このブログ記事を書くことにしたのは、ちょうど5年前の夏、前職で「身体症状症」の方を担当した経験があって、いつもこの時期になるとその方のことを思い出すのです。

ハッキリと「身体症状症」と診断された方と、おそらくそうであろうと言う方を、半年の期間をおいてお二人、担当させていただくことがあった、どちらも若い男性で。いつも「彼らは元気にやっているのかな」「今はどんな生活をしているのかな」と思いを巡らす事が、この季節になるとあるんです。


次回は、そのお二人の事について、少し書いていきたいと思います。

2023年9月13日水曜日

クララが立った!!ってクララは何の病気なの?その1

あの有名な「アルプスの少女ハイジ」皆さんも一度は目にする事はあるでしょう。

そう、そして有名なあのシーン。
「クララが…クララが立った!!」

そもそも、なぜ、クララは歩けなかったのか。立てなかったのか。

時代的な背景と共に医学的な見地から、色々な事が言われていて、調べれば調べるほど面白い事実が分かってきたので、思わず筆を執りました。



原作はスイスの作家ヨハンナ・シュピリによる児童文学作品で、1880年から1881年に執筆されました。原題は『Heidis Lehr- und Wanderjahre』(ハイジの修行時代と遍歴時代)で、1880年に出版されました。


僕はアニメを再放送で見ているだけで、しかも小学生低学年くらいだったから、「アプスの少女ハイジ」のストーリーそのものを忘れてしまったので、少し、調べました。


ハイジは、幼い頃に両親を亡くし母親の妹であるデーテに5歳まで育てられていました(ただし両親の死因は不明)。しかし、デーテがフランクフルトでの住込みの仕事を得たため、ハイジを連れて行くことができず、山奥のアルプスに住む祖父であるアルムおんじに預けました(じつは祖父の正式な名前は不明なんです“アルムおんじ”は通称)。
デーテは、ハイジの祖父アルムおんじが、ハイジを可愛がって育ててくれるだろうと考えていました。また、ハイジは、アルプスの自然の中で、心豊かに成長してくれるだろうとも考えていました。実際、ハイジは、祖父アルムおんじの元で、自然や動物たちと触れ合い、心豊かに成長していきました。

では、ハイジとクララの出会いは…
スイスのフランクフルトに住むクララの親であるゼーゼマンは、裕福な商人でした。しかし、クララが幼い頃に妻を亡くし、一人でクララを育ててきました(死因は不明)。クララのためには、どんなことでも惜しまない、愛情深い父親です。ハイジの叔母に当たるデーテは、ハイジの母のつながりからゼーゼマンと知り合ったようです。ゼーゼマンはデーテにハイジと言う姪がいることを知り、2つの理由からハイジをゼーゼマン家に呼び寄せたと言います。

1つ目は、クララの病気を治すためです。クララは、幼い頃から病気で、足が不自由になっていました。ゼーゼマンは、アルム(アルプス)の自然がクララの体と心に良い影響を与えることを知り、ハイジを呼び寄せることにしました。

2つ目は、クララの心を癒すためです。クララは、病気のために、外出や遊びを制限されてきました。ゼーゼマンは、ハイジの明るく陽気な性格が、クララの心を癒してくれるのではないかと考えました。


さて、ここで問題です。
クララはどんな病気で、足が不自由になったのでしょうか。
実は、原作にもその点については書かれていないのです。そこで、色々な人が色々な見解を述べていて、時代背景とともに具体的な病名が浮かび上がってきました。

ビタミンD欠乏性くる病」と言う病気です。
小さな子供の頃、人間は成長するために、骨もドンドンとより長く、より太く、より固く成長する必要があります。骨がカルシウムで出来ていることは有名な話なのでご存知の方も多いと思いますが、実は骨というのは、コラーゲンというタンパク質の周りにカルシウムやリンと言うミネラルがくっついて固くなります。この“ミネラルがコラーゲンにくっつく”ためにはビタミンDが必要と言われていているのですが、ビタミンDは食べ物から取り入れることの他に、皮膚に日光を当てることによって「活性型ビタミンD」と言うものに変化して、初めて骨を作るために働けるようになるのです。

