僕が理学療法士として働く中で、忘れられない患者さんの第4弾。
糖尿病性網膜症というのは、糖尿病が原因で眼球の網膜というところを走っている毛細血管が破裂したりすることで、網膜が破損し、徐々に視力が奪われていく病気です。
“おばさん”と言う表現が正しいのか間違っているのかは別として、僕が担当した時は、母の3歳下で、僕は母にいつも「80歳超えたらおばあさん。70代はまだおばさんだから」と説明していたので、この患者さんの事も“おばさん”と表現させて頂きます(笑)。
Aさんは旦那さまと持ち家でおふたり暮らし、お子さんは二人いらっしゃって、第1子は娘さんで同県に嫁がれ、第2子は息子さんで同じ市内に世帯を持っていらっしゃった。
実はこのAさん、糖尿病が原因で糖尿病性腎症のため維持透析をされており、かつ糖尿病性網膜症で全盲でした。そして不安定型狭心症と言う、狭心症の中でもちょっと厄介な心臓の病気を抱えていらっしゃった。
不安定型狭心症
狭心症というのは、心臓の細胞に栄養を送る「冠動脈」と言う血管の一部が、詰まりかける病気で、完全に詰まってしまうと「心筋梗塞」になるのですが、その一歩手前ととらえてもらえればいいかと思います。ただし、“不安定型”とつくのは、血管を詰まらせる元となる脂肪の塊が、移動したり剥がれたりを繰り返して、いつ、血管が詰まるか予測が出来ないという危険性があります。
Aさんは自宅で狭心症発作(胸が痛くなるやつ)をおこし、救急搬送された病院で心臓のバイパス手術をされました。下の図のように、冠動脈の詰まっているその先に、内胸動脈と言う動脈の通り道を変更してあげる手術をしました。その時にはもう、全盲でかつ維持透析をしていました。
術後の経過も良好で、リハビリ目的で僕の勤めていた病院に転院してきた時は僕の担当ではなかったのですが、しばらくして再び狭心症発作を起こし、手術をした病院に転院になり、今度はカテーテルにてステントを埋める手術をしました。
上の図のバルーン治療と言うのは、古い治療法で、ステント治療というのは血管の狭くなっている部分にステントと呼ばれる金属の網状のストローを通し、血管を内側から裏打ちするやり方です。こうすると、バルーン治療と違い、その部分が再び狭くなることはありません。
Aさんはその治療を終えて、再び転院してきました。そこで僕は改めて担当になりました。
「あら、前の先生と違うのね」と初めましての時におっしゃられ。今までの病気の経過などをお伺いしていたのですが、Aさんは50代で失明し全盲になられました。しかし、もともとの気質でしょうか(笑)「盲人センター」と言う目が不自由になられた方の、いわば「学校」に行きだしたそうです。
そこでは、白杖の使い方、点字の読み方・打ち方、目の不自由な方のためのPCのセッティングの仕方など、色々な生活の知恵を教えていただいたそうです。
バイタリティあるというか(笑)
心臓の手術後なので、自覚症状はもちろん、心電図・血圧・脈拍・サチュレーション(動脈血酸素飽和度)など頻繁にモニターしながら、運動強度を上げていくのですが、比較的、早く、自力で歩くことも獲得できるようになりました。
僕は、全盲の方を担当するのは初めてだったので、リハビリの最中にいろんな事を質問しました。
「ねーAさん。“目が見えない”って言うと、僕のイメージだと“真っ黒”って感じなんだけど、Aさんにはどんな感じで“見えてる”の?」と聞くと「私はね“ベージュ色”昼でも夜でも。不思議でしょ?(笑)」と教えてくれました。僕の全く知らない世界。
そして不思議だったのが食事。
たまたま、透析後にお部屋にお伺いしたら、まだ食事が終わられていなかったので、こっそり(笑)その方の食事風景を観察していたのですが、見えていないはずなのに、キチンと器を左手で持って右手で箸を上手に使い、お一人で食べられていたのです!これはびっくりしました。
食事が終わられた後に、実は食事風景をこっそり見ていて、どうしてそんなに上手に食べれるのか聞いたみたら「だって配膳に来てくれた人が、器を触らせてくれてここに何があってここに何があってって説明してくれるから。後はちゃんと覚えてるよ」と。まーーーーーー驚きですわ。ホントに。
それまでは大事をとって、ご自身のお部屋と病棟内だけで運動などをしていたのですが、状態もよくなったので、少しずつ歩く距離を伸ばすことにしたんです。
短い距離だと下の図のように両手引で介助していたのですが、距離が長くなると、介助する側がずっと後ろ歩きになり転倒のリスクが高いので、介助者である僕がどうやれば良いのか、知識的に知らなかったので、Aさんに聞きました。「ちょっと長い距離を歩くんだけど、僕、どうやってお手伝いしたりい?」と。
そしたら「腕組んで💕」と!!は?!
