私にも「恩師」と呼んでいる方がおられる。
あ、あくまでも私自身が、一方的に思っているだけなので片思いだが。
その方は、医療短大時代の研究室の助教授K先生だ(今で言う准教授)。その先生、見た目もヒトクセあって、頭頂部は禿げて髪がないが側頭部~後頭部にはきちんと髪があり、後頭部の髪は少し伸ばし、必ず輪ゴムで小さく束ねていた。
口元には口ひげとあごひげを蓄えており、いつもループタイをし仁丹を口にしていた。きっと今で言う「フリスク」感覚で仁丹を口にしていた。
タバコは吸わず、お酒はよく飲む。でも楽しい酒で、説教をしたり叱ったりすることのない、笑顔の似合う先生だ。
その方は、理学療法士・作業療法士法が制定された頃に理学療法士になられた方で、元々は工学部出身の理系だ。
私はその先生の影響を、大きく大きく受けている。
理学療法士としての生き方
研究に取り組む時の姿勢
教育に対する思い
「理学療法士はその人の人生を変える仕事だ」
「当たり前だと教科書に書いてることをまずは疑え」
「後輩を育成するのは年長者の義務」
卒業研究で、K先生の研究室に同期の女子と2人で入って、研究をすすめていく中で、考えにつまずいたり方法に悩んだ時、いつもキチンと時間を取って向き合ってくれた。そして、絶対に「答えは言わない」人だった。でも、先生に相談した後は、いつも一筋の光が見え、また前向きに研究に取り組んでいた。
あゝ、もしかしたら僕がカウンセラーを目指したルーツは、ここにもあったのかもしれない。答えを与えてくれる人よりも、気付きを与えてくれる人というのは、本当の意味で人として成長を与えてくれる人なのだと、今更ながらに気付いた。
先生を囲んで飲み会をすると、必ず奢ってくれた。私達は「先生、今日は僕たちが払います!!」と言っても、頑なにそれを拒否して「そんな事は気にしなくて良いから、将来、自分の後輩や部下に奢ってあげなさい」と言われてきた。だから私は、後輩と呑みに行くときは、必ず自分が奢った。
あゝ、こうやって循環していくんだ。人間関係って。
そう思った。
いかん、泣けてきた。
私が医療短大を卒業して、10年弱が経った頃、私はとある短大に講師として勤務することになり、その恩師と同じ職場になった。私はとても嬉しかった。
「また、K先生に色々と指導してもらえる」
「いっぱい吸収しよう」
「いっぱいディスカッションしよう」
学生時代は、「助教授」と「学生」という立場だったが、同じ職場の「先輩」と「後輩」(かなり年の離れたwww)になったが、私自身も臨床もそれなりに経験し、研究活動もしてきたので、知識も増えたことでK先生とは対等に話ができるようになった。それが、とてもとても、とても楽しかった。
臨床に戻った元職場で、私は、実習生に関する取りまとめを行ったり、他の指導者の指導方法などの相談にものってきた。私は、実習生を受け入れることは「義務」であり、それは私が理学療法士として働ける「恩返し」でもあると思い、積極的に指導にあたった(まあ結果的に、メンタルダウンしてしまった一要因でもあるのだが)。
私が理学療法士として働けるのは、養成校のカリキュラムに必ず「臨床実習」があり、そして実習生として私達を受け入れてくれた医療機関があり、さらにそこには先輩理学療法士の指導者がいてこそなのである。
ここからは、医療機関の闇の部分を書く。
医療機関が実習生を受け入れる基準というのは、おそらくそれぞれの医療機関で決まっていると思う。しかし、その基準というのが曖昧、というか指導者の気分次第だったりするのが事実である。実習生を受け入れるとその養成校からは、謝金が医療機関に入る。しかしこの謝金には相場がなく、養成校によって格差がある。
国公立系は、謝金がかなり安いが指導者となることで「実績」になる。“博”が付く。
私立の専門学校などは、謝金が高いが「学力が低く手のかかる実習生がくる」事が多い(もちろん例外もある)。
また、その指導者の卒業校であったりすると、お世話になった先生から実習の依頼がくることもよくあり、断りづらかったりもする。
それらの“要因”を考慮し、どの養成校から何名の実習生を受け入れるか、と言う「ふるい」にかけられるわけだ。
時には「(この学校の学生は)手のかかるから、実習生の指導はしたくない(受け入れない)」と言う答えが聞こえることがある。
ある意味、当たり前の考え方だし、面倒なことは誰だってやりたくないし、自分自身の仕事が増えたり、患者様に迷惑がかかってはいけない。しかし、自分自身の指導力のなさを棚に上げて実習生に「手がかかる」と言い、それを放棄してしまうのは、いかがなものかと思う。
そんな事を考えてしまうのも、恩師の影響だな(笑)
短大で講師として学生を教える時になった時「当たり前だと教科書に書いてることをまずは疑え」を実感することになる。
皆さんは、「温度とは何か」と説明できるだろうか。「1mって何を基準にその長さが決まっているのか」「光とは何か」「音とは何か」「エネルギーを正しく説明できるか」「熱とは」などなど、普段、当たり前の様に使っている言葉や物事を説明するというのは、簡単なようで非常に難しい。それは『あまりにも当たり前過ぎて〝それがそれであること〟に誰も疑問を持たない』からである。
おそらく私の「知的好奇心」はK先生の教えがあったからこそだと思っている。
今は訳があって、K先生とは疎遠になってしまい、連絡先も知らない。
会ってお話したいことは、たくさんある。お礼もお詫びもまとめて全部したい。
今、私の最大の心残りだ。