「アルプスの少女ハイジ」の原作が書かれた1800年代(19世紀)というのは、スイスでも産業革命が起こり1860年代には最盛期と言われた頃です。その頃のヨーロッパというのは、化石燃料を盛んに燃やして産業に活用していたため、大気汚染がかなり進んでおり、昼間でもなお薄暗く、工場が沢山立ち並んでいた都市部では、日光を十分に浴びることが出来なかったと想定されています。

つまり、クララはフランクフルトと言う都会に生まれ育ち、十分にビタミンDを摂取せずかつ日光にもあまり当たることがなかったため、骨の成長が不十分で「ビタミンD欠乏性くる病」になり、立って歩くことが出来なかった、と言うのが、多くの見解です。


しかし、ここで理学療法士として、「クララが…クララが立った!」には疑問を感じずには言えない事実があるのです。

それを次回、理学療法士の視点から見解を述べていきます。

2023年9月11日月曜日

㊗️公式サイトオープン・サービス提供開始~この1年半を振り返って~

 2023年9月11日(月)公式サイトオープンしました!!


いよいよ開業します!!」でお伝えしました通り、9月4日に開業、9月7日に開業届を提出し、無事に本日を迎えることができました。

月並みな言葉ではございますが、これもひとえに『僕』と言う人を支えて下さった方々あっての事と、感謝の気持ちで一杯です😭

思い起こせば2021年冬、前職のボーナスを手にした時「今しかない!」「今がその時や!!」と思い、清水の舞台を飛び降りる気持ち(笑)で、一般社団法人 日本産業カウンセラー協会の『産業カウンセラー養成講座』を受講するために、受講費を振り込んだことから始まりました。

年が明けて2022年1月10日(この日は忘れもなしない)、僕はオンラインコースの開講式で「ZOOMを使った研修」と言うものに始めて参加しました。

オンラインコースでは、体験学習(カウンセリングの練習)はZOOMを主に使い、スクーリング的に数日間、対面での研修もあり、普段の自己学習はオンデマンドの講義を視聴し、単元ごとに小テストを受けたりレポートを書いたりと、10ヶ月コースで受講していた僕でも、大変でした。大変だけど、楽しかった😃

仕事をしながら勉強するという経験は、これで3度目。

1度目は、理学療法士免許を取得してから福祉関係の夜間大学に通いながら昼間はクリニックで理学療法士として働く、と言う経験があって、その頃は20代前半やったし、若かったのもあって、なんだか勢いで社会福祉士の資格も取って。

2度めは、30歳前で大学院に入学し、修士課程では講義もあったから、昼間働きながら講義を受けて。プラス自分自身の研究もあったりして。僕は動物実験をしていて、実験を開始すると3週間は毎日、動物に操作を加えないと行けなかったから、遠出の旅行とか出来なくて。でも、修士号を取得できた時は嬉しかったな~
そのまま博士課程に進学したけど、実験で思うような結果が出ず、結局満期退学になったけど…

しばらく、そういう「二足のわらじを履く」的な生活をしていなかったけど、産業カウンセラーの勉強も本当に楽しかった。

実はコースが終了する2022年11月までの10ヶ月と言うのは、僕にとってみたら人生の転換期で。というのも、もともともっていた双極性障害の症状が悪化し、休職と復職を繰り返してて。今だから言えるけど、じつは希死念慮とかもあって、ギリギリのところで生きてた。そんな時に勉強なんて…って、ね。や、受講申込した時に、まさかこんな1年を過ごすことになるなんて分かんなかったし💦