実は、これが一番楽なのだそうです。
僕の古い知識だと、介助者の肩に手を載せる方法を覚えていたのですが、Aさんに聞くと「それだと背の高い人だととても怖いの」だそうです。
いつも病室にお向けにお伺いし上の図のようにして僕が介助し、リハビリ室までいく途中、病棟の看護師さんに「まあ、Aさん、いい男捕まえてデートいいわね😃」と何度となく冷やかされ(笑)
そんなこんなで、治療が順調に行っていたと思っていた矢先、透析中に狭心症発作を起こし、またまた、転院されました。
狭心症発作もこれで3回目。流石にもしかしたらもうだめかも…と思っていたのですが、再びステント治療をし、更に左下肢の太い動脈もつまりかけていたのことで、そこにもステント治療をしたようです。
心臓と左下肢の治療を終えて、改めて僕の勤める病院に転院する際「診療情報提供書」と言う医師の書く紹介状を読んで、文字面だけみたら「命はとりとめたけど、どれくらい身体機能が回復するか、心配だな…」と思い上司にもその様に漏らしたことがあります。
が、
転院してきて改めて挨拶にお伺いしたら、何のことはない。少し足腰が弱っている程度で、すぐに元のように回復されました。
その方、いつもおっしゃってて心に残ってるのは、「目が見えないでしょ。だから耳に頼るしかないじゃない。暇な時ってラジオ聞くか点字に翻訳した本を読むくらいなのよね。それってすごくつまらなくて。私、女だから(笑)誰かとおしゃべりしてる時が一番楽しいの」と。
比較的お元気で、手が不自由なく使える方だと、リハセラピストが“大人の塗り絵”や“数独”“難解間違い探し”などの印刷物をお渡ししたりして、お時間のある時にやっていただいたりするんだけど、Aさんは全盲だからそういう時間の使い方が出来ない。確かに退屈だろうなって思った。
だから、僕がリハビリでお伺いすると「これでもか!」と言うくらいずーーーーーーーっとお話しされて、いつも「今日も先生とお話できて本当に楽しかったわ!」と言ってくださって。
そしてもう一つ。
少し踏み込んで「目が見えなくなった時どんなお気持ちだったの?」と聞いたことがあるんです。「最初はね“困ったな~”って(笑)。ほんと、ただそれだけ」と。「悲しい」とか「つらい」とかそういう感覚ではなかったとおっしゃってみえて。「人生、ケ・セラ・セラよ~」と口癖のようにおっしゃっていたのが、すごく心に残ってるんです。
まあ、僕も障害者の端くれ(笑)
落ち込んだり、悩んだり、やけになったりもしたけど、本当の意味で「障害受容」出来たのは、障害者になってから3~4年位はかかったと思う。
もし、僕が障害者となった当時、Aさんの様に「ケ・セラ・セラ」と言えていたら、もしかしたら今と違った人生を歩んでいたかもしれないな、と今でも思います。
まあ、過去は変わらないので(笑)変えられないし。
ただ、ちょっと想像してみたりすることもあるんですよ。
今と違った“今”を。