私が理学療法士として働く中で忘れられない患者様の第2弾。
まずはタイトルにある『骨メタ』とは何かというと、内臓にできたがん細胞が血流に乗って骨に転移することで、日本語で言うところの『転移性骨腫瘍』のことだ。今日、お話する方はもともと大腸がんがあり、それが腰椎(背骨のうち腰骨に近い5つの骨)に転移しその骨が潰れるように骨折し、骨折した骨が前後に突出してしまったことで脊髄(背骨の中を通っている神経の束)を圧迫し、腰から下が麻痺しだ状態になった方だ。
当時の私の職場は、とある地方都市の市民病院。市民病院だが200床にも満たないベッド数で病棟も4つしかなく、当時の地方公共病院にありがちな「赤字病院」だった。位置づけとしては第二次救急病院で、重症で専門的な治療が必要な患者様は直接入院されることはなかったが、地域の住民にとってはとても大切な病院でもあった。
私が理学療法士として働きだし8年目頃だったと思う。
そのおばあさんは、急に足が動かなくなり救急車にてその病院に運ばれ、精密検査の結果、『骨メタによる対麻痺』との診断で、入院翌日からリハビリのオーダーが整形外科の主治医から処方された。
初めましてのご挨拶にその方のベットへお伺いすると、やや難聴があるようで、少し大き目の声で話し始めると笑顔で「よろしくお願いします」と。そして、入院までの経緯をお聞きし、お体がどの程度動かせるのか、ベッドの上で評価を始めた。
入院時に、腰椎の骨折がこれ以上進まないように、また動いた時に痛みが出ないように、簡易型の体幹コルセットを装着してもらっていたので、それを装着したままでいくつかの動きをしていただいた。
膝を立ててお尻を上げることはなんとか可能、ベッド柵をもって寝返りも可能。仰向けで片足ずつ持ち上げてもらうも、かなり弱々しい。それに腰へ痛みが響く。起き上がりは無理。当時のその病院では、電動ベッドの台数に限りがあり、その方のベッドは手動で上がり下がりを調整するのだが、背中部分を持ち上げるためのハンドルをゆっくりと回して背中を持ち上げていけば、なんとか起き上がりは可能だった。ただ、どれも痛みが伴うようで、時折、顔をしかめながらそれでも我慢して、私のお願いを聞いていただきながらすすめていった。
とりあえず、初日はそれで終ることにし、また明日来ますと挨拶すると「よろしくね」とクシャッとした笑顔でおっしゃられた。
実はこの方、転移性骨腫瘍の診断名は、御本人には伝えておらず、余命2~3ヶ月と私は主治医から聞いていた。ただ、ご家族の希望で、ご自宅で看取りをしたいとのこと。だからリハビリで訓練をして、できればポータブルトイレに一人で乗り降りできる程度までに回復できれば、とのご家族の希望があった。
正直、私は困っていた。
骨メタによる下半身麻痺ということは、ガンが骨に転移したことによる骨の痛みに加え、脊髄を圧迫することによる神経の痛みが重なることで、痛みのコントロールがとてもとても難しいのだ。それは薬を調整してもなかなかうまく行かないことが多く、結局はモルヒネなどの強い鎮痛薬を使うしかない。しかしモルヒネを使うと、覚醒状態が悪くなり、痛みはとれるかもしれないが動けなくなる。寝たきりになってしまう。そうなればご家族の負担が増え、結局、ご自宅での看取りと言うご希望を叶えることは難しくなる。
しかも余命はそれほど長くない。
MRIなどの画像から見ても、正直、劇的な改善が見込めるとも思えないし、かつ、年齢(70代前半)もあり、私は本当に頭を抱えた。
理学療法としてできることは限られていて、固くなった関節をスムーズに動かせるようにすることや弱った筋力を回復させること、痛みを避けるような動作の仕方を獲得するための練習をすることなどしかなく、とにかく私は、翌日からそれらを開始した。ちなみに骨メタのような痛みに対してマッサージなどの効果はなく、骨折もしているためその周辺を押したりすることは禁忌と言ってやってはいけないことだ。
運動や練習の合間にはもちろん休憩をいれるのだが、この方の年齢や痛みの程度などを考慮すると、必然的に長めに休憩を入れるのだが、その休憩の間、その方はいつも同じ話しをされていた。
「先生、今度、私の家に遊びに来てよ。家の前に畑があってね、その畑に二本、梅の木が植えてあるの。いつもとってもきれいに咲くのよ」
「私の家の近くに有名な梅林公園があるの。〇〇池ってね。時々、観光客が迷い込んできて、その梅林公園までの道を私に尋ねるの。一応、行き方を説明するんだけど最後に私、“あそこの梅もきれいだけどうちの梅も見て行って”って言うの」
そんな話を、ほぼ毎日されていて、私もだんだんその方のお家に遊びに行きたくなった。たしかそれは11月ごろだったと思う。
梅が咲き誇るのはだいたい2月。
それまで、この方は生きていらっしゃるのだろうか。
いやいや、その前に何とかして、この方が一人でポータブルトイレに移乗できるようになるようなリハビリのメニューをしなければならない。なんとかご自宅で最後を…
当時、その病院の大部屋は6人部屋で、同室にその方以外に4人ほど、入院患者さんがいらっしゃった。ある時、僕がそのお部屋を出ようとした時に、同室の入院患者さんのお一人から呼び止められて「あのおばあさん、声がデカくていっつもおんなじ話しして、先生もよー聞いてられるね!!」と冗談交じりにおっしゃられた。
私は一瞬、頭に血が上りそうになった。
このおばあさん、もうすぐ死んじゃうんだよ。
だけど頑張ってリハビリして、痛いの我慢して、でも毎日毎日、笑顔で僕に話をしてくれるんだよ。
全然、苦にならない。なるわけがない。
むしろ喜んで聞いているんだよ。僕は。
そんな言葉が出かかったけど、グッとこらえて。
「全然平気!楽しいよ!」と言ってその病室を後にした。
その方の身体能力は一向に上がらず、当初の目標も達成できないまま、3週間ほど過ぎた日の朝、そのおばあさんの入院されていた病棟の看護助手さんがわざわざ私のところへきてくれて「あの方、今朝方亡くなられたよ」と、教えてくれた。
私は初めて職場で泣いた。
自分の無力さに腹がたった。
こんなに早く逝ってしまうなんて、神様を呪った。約束が違うじゃん。
ご家族の希望も叶えられる事もできなかった。
後から後から、悔しさと情けなさと不条理さに、涙が止まらなかった。
それまでの私の理学療法士人生の中で、もちろん自分の無力さを感じることは何度かあったが、この体験はかなり僕に大きな衝撃を与えた。
良くも悪くも、「理学療法」と言う医学的リハビリテーションの限界を思い知らされた。
もう20年近く前の話になるが、こんなにも鮮明に覚えている自分にもびっくりするが、それほどこの方との過ごした3週間は忘れられないものになった。
私は、その方が亡くなられた翌年の2月。その方が住んていたご自宅近くの、有名なその梅林公園へ足を運んだ。その梅林公園のことは、前々から知ってはいたのだが、一度も足を運んだことがなく、一度、見ておきたかった。
確かに、立派な梅林公園だった。