カウンセリングの体験学習は、最低◯コマ受けないと受験資格がありません、みたいな規定があったんだけど、やっぱり調子悪くて3回程連続で休んでしまって。カウンセリングの体験学習は、5~6人のグループに別れて一人指導者がついて、一人がカウンセラー役、もうひとりがクライエント役、他は観察者という役割で、クライエントは話せる範囲で自分自身の本当の悩みをカウンセラー役に話をして、対話をするというセッションを体験して。その後指導者や観察者を交えて、カウンセラー役の人へ色んな助言をしていく、と言う形やった。
ちょうど僕が3回ほど休んだ7~8月の時期、僕は本当にメンタルダウンの真っ只中で、辛かった。で、なんとか復帰した最初の体験学習の時、同じグループの人や指導して下さった先生皆が泣いて僕の復帰を喜んでくれて…(あかん、また泣けてきた)。指導して下さった先生の言葉が、今でも覚えていて。「時々、コースの途中でいなくなる人がいるんです…脱落していく人が…そういう時、私達は本当にツラい(泣)。でも勝水さんは戻ってきてくれた。本当に良かった…本当にありがとう(泣)」と言われて、学ぶ仲間がいてくれた事に、本当に感謝しました。その日の体験学習は、泣きっぱなし、しかもボロ泣きで(笑)

その後、スクーリングで同じグループだった人にお会いしたときには、皆さんに「大丈夫?」と声をかけていただき、本当に嬉しい思いがありました。


僕がメンタルダウンしたのは、もちろん持病である「双極性障害の悪化」というものがあるけれど、それにはきっかけがあったわけで。詳しくは書かないけど、職場での色んな出来事が、僕にとってツラい・苦しいことばかりで。でも、はっきり言うと、職場は助けてくれなかった。もちろん色んな配慮はしてくれたけど、僕が完全に前職に復帰できるほどのサポートは受けられなかった。

前職の職場は医療法人で法人内にいくつか施設をもってはいたんだけど、例えば「休職者の復職判定」とか「復職プログラム」とかはもちろん、そういうことを気軽に相談できる部署もなく、結局、それぞれの施設のそれぞれの部署のそれぞれの上長が、場当たり的に個別に判断するっていう、まあ、言ってしまえば、その当たりは適当な職場だった。

僕はそれが納得がいかなくて、「自分が産業カウンセラーを取ろう、そして僕がこの法人の職員のための部署を作ろう」とは思ったんだけど…辞めた(笑)

だって、2022年を休職と復職を繰り返した“僕”と言う事例があるにも関わらず、多少の対応策は改めてつくられたものの、法人単位で見たらそれほど大きな動きではなかったと僕は思っている。。産業カウンセラー養成講座を受ける前に、前職の病院の事務長にも直談判しにいったこともあったけど、最初はなんだか“相談によるよ~”的な雰囲気だったけど、結局は「今検討中だけど」とか「なかなか難しい問題があって」とか、なんだかノラリクラリと話を逸らされた。そんな印象だった。

悪い言い方をすれば「別に辞めてもらってもまた補充するだけだし」みたいな。

やめよう。愚痴になってきた。


だったら、オンラインカウンセリングと言う手段で、僕が個人事業主となって提供すればいいやないか、と思うようになった。しかも2023年の2月に休職しとる最中に(笑)。どんなシステムを使って、どんな方法でやれば良いのかはイメージできていたし、それを形にするのは、それ程難しいわけでもなく、ちょっとしたネットの知識があればできることだった。

ただ、いかんせん、販路(集客方法)がない。それが一番の懸念材料やった。

だから、一生懸命Xでも告知させてもらったり、古い友人・知人に声をかけたりしてプレ・オープンには数名、利用して下る人がいて。本当に嬉しかった。多分この先、この数名の方の経験というのは、忘れられないものになったと思う。

この数名のクライエントのお悩みは多岐にわたっていて、この方々と関わらせてもらうことで、まだ勉強し直して。


なんだろ…僕が関わらせてもらうことでクライエントが変化していく。しかも良い方向に変化していく、とか、クライエントに気づきがある、とか、それを肌身で感じるたびに「ああ!やっぱり僕、この仕事したい!!この仕事で頑張りたい!!」って思いが強くなっていき、50歳手前にして今後の生き方というか、仕事との向き合い方を変えることになって。でもそれは自分が望んだ変化でもあったわけで。


Xのfollowerさんには本当にたくさん励まされ、協力していただきました。もちろんリアルの友達、古い知人にも助けてもらいました。プレ・オープン前に、大切なfollowerさんが一人、天に召されてしまいとてもとても悲しい思いもしましたが、今ここにたどり着くことができました。

