誰もが、幸せな人生を送りたい…今の世の中、何をどうすれば幸せになれるのか。もちろん『幸せの定義』と言うのは、人それだし正解というものがないのが正解だとも思います。
近年、『幸せ』に関する研究が、非常に多くなされてきています。その中でも今回、ご紹介するのは「見ず知らずの他人の幸せを願うだけでも、願っている人が幸せになる」と言う、非常に面白い研究結果をご紹介します。
アイオワ州立大学のダグラス・A・ジェンタイルらは、被験者496名に大学内の建物の周囲を12分間歩いてもらい、その間、目に入る見知らぬ人たちについて、次の4グループに分けて、それぞれの内容を一所懸命に考えてもらいました。
①彼らが幸せになることを心の底から願う
②彼らと共有できる希望や感情について考える
③彼らと比べて自分が恵まれているか考える
④彼らの衣服やアクセサリーについて考える
すると、グループ①の被験者は、不安感が減少し、幸福感や共感力が向上し、思いやりや連帯意識が高まるなどの結果が出たのです。
タイトルにもしましたが『情けは人の為ならず』なのだと言っているのです。
ところで…『情けは人の為ならず』って慣用句の意味、ご存知ですか?(笑)
“「情けは他人の為だけではない、いずれ巡り巡って自分に恩恵が返ってくるのだから、誰にでも親切にせよ」という意味”ですよ。
「人のために何かをする」と言うと、皆さんはどんな事を思い浮かべますか?例えは寄付をする、ボランティア活動をする、そんな事を考えるのではないでしょうか?
この研究では「誰かのために祈ること・心寄せることだけでも、その人の幸福度が上がる」と言うことを示しているんです。
つまり、具体的な行動は必要ないんです。
誰かのために思いを寄せ、祈るだけで良い、と言うことなんです!
しかもその対象は「見知らぬ人でいい」んです。(むしろ、知っている人の事は、利害関係が生じるため、純粋に心寄せることができないとか…)
よくさ、『利他的行動』って言うじゃない。『利他的行動』と言うのは“自己の損失を顧みずに他者の利益を図るような行動のこと”で、色んな動物に、その様な行動が観察されるんやけど、この研究のように「見知らぬ人の幸せを願う」とか「誰かのために祈る」というのも、一種の利他的行動と言えるのかもしれませんね。
実は、話が前後するのですが、なぜ、今、この様なblog記事を書こうかと思ったかと言うと、令和6年元旦、能登半島地震が起きたのは記憶に新しいところです。その時ボクは、3.11(東日本大震災)の事を思い出し、しばらく一切のメディア(特に地上波のTV)は見ないようにしていました。
それはなぜかと言うと、悲惨な映像が流れるたびに、苦しくなり自分自身のこころが不調をきたすと分かっていたからです。3.11の時、実はボク、メンタルダウンし休職中で、自宅休養していたため、繰り返し繰り返し、何日間もあの衝撃的な映像を目にすることで、非常に胸が痛く苦しい経験をしていたからでした。
そして、先日、能登半島地震の影響と支援についてニュースを見たとき、再び、ボクは苦しい思いをしました。
寄付するだけの金銭的な余裕がない。
かといって、現地入りしボランティア活動できるほどの生活にも余裕がない。
そう思うと、例えばSNSで「能登半島地震のために寄付をしました」とか「1週間ボランティア活動に行ってきました」などような報告をする投稿を見るたびに、なんとなく自分自身が、無力で情けなくて人の役に立ってないかのような、とてもネガティブな気分になってしまいました。
しかし、困っている人のために心寄せることならできる。誰かのために祈ることならできる。これらのことって「プライスレス」ですよね。
人は時に、大自然を前にした時や病気というどうにもならない事実を目の前にした時、大きな無力感に苛まれることもあります。しかもそれが、自分ではなく、自分とは全く関係のないところで起こっていたとしたら、なおさらです。
しかし、その苦しんでいる人、そこからなんとか回帰しようとしている人に心を寄せ、祈ることだけでも、自分自身が救われている、ということも忘れてはならない、とボクは思っています。
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