NAOく~ん🙋🏻‍♂️
僕は頑張っているから、安心してね~🤗

僕は本当に人に恵まれて生きている、そして生かされているんだと、これほどまでに思った1年はありません。きっとこれからもそうなのでしょう。

もう、感謝しかありません。
ありがとう以上の感謝の気持ちを皆さんにお伝えしたいと思います。


そしてこれからが本番です。
この「勇者の部屋」を末永くよろしくお願いいたします🙇‍♂️🙇‍♂️🙇‍♂️

2023年9月10日日曜日

忘れられない患者さん②骨メタによる対麻痺のおばあさん

 私が理学療法士として働く中で忘れられない患者様の第2弾。


まずはタイトルにある『骨メタ』とは何かというと、内臓にできたがん細胞が血流に乗って骨に転移することで、日本語で言うところの『転移性骨腫瘍』のことだ。今日、お話する方はもともと大腸がんがあり、それが腰椎(背骨のうち腰骨に近い5つの骨)に転移しその骨が潰れるように骨折し、骨折した骨が前後に突出してしまったことで脊髄(背骨の中を通っている神経の束)を圧迫し、腰から下が麻痺しだ状態になった方だ。

当時の私の職場は、とある地方都市の市民病院。市民病院だが200床にも満たないベッド数で病棟も4つしかなく、当時の地方公共病院にありがちな「赤字病院」だった。位置づけとしては第二次救急病院で、重症で専門的な治療が必要な患者様は直接入院されることはなかったが、地域の住民にとってはとても大切な病院でもあった。

私が理学療法士として働きだし8年目頃だったと思う。
そのおばあさんは、急に足が動かなくなり救急車にてその病院に運ばれ、精密検査の結果、『骨メタによる対麻痺』との診断で、入院翌日からリハビリのオーダーが整形外科の主治医から処方された。

初めましてのご挨拶にその方のベットへお伺いすると、やや難聴があるようで、少し大き目の声で話し始めると笑顔で「よろしくお願いします」と。そして、入院までの経緯をお聞きし、お体がどの程度動かせるのか、ベッドの上で評価を始めた。

入院時に、腰椎の骨折がこれ以上進まないように、また動いた時に痛みが出ないように、簡易型の体幹コルセットを装着してもらっていたので、それを装着したままでいくつかの動きをしていただいた。

膝を立ててお尻を上げることはなんとか可能、ベッド柵をもって寝返りも可能。仰向けで片足ずつ持ち上げてもらうも、かなり弱々しい。それに腰へ痛みが響く。起き上がりは無理。当時のその病院では、電動ベッドの台数に限りがあり、その方のベッドは手動で上がり下がりを調整するのだが、背中部分を持ち上げるためのハンドルをゆっくりと回して背中を持ち上げていけば、なんとか起き上がりは可能だった。ただ、どれも痛みが伴うようで、時折、顔をしかめながらそれでも我慢して、私のお願いを聞いていただきながらすすめていった。

とりあえず、初日はそれで終ることにし、また明日来ますと挨拶すると「よろしくね」とクシャッとした笑顔でおっしゃられた。


実はこの方、転移性骨腫瘍の診断名は、御本人には伝えておらず、余命2~3ヶ月と私は主治医から聞いていた。ただ、ご家族の希望で、ご自宅で看取りをしたいとのこと。だからリハビリで訓練をして、できればポータブルトイレに一人で乗り降りできる程度までに回復できれば、とのご家族の希望があった。

正直、私は困っていた。
骨メタによる下半身麻痺ということは、ガンが骨に転移したことによる骨の痛みに加え、脊髄を圧迫することによる神経の痛みが重なることで、痛みのコントロールがとてもとても難しいのだ。それは薬を調整してもなかなかうまく行かないことが多く、結局はモルヒネなどの強い鎮痛薬を使うしかない。しかしモルヒネを使うと、覚醒状態が悪くなり、痛みはとれるかもしれないが動けなくなる。寝たきりになってしまう。そうなればご家族の負担が増え、結局、ご自宅での看取りと言うご希望を叶えることは難しくなる。

しかも余命はそれほど長くない。

MRIなどの画像から見ても、正直、劇的な改善が見込めるとも思えないし、かつ、年齢(70代前半)もあり、私は本当に頭を抱えた。


理学療法としてできることは限られていて、固くなった関節をスムーズに動かせるようにすることや弱った筋力を回復させること、痛みを避けるような動作の仕方を獲得するための練習をすることなどしかなく、とにかく私は、翌日からそれらを開始した。ちなみに骨メタのような痛みに対してマッサージなどの効果はなく、骨折もしているためその周辺を押したりすることは禁忌と言ってやってはいけないことだ。

運動や練習の合間にはもちろん休憩をいれるのだが、この方の年齢や痛みの程度などを考慮すると、必然的に長めに休憩を入れるのだが、その休憩の間、その方はいつも同じ話しをされていた。

「先生、今度、私の家に遊びに来てよ。家の前に畑があってね、その畑に二本、梅の木が植えてあるの。いつもとってもきれいに咲くのよ」

「私の家の近くに有名な梅林公園があるの。〇〇池ってね。時々、観光客が迷い込んできて、その梅林公園までの道を私に尋ねるの。一応、行き方を説明するんだけど最後に私、“あそこの梅もきれいだけどうちの梅も見て行って”って言うの」

そんな話を、ほぼ毎日されていて、私もだんだんその方のお家に遊びに行きたくなった。たしかそれは11月ごろだったと思う。

梅が咲き誇るのはだいたい2月。
それまで、この方は生きていらっしゃるのだろうか。

いやいや、その前に何とかして、この方が一人でポータブルトイレに移乗できるようになるようなリハビリのメニューをしなければならない。なんとかご自宅で最後を…


当時、その病院の大部屋は6人部屋で、同室にその方以外に4人ほど、入院患者さんがいらっしゃった。ある時、僕がそのお部屋を出ようとした時に、同室の入院患者さんのお一人から呼び止められて「あのおばあさん、声がデカくていっつもおんなじ話しして、先生もよー聞いてられるね!!」と冗談交じりにおっしゃられた。

私は一瞬、頭に血が上りそうになった。

このおばあさん、もうすぐ死んじゃうんだよ。
だけど頑張ってリハビリして、痛いの我慢して、でも毎日毎日、笑顔で僕に話をしてくれるんだよ。
全然、苦にならない。なるわけがない。
むしろ喜んで聞いているんだよ。僕は。

そんな言葉が出かかったけど、グッとこらえて。
「全然平気!楽しいよ!」と言ってその病室を後にした。


その方の身体能力は一向に上がらず、当初の目標も達成できないまま、3週間ほど過ぎた日の朝、そのおばあさんの入院されていた病棟の看護助手さんがわざわざ私のところへきてくれて「あの方、今朝方亡くなられたよ」と、教えてくれた。


私は初めて職場で泣いた。

自分の無力さに腹がたった。

こんなに早く逝ってしまうなんて、神様を呪った。約束が違うじゃん。

ご家族の希望も叶えられる事もできなかった。

後から後から、悔しさと情けなさと不条理さに、涙が止まらなかった。


それまでの私の理学療法士人生の中で、もちろん自分の無力さを感じることは何度かあったが、この体験はかなり僕に大きな衝撃を与えた。

良くも悪くも、「理学療法」と言う医学的リハビリテーションの限界を思い知らされた。

もう20年近く前の話になるが、こんなにも鮮明に覚えている自分にもびっくりするが、それほどこの方との過ごした3週間は忘れられないものになった。


私は、その方が亡くなられた翌年の2月。その方が住んていたご自宅近くの、有名なその梅林公園へ足を運んだ。その梅林公園のことは、前々から知ってはいたのだが、一度も足を運んだことがなく、一度、見ておきたかった。


確かに、立派な梅林公園だった。

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 2024年11月28日(木)~30日(土)にかけ、東京において開催された『 第38回日本エイズ学会 』の『POSITIVE TALK 2024』にて、HIV陽性者の当事者としてスピーチをしてきました。まずは、その発表原稿の全文を、こちらでご紹介させて頂きます。 なお、読みやすい...